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戦国時代の織田信長は、超有名ですが、最近の歴史の本を読んでいると、信長の政策のうち、その多くが、独創的なものではなく、信長が最初に行ったものではなかった、とされているようです。

また、昔は、独創的な戦術と言われていたもののうち、桶狭間の戦いは奇襲作戦ではなく、長篠の戦いでは三段撃ちはなく、美濃攻略でも一夜城はなく、というところで、戦術的に独創性がそんなにあったわけでもない、と言われているようだす。
政治的にも、信長包囲網を作られてしまったり、石山合戦では、必ずしも必要がなかったのに、本願寺と泥沼の戦争をしたり、失敗もおおかったようです。
ただ、それでも、天下統一まで、あと少し、というところまで成功してきたという事実はあるわけです。
信長が成功した要因として、他の戦国大名と、決定的に異なったのは、どういう点だったのでしょうか?

A 回答 (8件)

敢えて一言で言えば「天下布武」でしょう。


詰り、理念を簡潔な言葉にして周知させた事です。恐らくは日本で初めての試みと思われます。

国家の経営、企業の経営は最終的には国民や社員が具体的に何をするかと言う技術論や戦術論に展開されるべきものですが、ではどの様な方向に戦術を展開するのかを決定するのは政策、戦略と呼ばれるもので有り、その戦略は何から導かれるかと言えば理念から導かれるのであります。イデオロギーと言う人も居ます。
今の日本に理念があるかは別として戦前の軍国主義と揶揄される時代には明確に理念はありました。
八紘一宇、五族協和は崇高な理念であります。そこから大東亜共栄圏構築と言う大戦略が生まれ、その実現の戦略として真珠湾攻撃や南方作戦と言う数々の戦略が構築され、その戦略遂行の為の航空機、艦船、陸上部隊等の無数の戦術が展開された訳であります。
尊い命が費やされ日本は敗戦しましたが、それまで西欧列強に略奪されていた多くの植民地は戦後は雨後の竹の子の様に続々と独立を成し遂げて行きました。
日本の理念は実現されたのです。果たして日本は負けたのでしょうか?

話がそれましたが、信長の一つの戦略であった叡山焼き討ちを例にとりますと、戦術的には宿坊や寺院に悉く火を放ち、女子供までとも言われておりますが一応皆殺し戦術を取りました。大善は大悪に似たりと言いますが当時は(一部今も)地獄の大魔王の様な大悪人と言われました。

当時この様な戦略を取れる人は誰も居ませんでしたがでは信長は大悪人でしょうか?
平安期より比叡山の僧兵は事あるごとに宗教を背景に武力を行使し一大勢力でありましたが、信長当時も敵対する浅井朝倉を匿ったりして衰えたとは言え一定の力を持っておりましたし、石山本願寺の一向衆も大きな力を誇示しており宗教勢力は大きな反信長勢力となっておりました。
しかも叡山は女子供が居る事自体当時の仏教から逸脱堕落した存在であり道徳的にも看過すべかざる存在と信長には映っておりました。

叡山焼き討ちの戦略構築を可能にしたのが天下布武の理念でした。
応仁の乱以来乱れた天下に遍く武を布する事により平和を打ち立て民の繁栄を実現する。
パックスロマーナ、パックスアメリカーナならぬパックスノブナガーナであります。楽市楽座や関所の廃止、幹線道路の整備等による産業振興、経済発展はそれなくして実現しえない政策であります。

そのパックスノブナガーナの前に立ちはだかった叡山や石山本願寺は天下を惑わす悪の集団と信長には映る訳であります。何故なら天下布武と言う理念を否定しているからであります。

序に述べますれば、信長は武を乱用する粗暴な武将では無く、武は正義と信じていた人であり、その軍紀は非常に厳しいもので有りました。
京で陣頭指揮をして建築工事をしている時、手下のものが道行く女性を鹹かったのを見て即刻自らの手で首を刎ねた事が有ります。又天皇を敬い、主筋である足利義昭の幾度もの反逆にも殺す事なく追放で済ませている事は武を見事に制御して世の安寧に資するものとして行使して居た証左であろうと思います。

長くなりました。
繰り返しますが、信長の決定的な特徴は理念に基づいた戦略展開を行った事。しかも、天下布武と言う武人としてそうあるべきと言う優れた理念であった事でありましょう。

※武田信玄の風林火山は戦術であり理念では有りません。風林火山で天下は取れたとしても天下の経営は出来ません。が、若し信玄が生きていれば信長は勝てなかったでしょう。目の前の現実を具体的にどう対処するかと言う技術=戦術に劣って居れば幾ら偉そうな理念を持って居ても首を取られればお仕舞です。
同様に上杉謙信にしても鬼のように強い武将で有り、京に上って来た時は家来になるしかないと信長は覚悟を決めておりましたが急死しております。理念は「義」であり人として特に武人としては大切な道徳でありますが、天下と言う統一場は必要なく個人間だけでも成立する理念でありますから、謙信が京に上ったとしても戦国を終わらすと言う天下を統べる大事業に於いて「義」は有効に作用したかどうかは、したかも知れないししなかったかも知れないと言うところでしょうし、そもそも天下に号令をかけるようなタイプでは無かったと思います。

何れにしても歴史の偶然とは言え、理念を持った信長に歴史は味方し、今ある我々はそのお蔭であると言えますので、やはり理念を持った運営を国家でも企業でも個人でも目指すべきであろうと歴史は教えてくれている様な気がします。
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桶狭間の戦いは、ドラマと違い、勝つためにかなりの準備をしてたようです。


墨俣の一夜城は、信長というより秀吉ですが、それまで他の指揮官が散々失敗をした後ですから、橋頭堡を築くのが早かったぐらいでしょう。
信長包囲網は、足利将軍の最後のあがき。
 楽市楽座など、発想そのものは前からあったかもしれませんが、実行に移す決断力あればこそ。

違うのは、能力主義。有能な人材として、織田家代々の家臣より、中途採用の秀吉や明智光秀を重用したこと。鉄砲や西洋の鎧、城造りのノウハウをどんどん取り入れたこと。
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前の回答を勘違いされるといけないので念のために補足しておきますが、


「織田信長だけが天下統一を目指していた」と断定しているわけではないです。
「天下統一を目指していた武将は少ない」という意味です。

あと、単純に兵数が多いというのも重要です。桶狭間の戦いこそ圧倒的に少ないですが、ほかの多くの戦いは敵より多い兵数で戦っています。

桶狭間の奇襲、長篠の三段撃ち、一夜城については完全に大間違いというわけではないと思います。
誇張があったり、細かい部分が間違っていたり、言葉の解釈にずれがあるなどです。
例えば桶狭間の奇襲が間違いというのは「横や後ろから襲ったわけではない」ということであって、新説でも隙をついて攻撃していることには変わりありません。
長篠では三段撃ちこそなかったものの鉄砲は使用していると思います。
一夜城というのはもちろん誇張ですが、城を簡単に造れる方法を秀吉が開発したというのは事実の可能性があります。
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>信長が成功した要因として、他の戦国大名と、決定的に異なったのは、どういう点だったのでしょうか?



天下統一しようと思ったことです。他の戦国武将の多くはそもそも天下統一という目標は持っていません。
天下統一にメリットを感じていなかったのか、最初から諦めていたのか、そんな発想すらなかったのかはわかりませんが、
少なくとも織田信長が「戦国時代で初めて天下統一を目標に掲げた武将」だと思います。
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信長が成功した要因として、他の戦国大名と、決定的に異なったのは、


どういう点だったのでしょうか?
 ↑
経済の重要性をとことん知っていた、という
ことだと思います。

戦争で最も重要なのは、独創的な戦術など
ではありません。

兵力です。
相手の数倍の兵力があれば、戦争は大体勝てるのです。

桶狭間の戦いだけでした。
信長が相手より少人数で戦争したのは。

それ以外は、相手の数倍の兵力を整えてから
やりました。
だから勝ちます。

数倍の兵力を整えるのに、何が重要か、といえば
経済です。
信長ほど熱心に、楽市楽座をやった大名はいませんでした。
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「もともと弱小勢力であった」こと, いいかえれば「独裁権を手にしたこと」かなぁ.



ちなみに本願寺との戦いって, 本国ではあまりなかったような.
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>他の戦国大名と、決定的に異なったのは、どういう点だったのでしょうか?




信長がその当時の大名の誰よりも優れた点は、帝王学を実践していた事です。
帝王学とは、マキャベリが君主論として世に出した学問で、当時は信長はマキャベリーを知る良しもありません。

しかし、マキャベリーの君主論を熟読しているかのような、チェーザレ・ボルジアとよく似た行動をします。
いいところまで行きながら油断して死亡する所もよく似ています。

二度いいますが、当時の信長が、君主論を読んでいるはずはありません。





信長は、統一する事が何よりも重要だと考えていました。これは他の大名、特に武田信玄とは大きく違いました。
武田信玄は孫子の兵法を尊重していましたが、孫子の概念は何百年を前提とした思想です。一代でなしえる事を前提としません。武田信玄はそれを失念していました。そのため、病を患い自分が長くないと分っていたのに、第二次織田包囲網は、普段の慎重な進軍により、連戦連勝でしたが、寿命により織田信長は難を逃れます。
死ぬ最後まで、信玄は進軍速度という概念がありませんでした。

これは他の大名にも共通しています。
(秀吉は別です)


信長は、自分の代で統一する事を念頭においていましたので、進軍速度は速いものでしたし、統一にはリスクもつき物です。


信長の天下統一の道は、足利義輝が暗殺され、本来ならば足利義栄が次期将軍になるものですが、将軍殺しをするような連中に将軍を任せる事を嫌った天皇が公認を与えませんでした。
そんな中、足利義昭が自分こそ将軍にふさわしいと、義栄討伐の勅命を出します。



しかし、どの大名もそれに呼応しませんでした。
そして信長だけが、それに応えました。

当時の信長の持つ国の全財産の三倍の借金をして、傭兵を雇い京を目指すところから、「信長の野望」は始まります。



義昭の勅命はリスクが大きすぎて、誰も相手にしなかったのに、信長だけがそれに賭けたのです。
これが、「他の戦国大名と、決定的に異なった点」です。



ただ、質問者様は知っているかもしれませんが、信長は実は常識人で強いものには歯向かわない人です。土下座を高く売る天才で、世間のイメージとはかけ離れています(世間の「魔王」のイメージは、上杉謙信が死んで、天敵がいなくなって完全に緊張感がなくなった、死ぬまでの3年ちょっとの信長です。それ以前は非常に慎重で、若い頃のうつけものは本当ですが基本的に常識人です。戦争理由も当時の日本のルールとしては正当な理由で戦っています。宗教団体の弾圧についても、本願寺や延暦寺は政治に介入したから。日蓮宗は他の宗教を攻撃するから弾圧しただけです。宗教活動に留まる限り寛容でした。マキャベリーのいう理想の君主に似た大名でした。)
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おおざっぱにいうと


・機動力
・辛抱
・人を見る目
だと思う。

機動力と人を見る目は言わずもがな。

辛抱は意外に思うが、実は信長が捨て身の冒険をしたのは桶狭間だけである。
あとは策を積み上げ、兵力を充実させ、相手を離間させ、敵を圧倒する勢力を作ったのち攻撃に移っている。
勝てるというところまで辛抱強く待っている。
この戦術眼が第一級の強さだと思う。
その力は度重なる美濃攻略の中で培われたものと思う。

もし信玄がもっと早く西上したら、そしてその時家康がいなかったら、
信長は信玄の靴もなめたはずである。
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