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自分より他人を優先すれば後々自分が苦しくなり、他人より自分を優先すると罪悪感で苦しくなります。
自分を選んでも他人を選んでも苦しいなら、苦しまない選択肢とはどんなものでしょうか?

A 回答 (9件)

他人でも自分でも、優先するときの基準、価値観って何か?


子供の頃を思い出すと分かりますよ。

優先させる選択じゃなく、メロンさんにはありのままが必要です。
ありのままが必要なのは、自分はこれでイイんだというジガが弱いのです。
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その第三の選択肢として、Win-Winの関係と良く言われます。



企業が採用する人材開発研修などで、自分と他人の関係を教えるジャンルがあり、

その中で推奨されています。

では、どの様なものであるか?

言葉の通り、どちらかが負けるのではなく、共に目的を満たし笑い合える関係です。

自他の利害が一致しない理由を探れば、別の手段へ代替できる場合が多くあります。

人と言うのは自分が思っている以上に、(面倒くさがって)そうしていない。


特に意識して、

「何故、彼(彼女)はそうしたいのか?」

と考えて事情を聞くようにすると、普通に代替案は出ます。

このとき注意する部分は、自分の想像を使わないことです。

「理由は分かったけど、そもそもどうしてそうなったの?」

と出来るだけ質問をする。

また、自分に代替案が出なくても、他の人は思いつくかもしれません。

そこで、出来るだけ多くの人を集めて行うようにします。


しかし、実際にやろうとすると上手くできないものです。

「そうはいっても、私なんかが人を集めるなんて難易度高いです。

 話す切っ掛けを作るだけでも難しいんです。」

と思う方が多いんじゃないでしょうか。

これは大人でも大概はそうです。

そこで、ノウハウがあります。


まずは、どうして難しいのか説明します。

コミュニケーションと言うのは、道徳教育による下地が必要なんです。

ところが、道徳を教える側も大人としては年齢が若い。

実際に分かって教えているわけじゃないんですね。

その方が間違って解釈していれば(ほぼ100%でしょう)、

間違って解釈をした子供を育ててしまいます。


そのため、誰もが個人的に道徳を解釈しなおし、正しい捉え方をする時期があります。

それまでの間、上手く物事が進まず、苦しんで悩んでも仕方がないですよ。


ただし、今の日本は特殊な状況にあります。

古い世代は、現代の教育過程から道徳教育授業が無くなったことを知りません。

そのため、「コミュニケーション能力が低いのかもしれない」と誤解をしています。

試しに、年配の方に道徳の授業がなくなっていると教えますと、

大変驚かれます。

「え、それじゃだめだ。もっと始めから教えないと。」

世の中で大切だと教えられるノウハウは、教育課程での基礎が前提なっています。

いきなり応用を教えてはいけませんよね。

つまり、コミュニケーションについて学ぶのは、

道徳教育が終わってからにしないといけません。

コミュニケーションと言うのは、道徳を実践するための手段としてあるのであって、

そもそもこの目的を知らない人がコミュニケーションを取れば争いになります。

そうなれば、誰かと接することが怖くなります。


逆に、コミュニケーションを武器に不道徳な利を得てしまい(味を占めてしまい)、

自分が優秀(俺は持っている人間だ)と勘違いする人もいるでしょう。


そう言う方は、

「どういう理屈があろうと、自分を殺してしまっては意味が無いだろう?」

と言う発想を信条とする人達です。

逆に、

「自分の事だけで他人を思いやれないのは如何なものか?」

と言い続ける人も出てくるでしょうし、両者の溝は埋まりません。


これらは徳と言う知識がないから生じる対立なんですね。

本来は、お互いを守りあうほうが楽であり、楽しみも増えます。

相手の批判をする時間的余裕と肉体的なカロリーがあるならば、

相手の気持ちを汲んで助けたほうが、寿命を消費する上で効率が良いはずです。


うちの親戚が買っていたウサギが死にました。

死因は自殺です。

マンションの高層階で飼育していたそうです。

そのウサギは普段からベランダの方へ行きたがり、

ベランダの壁を飛び越えようとしていたそうです。

勿論、その先に自由があると信じていたんでしょう。

ウサギにはマンションも高層階も、重力の概念もありません。

つまり危険がわかりません。

家族は必死に止めていたんですが、家族が見守る隙を突いて突破したそうです。

そのウサギは、無理やり家族に従わされ、心が苦しくなり、それでも我慢して生き、

自らの意思を奮い起こし、懸命に努力して、ダイブをしたんです。

如何でしょうか?

ウサギには、ライトノヴェルや漫画の中で美徳とされるすべてがありました。

これらをフル活用して、何とも言えない愚かな結末を迎えていますよね?


こんな事が人の人生にも生じます。



本来ならば、ウサギは考えないといけなかったんです。

「僕の家の家族はどうして平気なんだろう? 僕はこんなに苦しいのに。」

ウサギだって危険だと知っていたら、ベランダに執着しなかったでしょう。

本当に益がある課題に対して、漫画で美徳とされている努力をすればいいんです。


また、家族は悪い人達だったんでしょうか?

ウサギへの意地悪ばかりを考えていたんでしょうか?

そうではありませんよね。

それまでの間、家族の間で会話があったはずです。

「まずいよ、どうしてもベランダの方に行こうとするんだ。」

家族の中で対策について話し合われたはずです。

また、それをするために幾ばくかの手間がかかりますから、

ここでは役割分担に対して対立もあったでしょう。

つまり、コミュニケーションが取られ、Win-Winの解決を見出したはずなんです。

つまり、本当のコミュニケーションと言うのは、危険を防いだり、物事を良くしたり、

そういう目的のために図られるものです。

互いに協力をする以上、利害が生じてしまい、争いに成るでしょう。

しかし、ここでWin-Winを見出すように教えるのが大人の世界の教育です。

これでも解決しないものを科学技術が解決してきたんです。

それでも状況により幸に僅かな差が出てしまいます。

これを幸福とか不幸と定義していました。

大人はこの差についても悩み、話し合って色んな制度を作り、自分達で維持してきました。

これが大人の普通、平均値、凡庸であるとしたら、

ウサギの世界観は、平均からどのくらい隔たりがあるんでしょう?


例えばライトノヴェルや漫画で描かれるように、

ウサギが特殊スキルを手に入れたり、財力を手に入れたり、権力を手に入れたり、

魔法を手に入れたとしましょう。

その場合、ウサギは果たして自分のダイブを止められるんでしょうか?

おそらくはダイブした後、スキルや魔法で解決しようとするでしょう。

異世界に転生しても同じでしょう。

根本に何か足りません。

そもそも、そんな凄い力が無くても、ダイブしない凡庸な人が沢山いるんですから。

そのウサギは別のケースで、自分の手に負えない事態へダイブすると思えます。

つまり世の中で尊ばれる凄いもの、そういった道具は、道具でしかなく、

それを制御する自分の思考に誤りがあると、それを使って自滅をすることになります。

また周囲の人が(ウサギにとっては神に等しい家族)どんなに強くて優しくても、

救うことができないんです。


助けが意地悪に見えたり、危険が希望に見えたりする。

こうなったとき、その人の人生はどうなるんでしょうか?

一般に言う人間の幸福とか不幸と言う次元ではありません。

人間の幸福や不幸と言うのは、

条件が同じであれば対等に戦えて、競い合えるもの同士が本気を出して勝負をし、

仕方ない経緯で生じる差異をさします。

だからこそ、どちらに成っても納得できるんです。

「次は、状況も違う。まあ、次が楽しみだ。」

ゲームで対等の戦いをした者同士の感想は、こうではありませんか?


しかし自分は不幸だと嘆く人の中には、

人間の不幸ではなく、ウサギの状態であるかもしれませんよね。

思考ソノモノが自滅を誘うため、確率的にも希望がありません。

つまりダイブ・チャンスが幸運に見えては意味が無いんです。


では、どうするとウサギの状態から抜け出せるのでしょうか?

幼い子供でも、ウサギを守ろうとして拙い智慧を出すでしょう。

これが鍵でして、

このときだけ人の脳は良い状態になります。

有体にいえば、守る側に立場を切り替えて、自分を置く。

そういうグループの一員であると自分に暗示をかけることです。

「自分の力は変わってないけど。取りあえず、ダメな責任者であると暗示をかけてみよう。」

とすることです。


例えば、

幼い子供もウサギが可愛いので、自然とそういうモードに切り替わります。

しかし、大人として生きて行く上では、これではダメなんです。

意識して無理やり切り替え、常にそういう状態を維持する必要があると言う事です。


人がウサギの状態から脱出するためには、こういった暗示が必要であり、

暗示が上手くいったときだけ、思考をし、発言し、行動するように習慣を作ることです。

それ以外のときは体のメンテナンスをするだけで良いんです。

徳の定義は、この暗示をかけるとき、自分を切り替えやすい概念でもあります。


暗示が上手くいかなければ、

他人と話すのも怖くなりますし、WinWinのアイデアも出ませんし、

態度も酷いですし、悩みますし、争そいますし、結果はダイブになります。

まず、自分の心を調整(暗示)してから、外界にアクションすると良いですよ。

ご質問の悩みは、暗示が上手くいかず(というかせず)やっちゃった後に生じる、

良くあるケースに思えます。



以上、ご参考になれば。
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質問者さんに無知と誤解があるということをまず理解しましょう。



自分が受け取れるものは、堂々と受け取ればいい。
おそらく、「優先」という意味を履き違えてるんだとおもう。
おっしゃるとおり、罪悪感を持たないようにする、
そのためには、自分が受け取る価値の有る人間だという認識が必要でしょう
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自分の人生は、自分で責任を取らないといけません。


ですから、自分のことは自分で決めないといけません。
その中であなたが他人を優先させたいなら、そうすればいいのです。
自分のことが優先だと考えるなら、
それでもいいのです。
全ての責任は、あなたがとるのですから、あなたが決めないといけないのです。
あなたは、責任の所在をあいまいにしようとしていませんか。
責任を自覚すれば、何でもないことです。
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他人を優先しても自分が苦しい時に手を差し伸べて貰えず。


当たり前に自分を優先する事で反感をかってしまう?

どこかがおかしいのです。
考えられるのは
他人が優先する程、大切な相手ではない。
優先なんて言うほど実は大した事ではない。
貴方の自己犠牲が慢性化していて当たり前に思われている。
等々いろいろ

苦しまない選択肢は今は有りませんから作りましょう。
『他人』ではなく自分の事の様に大切に思えて、貴方の事を自分の事の様に心配してくれる人を。
その他の他人は無視しましょう。『誰にでも優しく』なんてできる訳ないのですから。
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優先したり、優先してもらったり。


迷惑かけたり、かけられたり。
怒ったり、怒られたり。
苦しめたり、苦しめられたり。

それで良いと思います。
人間関係は「お互いさま」で成り立っているように思います。
苦しまない選択肢→苦しむ必要はないんだと気付く事でしょうね。
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自分か他人かってパカっと二分できる問題じゃないと思いますよ


その時々で、落とし所を見つけるべきです。

苦しまない選択肢は経験から生まれます
あまり気にしないで、経験を重ねましょう
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何をもって「優先」と言うのか、優先の定義が必要でしょう。



優先にならなければ何の問題もない話です。
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なんで、どっちも苦しい選択になるのか、理解できない。



共存できないじゃん、一人で生きて下さい。
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