『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

政治家や経済人や軍幹部が勝てない意識を共有していたら真珠湾攻撃は実行前に潰されませんか? 
勝てる計画があったけど、途中で臆病な軍人が無条件降伏で投げ出して自分の命をつなぐ、無条件降伏して放り出すことを正当化するために勝てた根拠の資料を焼却し、戦後は勝てない派が主流派だったと嘘をついている、そう思いませんか?

A 回答 (7件)

> 勝てない意識を共有していたら…潰されませんか? 


当然そうなるはずです。勝つための作戦ですから。

> 勝てる計画があったけど、
負けた原因は、敵は米国だけではなく、最後の最後のソ連の裏切り、でしょう。
なお、軍部だけが無条件降伏を最後まで認めていなかったようです。
償却したのは、国民に対するウソの戦況報告や作戦の無謀さから軍部の逃亡計画などとかを示す書類と言われています。
逆にこれが無いから過去の戦争を反省することなく、
「勝てばよいのだ」という安倍首相の「積極的平和主義」なのでしょう。
    • good
    • 0

山本五十六だって勝てないと分かっていましたよ、だから「半年は存分に戦いましょう」と言ったのです。



この意味は、半年ぐらいなら戦力を維持出来るからその間にアメリカと交渉して戦争を終わらせて下さい、という事です。

マスコミが煽り立てて国民をヒートアップさせて、世論に国と軍が負けて戦争に至ったとも言われています。

ミッドウェーで勝利して交渉に持ち込もうとしたのに大敗北、交渉のきっかけも作れず、どう戦争を終わらすか誰も思いつかず、ただただ兵士を無駄死にさせてダラダラ戦い、(どうしょうどうしよう、どうやって戦争終わらす?終わらすにしてもどうやって戦争推進派をなだめよう?)

降伏派がアメリカとの交渉を戦争推進派に知られると、クーデターを起こす恐れがあったので、アメリカからの降伏条件の回答を保留にしていましたが、それをマスコミが「交渉無視!戦争続行」と煽り立ててしまい、アメリカは怒って更に多大なる攻撃を始めました。

そうこうしているうちに原爆を落とされて(もうだめだ、こうなったら陛下のお言葉で終わらせてもらおう)だって、最初っからそうすればよかったじゃね〜かバ〜カ。

結局、マスゴミと世論に負けたお偉いさんが誰もやりたくない戦争をおっ始めて、負け越しが決まったら天皇陛下に泣きついて終わらせました、めでたしめでたしという事ですね。
    • good
    • 0

政治家や経済人や軍幹部が勝てない意識を共有していたら


真珠湾攻撃は実行前に潰されませんか?
 ↑
そう白黒百%、ということはありません。
負ける可能性は強いけど、勝つかもしれない、
そういう意識が強かったのではないですか。

全員が全員、必ず負けるとの認識があれば
いくらなんでも開戦には踏み切らなかったでしょう。

あの日清日露戦争だって、世界の大部分は
日本の敗戦を予想していましたよ。

軍事力は圧倒的に、清やロシアの方が上
だったのですから。

逆に言えば、あの勝利があったので、米国と
やり合う気になったのかもしれません。
    • good
    • 1

>太平洋戦争の開戦前から日本がアメリカに勝てないのは分かっていた?



あなたの脳内での「勝つ」の定義が不明なので回答の為の考察ができません。



>無条件降伏して放り出すことを正当化するために勝てた根拠の資料を焼却し、

これについては、よく誤解されていますが日本政府は無条件降伏はしていません。
(ポツダム宣言を読めば理解できる筈ですが、無条件降伏したのは軍部だけです)



このような質問は過去に何度も出ていますが、知識のない方や日本が嫌いな人ほど、戦争=ルールのない殺し合いや、勝つ=敵国の占領や降伏 と思い込んだり、当時の日本の軍や政府の無知を語っていたように思います。

戦争とは、国際法で認められている交戦権の行使であり、相手国に自国の要求を武力で承認させる行為です。
外交とは手段が異なりますが、同じ国益を追求する為の行為であり政治の一手段に過ぎません。

その目的自体(領土の割譲や有利な条約など様々)は、講和条約で相手に認めさせれば良いことです。
なので、相手国の占領や国家体制の破壊は必要条件ではありません。



A:>そう思いませんか?

以下の回答は、あなたが戦前の日本の状況を知っているという前提でのものです。
(知らない用語は他人に丸投げする前に自分で調べてください)


回答A:全く思いません。

日本の戦争目的は、大陸の国民党軍との紛争の為の資源の確保と、それへのアメリカの関与をやめさせることです。(アメリカ本土の占領や植民地化ではない)
なので、日本は最初からアメリカ本土の占領は考えていません。
それに、当時はハワイからアメリカ本土まで往復できる爆撃機など、どこの国も持っていません。
間に基地に使えるような島もありません。
空母の艦載機が詰める爆弾程度では、広大なアメリカを制圧などできません。


開戦については、当時の政府も軍も否定的でした。
開戦前の昭和16年に、当時の日本政府は、「総力戦研究所」を作り、各分野の有識者を集めて対米戦のシミュレーションを行っています。
その結果は、現実と殆んど変わりませんでした。(原爆・ソ連の参戦は除きます)
それでも開戦したのは、僅かな可能性に賭けなければならない程、アメリカのハルノートが厳しいものだったのと、マスコミが世論を煽ったからです。




↑に対して日本がとった戦略は、初戦で勝利しアメリカの戦意を挫いて、有利なうちに講和して目的(資源の禁輸の解除、大陸の国民党軍への支援の中止)を達成することでした。(失敗しましたが)

大陸の国民党軍との紛争や、開戦前のアメリカとの関係については、質問の範囲から外れるので説明はしません。(このような質問をする以上、知っていて当然だと思いますし)



B:>政治家や経済人や軍幹部が勝てない意識を共有していたら真珠湾攻撃は実行前に潰されませんか?
「太平洋戦争の開戦前から日本がアメリカに勝」の回答画像5
    • good
    • 0
この回答へのお礼

軍人気取りが急に左翼になって笑えるw

お礼日時:2018/09/29 17:33

日独伊三国同盟を結ぶかどうかで紛糾していた時期の海相米内光正大将が五相会議の席上、


「(前略)アメリカと戦って勝てる見込みはありますか?」
と問われて即答した言葉。
「勝てる見込みはありません。
 だいたい日本の海軍は米英を向こうに回して戦うように建造されておりません。
 独伊の海軍に至っては問題になりません。」
    • good
    • 1

> 普通の日本人には偉い人にも偉くない人にも相手にされなかった




そう、だから、これが問題なんですよ。
見えている人には見えていたのですが、日本が全体として頭が悪かったんです。
    • good
    • 1

ちょっと曖昧な質問だと思います。



分からなかったというのは、
1. 分かる為の情報が欠如していて分からない
2. 情報は十分であるが、解釈する能力が不足していて分からない
という2通りあります。

様々な書籍に書かれている通り、米軍に宣戦布告した時点で『これは敗ける』と理解していた人は、日本の中に一部いました。従って当時の時点で、日本の敗戦を予見する十分な情報はあったと言えます。

しかし、ほとんどの人々は開戦を支持しましたし、そういう世論が既に形成されていました。つまり情報を解釈する能力が、国家全体として不足していたのです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

>>米軍に宣戦布告した時点で『これは敗ける』と理解していた人 

これって当時は陰謀論や珍説に近い扱いで普通の日本人には偉い人にも偉くない人にも相手にされなかった話では?

お礼日時:2018/09/29 13:26

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q江戸時代について 江戸時代(初期末期除く)は200年以上平和な時代だったとよく言われてますが、4大飢

江戸時代について

江戸時代(初期末期除く)は200年以上平和な時代だったとよく言われてますが、4大飢饉があったので、正確に言うと平和な期間は途切れてると思います。

天明の大飢饉では、全国で約90万人の死者、東北の村では村人が全滅したところもあったみたいです。これは太平洋戦争での日本本土空襲並みの被害だと思うので、さすがにこの時期などは平和とは言えないんじゃないでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の「平和」は、「戦争がなかった」という意味です。

江戸時代の前は、国内で戦争に次ぐ戦争が続いています。
武士=戦士という文字通りに小国分立して戦っていました。

その中で勝ち抜いて、中央集権に成功したのが江戸時代です。
ついでに鎖国をして、海外からの刺激も遮断し、それがたまたま当時の国際情勢のおかげでうまくいったので、戦争状態がなくなりました。

江戸時代の武士は、実際すでに「戦士」ではなく、単に「階級名」にすぎなくなっています。
職業軍人としては、失業状態に等しい。
軍人が失業しているのだから、「平和」ってことになります。

戦争によって負けた相手から収奪して、軍人を養っていたのに、飯のタネの戦争がない。
そこで、農民から収奪する年貢によって軍人の給料を支払う。

農民や貧民は普段から食うや食わずですから飢饉になれば、即餓死してしまうわけです。
実際、飢饉の他にも犯罪や貧困で多くの人が死んでいます。
しかし、それまでの内戦状態にくらべたら、「平和」なのです。

内戦経験のない、今の日本人の感覚とは違います。

Q江戸時代の教養がある人は中国語の読み書きができたのですか?

江戸時代の大名や学者といった教養がある人は、子供の頃に学校に通ったり専属の教師がついたりして、10年以上勉強に励んだと思います。

当時の世界で勉強するといったら和書と漢籍だったはずで、漢籍の学習に充てられた時間も多く、そうだったら当時の大名や学者の大半は中国語の読み書きができたのでしょうか?

Aベストアンサー

中国語というのは、漢文です。漢文は読み下しなどのテクニックが平安時代には確立されていましたので、漢字が読めれば漢文も読めるようになります。これは現在でも同じで、あまり読もうとする人が少ないだけで、現在の中国語も漢文ですので、同様に読み下して読むことができます。機会があればやってみてください♪

そもそも中国語というのは漢文によって統一されているだけで、10以上の異なる言語が存在していると言われています。北京などの言葉が上海で通用しないとか、まったく異なる言葉だとか言われるのは、そういうことです。

Q今年の大河ドラマ「西郷どん」と2008年放送の「篤姫」とを見比べて思ったのですが、「篤姫」では篤姫が

今年の大河ドラマ「西郷どん」と2008年放送の「篤姫」とを見比べて思ったのですが、「篤姫」では篤姫が幾島に文を託すも西郷に断られ、勝海舟に父成彬からの文を託し、それが西郷の心を動かし、江戸無血開城が決まり
、篤姫自身は西郷には会ってないようですが、「西郷どん」では勝海舟に会う前に幾島とも篤姫とも会う設定になっていますが、史実からするとどちらの方がより正しいのですか?

ナレーションでは「実に12年ぶりの再会となりました。」とあるので、「西郷どん」の方が正しいのでしょうか?

Aベストアンサー

史実には諸説あります。
だから小説も多数の作家のものがあります。
小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。

篤姫の場合、記録が少なく、NHKドラマは「脚本」があたかも
本当のように面白く(悲しく)描けていました。

西郷と勝の江戸城無血開城交渉は緊迫したなか行われましたので
これ以前に江戸城に入るのは無理だと思われ、これはドラマを
面白くするための脚本の所作と思われます。
つまり「西郷どん」はフィクションです。

そもそも、この時代のトップには「内戦回避、外国からの介入
回避」の認識があり、第一次長州征伐では激戦が起こりませんでした。
では薩長と徳川のNO2・3とNO1の激突である倒幕に何故
西郷は舵を切ったのでしょうか。
長州はともかく、西郷薩摩には「舵を切って」も「激突は回避され
る」と踏んでいたのでは、ないでしょうか。
こういう推理がスリルなのです。
歴史探訪の醍醐味です。


西郷さんには思い入れが強い人が多く、よく描かれることが
多いようです。
「人を愛し、弱きを助け、国を憂え、強くをくじき、ブレル
 ことなく突進し、信念は生涯変わることはなかった」など
と描かれ、作られる。
実際には、迷い、悩み、試行錯誤し失敗もし進んだのでは
ないでしょうか。
完全な人間などはいないのです。

史実には諸説あります。
だから小説も多数の作家のものがあります。
小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。

篤姫の場合、記録が少なく、NHKドラマは「脚本」があたかも
本当のように面白く(悲しく)描けていました。

西郷と勝の江戸城無血開城交渉は緊迫したなか行われましたので
これ以前に江戸城に入るのは無理だと思われ、これはドラマを
面白くするための脚本の所作と思われます。
つまり「西郷どん」はフィクションです。

そもそも、この時代のトップには「内戦回避、外国からの介入
...続きを読む

Q731部隊の石井中将は実験に朝鮮人やロシア人を使わず。健康な中国人や中国人の子供を使ったのか?

731部隊の石井中将は実験に朝鮮人やロシア人を使わず。健康な中国人や中国人の子供を使ったのか?

Aベストアンサー

731部隊を研究している中国の研究者が、731部隊によって人体実験に使われた犠牲者の内、1467人の身分を確認したと発表している。 その研究者、731部隊罪証陳列館の金成民館長は「この1467人は、研究者が各地の公文書館に収蔵されている満州国政府の公文書と関係史料を閲覧して確認したものだ。この中には、ソ連人23人と朝鮮人6人が含まれている」と説明した。
731部隊第四部(細菌生産部)の川島清部長の供述によると、1939年から1945年までの間に少なくとも年間500人がハルビン平房の731部隊本部で人体実験に使われた。
金館長によると、これらの犠牲者は全員、ソ連のスパイという名目で日本の憲兵隊に逮捕された人達で、ほとんどは抗日戦争を戦った地下情報員で、中国軍の捕虜も含まれていた。 中国人のみが人体実験に使われたわけではない。

Q昭和30年頃に、戦前の生活水準に戻った。というのは、日本史上最も良い暮らしをしている。(当時は)とい

昭和30年頃に、戦前の生活水準に戻った。というのは、日本史上最も良い暮らしをしている。(当時は)ということなのでしょうか?

Aベストアンサー

違います。

戦前の生活水準=日本史上最も良い暮らし、ではないことは明らかです。
だから、昭和30年頃が日本史上最も良い暮らし、ではありません。

「昭和30年の時点でいえば、日本史上最も良い暮らし」ということはできるかもしれません。

しかし、そもそも「日本史上最も良い暮らし」とはどういう比較をして決めたのか、が分からないです。
「人間の暮らしの歴史は、常に良くなり続けているものだ。しかし、戦争や災害によって時々逆戻りすることがある」という前提ならば、

「戦争によって生活水準が後退したが、昭和30年頃に戦前並みに戻った」ということは、「その時点でいえばその時が日本史上最も良い暮らし」ということはできます。

でも、30年代以降、庶民の生活水準は改善されていったので、常に「日本史上最も良い暮らし」を更新し続けたといえます。

農村の荒廃、過疎化、公害など、さまざまな社会的弊害は伴っていたし、一人一人の幸福に結びついたかどかは別にして、「庶民の生活レベル」が上がっていったことはたしかです。

Q織田信長の小性 森蘭丸は 有名ですが。 今で言うと 代議士の有能な秘書。 身の回りの 職務をこなす

織田信長の小性 森蘭丸は 有名ですが。

今で言うと 代議士の有能な秘書。
身の回りの 職務をこなす 頭のキレる 信頼できる人間。

この時代だと 性の相手になる事も 普通らしく
寧ろ 現代とは 全く 認識も違い。
強く有名な武将の関係を 自慢すらする。

そこで質問

豊臣秀吉の右腕
石田三成も そのような 感じだったのでしょうか??

Aベストアンサー

後世の伝説として、石田三成と秀吉が愛人関係であったと『石田軍記』には書かれています。 また、織田信忠(信長の嫡子、本能寺の変で横死)と秀吉が男色関係にあったという話がまことしやかに語られていた記録もあります。 当時の武将であれば男色趣味がないはずがない、という通念によるものと思われます。 実際は、豊臣秀吉は男色に興味を持たず女色一筋だった事が良く知られています。 有名な逸話としては、『老人雑話』に、以下のような記載があります。

羽柴長吉は太閤の小姓、比類なき美少年也。太閤、或時、人なき所にて近く召す。日頃男色を好み給はぬに故に、人々皆奇特の思ひをなす。太閤問ひ給ふは、『汝が姉か妹ありや』と。長吉顔色好き故也。
(羽柴長吉は太閤秀吉の小姓で、比類ない美少年であった。太閤は、ある時、長吉を人のいない場所で近くにさし招かれた。常日頃、太閤は男色をお好みではないので、人々はこれを知ってみな珍しいことだと思ったのである。さて太閤が長吉に御問いになった内容はといえば、『お前に姉か妹はいないか?』という事であった。長吉の顔が美しいため姉妹がいればさぞ美人だろうと思ったためである。)

羽柴長吉は池田信輝の三男で、秀吉の近臣として「羽柴」姓を名乗るのを許可された人物です。 秀吉が、美少年を目の前にしながら、本人には興味を持たずその姉妹が美人だろうと考えるあたり、筋金入りの女好きであると共に男色には縁がなかったことを如実に表しています。

後世の伝説として、石田三成と秀吉が愛人関係であったと『石田軍記』には書かれています。 また、織田信忠(信長の嫡子、本能寺の変で横死)と秀吉が男色関係にあったという話がまことしやかに語られていた記録もあります。 当時の武将であれば男色趣味がないはずがない、という通念によるものと思われます。 実際は、豊臣秀吉は男色に興味を持たず女色一筋だった事が良く知られています。 有名な逸話としては、『老人雑話』に、以下のような記載があります。

羽柴長吉は太閤の小姓、比類なき美少年也。太閤、...続きを読む

Qアジアでは西洋から最も離れた日本で最初に近代化が始まったのはなぜでしょうか?

アジアにおける最初の近代化は、言うまでもなく日本の明治維新です。
でも、西洋から最も離れた位置にある日本において、最初に近代化が始まったのはなぜでしょうか。
普通に考えたら、西洋から比較的近い場所にあるトルコやイランで最初に近代化が始まってもおかしくないと思うのですが。

それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

Aベストアンサー

>それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

その通りです。近代化する下地が日本にあったからです。そして日本以外の「半文明国」にはその下地はありませんでした。


大きな理由は二つあります。

①国民国家としての下地が、もともと日本人に備わっていた。
②近代国家を成し遂げてくれる、偉人に恵まれた。




①の説明

トルコやイランは国民意識の統合に躓きましたが、実は、欧米でも国民国家としての意識統一はかなり時間が掛かっています。イギリスですら300年ほどかけて、イングランド人もスコットランド人もウェールズ人もアイルランド人も「先祖の時代からイギリスで生まれ育ったのだから、我々は同じイギリス人だ」という国としての国民意識の統合に時間をかけて行いました。
この、「私は○○人だ」という今では当たり前の国意識は、近代国家になる上では重要です。

これにはどこの国でも時間が掛かりました。自分のペースで国民国家になれたヨーロッパとは違い、「半文明国」は、列強の外圧によって短時間で国民国家にしなければならないため、当然のごとく多くの国が失敗します。



日本が何故、世界で唯一このように短時間で国民国家を成し遂げたかというと、そもそも「とっくの昔から日本人としての国民意識は統合されていた」からです。

日本人の国民意識の統合が完成されたのはかなり昔で、聖徳太子の時代からです。白村江の戦いに破れ、防衛線を張ったのですが、聖徳太子がもしも、九州の人員だけしか、防衛戦力に動員できなかったら、日本は他の国と同じような状態だったでしょう。しかし、聖徳太子は関東などの日本全国から人員を動員しました。これは現在で言う国民国家の動因と同じです。聖徳太子の優れた才覚によって、「九州の海岸防衛の問題は日本の問題。だから関東人も皆日本人として防衛すべき」という、日本人としての共通の意識を完成させたからこそ、全国から動員することが出来ました。この時に、日本人の国民意識の統合は完成されました。


その後は、天皇と言う存在が日本人の統合の象徴となりました。地方によって言葉が通じなくとも、天皇と言う存在が統合の象徴となり、日本人の国民意識の統合は継続されていきます。

そして、嵯峨天皇以降は、天皇が日本を直接統治するのではなく、適切な者にその統治権を委任すると言う形をとりました。幕府がそれに該当します。鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府など、いろいろな幕府がありますが、これは委任統治です。戦国時代は委任統治権の争いであって、「王」になるための争いではありません。

近代化に絶対必要な要素である国民国家ですが、その下地がそもそも日本では聖徳太子の時代からはぐくまれていたので、明治維新で鮮やかな国民国家による近代国家を誕生させる事ができました。




②の説明。

どんなに近代国家になれる下地があっても、実際に近代国家を成し遂げる者が誕生しなければ達成されません。
日本の場合、その幕末の偉人が誕生した事が幸運でした。


実は、幕末の江戸幕府も、近代国家にしなければ滅びるのは分っていましたし、当時の江戸幕府は「無能」と言うイメージが世間にはありますが、実はかなり優秀でした。他の「半文明国」とは違い、江戸幕府は徳川吉宗の時代から、白人の危険性を理解した上で欧米研究をしていたため、欧米の国際状況、植民地の現状などもかなり正確に現状を理解していました。そして、幕府の官僚たちは、何をすべきか分っていました。

しかし、これまでのシガラミのせいで出来ませんでした。そのシガラミを跳ね除けて近代化を達成した者が、大久保利通です。

はっきり言って、大久保利通がいなかったら明治維新はありえません。勿論、高杉晋作や伊藤博文やそれ以外の多くの偉人の功績も大きいですが、大久保利通がいなければ彼らがあのような行動を起こす事もありません。


しかも、大久保利通は、当時では誰も相手にされない小物でした。


幕府の官僚も、徳川慶喜も、近代化しないといけないことは知っていました。しかし長年のシガラミのせいで出来ませんでした。やらなければならない事はわかっているが、それが出来る人が誰もいませんでした。大久保利通以外は。

日本には、彼のような偉人に恵まれたので、明治維新が誕生し、もともと、国民国家としての日本人と言う民族意識が日本中の人に養われていたので、近代化に成功しました。





①も②も、どちらかが抜けていたら、日本の近代化は失敗していたでしょう。




勿論、「日本人は勤勉だった」「原理主義的な宗教価値観がなく、外国の知識であっても優れていれば素直に取り入れた」「寺子屋なので、学問の素養が広く行き届いていた。そのため識字率は欧米よりも高かったと言う説もある」「昔の日本は農業国と思っている人がいるがそれは誤り。多くは兼用農家。工房が盛んで日本は昔からアジア有数の工業国であった。だからこそ戦国時代では鉄砲を自国生産してその保有量が世界一になったり、明治維新の近代化を成し遂げる事ができた。」なども、近代化の成功の要因かと思います。






>西洋から比較的近い場所にあるトルコやイランで最初に近代化が始まってもおかしくないと思うのですが。

近代化が始まったのは日本よりトルコが先です。そして、近代国家に必要な憲法の運用をトルコがしたら2年で停止する羽目になり、見事に近代国家に失敗しました。

伊藤博文が日本にも憲法(大日本帝国憲法を悪法だと思っている人がいますが、当時では世界各国から絶賛されました)を導入すると欧米人に言ったら、「トルコでも失敗しているのに無理でしょ(彼は日本を馬鹿にしたつもりはない。心配してあげただけです)」と言われたそうです。

そして、憲法を運用したら、見事政権交代。伊藤博文は野党になります。しかしそれでもトルコのように憲法停止はしませんでした。そして正当な選挙によって与党に帰り咲きました。

近代化が始まったのは日本が最初ではありませんが、近代化に成功したのは欧米以外では日本が最初です。

>それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

その通りです。近代化する下地が日本にあったからです。そして日本以外の「半文明国」にはその下地はありませんでした。


大きな理由は二つあります。

①国民国家としての下地が、もともと日本人に備わっていた。
②近代国家を成し遂げてくれる、偉人に恵まれた。




①の説明

トルコやイランは国民意識の統合に躓きましたが、実は、欧米でも国民国家としての意識統一はかな...続きを読む

Q60代後半〜70代前半の方達に、「昔は貧しかった。スマホやゲームもない。今の若者が羨ましい。」 とよ

60代後半〜70代前半の方達に、「昔は貧しかった。スマホやゲームもない。今の若者が羨ましい。」
とよく言われます。

※「貧しかった」は戦後の混乱期を指します。今年81歳になる祖父に当時の苦しさを頻繁に聞かされてるんで、よく理解してます。

この世代は、スマホがない。ゲームがない。貧しい。と思って暮らしてたわけじゃありませんよね?存在を知らないし。戦前の記憶もないんですから。
戦後混乱期〜昭和30年頃の娯楽を調べてみると、その時代はその時代なりの娯楽を楽しんでおり、今に比べて大勢で仲良く遊ぶことが多く、私からすると羨ましいです。

今の若者達だって、これから技術の発達で50年後くらいには、もっと便利な暮らしが当たり前になって、今の暮らしが不便に感じる時が来ると思います。

だから、今の若者も60代後半〜70代前半の方達もお互い様。一緒だと思うんですが、間違ってるでしょうか?

Aベストアンサー

アラフィフです。親が戦中の生まれなので、質問者様の祖父と同じぐらいです。

私の親も「昔は貧しかった。お前たちはいいな」と言われました。確かにアラフィフとはいえ、いや今のねんだいだからこそ高度成長期からバブルの恩恵を受けた世代であるとはいえます。

また私の祖父(すでに他界しましたが、生きていれば110歳)も私に「昔は貧しかった・・」といいました。祖父は大正デモクラシーの豊かな時代に青春を過ごしているので、戦中生まれの父よりも豊かだったはずなのにです。

そしてアラフィフになって最近周りの人たちが「昔は良かった。今の若者は・・」と言いだし始めました。

個人的にはすごくイヤです。少なくとも私たちの世代はバブルの真っただ中でまだネットも携帯もない(出る直前)でしたが、それでもものすごく豊かだったしバカなこともたくさんやってきた世代だからです。

だから年寄りが「昔は○○だった・・」というのは、適当に相槌をうっていればいいのです。そのかわり自分が年寄りになったときに「昔は○○だった、と言わない」覚悟はもってください。

Q昭和10年頃〜15年頃生まれについて 私の父方の親(祖父母)は、2人共今年81歳。昭和12年(193

昭和10年頃〜15年頃生まれについて

私の父方の親(祖父母)は、2人共今年81歳。昭和12年(1937年)生まれです。

「わしらの若い頃は大変な時代を必死に生きてきた。それに比べて今は...」
「あんたらは知らんでしょ。戦争〜戦後の苦しい時代を...」
「昔に比べていいね今のもんは」
と。若者の悪口言う時は必ず口にします。

戦後の混乱期ってそんなに生きるか死ぬかという危機的状態だったのでしょうか?
また、そのような状態は戦後いつまで続いたのでしょうか?

Aベストアンサー

私の両親も同じぐらいの年代です。

>戦後の混乱期ってそんなに生きるか死ぬかという危機的状態だったのでしょうか?
いいえ、違います。
死ぬほどの危機は戦時中です。空襲などで死ぬ可能性は非常に高かったからです。戦後は混乱していたものの「死ぬ可能性」はかなり減りました。ただ「昭和年10頃〜15年頃生まれについて」は小学生までは戦時中、思春期から青春期は戦後の混乱と「失われた世代」ではありますので、今の若者が「何の苦労もなくて幸せだな」と思うのは当然といえば当然です。

>また、そのような状態は戦後いつまで続いたのでしょうか?
「もはや戦後ではない」と言う言葉が昭和30年ぐらいになると言われるようになります。GNPが戦前の水準まで回復し、統制経済がほぼ終わった時期がこの辺りです。

ただ、貧しさでいえばそれほど変わらず、これを抜け出すには戦後の高度成長期まで待つ必要がありました。そしてこの高度成長期の主体となったのが「昭和年10頃〜19年頃生まれ」の人たちです。

Q【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川】 【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座

【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
座して喰らふは 徳の川】

【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
座りしままに 食うは徳川】


お餅をついて食べるまでを天下統一に例えたこの詩。
数種類ありますが、正しいのはどれですか?

Aベストアンサー

「天下餅」の狂歌は初出がいつで、出典がどこかはっきりしていません。
一応、「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは徳川」であれば下記にデータがあります。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076300


人気Q&Aランキング