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ふと感じた疑問です。宗教的な意味はありません。

京都を訪れる外国人観光客が増加しているというニュースを見ました。
ガイドする人向けに参拝方法を説明する英文の紹介もありました。

それをみて、世界に多い一神教を信じる人にとって、仏教、神道などの異教の神を「作法にしたがって参拝する」というのは、どう考えるのだろうかと、ふと思いました。

日本は多神教文化で、七五三は神社にお詣り、結婚式は教会で、死んだらお寺の墓地に、ということにさほどの違和感はもちません。
むしろ「ヒンドゥー寺院でもイスラム寺院でも、それぞれの作法にしたがってお詣りするのが礼儀に適っている」という感覚が強いだろうと思います。
「郷に入らば郷に従え」と軽く流せるのが日本人の大半だろうと思います。

しかし、一神教で万物の創造主だけを神として崇める文化の人にとって、異教の宗教施設で手を合わせて拝み、あるいは柏手を打ち、おみくじやお守りを買う、ということはどんな解釈、どんな感覚なのでしょうか?

ちなみに友人の一神教徒は、参拝はしない、といいます。
日本に来る外国人観光客も、「参拝はしない」人が多いのでしょうか?

A 回答 (10件)

私は、日本で神道・仏教混合で生まれ育ち、現在米国在住です。

三十年前にキリスト教に改宗しました。

日本の風習を知っている私は、キリスト教徒になってからは、参拝はしません。もう知っていますし、興味もありませんし、私の祈る神ではないので。

先月、キリスト教徒の長男夫婦が京都観光をしましたが、二人は、神社にお参りしたといっていました。参拝方法が非常に興味深いもので、手を洗い、口を漱ぎ、二礼二拍手一礼を試し、”こんにちは”とご挨拶をしたそうです。敬意を示す感じでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

両方を深く知っているからこそ、「しない、できない」ということですね。
「異国の珍しい風習」という捉えかたなら、型に従って表敬訪問、という気持ちでできる、と。
参考になりました。

お礼日時:2018/08/07 12:47

京都は 代表的な観光スポットで 参拝も その『イベント』のひとつです。



あとは その人たちの 『良心上の問題』です。

日本人も クリスチャンではなくても

クリスマスを過ごしたり 白いウェディングを着て教会で式を挙げますが

『崇拝』しているわけではなく 『イベント』として行なっていますよね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ほとんどの日本人はユルイですからね。
私もそうなんですけど。

多神教という精神文化なので、わりになんでも受け入れやすいのでしょうね。
「深く考えてない」ってのがホントのところだと思いますが。

お礼日時:2018/08/08 13:24

どうなんでしょう…



その宗教や教派にもよると思うんですけど

あくまで美術芸術として鑑賞するのが目的で
でも、その場のみなさんの気持ちを尊重するってことで
作法だけする
っていうのも、できなくはないと思いますけど
絶対だめ!なところもあるでしょうし…

また、全世界的に
無神論者も増えてますから
あまり気にしない人も多いのかも
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私も宗教のない人間ですが、日本人ですので、神社仏閣ではそれぞれの作法にしたがって拝みます。
「ここ、お寺?手、打つのダメだっけ?」とか、いい加減なんですけど。

でも、キリスト教会で十字を切ったり、アーメンっていうのは、失礼かな、と思って遠慮します。

お礼日時:2018/08/08 13:21

悪意無ければ


争いは起こらず
だと
思いたいですね
(  ̄▽ ̄)ニャリ
長々とお邪魔しました
m(._.)m
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この回答へのお礼

こちらこそ、お付き合いいただき、ありがとうございます。

お礼日時:2018/08/08 13:10

でもね



信仰が戦争の引き金にも
なってるんですよ
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
はい、その点については、十分に承知しております。

この質問も、深く一神教の神を崇拝する人にとって、多神教の宗教施設で作法に乗っ取り拝むことは、どのような感覚、考え方で可能になるのか?という疑問がわいたのがきっかけです。
あるいは、そういう人は、観光スポットととらえて、見物はしても拝まないのか?と思いました。

お礼日時:2018/08/07 13:14

自分の信じる信仰を大切に出来る人達は


他人の信じる信仰も大切に出来るだけではないかな?

自分の信じる信仰やから
他人の信じる信仰は受け付けない
だと、正しいようやけど
揉めるだけだからね

(  ̄▽ ̄)ニャリ
とりあえず、どんな形でも正解な話ですよね
無宗教も信仰の1種?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

真に信仰を持つ人は、他者の信仰にも寛容なはずですね。
自分の信仰を尊重してもらうには、他者の信仰を尊重しなければなりません。

そうでないと、世界は殺し合いになってしまい、結局、「力(武力)が強いものの信仰が正しい」というおかしなことになってしまいますから。

お礼日時:2018/08/07 12:59

>それをみて、世界に多い一神教を信じる人にとって、仏教、神道などの異教の神を「作法にしたがって参拝する」というのは、どう考えるのだろうかと、ふと思いました。



信仰はしていないけど、異なる文化には興味深々というところでしょう。

>むしろ「ヒンドゥー寺院でもイスラム寺院でも、それぞれの作法にしたがってお詣りするのが礼儀に適っている」という感覚が強いだろうと思います。

とはいえ、どれだけ作法を知っているか、知らなかったことでの無作法無遠慮揉め事は許容してくれと思う人の方が多いのではないかと思います。これは日本人も外国人観光客も同じです。多分、そこまで考えていないのです。

一番酷いタイプは宗教施設に落書きや彫り物を施し、礼拝中の人の前を横切ります。ここまで酷くないにせよ、施設内で大声で話している人は多くみかけます。

割と多いタイプは、履物を脱がない、手足を洗わない、敷居を踏むといった類のもので、不注意なタイプは、司祭、坊主など宗教施設側の人のための設備に立ち入ったり、手を触れようとします。自身の信じる宗教施設ではしないであろう露出の多い格好で宗教施設に行き、帽子なども被ったままです。当人達は何も思っていないものの、かなりイラっとさせているでしょう。大筋注意しても改まらないのは、彼等にとっては観光施設と考えているからでしょう。日本人でも表向きだけ従って「何か厳しいね」と愚痴を言う人の方が多いのではないでしょうか。

>「郷に入らば郷に従え」と軽く流せるのが日本人の大半だろうと思います。

この諺、どこの国でもあるんです。「When in Rome, do as the Romans do.」、「เข้าเมืองตาหลิ่วต้องหลิ่วตาตาม」とか。本来の意図としては「不利益を蒙りたくないなら、(作法を知っている)周りに従え」ですが、実際のとこ「来てしまったからには、不本意だけど、まぁしゃあないな」と他責の話に置き換えている場合がほとんど。

多分、程度なんです。日本人の大半は集団では我を通すにせよ、個人では我は通しません。でも、日本人が他宗教に理解があるとか、慣習の違いに寛容であるとかということはないでしょう。余り我を通さない、それに尽きます。中韓米あたりは、体感的にお解りでしょう。一言で言えば自分基準。それでも、異なる価値観を尊重する少数の人や富裕層とかは作法を知ろうとはしますし、守ろうとします。それが押し付けられた価値観の為せる業なのか、雑魚のような同国人とは違うという歪んだプライドによるものなのかは別にして、異文化に理解がある振りはします。もちろん、礼節や礼儀は真似から始まり時間と人手をかけて淘汰先鋭化されたものですから、動機が何にせよ表面的なことかもしれないにせよ、軋轢が減るのは良いことです。

>しかし、一神教で万物の創造主だけを神として崇める文化の人にとって、異教の宗教施設で手を合わせて拝み、あるいは柏手を打ち、おみくじやお守りを買う、ということはどんな解釈、どんな感覚なのでしょうか?
>ちなみに友人の一神教徒は、参拝はしない、といいます。
>日本に来る外国人観光客も、「参拝はしない」人が多いのでしょうか?

ほとんどは娯楽、物見雄山、異文化体験。極々々一部は、異文化との接触や理解、解釈を進めるための行為。そんなところではないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「宗教」という意識は持っていない、ということですね。
お参りの仕方も、お抹茶の頂き方・作法と同じように、「郷の習慣に従ってみる」「異文化体験」というわけですね。

お礼日時:2018/08/07 12:54

神社仏閣を訪れる外人観光客は多い、神社仏閣にわざわざ拝みに来る外人観光客はいない、興味本位もあるが日本人の行き当たりバッタリ信仰心にあきれているだけ、単なる観光名所、神社仏閣に来れば日本人の心が読める、犯罪が極めて少ないから安心して観光ができる、ぼったくりもない、賢く観光ができる、外国は犯罪だらけ。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

たしかに、日本人自身がさほどの信仰心ではない、ですね。

お礼日時:2018/08/07 12:48

200年も前のカトリックなら抵抗を感じたのでしょうが、


近代以降の宗教意識の希薄化は欧米でも顕著な現象です。
非日常の体験という感覚でそういうことを行うことも、今どきは自然です。

また、カトリック自体も、今は他宗教も認める方向になっています。
異端とされた者の復権も進んでいますし、より開放的な宗教へ向かっています。

聖書自体「汝の敵を愛せよ」と言っていますしね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>非日常の体験という感覚

たしかにそういう感覚はあり得ますね。
日本人の厄除けとか初詣も、進行というより、非日常体験を楽しんでいるところがありますね。

お礼日時:2018/08/07 12:43

ハラスが良い例では?


食べてしまったら、体が反応するんで、食べられないんです。
そういえば米国のフォーチュンクッキーは
気持ちが悪いけど勇気を出してたべましたが、
なんともなかったですね。
異教だからといって、できてしまうことと、
どうしても、できないことがあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2018/08/07 12:41

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