プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 自我という概念は じっさいに現実においてそれとしてまとまった実態と
しては あり得ない。ですよね?

2. あっても わがままだとか我執だとかの心理的(つまり一時的・その場的)
に強固に固まった気持ちだったり 或る種の条件反射のごとく何かに反発して相
手や周りを省みずに動き出す意志のような意志ではないようなハタラキだったり
するのみであって けっきょくたとえば《個人にとって社会的に自我が形成され
る》といったような意味合いの実態はない。はずだ。

3. 自我が形成されるというのは われがわれであるという自己還帰(われに
還ること)を言うのみであるはずだ。さもなければ この資本主義社会で生きて
行くすべを確立したというほどの意味であって やはり《自我》と言う必要はさ
らさらない。

4. あるいは 超自我とエス(リビドー)とを取り持つというような自我は 
けっきょくこれも《われ》のことでありその知性ないし意志のことだと考えられ
ます。

5. われはこう思うということはあっても わが自我はこう思うとは言わない。
わが自我は きょう映画を見に行こうと思うが きみの自我はどうか? なんて
言わない。

6. 自我は 死語であり幻想ではないでしょうか?





☆ 蛇足気味ですが もう少しつづります。

7. つまり いわゆる一人称(ないし再帰)代名詞で表わす《われ・わたし;
おのれ》とは別の種類の概念を 日本語では――《自我》として――つくってし
まった。のではないか?

8. けっこうウケたのかも分かりません。定義を問わない文学としては持って
来いなのかも分かりません。




9. 重ねてですが あとは やっぱり精神分析の《自我》は もしそれが人格
全体としての《われ》に取って代わるとすれば 人びとの《われ》が縮こまって
しまいます。

10. そして 《エス》を《無意識なる〈独立した〉脳細胞の部位》だと説か
れてしまうと困ります。検証のすべがないのをいいことにして そういう独断説
が出されているようなのです。

11. 《超自我》も ただ単に《〈わたしが〉 エスのリビドーを抑える》と
言うに過ぎません。しかもこのムイシキの《エス(それ・あれ)》だって いか
に低俗であっても れっきとした我が欲動です。いかに勝手にうごくとしても
生まれつきそなわったわが自然本性のハタラキです。

12. 自我・エス・超自我なる要素概念は わが《われ》を分断している。の
ではないですか?

A 回答 (12件中1~10件)

自己に“働き(能力)”有り。


感覚(感情)と記憶と意志と理性が。

自己とは、それらの能力を一貫して保存する“蔵(わたし)”。

自我はそれら(わたし)、が生を通して身に付けていき、成長していく“わたし”の事。

・・・自己に性格が有り!
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたし(質問者)の見方で整理します。


〇 わたしの成り立ち

超自然
[プラス α] 信じる:非思考の庭:霊我・非我
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自然本性
[心・精神] 考える:思考の緑野:理性・知性
[身・身体] 感じる:感性の原野:感性(感覚・感情)



〇 精神のはたらき

超自然
神(霊):三位一体:父なる神-子なる神-聖霊
タトへ :光   :光源  -発耀  -明るさ・暖かさ
           ↓   ↓    ↓
__________________________
霊我:非思考の庭:(ヒラメキ・良心)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             ↓   ↓  ↓
精神:(時間差にて一体):記憶 -知解 -意志(愛)
            ↓   ↓   ↓
____________________________
政府:(三権分立):司法  -立法  -行政(共同自治)




〇 精神は 記憶違いや 知解での考え違いや 意志にお
けるおこないの間違いを しばしばやらかしますが 長い
目で見て 全体たる《わたし》としてのわれに還るとき
それら記憶と知解と意志の三つの能力行為が あたかも一
体となる。

(神は つねに三つのチカラが同時一体である)。

〇 そのような三つのハタラキの一体性は 政府にあって
は 司法府が判断するかたちだ。

もっとも司法の裁判より前に 現行の法律にもとづきつつ
も 立法府は あたらしい法律を知解によって制定する。

行政府は あたかも国民に平等に共同自治の利益がゆきわ
たるように 法律を執行する。

政治とは 愛の行為である。



★ 性格
☆ とは 間違いの経験をも経ながら自己形成してゆくわ
たしの個別の特徴を言う。

もっとも 自然本性なるわたしが 樅の木だとすれば 性
格は クリスマスツリーの飾りにあたる。

かくして 《わたし》には 自我はどこにも見当たらない。

《自我》は 記憶・知解・意志の同時一体なる《ほんとう
のわれ》を言いたい場合と そして そのような自然本性
なる樅の木に しばしば恣意的に必要以上につけ加えたカ
ザリ(つまり 我がままなるこだわり)を言う場合とがあ
る。――要らない。

お礼日時:2018/09/20 23:08

自我は己 自分の中にある我だと、思います!



人は二人と同じ人間はいないし、我!! 個性でしょうが…

我 自分が強い人 頑固な人 自分は自分 他人は関係なく、自分が良ければ 自分が満足出来ればよい、人の意見は聞かず自分を自重する人とか!

誰もが自我はもってるいると思うし 大人は理性に我慢 押さえています!我慢できない方 自分をだす人が自我が強いと世間は見るのかと思います…
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自我は己 自分の中にある我だと、思います!
☆ だいたいそういう意味で――西欧語の《 das Ich や the 'I' 》といった
表現を翻訳して――つくられ用いられるようになったのだと たしかに思い
ます。

ただし 考えてもみてください。

たとえば わたしには《ほんとうのわたし》と《ウソのわたし》とがある。と
いった言い方をした場合 どうなるか?

おおよそいま確認した《自我》は 《ほんとうのわたし》のことを言っている
ということではないですか?

つまり どう考えても《おのれ》であり 《自分の中にある我》とは 《わた
し》なんです。いちいち自我などと言う必要はない・・・はずなんです。

違うでしょうか?



★ 人は二人と同じ人間はいないし、我!! 個性でしょうが…
☆ それぞれ同じ言葉つまり《わたし》という表現で その個性ある自己を表
わしても一向にかまわない・・・のではないですか?

生物なる存在としては おなじ人間なんですから。



★ 我 自分が強い人 頑固な人 自分は自分 他人は関係なく、自分が良ければ
自分が満足出来ればよい、人の意見は聞かず自分を自重する人とか!
☆ この場合は そのように意味が広がり派生したものだと思います。

つまり 今度は《ウソのわたし》になるのでは? ほんとうのわたしが高ぶり
膨らみ 何かヘンな飾りをつけるようになったそのわれ。

でも やっぱり《わたし・われ》であり《おのれ・自己・自分》と言えば済む
ことでは?



★ 誰もが自我はもってるいると思うし
☆ と思えるほど たしかに普及しているのだとは思います。

★ 大人は理性に我慢 押さえています!我慢できない方 自分をだす人が自我
が強いと世間は見るのかと思います…
☆ でも――確かに普及しているのですが でも―― 考えてみれば 或る時
は 《ほんとうの自分》を意味し また或るときは 《勝手に膨張したウソの
自分》を意味するという・とんでもない用法へと広がってしまっているとも考
えられます。よね?

おかしかないですか?

お礼日時:2018/09/19 05:12

ego はラテン語でしたか。

Iist だとちょっと言いにくいですからね。

>ですから とにかく《われ・わたし》なんです。正当にも単純にそうなんです。
>《自我》などともったいぶった訳語を当てるのは 揶揄されてもとうぜんなんです。《卒倒を起こす》たぐいの意識過剰です。

日本の十代の子たちが「自我」「自我」と言って嫌悪することはないですよね?…英語圏でも、実際、あるのか…確認してみようと思います。あまり、まともな回答が得られることも期待できませんが…。
もしかすると、フラニーに "ego" を嫌悪させたのは、サリンジャーのいたずらかもしれません。でも、そういうことだとすると、また、この作品を "ego" "ego" と騒ぐ学界だか世間だかが、まるで生真面目に自我について扱った本でもあるかのように批評するのがおかしいことになりますよね。あ、確かめる前から、あまり、言わない方がいいですね。(笑)

>謀(はかりごと)にも 精力的に応じる芸術家がいるわけですね。

芸術家もそうですけど、批評家がまず煽ってるわけですよね。まあ、なににしても、誠実さが一番です。世の狂った部分を揶揄ってくれるのは、痛快ですが、それだけでなく、世にのさばるウソでたらめから世を守るためには、現実を知らせないわけいいかないと思います。サリンジャーのやさしいやり方で、通じたのかどうか…もう少し、調べてみたいです。時間が取れるか、分かりませんが…。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ego はラテン語でしたか。Iist だとちょっと言いにくいですからね。
☆ 余計なことですが エゴイストは利己主義 エゴティスト( egotist )
は 自己中心主義だったと思いますが。


★ 日本の十代の子たちが「自我」「自我」と言って嫌悪することはない
ですよね?…英語圏でも、実際、あるのか…確認してみようと思います。
あまり、まともな回答が得られることも期待できませんが…。
☆ おもしろそうですね。




☆☆>謀(はかりごと)にも 精力的に応じる芸術家がいるわけですね。

★ 芸術家もそうですけど、批評家がまず煽ってるわけですよね。
☆ そうなんですか。つまり 業界の人がキャンペーンを張るとかと聞き
ますが 批評家が《活躍》するわけですか。音楽の場合に 演奏家を《売
り出す》ことは あるんでしょうか。


★ まあ、なににしても、誠実さが一番です。
☆ おそらくそれが 生まれつきそなわった自然本性としての《われ》な
のだと思います。多少はヘソが曲がりつつも それをしのぐ自然で社会的
にすこやかな判断が成され得るなら ひとまづよしとしたい。


★ 世の狂った部分を揶揄ってくれるのは、痛快ですが、それだけでなく、
世にのさばるウソでたらめから世を守るためには、現実を知らせないわけ
いいかないと思います。サリンジャーのやさしいやり方で、通じたのかど
うか…もう少し、調べてみたいです。時間が取れるか、分かりませんが…。
☆ 分かりました。自然にまいりましょう。

お礼日時:2018/09/16 13:06

自我は、自分(私)が思う


意思。

これは定義の問題、ですが、
概念はそもそも言葉を作った時点で、
どれとどれを用意すればいいかなど分からなかった。

なので、他と重ならない、重なる場合でも、いちびは異なる言葉を、作った (類義語と同義語は別)
くらいのもの。

自我をそこまでとはなくてもいい気がします ね。
私には。

それよりも、命題は、



あっ、と、まちがい今までのなし。

まぁ、関係はありますが、

概念定義はそのように曖昧に作られ、統制がきちんと行われていない。別名、公式化たり得ない。

これに対して自我は、
公式づくるべしと言う
ラインがあります。


それは、

自分で、自分とは何か?を問える、レベル
つまり自分を見返れ、そして、少しでも 自分と捉えられるなら、自我と!

言うことにする!
いやなる。


このぐらいのラインを作るべし!

公式的な、概念の変更となります。

そもそも、各言葉は、足りないものもある。昔の人が、
在るもの に、ノット、オア、アンド、イフ、
など簡単に概念輪郭を歪められる、もしものイフを問うことで作られたと考えられます。

不完全な言葉の欠点とは、

議論で使うのが言葉、
不適切なら、
議論で論じる 最低(基盤的) 定義を歪める。
幻のように曖昧化、させた、各概念定義を問う、よりも、
固定化したものを問い、
本来、少しずつ、新しい言葉になど統一変更していく、
その必要性がある。

と思うので、


自我は、我を見返れる生き物
が持つ、

これを例えに検証すると、

動物は自分をミカエラれない。
嫌味帰ったとしても、それを覚えていられるとは思えない。
なので自我レベルでは、存在しない。または、自我を持ち始めてまもない、レベルと言う、などができる。

霊長 と言うラインが私は自我を持ち、持ち得ないか?の境界線、くらいのラインと思います。

またイルカは自分を知っている。(恐らく)
これは記憶力有する、思考のレベル範囲なのです。
知覚レベル。自我 かな。

こうすれば論議はしやすい。

知的生命体、知恵を得たもの。
宇宙にもいそうです。
宇宙人とは。
あまりいい呼び方にはならない。
何故なら、
人レベルの知性なのか?

地球のボノボやチンパンジーレベルなのか?
無視レベルなのか?(エイリアン) いやいや 虫ね。

なので、まだ概念上、一般にはないものですが、私は、宇宙の知的生命体を、
宇宙霊長!
と呼んでます。ね


さてもう一個、
いい加減な定義、
真理
の定義是正を求めており、主張を残させてもらいます。

真理は中枢に最大の真理という名前の法則があったとしても、
その派生部分の法則もまた、
正解であれば、真理である

つまりは全ての真理を表す言葉がなくとも、
真理を探究すると
各細々な正解がある
(1+1は2。H2+O→H2o (水) 等は)
なども絶対の真理と呼べる中枢真理でなくとも、
そこに繋がる 側面性的な真理。(真理一側面である)

と、定義づけを求めるものです。

真理を定義した後、この真理はあるのか?そう問えば良いだけなので。

定義自体は、そろそろ曖昧部分(無くし?削り?) を固定してほしい。

と思いますかね。

これらは概念上の言語のズレ
単なる表現の仕方の変え方。論議には、その側面がある。

これを生み出し行くゆえ。

英語なんかは、新たな単語が、概念とともに常にできてます。
日本語なら最近のものでは、萌え の文化とかでしょうかね。


超自我とかは今回、私はパス。
最初の自我選定部分のみの回答とさせていただきました。

質問ありがとうございます
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自我は、自分(私)が思う
意思。
☆ 《わたし》そのものですから 《記憶-知解-意志》の三つのハタラキぜんぶ
を言う場合もあると思います。


★ 定義の問題
☆ №3のお礼欄にかなり幅のある諸定義をかかげています。




★ 自分で、自分とは何か?を問える、レベル
☆ 要するに 《われ》と《おのれ》との二つの筋があります。





★ 動物は自分をミカエラれない。
☆ 動物は もし何か間違いを犯したとしたとき それでも その責任をその
動物も人間もが問えません。





★ 真理
☆ 時空間を超えて間違いのない認識です。


★ (1+1は2。H2+O→H2o (水) 等は)
☆ 経験事実であり 相対的ながら一般に認められた真実(間違いの無さ)です。



今回は こんな感じでしょうか。

お礼日時:2018/09/15 15:44

エゴ(ego)は自我、自己、我、自身とgoo辞書にあります。

精神分析の用語として別に、エゴ、自我と出ています。派生的に、自己中心的なことやうぬぼれにも使うんですね。

イストがついてエゴイスト egoist だと、エゴの人、エゴの権化みたいな意味になって、つまり、自己中心的な人のことを言うことになります。

『フラニー』で読んだんだったか、ほかで聞いたんだったか、記憶が定かではないですけど、"ego" "ego" って、嫌悪と共に言っていたような…気がします。

自我のことなら、嫌悪の対象にするものではないですよね?

サリンジャーはどちらかというとほのぼのとした人柄の良さが伝わってくるような話しぶりだったと思いますけど、レストランのスタッフが部屋を貸してくれて、そこでフラニーが目を覚ますと、ボーイフレンドはずっとそばに付き添っててくれてましたし、だから、読後に、そんな風刺が感じられなくて、でも、なんでよりによって、卒倒してしまうのか、短編に仕上げるための口実か、でも、なんでサリンジャーはこれを書いたのか、というのがはっきりしない、日本の少女漫画的とも言えるので、世にもてはやされている理由がピンと来なかったわけなんですよね。続きの『ゾーイ』を読むとなにか分かるのかもしれませんけど、こっちは未読です。

>★ 20世紀半ばはそういう時代でした。前衛アートだか何だか、・・・
>☆ 例のクリスマスツリーのカザリ・しかもその過剰といった問題なのでし
ょうか。
>☆ となると やけに手の込んだ飾りつけであったのかも知れません。

20世紀は、クラシック音楽の世界もそうでした。実験に観客を巻き込んだような音楽でした。現代音楽という名で。これが、今のものは、ずっと聞きやすいものになっていると思います。たぶん、…その前にもダダイズムとかがあったし、それを言えば、どの時代も、人を驚かせるようなことをする人がいましたが、デュシャンが美術館の展示場に置いてお披露目したトイレほど衝撃的なものはほかになかったのではと思います。そのあとは、どれだけ突拍子もないことをしても馬鹿々々しいだけだったように思います。そんななかから、もっと落ち着いて、まともに鑑賞できるものを模索するアーティストが生まれてきましたよね。

たぶん、デュシャンは、世の馬鹿々々しくも大袈裟な評論などの空虚さを見抜いて揶揄ったのだと思います。つまり、私に言わせれば、世は裸の王様のパレードが至る所に見られます。学術界、政界、人の集まるところ、どこにでもあります。成功はほとんど運ですから、運さえ良ければ誰でも、学術界、政界、芸術の世界、どこででもナンセンスに(なにせ、信じ込んでいるのですから)意味があることとして、大仰に世に伝え広めようとします。それこそ、「無条件」「無根拠」なのですが、理屈をつければ正しいように思えて恍惚とするのでしょう。一生懸命説明する割に、一生懸命聞いても一向に要領を得ない理由です。しかし、そういう人たちの尽くことのないエネルギーは脱帽ものですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ エゴ(ego)・・・
☆ これは 《わたしが》という代名詞です。

梵語:a-h-a-m
希語:e-g-oo-・
羅語:e-g-o-・
独語:i-ch-・-・
蘭語:i-k-・・・
瑞語:ja-g-・・・
英語:I-・・・・
露語:ya-・・・・
仏語:je-・・・・
伊語:io-・・・・
西語:yo-・・・

☆ アハン>アガン>アゴ―>エゴ―>エコ>エク>イク>イッヒ・・・

ですから とにかく《われ・わたし》なんです。正当にも単純にそうなん
です。

《自我》などともったいぶった訳語を当てるのは 揶揄されてもとうぜん
なんです。《卒倒を起こす》たぐいの意識過剰です。



★ サリンジャー
☆ とか 文学にも食指を伸ばしていればよかったんですが。・・・


★ 20世紀は、クラシック音楽の世界もそうでした。・・・
☆ 音楽・美術など芸術にお詳しいようですね。

ダダイズムもデュシャンも分かりますが 全体の流れや公式の評価は 分
かりません。

たとえば エリック・サティが好きだとか。そういうふうに特定のものに
関心を寄せるにとどまっています。



★ 成功はほとんど運ですから、運さえ良ければ誰でも、・・・
☆ そのほかに 仕掛け人がいる場合があると聞きました。ピカソは と
んでもない作品なのに 売り出しを画策した業界の人間がいたとか。(う
ろ覚えです)。

★ しかし、そういう人たちの尽くことのないエネルギーは脱帽ものです
ね。
☆ なるほど。謀(はかりごと)にも 精力的に応じる芸術家がいるわけ
ですね。

お礼日時:2018/09/15 13:52

>6. 自我は 死語であり幻想ではないでしょうか?



>☆ 《自我〔と呼ぶとすれば〕》を持て余していたのでしょうか。

フラニーは至って普通に品行方正なティーンエイジャーです。久しぶりに会うボーイフレンドを駅で出迎えて、「どうふるまうべきか」を、いちいち、気にしている様子を、サリンジャーは事細かに書いています。アメリカでもこういう子が普通の子の典型象なんですね。しかし、(実際、なかにはいるかもしれませんが)卒倒してしまうという結末は4コマ漫画的なものがあります。ウィキペディアを見ると、専門的なことを大そうに書かれていますが、サリンジャーは(そういう態度をこそ揶揄って)、カリカチャーとして描いたんだと思います。風刺画です。

もしかしたら、執筆の当時、アメリカには、エゴとエゴイストを混同したティーンが多かったのも背景の”一部”としてあると思います。そして、自我形成が顕著な思春期の子を主人公にすることで、社会だか専門家だかが、あーだこーださまざまに言うのを揶揄ったんだと思います。

20世紀半ばはそういう時代でした。前衛アートだか何だか、どう鑑賞したものか言葉に詰まるような既成のなんでもいいモノを置いただけ、とか。あれに美的要素が備わったら、意味がなかったのですよね。多くの二番煎じが美的要素を加えて、それを新しいアートにしてしまったようですが、創始者の意図は、例の”シルシ”で、それ自体を見てはいけなくて、その先に示されたものを見なければいけなかったんですね。時代全般を象徴した風刺だったのでしょうから。

話が反れましたが、心理学のほうは私は勉強してこないと何も分かりませんけど、死語とか、実は幻想だったとか、そういうことは十分にあり得ると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ フラニーは至って普通に品行方正なティーンエイジャーです。久しぶり
に会うボーイフレンドを駅で出迎えて、「どうふるまうべきか」を、いちい
ち、気にしている様子を、サリンジャーは事細かに書いています。
☆ なるほど。自己と相手との人間関係にこまやかな注意をはらう。あるい
は ややもすると そこで自己意識があり余って来ることがあるのかも知れ
ません。


★ アメリカでもこういう子が普通の子の典型象なんですね。しかし、・・
・卒倒してしまうという結末は4コマ漫画的なものがあります。
☆ ははぁ。作者は 考えたものですね。小説としてそのような《事件》を。

★ ウィキペディアを見ると、専門的なことを大そうに書かれていますが、
サリンジャーは(そういう態度をこそ揶揄って)、カリカチャーとして描い
たんだと思います。風刺画です。
☆ あっ。そうなんですか。フラニーに対して同情をも寄せていない?

★ もしかしたら、執筆の当時、アメリカには、エゴとエゴイストを混同し
たティーンが多かったのも背景の”一部”としてあると思います。
☆ あぁ。その《エゴ》も もしかして《自我》をめぐる自意識過剰といっ
た方向へ片向いて行っているのでしょうか。

いや:
★ エゴとエゴイスト
☆ の区別が――今頃になってですが―― もうひとつよく分かりません。

★ 話が反れましたが、心理学のほうは私は勉強してこないと何も分かりま
せんけど、死語とか、実は幻想だったとか、そういうことは十分にあり得る
と思います。
☆ という趣旨にかかわっていましょうか。


★ そして、自我形成が顕著な思春期の子を主人公にすることで、社会だか
専門家だかが、あーだこーださまざまに言うのを揶揄ったんだと思います。

★ 20世紀半ばはそういう時代でした。前衛アートだか何だか、・・・

☆ 例のクリスマスツリーのカザリ・しかもその過剰といった問題なのでし
ょうか。


ただし:
★ ・・・創始者の意図は、例の”シルシ”で、それ自体を見てはいけなくて、
その先に示されたものを見なければいけなかったんですね。時代全般を象徴
した風刺だったのでしょうから。
☆ となると やけに手の込んだ飾りつけであったのかも知れません。

お礼日時:2018/09/15 05:57

>6. 自我は 死語であり幻想ではないでしょうか?



なるほど!
分からなくもないです。何度聞いても、よく把握した試しがありません。

サリンジャーの『フラニー』を思い出します。自我が主題らしく、サリンジャーですし、有名ですが、かわいらしい他愛ない、ごく短編です。何が言いたかったのか、ずっとよく分かりませんでした。

でも、今ようやく、サリンジャーの本当の意図が見えるようです。
英語では、エゴイストもエゴと呼んでまぎらわしいです。フラニーは自意識過剰で疲れ果ててデートの最中、食事中のレストランで席を立って倒れてしまいます。

世界に紹介され、もてはやされ、学校の授業にもお目見えしても、一向に、要領を得ない、というようなものが、世の中にはこれまでにもいくらでもありました。
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この回答へのお礼

こちらへもご回答をありがとうございます。

☆☆>6. 自我は 死語であり幻想ではないでしょうか?

★ なるほど!
分からなくもないです。何度聞いても、よく把握した試しがありません。
☆ そういった感触また経験をお聞きするとよかったです。

★ サリンジャーの『フラニー』を思い出します。自我が主題らしく、
サリンジャーですし、有名ですが、かわいらしい他愛ない、ごく短編です。
何が言いたかったのか、ずっとよく分かりませんでした。
☆ 恥づかしながら未読ですので ヰキぺを参照して確かに自我というテ
ーマだと分かりました。
▲(ヰキぺ:フラニーとゾーイー) ~~~~
思春期の青年なら誰もが直面する理想と現実社会との折り合いの付け方や、
さらには、自らの自意識とどう向き合えばよいのかという普遍的なテーマ
を扱っている。
~~~~~~~

★ でも、今ようやく、サリンジャーの本当の意図が見えるようです。
英語では、エゴイストもエゴと呼んでまぎらわしいです。フラニーは自意
識過剰で疲れ果ててデートの最中、食事中のレストランで席を立って倒れ
てしまいます。
☆ 《自我〔と呼ぶとすれば〕》を持て余していたのでしょうか。

★ 世界に紹介され、もてはやされ、学校の授業にもお目見えしても、一
向に、要領を得ない、というようなものが、世の中にはこれまでにもいく
らでもありました。
☆ かも分かりません。


《われ・わたし》または《おのれ・みづから・自己・自分》のほかに造語
したいのであれば むしろ《己我》がよいかも知れません。《わたしの奥
の院》。

精神分析の《自我》は あいまいであり《わたし》の部分的なはたらきだ
けを言っているように思われます。

哲学の《自我》は 《われ か おのれ》で済むと思います。しかもこの
概念を 定義を定めないで利活用する文学での用法が 凌駕してしまって
いて やはりあいまいになっていると見られます。

お礼日時:2018/09/14 11:48

自我と自己の区別。

これが大問題ですね!
区別できる、と思います。

生まれた時から死ぬ時まで一貫している《私・わたし》。
これが自己。

生きる過程において、この自己が学んで身に付けた姿、が自我。

自我にエネルギー有り。
それは、欲。欲望。

理性は自己に、そして感覚も自己に、備わるのではないでしょうか。

また、自我の欲望にピンからキリまで有り。
そのピンは清、キリは濁、としてみた。

☆ 既成の概念には捉われない。
☆ ブラジュロンヌさんもそうでしょ?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自我と自己の区別。これが大問題ですね!
区別できる、と思います。
☆ ですから 自我は要らないと言っています。

自我は みづから・自己・自分と われ・わたしとに分かれます。そして
それぞれをふつうに使えばよいと思います。

★ 生まれた時から死ぬ時まで一貫している《私・わたし》。
これが自己。
☆ 自己は 《わたし》が《わたし》を確認するとき用いる言葉です。

確認した《わたし》あるいは《自己》を わざわざ《自我》とも言うよう
になったのだと思います。分かれているものを わざわざ混ぜて使ったの
でしょう。

★ 生きる過程において、この自己が学んで身に付けた姿、が自我。
☆ そのように言っても不思議ではない感覚(言葉の習慣として)が出来
てしまっていますが その自我は わたしまたは自己なんです。

わたしが自然本性としてのわたしを 文化的・社会的にも形成する。もし
くは 元の自然本性を 社会文化的に確立する。
――これは わたしであり 自己なんです。

これを一見しゃれたように見えると思ったのか 自我と呼んでみたのが
普及してしまいました。

★ 自我にエネルギー有り。
☆ 自我は わたしと別なように捉えられ 自己とも違った雰囲気を漂わ
せている。だから 定義を不定とする文学が しばしば用いるようになっ
た。それだけのことなんです。

★ それは、欲。欲望。
☆ そういうニュアンスをも帯びるようになった。我執とか。

★ 理性は自己に、そして感覚も自己に、備わるのではないでしょうか。
☆ そうですよ。《わたし》にもそなわっています。自然本性とは 身と
心のことです。(プラス α として アートマン(霊我))。
身が感覚。心は 理性ないし精神。

★ また、自我の欲望にピンからキリまで有り。
そのピンは清、キリは濁、としてみた。
☆ 欲望は 感性や理性をどう用いるかをつかさどる意志(その意味での
心)によって決まると考えます。やましさ(恥ぢ)の度合いで決まるとも。

★☆ 既成の概念には捉われない。
★☆ ブラジュロンヌさんもそうでしょ?
☆ はい。

▲(№3お礼欄) (お) 自我はエスからの要求と超自我からの要求を
受け取り、外界からの刺激を調整する機能を持つ。
☆ このハタラキは わたし・またはわが意志なんです。

お礼日時:2018/09/14 00:12

ich



ドイツ語のich

ドイツ語和から兄の出
カントの質問でも、しなければんらない
とかドイツ語の助動詞とか語学の勉強が必要だなと
いつになるのか。新しいアップデートだ。
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1.生命は自我の活動です。


2.われイコール自我として考える方が、自然です。
ブラジュロンヌさんは自己をわれとしたいのでしょうが。
3.無意識的行動ですね。
たぶん、自我と自己(魂)との区別は難しいかも。
われに還る、とは正気に戻ったということでしょう。

自我に目覚めるって、何のこっちゃ?
この言い方は一般ですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ (ヰキぺ:自我)~~~
(あ) 自我(英語: ego、独語: das Ich )とは、
哲学および精神分析学における概念。

(い) 哲学における自我
哲学におけるdas Ich(私とも。以下自我とする)は自己意識ともいい、
批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。

(う) 初期フィヒテの知識学においては、自我は知的直観の自己定立
作用 (独: Selbstsetzung) であ・・・る。

(え) 精神分析学における自我
独: das Ich(自我)= 羅: ego(エゴ)=英 ' I '
独: Über-Ich(超自我)= 英: super-ego(スーパー・エゴ)
独: Es(エス)= 羅: id(イド)= 英: it

(お) 自我はエスからの要求と超自我からの要求を受け取り、外界か
らの刺激を調整する機能を持つ。
・・・
▲ (大辞林 第三版の解説:じが【自我】) ~~~~
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E6%88%91-72329
(か) 自分。自己。意識や行為をつかさどる主体としての私。
人格や作用の中枢として、認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる。
~~~~~
☆ 特には (か)の《私》のことを言っているはずなんです。

★ 1.生命は自我の活動です。
☆ 自我=わたしは 生命存在である。のでは?

★ 2.われイコール自我として考える方が、自然です。
☆ 《〔わが〕自我が 考える》とは 言いません。

★ 3.無意識的行動ですね。
☆ たぶん そうではなく 特に意識せずに自己を形成して来たところ 
ふとその自己に気づいた。それは 自己到来である。と。

★ たぶん、自我と自己(魂)との区別は難しいかも。
☆ つまり自我と言う必要はないのでは?

★ われに還る、とは正気に戻ったということでしょう。
☆ 飾らない自分に戻ったとも。

★ 自我に目覚めるって、何のこっちゃ?
☆ 社会の一員としてわれここにありという自覚。《自己定立作用》。
わたしがみづからをこの世界の中に人としてという意味で定まった姿に
かたち作る。また その道に気づくこと。

だけども 《自我》と言う必要があるのか? 
自己形成より前にすでに自然本性なるわれがいる。

お礼日時:2018/09/13 22:43

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