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アジアにおける最初の近代化は、言うまでもなく日本の明治維新です。
でも、西洋から最も離れた位置にある日本において、最初に近代化が始まったのはなぜでしょうか。
普通に考えたら、西洋から比較的近い場所にあるトルコやイランで最初に近代化が始まってもおかしくないと思うのですが。

それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 欧州の文化のことを言っていますか?
    であれば、そのとおりですね!

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/29 18:41

A 回答 (8件)

>それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。



その通りです。近代化する下地が日本にあったからです。そして日本以外の「半文明国」にはその下地はありませんでした。


大きな理由は二つあります。

①国民国家としての下地が、もともと日本人に備わっていた。
②近代国家を成し遂げてくれる、偉人に恵まれた。




①の説明

トルコやイランは国民意識の統合に躓きましたが、実は、欧米でも国民国家としての意識統一はかなり時間が掛かっています。イギリスですら300年ほどかけて、イングランド人もスコットランド人もウェールズ人もアイルランド人も「先祖の時代からイギリスで生まれ育ったのだから、我々は同じイギリス人だ」という国としての国民意識の統合に時間をかけて行いました。
この、「私は○○人だ」という今では当たり前の国意識は、近代国家になる上では重要です。

これにはどこの国でも時間が掛かりました。自分のペースで国民国家になれたヨーロッパとは違い、「半文明国」は、列強の外圧によって短時間で国民国家にしなければならないため、当然のごとく多くの国が失敗します。



日本が何故、世界で唯一このように短時間で国民国家を成し遂げたかというと、そもそも「とっくの昔から日本人としての国民意識は統合されていた」からです。

日本人の国民意識の統合が完成されたのはかなり昔で、聖徳太子の時代からです。白村江の戦いに破れ、防衛線を張ったのですが、聖徳太子がもしも、九州の人員だけしか、防衛戦力に動員できなかったら、日本は他の国と同じような状態だったでしょう。しかし、聖徳太子は関東などの日本全国から人員を動員しました。これは現在で言う国民国家の動因と同じです。聖徳太子の優れた才覚によって、「九州の海岸防衛の問題は日本の問題。だから関東人も皆日本人として防衛すべき」という、日本人としての共通の意識を完成させたからこそ、全国から動員することが出来ました。この時に、日本人の国民意識の統合は完成されました。


その後は、天皇と言う存在が日本人の統合の象徴となりました。地方によって言葉が通じなくとも、天皇と言う存在が統合の象徴となり、日本人の国民意識の統合は継続されていきます。

そして、嵯峨天皇以降は、天皇が日本を直接統治するのではなく、適切な者にその統治権を委任すると言う形をとりました。幕府がそれに該当します。鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府など、いろいろな幕府がありますが、これは委任統治です。戦国時代は委任統治権の争いであって、「王」になるための争いではありません。

近代化に絶対必要な要素である国民国家ですが、その下地がそもそも日本では聖徳太子の時代からはぐくまれていたので、明治維新で鮮やかな国民国家による近代国家を誕生させる事ができました。




②の説明。

どんなに近代国家になれる下地があっても、実際に近代国家を成し遂げる者が誕生しなければ達成されません。
日本の場合、その幕末の偉人が誕生した事が幸運でした。


実は、幕末の江戸幕府も、近代国家にしなければ滅びるのは分っていましたし、当時の江戸幕府は「無能」と言うイメージが世間にはありますが、実はかなり優秀でした。他の「半文明国」とは違い、江戸幕府は徳川吉宗の時代から、白人の危険性を理解した上で欧米研究をしていたため、欧米の国際状況、植民地の現状などもかなり正確に現状を理解していました。そして、幕府の官僚たちは、何をすべきか分っていました。

しかし、これまでのシガラミのせいで出来ませんでした。そのシガラミを跳ね除けて近代化を達成した者が、大久保利通です。

はっきり言って、大久保利通がいなかったら明治維新はありえません。勿論、高杉晋作や伊藤博文やそれ以外の多くの偉人の功績も大きいですが、大久保利通がいなければ彼らがあのような行動を起こす事もありません。


しかも、大久保利通は、当時では誰も相手にされない小物でした。


幕府の官僚も、徳川慶喜も、近代化しないといけないことは知っていました。しかし長年のシガラミのせいで出来ませんでした。やらなければならない事はわかっているが、それが出来る人が誰もいませんでした。大久保利通以外は。

日本には、彼のような偉人に恵まれたので、明治維新が誕生し、もともと、国民国家としての日本人と言う民族意識が日本中の人に養われていたので、近代化に成功しました。





①も②も、どちらかが抜けていたら、日本の近代化は失敗していたでしょう。




勿論、「日本人は勤勉だった」「原理主義的な宗教価値観がなく、外国の知識であっても優れていれば素直に取り入れた」「寺子屋なので、学問の素養が広く行き届いていた。そのため識字率は欧米よりも高かったと言う説もある」「昔の日本は農業国と思っている人がいるがそれは誤り。多くは兼用農家。工房が盛んで日本は昔からアジア有数の工業国であった。だからこそ戦国時代では鉄砲を自国生産してその保有量が世界一になったり、明治維新の近代化を成し遂げる事ができた。」なども、近代化の成功の要因かと思います。






>西洋から比較的近い場所にあるトルコやイランで最初に近代化が始まってもおかしくないと思うのですが。

近代化が始まったのは日本よりトルコが先です。そして、近代国家に必要な憲法の運用をトルコがしたら2年で停止する羽目になり、見事に近代国家に失敗しました。

伊藤博文が日本にも憲法(大日本帝国憲法を悪法だと思っている人がいますが、当時では世界各国から絶賛されました)を導入すると欧米人に言ったら、「トルコでも失敗しているのに無理でしょ(彼は日本を馬鹿にしたつもりはない。心配してあげただけです)」と言われたそうです。

そして、憲法を運用したら、見事政権交代。伊藤博文は野党になります。しかしそれでもトルコのように憲法停止はしませんでした。そして正当な選挙によって与党に帰り咲きました。

近代化が始まったのは日本が最初ではありませんが、近代化に成功したのは欧米以外では日本が最初です。
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オランダ船と貿易で、アヘン戦争など知っていた。


種子島の鉄砲を自力で大量生産出来た国。
寺子屋と識字率、教育が驚異的に高かったから。
※英仏独でも農民は文盲だった。
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アジアにおける最初の近代化は、言うまでもなく日本の明治維新です。


でも、西洋から最も離れた位置にある日本において、
最初に近代化が始まったのはなぜでしょうか。
 ↑
1,江戸時代、庶民の教育が広く普及していた。
 識字率などはおそらく世界一。
 
2,諸外国が、高等教育に力を入れたのに対し
 日本は初等教育に力を入れた。
 これが、近代化に大きく貢献した。

3,日本は中国に習ってきた歴史があるので
 欧州からもすんなり習うことが出来た。
 中国は中華文明に絶対的自信があったので
 遅れた。

4,天皇を上手く利用できた。
 当時の庶民には日本人なんて意識はほとんど
 ありませんでした。
 あるのは、薩摩藩人、会津藩人です。
 それで、山県有朋と西周が相談して、天皇を
 持って来ることにしました。
 
 お前等は薩摩藩人、会津藩人、という以前に
 天皇が治める日本国の国民である。
 日本人なのだ。
 これが成功したわけです。



普通に考えたら、西洋から比較的近い場所にあるトルコやイランで
最初に近代化が始まってもおかしくないと思うのですが。
  ↑
 現代でもそうですが、ああしたイスラム社会では
 宗教の縛りが強すぎて、新しいモノを受け入れることが
 困難なのです。



それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、
そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。
  ↑
そういうことです。
イスラムと違い、日本には原理原則など
ありません。
外国のモノをすんなりと受け入れ、
我が物とするのは、日本人の得意とするところです。
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専門的なことはまったく知りません。

 一般の学説も知りません。
たまたま、この質問を読んで、面白そう!と思ったので、思いつきを書きます。
内容の妥当性については、まったく保証できません。

近代化というのは、「産業活動が盛んで、いろいろな生産活動が次々興り、社会状態を変えているし、新技術を工業にどんどん採用し、事業の経営規模も大きくなっている、人々の経済活動への就業も短期間にずいぶん変わり、第二次産業へ大きくシフトしていく」というような状態をつくるということでしょう。
逆に、近代化以前というのは、「人々の経済活動への就業状態は比較的安定的で、大多数の人は第一次産業に就業し(交易都市・商業都市では第三次産業従事者が多い)、豊かで文化もすてきになっていたとしても、その繁栄が社会構造を変えるようなことはない」ということだと思います。ギリシャ・ローマ・唐・明・清・ベネティア・オスマントルコ・ロマノフ・ブルボン・江戸などは近代化以前ということでしょう。

そうだとすると、基本的に産業資本の活動の素地があるか、できているかがポイントではないかと思います。

日本は島国で江戸時代は海外交易をかなり制限していました。で、農地開拓、農業技術の解良があっても、米は不足し、農本主義のようなやり方はほぼ破綻して、幕府も商人から多額の借金をしないと生きていけない事態になってしまい、各藩も産業振興、特産品生産に重点を置いた政策をとらざるをえず、その実行主体は商人資本・大商人・各地の金持ちに依存することになっていました。 だから、それに対応するためにも、手習いソロバンは中層農民でさえも必要になって来ていたようです。 勉強好きや朱子学、徳育論が好きだから勉学していたのではなく、生きるために、少しでも有利に生きるために、文字も読むし、新しい動向に目を向け、新技術や時代の先を読んで作物や特産物を作るというこことに、中流以上のものはそこそこ関心をもって行かざるをえない世の中になっていたのだと思います。

ところで、多くの諸外国は島国ではなく領土は固定的ではないし、王朝のような上層部は領土内の農産だけを冨にしているのではなかったので、領内の産業振興に熱心ではないし、豊かな冨は他地域との交易などでも獲得できるので、中層以下の民は単に働くだけで生きていて、それ以上の機会はないし、情勢判断や新知識吸収の勉学などもしなかったのではないかと思います。

たまたま、英国は島国で経済的に苦しかったので、これを脱するために、農民を土地から引き離し、工場労働に刈り込んで、工場生産品を海外に輸出する方向に転換し、土地から引き離された労働者の子弟は生活のため雇い主を探す、それを低賃金で使ってもうける事業を興す事業主も多く出現するというようなことで、社会構造が変わって、近代化の道へいち早く動き出したのでしょう。 この英国の近代化は冨を増やす顕著な効果があったので、英国の近隣の王朝も地域も、より多くの冨を獲得するために英国の近代化を採用したのだろうと思います。

アジアや中東、東欧、ロシア、巨大王朝の中国などは、この近代化のスゴさを実感できなかったり、身分と職業の安定した社会を快いという価値観から脱することができなかったししたのだと思います。

市場としても、資源国としても、インドや中国などは、近代化した欧州各国の狩り場にされたのでしょう。 朝鮮や日本は、それに比べると遠いし魅力は少ない。 一応日本も狙われたのですが、江戸幕府と藩は基本的に夷狄扱いし、排除に熱心だったのも、日本が後回しになった要因になっていると思います。
そうこうしている内に、日本列島内は各地で商業資本と金持ちによる事業経営体制とそのノウハウ、流通体制、金融システムなどの経験がしっかり根付いていきます。
で、いよいよ欧米やロシアなどから通商要求が武力を背景に要求されたときには、もう、第一次産業の農林漁業や鉱業にどっぷりという社会ではなくなっていて、そこそこに商業生産が行われ、簡単な工業が資本家の経営でなされていて、そこそこ輸出できる産業が成立していたのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC …
明治政府の中核の政治家や御用商人、地域の金持ちも、貿易と工業化を柱にできることを自負していています。 もちろん、お茶の輸出、繊維製品の輸出など、まだたいした力量はなかったとはいえ、江戸時代に「○○改革」をなんどもせざるをえないほど経済的に破綻が生じていて、その間に特産物産業振興と資本家の活動やそれを支える土地から切り離し可能な労働力と、一般人でさえも文字や計算などの教育を当然とみなす社会ができてていたこと、政治や権力の中枢には実力と見識を家筋血統以上に重視する社会にもうなっていたことが、大きな要因だったのではないか、
そう思います。
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鉄砲伝来から江戸時代末期までの日本における火縄銃の進化の歴史を調べると答えが見つかると思います。



以下、私の答えです。

・日本人は私も含めて、井の中のかわずです。いわゆるガラパゴスに住む人々です。
・でも、今の退屈で平和な状況に満足できない輩が出てきますが、必ず井の中のかわずの権威ある連中にボコボコにされて、それで終わりです。
・そうやって、グローバルな進化に取り残された、ちょうど良いころに外国から新たな技術が訪れるので、短期間に吸収してしまうのです。

ですので、島国に住むということは良いこともあれば悪いこともありますが、私は島国育ちで良かったと思います。

興味が湧いたら、同じ島国のイギリスや台湾の歴史を調べたら、新たなことに気づけるかもしれません。
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近代化ってゴミを放って そのままにしておく文化なのかな?



遅れた文化だなぁ・・
この回答への補足あり
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近代化が始まったのはオスマン帝国のほうが先です。


タンジマートといいます。
ただ、欧米と接していて以前から戦争していたなど、結局はうまく行きませんでした。

日本は近代化に「成功した」という点でアジア最初なのかも。
インドや中国が欧米と戦っていても、日本にはまだ時間的な余裕がありましたし、他のアジア諸国の事例をみることもできました。
逆に欧米との距離があったので、日本にとっては良かったのかもしれません。
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国の政治体制の違い(王による独裁では無かった)


一応、法治国家であった。
寺子屋(手習い所)での教育。
学問好き(和算は、世界でも有名)
宗教的な縛りが無い。
好奇心旺盛な国民性。
島国で、外国からの侵略が無かった。
などなど (^_^)
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大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが、彼らが大阪南部勢力に従属していた根拠はありません。(敵対していたという記載もあるようです。)
これらの複数地区が全て単一権力の支配下にあったという証拠は無く、ゆるいつながりをもった地方権力の並列性であった可能性もあります。
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もちろん、「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」可能性はあります。
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それによって、古代都市そのものを確定し、さらには政治形態を確定、首都と定義なども必要で、お示しされた根拠だけを理由に「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」と確定するのはやや無理があるでしょう。

参考までに巨大古墳を20位までお示しします。
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この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。

1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵
4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m
5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m
6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m
7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m
9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m
10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m
14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵
15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m
16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵
17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵
18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m
19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵
20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが...続きを読む

Q日本史の話なんですが、明治時代らへんでイギリスがいち早く日本を近代国家と認めたのですが何で他の国は日

日本史の話なんですが、明治時代らへんでイギリスがいち早く日本を近代国家と認めたのですが何で他の国は日本を近代国家と認めない中イギリスは日本をいち早く近代国家と認めたのでしょうか?

Aベストアンサー

当時、イギリスとロシアが、アフガニスタンを中心に、
アジアの各地で激しい利権争いを繰り広げていたのです。

その上ロシアはシベリア鉄道を敷設するなど、東アジアへの
進出を強めてきました。

イギリスは、それを食い止めるため、日本に注目します。

近代国家として国力を増していた日本を味方につけた方が
良いと考えたのです。

こうして条約改正への最大の反対勢力だったイギリスが、
日本に対し歩み寄りを見せ始めました。



● 以下余談

大隈重信の後を引き継いだ青木周蔵は、これを機に
イギリスが条約改正に同意すれば他の国も一気に
改正に応じるのではないかと考え、
イギリスとの交渉に入ります。

そして1890年7月、イギリス政府は、領事裁判権の撤廃を
盛り込んだ日本の改正案に同意を示しました。

ついに条約改正の道が開けるかと思われたその矢先、またもや事件が起こります。
1891年5月、日本に滞在中のロシア皇太子が、
警護中の巡査に襲われ怪我を負います。
事件の責任を取って青木は辞任し、交渉はまたもや延期になってしまいました。

こうした中、青木の後を継いだ陸奥宗光(むつむねみつ)は、
イギリスと粘り強く交渉を続けました。

そして1894年7月16日、ロンドンで新たな条約、
日英通商航海条約が調印されました。
この条約により、日本は外国人の犯罪を自らの手で
裁くことができるようになりました。

イギリスが条約改正に応じると、他の国もそれに続きました。
岩倉使節団が交渉を始めてから22年、日本はようやく
領事裁判権を撤廃することに成功したのです。

しかし実は、日本が欧米列強と完全に対等な立場になったのは、
それから さらに17年後でした。
1911年2月に、日米新条約が調印され、関税自主権を回復します。
ここに至るまで、40年近くもの年月を費やしたことになります。

当時、イギリスとロシアが、アフガニスタンを中心に、
アジアの各地で激しい利権争いを繰り広げていたのです。

その上ロシアはシベリア鉄道を敷設するなど、東アジアへの
進出を強めてきました。

イギリスは、それを食い止めるため、日本に注目します。

近代国家として国力を増していた日本を味方につけた方が
良いと考えたのです。

こうして条約改正への最大の反対勢力だったイギリスが、
日本に対し歩み寄りを見せ始めました。



● 以下余談

大隈重信の後を引き継いだ青木周蔵は、これを機に
イギリスが...続きを読む

Q【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川】 【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座

【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
座して喰らふは 徳の川】

【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
座りしままに 食うは徳川】


お餅をついて食べるまでを天下統一に例えたこの詩。
数種類ありますが、正しいのはどれですか?

Aベストアンサー

「天下餅」の狂歌は初出がいつで、出典がどこかはっきりしていません。
一応、「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは徳川」であれば下記にデータがあります。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076300

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今年の大河ドラマ「西郷どん」と2008年放送の「篤姫」とを見比べて思ったのですが、「篤姫」では篤姫が幾島に文を託すも西郷に断られ、勝海舟に父成彬からの文を託し、それが西郷の心を動かし、江戸無血開城が決まり
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Aベストアンサー

史実には諸説あります。
だから小説も多数の作家のものがあります。
小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。

篤姫の場合、記録が少なく、NHKドラマは「脚本」があたかも
本当のように面白く(悲しく)描けていました。

西郷と勝の江戸城無血開城交渉は緊迫したなか行われましたので
これ以前に江戸城に入るのは無理だと思われ、これはドラマを
面白くするための脚本の所作と思われます。
つまり「西郷どん」はフィクションです。

そもそも、この時代のトップには「内戦回避、外国からの介入
回避」の認識があり、第一次長州征伐では激戦が起こりませんでした。
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西郷は舵を切ったのでしょうか。
長州はともかく、西郷薩摩には「舵を切って」も「激突は回避され
る」と踏んでいたのでは、ないでしょうか。
こういう推理がスリルなのです。
歴史探訪の醍醐味です。


西郷さんには思い入れが強い人が多く、よく描かれることが
多いようです。
「人を愛し、弱きを助け、国を憂え、強くをくじき、ブレル
 ことなく突進し、信念は生涯変わることはなかった」など
と描かれ、作られる。
実際には、迷い、悩み、試行錯誤し失敗もし進んだのでは
ないでしょうか。
完全な人間などはいないのです。

史実には諸説あります。
だから小説も多数の作家のものがあります。
小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。

篤姫の場合、記録が少なく、NHKドラマは「脚本」があたかも
本当のように面白く(悲しく)描けていました。

西郷と勝の江戸城無血開城交渉は緊迫したなか行われましたので
これ以前に江戸城に入るのは無理だと思われ、これはドラマを
面白くするための脚本の所作と思われます。
つまり「西郷どん」はフィクションです。

そもそも、この時代のトップには「内戦回避、外国からの介入
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Qなぜ、アフリカには、アジアのモンゴル帝国・ヨーロッパのローマ帝国のような巨大な帝国が、現れなかったの

アジアを、モンゴル帝国が制しました。
ヨーロッパをローマ帝国が。
しかし、アフリカを支配する帝国は現れていません。
なぜ、アフリカを統治する巨大な帝国が登場しなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

・アジアやヨーローッパは東西に大陸が伸びていたが、アフリカ大陸は南北方向に伸びているので大陸内でも気候帯が変わり、人が移住し難く伝播もし難い。
・労働量に比してカロリーの高い作物を得られなかった。
・熱帯地方特有の病気。
・乾燥地帯或いは熱帯ジャングルが占める割合が多く、また南北の交通も分断されていた。
上記の理由による巨大な帝国に必要な人口の不足と人口の集中が不足したからです。

Q日本の歴史、 戦争と飢饉について 太平洋戦争中〜戦後にかけて、日本は食料難だったとのことですが、江戸

日本の歴史、
戦争と飢饉について

太平洋戦争中〜戦後にかけて、日本は食料難だったとのことですが、江戸時代みたいに◯◯飢饉と言う命名はされていないようです。これは、飢饉程ではないからでしょうか?

実際、江戸時代の4大飢饉と太平洋戦争中〜戦後の食料難を比べるとどちらが酷いのでしょうか?

ご存知の方、よろしければ回答お願いしますm(_ _)m

Aベストアンサー

>これは、飢饉程ではないからでしょうか?

回答:程度の問題ではなく、飢饉ではないからです。


>江戸時代の4大飢饉と太平洋戦争中〜戦後の食料難を比べるとどちらが酷いのでしょうか?

どちらも生産量だけでなく流通の問題もあるので評価が困難です。

江戸時代:食料政策は藩レベルの内政の問題。
幕府であっても大名という「封建領主」の主権に無制限の介入はできない。
(それに余裕がないのはどこも同じ。そして一番裕福な筈なのは幕府)
幕府も緊急時の備えはしていたが、あくまでも幕府の領内の為。
「備え」以上の食料を調達しようとしても商人が値を上げる。


大東亜戦争:そもそも飢饉が原因ではない。

戦中:食料は戦略物資なので流通を統制されていた。
資源を輸入できない状態で、備蓄や戦場への補給もしなければならない。
徴兵や馬の徴発による労働力の減少。→生産量の減少。

戦後:食糧難が起きたのは生産地からの供給が絶えた都市部であり、農村で激しい食糧難は起きていない。
→原因はGHQの占領政策や農家が流通に出さなかった為。

当時のアメリカは占領軍経費を「終戦処理費」として日本に負担させています。
この金額は、初期には一般会計の50%にもなっていました。
ドッジラインによる緊縮財政下においても15%の負担をGHQより要求されています。
更に借款を有利子で行ったり駐留経費の4割の負担など、今時の思いやり予算以上の負担を要求していました。

(ドッジ・ライン:GHQ経済顧問のジョゼフ・ドッジの立案、勧告により1949年に日本に実施された財政金融引き締め政策)

https://www.youtube.com/watch?v=ZaKDgB1IS0o
《6:25 27億円の裁判費用は日本政府が負担していた。
6:55 (昭和)21年の国家予算の32%は占領軍に払っていますからね。だから昭和21年に日本人はいきなり貧困に陥ったわけですよ》


【国民を飢えから救われた昭和天皇陛下】
https://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/44280253.html
昭和20年12月、宮城からお召しがあり、天皇からお言葉がありました。
「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を出すことは堪(た)え難い。皇室の御物(ぎょぶつ)の中には国際的価値のあるものもあると聞く。その目録を作製させたから、米国と話してこれを食糧に替えたい」との叡慮であられました。

>これは、飢饉程ではないからでしょうか?

回答:程度の問題ではなく、飢饉ではないからです。


>江戸時代の4大飢饉と太平洋戦争中〜戦後の食料難を比べるとどちらが酷いのでしょうか?

どちらも生産量だけでなく流通の問題もあるので評価が困難です。

江戸時代:食料政策は藩レベルの内政の問題。
幕府であっても大名という「封建領主」の主権に無制限の介入はできない。
(それに余裕がないのはどこも同じ。そして一番裕福な筈なのは幕府)
幕府も緊急時の備えはしていたが、あくまでも幕府の...続きを読む

Q明治時代のお金は現代だと何円ですか?

明治39年、高村光太郎は父からもらった二千円を使い果たし… という記述があったのですが、この二千円は現在で言う何円ほどなのでしょうか。
また、とても大きな額になることは予想できますが、渡米した際の二千円なので当時のアメリカでなら使い果たしてもおかしくない量と言えるのでしょうか。それとも高村さんのただの浪費?

Aベストアンサー

例えばアンパンは、現在では1個100円ぐらいのものですが明治40年頃では1個1銭。
100銭=1円ですので、ここから換算すると1円=1万円。
よって2000円=2000万円 というような計算になります。


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