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哲学

の勉強が好きな人って、どんな性格的傾向があるのでしょうか?

A 回答 (7件)

理論派の性格で考えることが好きな傾向があります。


具体的でなくて抽象的なことを考えることを好みます。
原理が好きなので数学や物理が得意な理系タイプに多いです。
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論理的、合理的な思想に基づいた思考論者。

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理屈っぽい。



考えるのが好き。

性格が歪んでいる。


こんな感じだと思います。
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運動能力が下がる


残念有り得ました。

私の稽古ううう
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哲学は死んだ。

死体をいじくるのが大好きなんだろう。
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哲学も、ソクラテスやプラトンあたりの勉強が好きっていうなら、好感もてる明るいタイプではないでしょうか?


でも、「神は死んだ」なんてバカなことを言ったニーチェとか、実証主義、記号論理学みたいなのを熱心に勉強しているタイプなら、あまり友人にしたくないタイプ、性格ではないか?なんて思えます。
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親が敷いたレール絶対走らない感じですかね

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Q"アホはほっとけ"は正しいか

どうなんでしょう。

Aベストアンサー

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


人間のさだめのようなもので、分かった気になり、自己満足を優先させる。万能じゃない部分でしょう。

どこまでも、目の前のアホのような奴は、自分とは異なる存在の「他者」であると覚れば、ある程度ほっとけるのではないですか。

相手はいずれ成るように成るもので、何を掴むか、受け取らないかは己がやらなきゃ自分の意味にならない。
他人がどうこうする領域じゃないと知っていれば。

お互いに具体的な言葉にするほど自他の異なりが露わになるでしょう。
同じようで違う、違うようで同じ、というのを確認します。
そうした体験すれば作用にも気づきます。
自分の方法は増えるのですが、人間は頭では体験を超えられません。
冷静に相手の立場に立って出来るものなど取るに足らない小ささに思います。
大人?日本人?は関係を怖れている?みたいに見えます。


ある人に悩みを言ってもらい、何人かで聴きます。
それを後で皆で検討してみると、問題点、課題はほぼ同じ意見ですが、その人をどう思うか、感想を具体的にすると其々です。
相手ではなく、自分というものがそこに出てきます。

相手の立場に立つとは、
人間というものや個人を理解した上でやれる力量かもしれないですね。

余談ですがカウンセリングや相談をインターネットの文字の世界でやれると考える人と反対する人がいるんです。
文字では情報が不十分ですからね。

言い合いをしたり、食い違っても、そういう二人が向き合った体験は後に信頼の間柄になれるものでもあるという実感はありますが、使いわけていますね。

言い合いは悪い結果になると思い込んで、ほっとく、避ける一般の人が多いかもしれないです。

ほっとくの意味一つ取っても、自他は違うんですよね。

相手の立場に立ったつもりで言い、その人をよく知らない第三者からすると正論のようですが、肝心のアホにとってありがた迷惑であったりします。

気遣いができるアホは、無理解な正論にお礼を言うかもしれません。
でも、ほっとけない人が、アホを理解しているとは限りません。
ボランティアと同じです。
自分がしたくてするのか、相手の為なのか、自意識の深めがどの程度かです。


人間というものは、相手の立場に立ったつもりが立てていない時、相手はこころを開かない。

すれ違いながらもお互い辻褄を合わせ、共有した時間に意味を感じることで穴を埋め、その代償行為に気づかず、意味を後付けする生き物です。
その時を穏便に済ませるのですが、そういうときは、後から自分に違和感が出るものなのです。

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


人間のさだめのようなもので、分かっ...続きを読む

Q科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。一方、哲学にはそれに相当するものは何でし

科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。
一方、哲学にはそれに相当するものは何でしょうか?
(主張?かな)

Aベストアンサー

科学は物理、医学も物理、ですよね?
心理学は少し物理があるのかな?

哲学の分野は心の世界でしょ?
だったら釈尊が心の「法則」を発見していますね。

四諦・八正道です。

心の「法則」で、これを超える或いは覆へす“発見”は未だ無いようですね。
証明は釈尊御自身です。

我々はこの「法則」に接すると、成る程と合点するのです。
そして良き人々は、それじゃあ私も頑張ろう、となるのです。

Q言葉の力で「自分」は変わる?

はじめまして・・・ではないのですが・・・

質問のタイトルの通りですが。少し補足を。

人が読書なり、カウンセリングなり、精神科医なり、或いはどこかで聞いた言葉によって、「変わる」=(改善される)ということがあるとしたら、それはどういう仕組みなのでしょうか?

つまりある特定の言葉=考え方・視点を獲得することによって、その人は何故、変わることができたのか?
逆に何故、誰と話しても、何を読んでも変わることができないのはなぜか?

その辺りを知りたいと思います。

尚以下のリンクは11年前(2007年)師走のわたしの質問です。

・・・今はharuさんではありませんが、長文を読み、またそれに対する意見を記述する体力も気力もありませんので、とてもこの当時のようなやり取りはできません・・・
このなかでも、回答No.3 shift-2007さんは、流石に当時盛んにやりあっていただけあって、質問の裏にあるわたしの真意を見抜かれていたようです。

今のわたしならこれをベストアンサーにするでしょう。

体調不十分で、充分なお礼すら覚束ない状態でノコノコ出てくること自体が間違いかも知れませんが、
それを承知で、何か書き遺してくれる方がいればと思い、投稿しました。

以上ご理解の上、気が向いたら書き込んでください。

可能な限り、補足には応じたいと思っています。

はじめまして・・・ではないのですが・・・

質問のタイトルの通りですが。少し補足を。

人が読書なり、カウンセリングなり、精神科医なり、或いはどこかで聞いた言葉によって、「変わる」=(改善される)ということがあるとしたら、それはどういう仕組みなのでしょうか?

つまりある特定の言葉=考え方・視点を獲得することによって、その人は何故、変わることができたのか?
逆に何故、誰と話しても、何を読んでも変わることができないのはなぜか?

その辺りを知りたいと思います。

尚以下のリ...続きを読む

Aベストアンサー

二者の違いについて。

やらない人はやれる事もやらない。
やる人は出来なくてもやってみる。
やらない人はやる気満々でもやらない。
やる人はやりたくなくてもやる。

違いは何かというと、荷物が多いか少ないかなのです。

おそらくフラグメントさんは、自分が何者なのか、沢山考えて、沢山知っているのでしょう。そしてそれが荷物になっている。
自分が何者か分からないと言う事は、過去にかなりの量のこうではないか、ああではないかという試しを行なって、無数の擬似的な答えを獲得して来たと考えられます。しかしそのどれもしっくり来なかったので、自分が何者か分からないと言うのです。

一方で、自分が何者か分かる人というのは、分からない事が負担になりません。生まれに縛られていないからです。それで、分からなくても歩き出せるのです。歩き出すので現実に何者かになる。歩き続けるので何者であるかも変遷して行く。そうして色のついた人生を築きあげるのです。

先ずは何者かである事から解放されなければ、何者かにはなれないでしょう。

特異な者と言う自己認識は、自分が何者であるか、分かっているし、分かっていないという二律背反が同時に存在している事からくる認識だと想像しました。

二者の違いについて。

やらない人はやれる事もやらない。
やる人は出来なくてもやってみる。
やらない人はやる気満々でもやらない。
やる人はやりたくなくてもやる。

違いは何かというと、荷物が多いか少ないかなのです。

おそらくフラグメントさんは、自分が何者なのか、沢山考えて、沢山知っているのでしょう。そしてそれが荷物になっている。
自分が何者か分からないと言う事は、過去にかなりの量のこうではないか、ああではないかという試しを行なって、無数の擬似的な答えを獲得して来たと考え...続きを読む

Qなんで《物自体》なんていうものを言いだしたのか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の先天的形式(範
疇)によって総合的に構成されたものである。

4. したがって、われわれのもっとも素朴な感覚与件でさえ、すでに空間・
時間という主観の形式を経由したものであるから、われわれは感覚を刺激する
外なるものをそのあるがままに認識することができない。

5. それをカントは物自体とよぶ。

6. のち『実践理性批判』においては、物自体の世界を自由の概念と結び付
けて、現象界に対して叡智界(えいちかい)と名づけた。

7. 物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が
集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に
始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であった
ともいえる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


8. 解説〔に依拠しその内容〕をめぐって問うといういささか邪道の質問で
すが 次のように問い求めます。


9. もし:
▲(3) ・・・世界は、従来思われてきたように物のあるがままに現れてい
るものではなくて
☆ という条件を前提するのなら すでにそこから帰結する内容は敷かれてい
るのではないか?


10. つまり 《物のあるがまま》〔の姿〕は:

(あ) 人間の能力では認識しがたい。または し得ない。――かまたは:

(い) 認識し得るのだが それは 部分的な内容とならざるを得ない。そし
て 認識そのこともあやまち得る。――さらにあるいは:

(う) 《物》は 《人間が認識しうる言わばその仮象》とそして《認識し得
ない本体》とに分かれる。

☆ といった可能性がすでに孕まれている。はずだ。

11. つまり 前項の(う)から 《物自体》を想定することがあり得たと
しても ただそれだけのことに過ぎない。のではないか?

12. つまり 物自体を想定しようがしまいが 《人間の認識能力には限界
がある》という命題を言ったまでである。と捉えなくてはならない。はずだ。


13. なんでこの物自体が《現象界に対する叡知界》のことに成るのか?

14. 叡知界たる物自体に就くならば 《実践理性》としての《自由意志》
が実現し得て ひとは自由であると成るといった議論に発展するのか?

15. 無茶である。それなら 形而上学的実体なる神を据えている議論と違
わないのではないか?

16. カントは阿呆ではないか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の...続きを読む

Aベストアンサー

カントはついに神の心を感じる事が出来なかったか、或いは感じようとしなかった、なのでしょう。
それ故に、叡知界を無理やりに理的に解釈したのだと思います。

これでは埒は開かないと思います。

もっと素直に、私のように、人の心は宇宙の本体・霊体の心と本質は同じなんだと、受け止めるべきでした。
霊体に慈悲の涙があるからこそ、我々の心にも思いやりの涙を流せる働きがあるのだと。

Q哲学の面白さって?

哲学などの概論を読んでいて、ひっかかる疑問があります。

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。特にカントなどが現れた頃からです。

この人たちが問題にするのは理性とか、存在とかそういうものですが、自分はどうしても科学的な気持ちが邪魔してしまいます。例えば存在するみたいな主題があると、自分は科学的にそれを捉えてしまいます。

存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先祖、つまり人類が生まれた時にまで行きつきます。これを哲学においては、やや抽象的な解釈をする。ここがどうしてもつかめない。それを言えばおしまいじゃないかと思っても、どうしても科学的に考えてしまうのです。

理性とか経験とかもそうですよね。心理学や科学、物理が発展した世の中ではどうしてもそっちで解釈したほうが早くないか?って思ってしまう。でも哲学には哲学の見方がある。これはどうすれば身につくのでしょう?哲学の見方が出来ればもっと哲学を楽しめるのにと思ってしまいます。

Aベストアンサー

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、
だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。
 ↑
この世には色々不可思議なことがあります。
人間は、知性があるので、不可思議な事を説明
しようとします。

最初は神話で説明しました。
しかし、次第に神話では飽き足らなくなり、哲学と
なりました。

その哲学もキリスト教と結びついたので、一神教との
整合性を保つため、やたら理窟っぽくなったのです。




存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先祖、
つまり人類が生まれた時にまで行きつきます。これを哲学においては、
やや抽象的な解釈をする。ここがどうしてもつかめない。
  ↑
人間存在だけではなく、もっと広く普遍化
一般化するのです。



心理学や科学、物理が発展した世の中ではどうしてもそっちで
解釈したほうが早くないか?って思ってしまう。
でも哲学には哲学の見方がある。
これはどうすれば身につくのでしょう?
哲学の見方が出来ればもっと哲学を楽しめるのにと思ってしまいます。
  ↑
哲学の意義は、本来は真理発見にあります。
しかし、真理の発見なら科学の方がはるかに
優れています。

哲学と科学の違いは実証にあります。

科学は実証しますが、哲学はしません。

つまり、実証出来ないモノは科学の対象になりませんが、
哲学の対象にはなります。

そこが哲学の弱点であり、かつ魅力でもあると
考えています。

実証にこだわらなくてよいのですから、自由な発想、
思考が可能です。

その結論が正しいかは、後生になって科学が
実証してくれます。

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、
だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。
 ↑
この世には色々不可思議なことがあります。
人間は、知性があるので、不可思議な事を説明
しようとします。

最初は神話で説明しました。
しかし、次第に神話では飽き足らなくなり、哲学と
なりました。

その哲学もキリスト教と結びついたので、一神教との
整合性を保つため、やたら理窟っぽくなったのです。




存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先...続きを読む

Qいいことをおしえてやろう

最近、人に回答を求めるのではなく自分でやってみろと、ある人に言われたので、やってみる。

とはいっても自分の知らないことには答えられない。
答えられる質問にはどんどん答えてやる事に決めました。

こんな心構えでいいでしょうか?

Aベストアンサー

違うと思います。

どこかのカテゴリーで、回答に対するお礼コメントでやられて現在進行中の質問者のマネをして回答してみます。

Q:人に回答を求めるのではなく自分でやってみろ
A:初めての職場に行くと先輩が、「わからないことがあったら、なんでも聞ききなよ。」と言ってくれますが、それを信じて質問すると、「なんでもかんでも人に聞けばいいってもんじゃないだろ!!まずは自分で考えて、それでもわからなかったら質問するんだよ!!」と言われて、自分なりに「まあっ、いいか、これで」と思ってやってみると、「お前、なんてことしてくれたんだ。やるまえに、わからないことがあったらなんでも聞けと言っただろ。」と怒られてしまいます。

Q:自分の知らないことには答えられない
A:知っていることとは、しょせん知識でしかないのだから、インターネットでチョチョッと調べて、たぶんこれだな、と思った新しい知識で答えればいいんじゃない?

Q:答えられる質問にはどんどん答えてやる
A:たぶん、答えられる質問に対して答えるのではなく、自分が回答したいと思った質問に答えるのだと思います。

質問に答えたいものがあったときの心構えは、以下のようなことも必要だと思います。
・こいつ、ホントか?創作とかなりすましじゃないだろな?
・それとも、現実社会で誰も相手してくれないから、この虚構の世界で相手して欲しいのかな?
・いやいや、真剣に悩んで質問しているんだと思うけど、なんでこういう質問してるんだろ?

違うと思います。

どこかのカテゴリーで、回答に対するお礼コメントでやられて現在進行中の質問者のマネをして回答してみます。

Q:人に回答を求めるのではなく自分でやってみろ
A:初めての職場に行くと先輩が、「わからないことがあったら、なんでも聞ききなよ。」と言ってくれますが、それを信じて質問すると、「なんでもかんでも人に聞けばいいってもんじゃないだろ!!まずは自分で考えて、それでもわからなかったら質問するんだよ!!」と言われて、自分なりに「まあっ、いいか、これで」と思ってやって...続きを読む

QHaruさんの存在主義の欠点は何ですか

客観的情報が欲しいのでHaruさん以外の人に回答して欲しいです。

Aベストアンサー

Haruさんとは誰?

Q思考の技術

を学ぶためにこのカテに来ています。

哲学は総ての基盤だと。

四つのkeywordを挙げて
端的に説明してください。


(欲張りなのはご容赦を)

Aベストアンサー

確かに、

>哲学は総ての基盤だと、

思われていた時代がありましたね。それは人間が成長する仕方とよく似ています。幼児の時に言葉を覚えますが、それが思春期の頃になると、理屈や理念の世界があることに目覚める。要するに屁理屈を言いだすようになる。それで成長が止まってしまう人も中にはいるでしょうが、普通は大人になると理念よりも重要なものがあることを、いろいろな痛い経験をしながら判ってくる。それは事実の世界です。

経験の未熟なものはまず理念を頭でこねくり回し、人はどうあらねばなぬ、自然はどうあらねばならぬ、と論じ始め、それで事実の世界を整理しようとする。ところがそれではうまくいかないことを経験で認識し始めます。そして、理念や理屈をこねくり回す前に、「ところで人はこいう時どう振る舞ってきたんだ」とか、「自然てどうべきかではなくてどうあるのか」という事実の世界を一先ず観測して、その観測事実に基づいて、あとから理屈や理念を後出しジャンケンのように付けてゆくのが筋ではないかと分かるようになってきた。

事実、人類は言葉を使い出して、最初のうちは、理屈だ理念だ哲学だと語り出した。その数十万年にも及ぶ経験の結果、今から2500年ほど前にある意味理念の世界が極限に到達した。それが、孔子や釈迦やソクラテスやそれから500年ほど遅れてイエスです。彼らは人類の師と呼ばれ、いまだに彼らを凌駕する人は出ていないと考えられているようです。そして、彼らは「人間はどうあるべきか」という理念を語った。その同時期にアリストテレスは「自然はどうあるべきか」という理念を語った。

ところが、その後2000年も経っても戦争も病気も無くならず、世の中一向に良くならなかった。そんな痛い経験をして行くうちに、人間が大人に成長して行くのと同じように、人類も、

「ちょっと待てよ、人間はどうあるべきかという理念や哲学を語る前に、そもそも人間はどうあるのかという事実をまず認識しようじゃないか」

と言い出した。それがマキャベリです。そして、政治学という社会科学が誕生した。また同時期に、「自然はどうあるべきか」という理念や哲学を語る前に、そもそも「自然はどうあるのか」という事実をまず認識しようじゃないかと言い出した人がいた。それがガリレオです。そして、自然科学が誕生した。すなわち、人間一人一人も人類も、まず未熟な段階では、

 理念や哲学による理屈づけが先、事実があと、すなわち、哲学 => 科学

という順序で世界を認識してきた。しかしその後、色々な経験をして成長を遂げた結果、

 事実が先、理念や哲学が理念や哲学による理屈づけがあと、すなわち、科学 => 哲学

という順序で世界を認識するように進化してきたのです。その傾向は20世紀以降著しく、特に量子力学や相対性理論の発見以降、世界の認識に対する哲学者の未熟さが白日のもとに曝け出され、世界認識に対する哲学者の権威の座を科学者たちに譲渡してしまったというのが現状です。事実、20世紀以降世界の認識における重要な進歩は哲学者ではなくて、科学者によってなされてきたのが歴史的事実です。

哲学者は人間の性として、どうしても自分の育ち至った経験を通した思索によって、さらに我々が通常使う言語によって、我々の経験を外挿して世の中を認識しようとします。ところが、自然界の認識には、日常言語ばかりでは不十分であり、数学という特殊言語を駆使しないと認識不可能なことがあることが判ってきました。例えば、世界を認識するのに例えば長さがや大きさなどを数値で表し、それを比較すれば、論理的に解ると思っていた。ところが、事実はどうなんだという自然科学の発達で、我々が世界を認識するには「数」そのものでなくて、そのような長さや大きさに対応した「演算子」なる実態がそのような数値で表される量の裏に潜んでいることが本質であることが明らかにされました。このような世界認識に対する事実の発見は、日常言語を使いながら頭に浮かび得るどのような整合した論理的思索をしても、発見できるものではありません。

事実の認識は、カントの言う「総合的真偽の判断」に基づいた認識であり、 理念の認識は「分析的真偽の判断」に基づいた認識です。だから、如何に理念の分析をしても事実の世界は認識できないのです。

科学者に比べて哲学者の未熟さを揶揄って見せた一例として「ソーカル事件」をググってみてください。

もう一点のkeywordに関してですが、哲学は人間の言語で語ります。そして各言語にはそれ特有の個性的な文化がある。例えば質問者んは日本語を話し、日本語をみながら育ってきました。そして、日本語は、漢字という表意文字であり、ひらがなやカタカナは表音文字です。さらに漢字には音読みと訓読みがある。このように日本語は他の言語界では考えることすらできないような多次元的で多様な言語空間を持っているのです。ヨーロッパ語のような表音文字しかない一次元的な単純な言語空間ではない。

当たり前なことですが、多次元空間ではその次元を制限して、より低次元の世界を見ることができる。例えば3次元空間に住む我々は2次元空間を見ることができます。ところが、我々は4次元空間を見ることができません。同じように、多次元に住む日本人は表音文字しかない一次元的ヨーロッパ人のみている世界を簡単に認識できますが、その反対にヨーロッパ人には日本人の見ている多次元的な世界認識を理解することは至難の技なのです。

私は、質問さんが例として挙げたkeywordsがどうして、そんな単純なアルファベットという低次元言語で表されているものだけなのか、理解に苦しむところです。

確かに、

>哲学は総ての基盤だと、

思われていた時代がありましたね。それは人間が成長する仕方とよく似ています。幼児の時に言葉を覚えますが、それが思春期の頃になると、理屈や理念の世界があることに目覚める。要するに屁理屈を言いだすようになる。それで成長が止まってしまう人も中にはいるでしょうが、普通は大人になると理念よりも重要なものがあることを、いろいろな痛い経験をしながら判ってくる。それは事実の世界です。

経験の未熟なものはまず理念を頭でこねくり回し、人はどうあらねばな...続きを読む

Q閲覧ありがとうございます。唯物主義に生きがいはありますか? 人間は物質からできているので精神活動も物

閲覧ありがとうございます。唯物主義に生きがいはありますか?

人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものです。
水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう?
尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。
科学の観点から自由意志は錯覚とされています。世界は物理の法則に従って動いているため、自由意志は錯覚と考えるのが普通でしょう。
また意識は傍観者で、自分は人生という映画を観ているだけでしかない。
クオリアも錯覚という説もあります。

また、人間のすべての行動は利己的です。(利己的遺伝子論) 母親が子どもを愛するために取る自己犠牲の行動、助け合うこと、またそれらを美しいと感じること…すべてに関して利己的。遺伝子の思うがままになっていると思うと、やや恐ろしくも感じるし、行動が遺伝子にコントロールされていると思うと、虚無感も感じてしまいます。

何をしても楽しくないです。例えば、奇麗な夜景を見てホッとしますが、
すぐさまこれも遺伝子にプログラミングされた自動的な感情(錯覚)だ気づき絶望します。

しかし、生命及び精神活動が科学的に解明されても、その仕組みが分かっただけで本質(中身?)は分からないと言いますが、中身(主観?)なんてないんじゃないでしょうか?
精神活動などあみだくじのようなもので、ある入力がされたらある出力がされるだけで
自分とか主観とかそんなものはなく、今こうしてこう思った!考えた!も自動的な計算による出力にすぎない。機械と大して変わりはない。

いろいろ考えた結果、自殺ということが頭に浮かびます。
しかし、世の中の唯物論者(この定義がそもそも間違ってるのかもしれませんが、スピリチュアルなことを信じない科学的な人です)の方が全員自殺されてるわけではないですよね?どうしてでしょう?何に生きがいを持ってるのでしょうか?
虚無感に襲われて辛いです。生命、精神、存在などの素晴らしさについて教えてください。
哲学や科学について素人なので簡単な言葉で教えてくださると嬉しいです。
どうかよろしくお願いします。

閲覧ありがとうございます。唯物主義に生きがいはありますか?

人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものです。
水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう?
尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。
科学の観点から自由意志は錯覚とされています。世界は物理の法則に従って動いているため、自由意志は錯覚と考えるのが普通でしょう。
また意識は傍観者で、...続きを読む

Aベストアンサー

酸素と水素が「化学反応すると」、水になる。

では、何故、空気中に、酸素があり、水素があるんですかね?

地球上、何故、水だらけにならないんですかね?

確かに、化学的には、そうかも知れませんが、二酸化炭素も硫酸も
実際に存在していますよね。

結局、人生なんて、無限に近い組み合わせのなかで、その時々で、
「化学反応」を起こしているので、それほど真剣に考える必要はないのでは?

「人間のすべての行動は利己的です。」といっても、「種の保存」の本能から
言えば、当然でしょう。

「遺伝子」だ、「ミトコンドリア」だ、と言ったところで、これらは「複製」を
求めているだけで、「誰を好きになれ」とか「誰を嫌いになれ」なんて言っていません。

外国人と結婚しても、同郷の人と結婚しても、構わないのです。
それこそ「自由」です。
自由すぎて最近うるさい「同性愛者」なんてのも居ますが、
「遺伝子」が反対した、なんて話は聞いたことが無い。

実は、私も若い頃、同じような考え方を持ってましたが、ズボラなので、
3年ほどで、すっかり忘れてしまったようです。

選択肢は、極端ですが、無限にあります。

下らない「極論」に振り回されないことです。
「極論」とは、その論を成立させるために、多くの有用な実体を、
無視し、捨て去って成立しています。

大抵は、全く役に立たない。

酸素と水素が「化学反応すると」、水になる。

では、何故、空気中に、酸素があり、水素があるんですかね?

地球上、何故、水だらけにならないんですかね?

確かに、化学的には、そうかも知れませんが、二酸化炭素も硫酸も
実際に存在していますよね。

結局、人生なんて、無限に近い組み合わせのなかで、その時々で、
「化学反応」を起こしているので、それほど真剣に考える必要はないのでは?

「人間のすべての行動は利己的です。」といっても、「種の保存」の本能から
言えば、当然でしょう。

「遺伝子」だ...続きを読む

Q神の存在証明について、詳しく教えて下さい 4種類の証明のうち、どれでも良いです

神の存在証明について、詳しく教えて下さい
4種類の証明のうち、どれでも良いです

Aベストアンサー

太古から人間は神の存在を想像していましたね。
これは、認識は出来ていないけれど存在するのではないかという意識はあった、という事です。

ダブルようですが人間は、神が物ならば認識できたはずなのに、それが出来ないばかりに想像でその存在を意識してきました。
神は精神だからでしょう。

一般に神と云えば善の象徴であり、悪と云えばサタンとなります。
でも、創造主とした場合の神は、単に善の象徴ではなくて宇宙そのものと云えます。そしてその宇宙=精神の中に善もあれば悪もある、と云う事になります。

そうです。創造主としての神は善も悪も孕んでいるのです。

人間の精神もそうですよね。
好ましい心の状態の時もあれば、好ましくない時もあります。
創造主と同じなんです。

そう思えば自身の心の存在こそが、神の存在を証明していることになるのです。


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