プロが教えるわが家の防犯対策術!

1. まづ 自然現象や人為的な行為をめぐる因果関係についてその――良し
悪しなどの価値観を抜きにした――科学的な認識は 別です。因果律は おお
むね共同主観に成ると思われます。

2. 因果応報というときには 人のそれぞれ主観による善悪ないし苦楽とい
った判断を 主要な主題として規定するかたちになります。

3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)
というふうに――中立・無記の場合はのぞいて――われなる主観が判断する場
合です。

4. 原因と結果を良し悪しで判断するだけではなく 因果のいづれにもすで
に主観たるわれが 意志行為としてかかわっている。したがって 早い話が
因果応報説とは けっきょく自業自得という考え方だと捉えられます。

5. 自業自得なる仮説は 共同主観(常識)と成り得るか?




6. かつて 次の質問を問うています。:

【Q:因果応報説は 共同主観にはならない。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7902069.html?pg=3&i …

7. すなわち 因果応報という主観判断は――その主観の内部で持つことは自
由であるが―― 人びと互いの共有するところとはならない。という趣旨でした。

8. 人格全体として ひとつの意志行為にはそれ相応のむくいが現われるとい
う因果応報――つまりは 自業自得――なる見方は ひょっとして有効であるか
も知れない。と このたびふと思いました。

9. 運がよい・えこひいきを享けた またその反対の事態といった《不・応報》
も 大きく自業自得なる方程式にふくまれる。・・・のではないか? という問
いです。

質問者からの補足コメント

  • つまり――きびしいことを言いますが――:
    ★ 因果応報の枠から見事、抜け出しましたね。
    ☆ という事態は 因果応報の方程式について――うっすら知っている
    のだけれど―― しっかりとは認識しておらず したがって意識も薄い。

    という状態であり いわば良心やそれによる恥ぢの観念からは ほど遠
    いところに存在していることを意味します。

    すでにそのまま《安泰な一生を送った》のだとすれば ついに恥ぢの人
    間性には 到らなかった。となります。

    人間以前の状態にある人間で 一生を終わった。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/21 21:40
  • みなさん ご回答をありがとうございました。

      補足日時:2018/10/01 08:35

A 回答 (10件)

回答失礼します。

言葉は奥が深いですね。ちょっとした定義で、意味が変わるのですから、正確に答えるにも時間が欲しいものです。

あとブロックされても全く反省しようとしないユーザーがいたら、通報した方が良いッスよ。質問内容に沿ってない回答よる嫌がらせ行為が見受けられましたので。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 回答失礼します。言葉は奥が深いですね。ちょっとした定義で、意味が
変わるのですから、正確に答えるにも時間が欲しいものです。
☆ そうですねぇ。時間はもちろん十二分に取ってもらってよいのですが
質問者としてこの質問は 言わば見切り発車です。

つまり まだ考えが煮え切っていません。

ですから もらった回答については いま現在においてわたしに考えられる
限りのお応えをして行こうとは思っています。



★ あとブロックされても全く反省しようとしないユーザーがいたら、通報
した方が良いッスよ。質問内容に沿ってない回答よる嫌がらせ行為が見受け
られましたので。
☆ あの人は 特殊です。IDをどれだけでも変えて投稿して来ます。しかも
質問に答えた内容は ほとんどありません。通報するにあたいしないと思っ
ています。




この質問は その趣旨を以前とは換えて問い求めています。果たしてどうな
りますやら。

極端に言うなら あの横田めぐみさんを例に採るとしますと むごい言い方
になるのですが 何の落ち度もなく拉致事件に遭ったことも 自業自得だと
いう見方になるのです。

早速 誤解を解きたいと思いますが こういう意味です。:
つまり もし誰かが拉致される可能性が出ていたのなら 中にはむしろ何も
その原因――つまり悪因――を持ち合わせていないのに 誰かに代わってそ
の役を引き受ける場合もある。・・・という意味です。

これを 《アース役》と呼んでいます。《接地》のアースです。

誰かに代わって 接地の役目を負ったという意味です。本人は――いづれか
の時点で――そのような目に遭ったことも 実際にはみづからがすすんでそ
の役を引き受けたと 納得するものと思われます。

別に誰のためということではないのです。巡り合わせのようなことを想像し
ています。

――そういう因果応報の仮説です。

とんでも理論でしょう?



みなさんは どう考えますかねぇ。

お礼日時:2018/09/25 09:26

他の回答へのあなたのお礼から考えて あなたの情報交換って 他人の回答を 自分の考えてる方向に 持って行ってるだけですよ・・



これなら あなたが間違ってれば 全ては間違いに なるのでは?

他人の意見も交えて 自分の間違いに気づかなきゃ 質問した意味も無くなる・・

だから 毎回 質問しなきゃ いけなくなる・・

自分の勉強した事に 自信を持ってれば 他人に伝導するのを こんな サイトでは しません・・

何故ならば 質問者の独断のみに なるから・・

此処は 本当の交流の場では無い
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色即是空 空即是色、有るけど無い、無いけど有る、スンマセン答えも無い生きてる限りは。

南無
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この回答へのお礼

夜更かししたら 明くる朝 遅刻した。
――これは 自業自得です。

そして われも なれも かれも だいたい同じような経験が
あると思われます。

ですが 中には 夜遅く就寝しても あさがつよい人もいるか
も知れません。

そういう人は 別の自業自得ですので われはわれ かれはか
れになります。


ふつうは 人それぞれではないかと思われます。・・・



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/09/23 21:09

落とし処は我も人成り、彼も人成りかしら?

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この回答へのお礼

この問い求めにとって:
★ 落とし処
☆ はどこか・何かというのは どうですかねぇ。


ご回答をありがとうございます。


もし仮りに:
★ 我も人成り、彼も人成り
☆ といったひとつの命題を取り上げるのなら どうなりますかね
ぇ。

つまり 因果応報なる方程式は 人それぞれその主観の動態の中に
推移するものであり そこにおいて認識されることになります。

つまり 善因善果等々といった因果関係が それ相応の報いとして
認識されるというのは おそらくあくまで一人の人間・われという
個人に固有のものである。・・・のではないかと思うのですが ど
うでしょう。

その意味では われはわれ かれはかれ。といった一面としての要
素であるように見られるかも知れません。どうなんでしょうかねぇ。

(生煮えの考えとしてです)。

お礼日時:2018/09/23 19:47

妥当じゃなく妥協ね、落とし処かな?

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この回答へのお礼

――ではないでしょうね。


ご回答をありがとうございます。


つまり 妥協なら――仮説とは言え――理論として提示する意味はない
でしょう。

ひとそれぞれにおいてその主観にあって 自分が判断した良し悪しは
その行為の因果関係として 相応の結果に到る。・・・という仮説です。

妥協であるなら 相応の結果というのが てきとうに合っていればよい
となるでしょうし あるいは 要するに自業自得という方程式が とき
どき当てはまったりすることがあるといった程度の問題に終わります。



そうではなく 例外なく 因果は応報するという仮説です。




ただし №1のように この良し悪しの判断(つまり 自分の意志行為)
について 意識が薄く その意志の内容についてあたかも無関心である
場合には 方程式の外にその人はいる。・・・ということになります。

それは あたかも心神喪失の状態で犯罪行為をおこなったという場合に
その責任が――その能力がないと見なされて――負わせられることがな
い。・・・といった事例に似ています。

お礼日時:2018/09/23 19:03

質問者にブロックされているので、回答することはできません」←幾らでも出来る・・

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追記・・No1さんもブロックしてるのだろーね・・



No1さんが再回答 しない事から考えると・・

ID一文字変えれば ブロックなんて関係ないのに(笑)

既に 次のIDも 用意してますよ 何時でもブロック しなさいな(笑)
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☆ 情報交換です」←そうですか・・



でも 情報交換なのに ブロックするの?(笑)
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つまり――きびしいことを言いますが――:


★ 因果応報の枠から見事、抜け出しましたね。
☆ という事態は 因果応報の方程式について――うっすら知っている
のだけれど―― しっかりとは認識しておらず したがって意識も薄い。

という状態であり いわば良心やそれによる恥ぢの観念からは ほど遠
いところに存在していることを意味します。

すでにそのまま《安泰な一生を送った》のだとすれば ついに恥ぢの人
間性には 到らなかった。となります。

人間以前の状態にある人間で 一生を終わった。

No.1の回答に寄せられた補足コメントです。補足日時:2018/09/21 21:40」←知ってるのなら 質問しなくてイイのでは?

誰が回答しても それに対して あなたの意見が入るのなら それは 質問では無い・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 知ってるのなら 質問しなくてイイのでは?
☆ 情報交換です。

お礼日時:2018/09/22 20:17

罪の意識の薄い者が犯罪を犯したけどバレなかったので、その者は罪に問われる事もなく、自身は悔いることも無く、一生を安泰に暮らしたとさ。



因果応報の枠から見事、抜け出しましたね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 因果応報の枠から見事、抜け出し
☆ ていませんね。

つまりは:
★ 罪の意識の薄い者が・・・自身は悔いることも無く
☆ という《安泰な暮らし》をしている。ということは なおまだ因
果応報の方程式を知らないというだけだと考えられるからです。

つまり 枠を知らないから 《抜け出している》と思っているに過ぎ
ません。


そして もっと大事なことは:
★ 犯罪を犯したけどバレなかった
☆ というのであれば 《バレる》という可能性をじつは知っていま
す。だとすれば うっすらとでも因果応報のことを知っていると思わ
れます。



つまり:
★ 因果応報の枠から見事、抜け出しましたね。
☆ と言うのであれば 本人は――および いまこの話をなさってい
る汽笛さんは―― 《枠があることと そこから抜け出すこと》とい
ったような問題について じゅうぶん知っているということです。



結論としては 《意識が薄い》ゆえに その枠の外に一生居続けてい
るというに過ぎない。こうなります。

まぁ 自分をだましている――自己欺瞞である――のだと思います。

お礼日時:2018/09/21 19:22

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