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哲学って昔の人の考えかたを学ぶ学問ですか?

A 回答 (15件中1~10件)

穢多ノール


八橋下

レト
ルト

レトルトがドットでツイッターの
画像作ってンル藻嫌がらせしs高

屑や牢が
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https://www.asahi.com/articles/ASL9D5RGKL9DPLBJ0 …

~~~~~~~~
息子守の和つぃが哲学してみたが
口だけは天才の俺がzんろやって見た

こえとパターンが同じだレトルトのパクリだ
見たな屑や牢
ということですよね。

イライラ素wル和

四円つシロ

ips細胞だのツイッターからだの
どこまで和つぃを嫌がらせして
イライラする
とういわけで全部レトルトのパクリで
窃盗でむ無ですね。

私がすることはないも無いです。
全員イスt牝牛目路
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哲学が昔の人の考え方を学ぶ、わけではなくて、専門とするなら何でも歴史は学ばされることになるでしょう。



それだけを専門にするのも一つの在り方ですが、当然、それだけではないです。

大学で専攻する人はべつとして、一般人にとっての哲学は、正しい考え方をある程度、指針として、教われるといいですね。そうでないと、詩人と紙一重だったり、不当に利用されたまま一生を送ることになったり、苦境を打破する力を持ち得なかったりします。
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「哲学」と言う名前が悪い。



日本人は、真面目だから、「学」が付くと、
「学ばないといけない。」となる。

では、「何を学ぶ?」となって、昔の人が考えた事柄を
「お勉強」する。

お勉強するので、「お勉強するもの」(対象)が必要になる。
いつの間にか、「西欧哲学の大家」になって、本当の目的を
忘れてしまう。

条件反射で、「学」が付けば「お勉強」してしまう、日本人の
「悲しい性」だ。

私は、「哲学」とは縁がない世界で育ったので、「大学の哲学科」なんて
存在も知りませんでした、そんなとこで、何を学ぶんですかね?
4年間も・・・・・。

本質は、「考えること、生み出すこと。」のように思います。
「自分」で疑問に思ったこと、気がついたこと、をもう少し深く考え、
自分なりの結論を生み出す。
それが本質ではないか、と思います。

この内容は、非常に「個人的」なので、自分の考えたこと、生み出したことを、
ひと様に、押し付けることは出来ません。
個人の経験と育ちと環境とが生み出したものなので、「普遍性」が無い。

しかし、世の中、頭の良い人は「普遍性」を求める。
「普遍性」を求めた途端に「個人的」を捨て去る。

その結果、形骸化した残骸だけが残る。
残るのは「屁理屈」だけ、ということになる。
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考え方じゃなくて


押し付け人生論ですよ。
自分がこうなったので必ずあなたもなるのでこうした方が正しい。

私から見れば…

は???なんで??

なんですがね。

十人十色がないんだよ。

道徳は点だけ伝えるが強制しない。学ぶなら断然道徳が良いと私は思います。
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そういうわけではないのですよ。


ナントカの哲学とか経営哲学とか
たくさんあるでしょう。

私はアカデミックにやりたかったから
昔の誰々のナントカのという話が多いですが、

まあ、インタビューとか公園とか
抗議とか現代の人の哲学もたくさんあるでしょう。

アカデミックは南下よくないみたいですね。

ひきこもりの私が哲学してみた
とかそんな感じでいいのですか
それはそれで難しいけれど。
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哲学は 現代では 人間論と神論に集中しているとどこかで


書いたのですが・そして 《考え方をまなぶ》ことに間違い
はないと思うのですが どうもいちばんの課題は 《人間の
条件》を知りこれを体得すること・・・であるのではないか?

と思います。


考え方は それぞれの命題(判断した結果としての内容・つ
まり 考え方)について 諾と言い否と言って その先を考
え進めるなら 或る程度(または 相当程度) 得ることが
できる・・・のではないかと思われます。




人間の条件とは けっきょく《人間論と神論》との総合的な
まとめになるかとは思います。


生まれつきそなわった自然本性とは いったいどこまでの潜
在的な能力を持つか? その限界はどこか? といった問題
です。
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すべからず、学問というのは昔の人が


考えたことを基礎にしています。

科学技術も同じです。

哲学もしかりです。

昔の人の考えを基礎にして、その上に
更に積みかさねるモノです。


昔の人の考えを学ぶもの、というのは
哲学が衰退して、新しい哲学が出ていない
から、そう感じるのでしょう。

何故衰退したか、といえば真理探究を旨とする
哲学は、科学にその領域を侵略されたからです。

真理探究なら、科学の方がはるかに優れています。
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多くの学問は、昔の人の考えを学んで、その先に自分の考えを積み重ねるものですね。

昔の人の考えを学ばなければ先は無いのです。

しかし哲学は、大昔から答えが確立されておらず、問いの深化が起こっているのではないでしょうか。そのため、ある意味では先人と同じ問い、人間なら誰しも一度は考えつく様な問いを、同じ様に持つことができます。
善悪観や人生観、世界観がそうして形作られて行きます。

しかし、一方で次の様な問いがあります。
知とは何か。
知る事は何故可能なのか。
知の確からしさとは。
などの問いは、人類の思考の根底に関わる重要問題です。問い続ける事によって、どこまで分かってないかが分かるようになった。知識の基盤を問う事において、哲学の系譜を身に付けた人とそうで無い人は彼我の差はあれど、根本的に分かってないと言う点では同じなのだと思います。ただ、素人はすぐに何かを知った気になるけれど、玄人は知らないと言う事態に忍耐が効くのでしょう。問い続ける事が出来るのはどちらかといえば、やはり玄人ではあると思います。
知識を積み上げるのが諸学問だとしたら、知識を深いところから存在させんとするのが哲学という事になるのでは無いでしょうか。
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昔、「哲学入門」って本を学校の図書館で借りて読みました。


この本をきっかけに、読書が好きになりましたね。
哲学は戦場の最前線で戦う戦闘部隊、科学は、安全な後方で仕事する後方要員なんて書かれていたと思います。
実際、ソクラテスやプラトンの時代は、哲学がすべての学問を含んでいたようです。
宗教から数学、物理まで含んでいたけど、後方部隊の活躍で、しだいに哲学の出番が減って、いまでは、記号論理学を操るだけの役立たずになり下がっているのかもしれません。

実際、私が学生時代に哲学を学んだとき、教師の方は、左翼くずれって感じの風采の上がらない人でしたね。
現代哲学は学ぶ価値が無いかもしれませんが、幽体離脱し、何度も霊界にいっていたというソクラテスを含めて、ギリシャ時代の哲学者の哲学は現代でも、学ぶ部分が多いと思います。
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Q"アホはほっとけ"は正しいか

どうなんでしょう。

Aベストアンサー

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


人間のさだめのようなもので、分かった気になり、自己満足を優先させる。万能じゃない部分でしょう。

どこまでも、目の前のアホのような奴は、自分とは異なる存在の「他者」であると覚れば、ある程度ほっとけるのではないですか。

相手はいずれ成るように成るもので、何を掴むか、受け取らないかは己がやらなきゃ自分の意味にならない。
他人がどうこうする領域じゃないと知っていれば。

お互いに具体的な言葉にするほど自他の異なりが露わになるでしょう。
同じようで違う、違うようで同じ、というのを確認します。
そうした体験すれば作用にも気づきます。
自分の方法は増えるのですが、人間は頭では体験を超えられません。
冷静に相手の立場に立って出来るものなど取るに足らない小ささに思います。
大人?日本人?は関係を怖れている?みたいに見えます。


ある人に悩みを言ってもらい、何人かで聴きます。
それを後で皆で検討してみると、問題点、課題はほぼ同じ意見ですが、その人をどう思うか、感想を具体的にすると其々です。
相手ではなく、自分というものがそこに出てきます。

相手の立場に立つとは、
人間というものや個人を理解した上でやれる力量かもしれないですね。

余談ですがカウンセリングや相談をインターネットの文字の世界でやれると考える人と反対する人がいるんです。
文字では情報が不十分ですからね。

言い合いをしたり、食い違っても、そういう二人が向き合った体験は後に信頼の間柄になれるものでもあるという実感はありますが、使いわけていますね。

言い合いは悪い結果になると思い込んで、ほっとく、避ける一般の人が多いかもしれないです。

ほっとくの意味一つ取っても、自他は違うんですよね。

相手の立場に立ったつもりで言い、その人をよく知らない第三者からすると正論のようですが、肝心のアホにとってありがた迷惑であったりします。

気遣いができるアホは、無理解な正論にお礼を言うかもしれません。
でも、ほっとけない人が、アホを理解しているとは限りません。
ボランティアと同じです。
自分がしたくてするのか、相手の為なのか、自意識の深めがどの程度かです。


人間というものは、相手の立場に立ったつもりが立てていない時、相手はこころを開かない。

すれ違いながらもお互い辻褄を合わせ、共有した時間に意味を感じることで穴を埋め、その代償行為に気づかず、意味を後付けする生き物です。
その時を穏便に済ませるのですが、そういうときは、後から自分に違和感が出るものなのです。

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


人間のさだめのようなもので、分かっ...続きを読む

Q身近な洗脳を見たことありますか?

洗脳というと、カルト新興宗教のイメージが、強いですが、
私は、身近に、あるいは社会でよく行われている気がします。
政府が国民を、メーカーが消費者を、経営者が従業員を、教師が生徒を、親が子供を、
洗脳していることは多々あると思います。意図的に、あるいは無意識に。
そのような事例を経験、あるいは目撃したことはありますか?

Aベストアンサー

「洗脳は身近なものである」という視点はとても良い事だと思います。

「それが普通、〇〇に決まってる」と口癖のように言う人がたまにいます。
しかし普通の定義は個人によって違いますし、決まってると言っても公的に法的に定められているものではない。
その人が勝手に思い込んでいるだけなんです。

特に世間など周囲の目を気にする我々日本人は、個が弱い為に自分の考えや価値観を社会常識と混同してしまう悪い癖があります。
物事を言っているのは自分ではなく世間なので、自分は発言の責任をとらなくていいから楽なんですね。

私たちは個人の発言を全体の発言のように感じてしまい日々それに踊らされているのです。

誰が言ったのかもわからない考えや価値観がふわふわとそこらに漂い、それを何の疑いもなく受け入れているのはとても恐ろしいと思います。

Q哲学って簡単に言うとなんですか?

哲学って簡単に言うとなんですか?

Aベストアンサー

人間とは何か、人間が考えるとは何か、という学問です。
例えば、アリの生態や行動を解析して、アリは何を考えて生きているのか、
をまとめれば、「アリの哲学」として出版できます。
犬や猫のほうが大衆受けするかもしれません。

Q科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。一方、哲学にはそれに相当するものは何でし

科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。
一方、哲学にはそれに相当するものは何でしょうか?
(主張?かな)

Aベストアンサー

科学は物理、医学も物理、ですよね?
心理学は少し物理があるのかな?

哲学の分野は心の世界でしょ?
だったら釈尊が心の「法則」を発見していますね。

四諦・八正道です。

心の「法則」で、これを超える或いは覆へす“発見”は未だ無いようですね。
証明は釈尊御自身です。

我々はこの「法則」に接すると、成る程と合点するのです。
そして良き人々は、それじゃあ私も頑張ろう、となるのです。

Q思考の技術

を学ぶためにこのカテに来ています。

哲学は総ての基盤だと。

四つのkeywordを挙げて
端的に説明してください。


(欲張りなのはご容赦を)

Aベストアンサー

確かに、

>哲学は総ての基盤だと、

思われていた時代がありましたね。それは人間が成長する仕方とよく似ています。幼児の時に言葉を覚えますが、それが思春期の頃になると、理屈や理念の世界があることに目覚める。要するに屁理屈を言いだすようになる。それで成長が止まってしまう人も中にはいるでしょうが、普通は大人になると理念よりも重要なものがあることを、いろいろな痛い経験をしながら判ってくる。それは事実の世界です。

経験の未熟なものはまず理念を頭でこねくり回し、人はどうあらねばなぬ、自然はどうあらねばならぬ、と論じ始め、それで事実の世界を整理しようとする。ところがそれではうまくいかないことを経験で認識し始めます。そして、理念や理屈をこねくり回す前に、「ところで人はこいう時どう振る舞ってきたんだ」とか、「自然てどうべきかではなくてどうあるのか」という事実の世界を一先ず観測して、その観測事実に基づいて、あとから理屈や理念を後出しジャンケンのように付けてゆくのが筋ではないかと分かるようになってきた。

事実、人類は言葉を使い出して、最初のうちは、理屈だ理念だ哲学だと語り出した。その数十万年にも及ぶ経験の結果、今から2500年ほど前にある意味理念の世界が極限に到達した。それが、孔子や釈迦やソクラテスやそれから500年ほど遅れてイエスです。彼らは人類の師と呼ばれ、いまだに彼らを凌駕する人は出ていないと考えられているようです。そして、彼らは「人間はどうあるべきか」という理念を語った。その同時期にアリストテレスは「自然はどうあるべきか」という理念を語った。

ところが、その後2000年も経っても戦争も病気も無くならず、世の中一向に良くならなかった。そんな痛い経験をして行くうちに、人間が大人に成長して行くのと同じように、人類も、

「ちょっと待てよ、人間はどうあるべきかという理念や哲学を語る前に、そもそも人間はどうあるのかという事実をまず認識しようじゃないか」

と言い出した。それがマキャベリです。そして、政治学という社会科学が誕生した。また同時期に、「自然はどうあるべきか」という理念や哲学を語る前に、そもそも「自然はどうあるのか」という事実をまず認識しようじゃないかと言い出した人がいた。それがガリレオです。そして、自然科学が誕生した。すなわち、人間一人一人も人類も、まず未熟な段階では、

 理念や哲学による理屈づけが先、事実があと、すなわち、哲学 => 科学

という順序で世界を認識してきた。しかしその後、色々な経験をして成長を遂げた結果、

 事実が先、理念や哲学が理念や哲学による理屈づけがあと、すなわち、科学 => 哲学

という順序で世界を認識するように進化してきたのです。その傾向は20世紀以降著しく、特に量子力学や相対性理論の発見以降、世界の認識に対する哲学者の未熟さが白日のもとに曝け出され、世界認識に対する哲学者の権威の座を科学者たちに譲渡してしまったというのが現状です。事実、20世紀以降世界の認識における重要な進歩は哲学者ではなくて、科学者によってなされてきたのが歴史的事実です。

哲学者は人間の性として、どうしても自分の育ち至った経験を通した思索によって、さらに我々が通常使う言語によって、我々の経験を外挿して世の中を認識しようとします。ところが、自然界の認識には、日常言語ばかりでは不十分であり、数学という特殊言語を駆使しないと認識不可能なことがあることが判ってきました。例えば、世界を認識するのに例えば長さがや大きさなどを数値で表し、それを比較すれば、論理的に解ると思っていた。ところが、事実はどうなんだという自然科学の発達で、我々が世界を認識するには「数」そのものでなくて、そのような長さや大きさに対応した「演算子」なる実態がそのような数値で表される量の裏に潜んでいることが本質であることが明らかにされました。このような世界認識に対する事実の発見は、日常言語を使いながら頭に浮かび得るどのような整合した論理的思索をしても、発見できるものではありません。

事実の認識は、カントの言う「総合的真偽の判断」に基づいた認識であり、 理念の認識は「分析的真偽の判断」に基づいた認識です。だから、如何に理念の分析をしても事実の世界は認識できないのです。

科学者に比べて哲学者の未熟さを揶揄って見せた一例として「ソーカル事件」をググってみてください。

もう一点のkeywordに関してですが、哲学は人間の言語で語ります。そして各言語にはそれ特有の個性的な文化がある。例えば質問者んは日本語を話し、日本語をみながら育ってきました。そして、日本語は、漢字という表意文字であり、ひらがなやカタカナは表音文字です。さらに漢字には音読みと訓読みがある。このように日本語は他の言語界では考えることすらできないような多次元的で多様な言語空間を持っているのです。ヨーロッパ語のような表音文字しかない一次元的な単純な言語空間ではない。

当たり前なことですが、多次元空間ではその次元を制限して、より低次元の世界を見ることができる。例えば3次元空間に住む我々は2次元空間を見ることができます。ところが、我々は4次元空間を見ることができません。同じように、多次元に住む日本人は表音文字しかない一次元的ヨーロッパ人のみている世界を簡単に認識できますが、その反対にヨーロッパ人には日本人の見ている多次元的な世界認識を理解することは至難の技なのです。

私は、質問さんが例として挙げたkeywordsがどうして、そんな単純なアルファベットという低次元言語で表されているものだけなのか、理解に苦しむところです。

確かに、

>哲学は総ての基盤だと、

思われていた時代がありましたね。それは人間が成長する仕方とよく似ています。幼児の時に言葉を覚えますが、それが思春期の頃になると、理屈や理念の世界があることに目覚める。要するに屁理屈を言いだすようになる。それで成長が止まってしまう人も中にはいるでしょうが、普通は大人になると理念よりも重要なものがあることを、いろいろな痛い経験をしながら判ってくる。それは事実の世界です。

経験の未熟なものはまず理念を頭でこねくり回し、人はどうあらねばな...続きを読む

Q「素直」とか「真面目」とか言われると、嬉しくもなく、それどころか寧ろ、人の事を馬鹿にするのもいい加減

「素直」とか「真面目」とか言われると、嬉しくもなく、それどころか寧ろ、人の事を馬鹿にするのもいい加減にしろ、と思います。

真面目ではあっても、内面は自分は素直ではないですし、真面目なのが損するなら、真面目とかやめてやるとか定期的に考えたりします。
また、下手に素直だといつかは不当に利用されたり扱き使われる場合もありそうなので。

皆さんは如何でしょうか?

Aベストアンサー

世の大半の人はいい加減ですから仕方ないです…。多数派なので、正しいと思って生きていられる恵まれた人々です。おかげさまで世は時代が下るにつれて悪くなるようにできあがっています。真面目な人が世を好転させようと努力のおかげで、まだ悪化の速度が緩められているのです。真面目な人は貴重です。これが一つの真理です。

このような質問が立ち上がるところを見ると、一見、品行方正な現代の若い世代も、けして昔よりよくなってはいないんですね。

身を守るために、真面目じゃないふりをしていてもいいですから、本気でそういうのに染まらないでください。大きな善を考えられないのは自己中と馬鹿です。世界は馬鹿を必要としていません。でも増えてしまうんです。

でも、地球も自然も宇宙も、当たり前の論理で成り立っています。どんなに高い知能を持った人も、一人では大した力を持ちません。少数がどんなにがんばっても、多数派が台無しにしているようでは、どういうことになるか。

Q哲学の面白さって?

哲学などの概論を読んでいて、ひっかかる疑問があります。

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。特にカントなどが現れた頃からです。

この人たちが問題にするのは理性とか、存在とかそういうものですが、自分はどうしても科学的な気持ちが邪魔してしまいます。例えば存在するみたいな主題があると、自分は科学的にそれを捉えてしまいます。

存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先祖、つまり人類が生まれた時にまで行きつきます。これを哲学においては、やや抽象的な解釈をする。ここがどうしてもつかめない。それを言えばおしまいじゃないかと思っても、どうしても科学的に考えてしまうのです。

理性とか経験とかもそうですよね。心理学や科学、物理が発展した世の中ではどうしてもそっちで解釈したほうが早くないか?って思ってしまう。でも哲学には哲学の見方がある。これはどうすれば身につくのでしょう?哲学の見方が出来ればもっと哲学を楽しめるのにと思ってしまいます。

Aベストアンサー

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、
だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。
 ↑
この世には色々不可思議なことがあります。
人間は、知性があるので、不可思議な事を説明
しようとします。

最初は神話で説明しました。
しかし、次第に神話では飽き足らなくなり、哲学と
なりました。

その哲学もキリスト教と結びついたので、一神教との
整合性を保つため、やたら理窟っぽくなったのです。




存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先祖、
つまり人類が生まれた時にまで行きつきます。これを哲学においては、
やや抽象的な解釈をする。ここがどうしてもつかめない。
  ↑
人間存在だけではなく、もっと広く普遍化
一般化するのです。



心理学や科学、物理が発展した世の中ではどうしてもそっちで
解釈したほうが早くないか?って思ってしまう。
でも哲学には哲学の見方がある。
これはどうすれば身につくのでしょう?
哲学の見方が出来ればもっと哲学を楽しめるのにと思ってしまいます。
  ↑
哲学の意義は、本来は真理発見にあります。
しかし、真理の発見なら科学の方がはるかに
優れています。

哲学と科学の違いは実証にあります。

科学は実証しますが、哲学はしません。

つまり、実証出来ないモノは科学の対象になりませんが、
哲学の対象にはなります。

そこが哲学の弱点であり、かつ魅力でもあると
考えています。

実証にこだわらなくてよいのですから、自由な発想、
思考が可能です。

その結論が正しいかは、後生になって科学が
実証してくれます。

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、
だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。
 ↑
この世には色々不可思議なことがあります。
人間は、知性があるので、不可思議な事を説明
しようとします。

最初は神話で説明しました。
しかし、次第に神話では飽き足らなくなり、哲学と
なりました。

その哲学もキリスト教と結びついたので、一神教との
整合性を保つため、やたら理窟っぽくなったのです。




存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先...続きを読む

QHaruさんの存在主義の欠点は何ですか

客観的情報が欲しいのでHaruさん以外の人に回答して欲しいです。

Aベストアンサー

Haruさんとは誰?

Q実存主義 構造主義 心理学 分析哲学 どれが好きですか?

現代の哲学は昔 唯物論 実存主義 プラグマティズムと言っていましたが

さらに進んで 実存主義 構造主義 心理学 分析哲学等があるようです。

実存主義ならキルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデッカー、サルトルとあるようですが

構造主義はソシュール、フーコー

心理学ならフロイト、ユング  分析哲学ならヴィトゲンシュタイン等

色んな哲学がありますが どんな哲学が好きですか?

私は質問者であり詳しくはありません。教えてもらいたいだけです。

簡潔にどうかお願いします。

Aベストアンサー

色んな哲学がありますが どんな哲学が好きですか?

かつてはプラグマティズムに傾倒しましたが、
これでは中韓と同じになってしまう、ということに
気がつきました。

構造主義にも魅力を感じましたが、基本は
実存です。

しかし、最近は、この実存主義は日本人に合わないのでは
ないか、と疑いを持っています。

河合隼雄氏が指摘しているように、日本人にとっての「私」とは
西洋のそれとは異なり、
自他が融合しているのではないか、と
考えています。

Q生物を食べる生物

は、食べられる生物の命を絶ち、それを食べ、生き、生を繋ぎます。
人間もこの種の生物です。

考えてみなくても、これは残酷な事です。
私やあなたが、他の生物に狩られて、その生命を奪われ、食べられた時を考えると、すぐわかります。

生物は、他の生物の生命を奪って生き永らえます。
残酷な事です。

ただ、果物の木は、自分の一部を実として提供して、子孫を残す事に協力して貰い、同時に他の生物も生かします。
ほかの植物にしても、太陽と、大気と、土中の養分から、自分の身を作り、その命を維持します。
植物は、とても進化していると思います。

皆さんはこの事についてどう思いますか?
他の生物の命を絶って、自分の生を繋げる存在として。

Aベストアンサー

>ただ、果物の木は、自分の一部を実として提供して、子孫を残す事に協力して貰い、同時に他の生物も生かします。

たしかに。
ただ、完全に放置された自然環境の中では、植物同士での生存競争は行われています。
ある木の日陰になったために枯れてやがて朽ち果てる木もある。
身近でも、雑草が生い茂る中、毎年生えていた草花が淘汰されてしまう例はいくらもあります。
顕著になっていないだけであり、本質的に弱肉強食である点では変わらないでしょう。

植物も動物も、そもそもが「自分を活かす」ために生を受けるのであって、また、自分を活かすためには何らかのエネルギーを他者から獲得せざるを得ない仕組みになっているのは明らかだろうと思います。
その意味で、生きとし生けるものはすべて残酷性を秘めていると言わざるを得ないでしょう。

人間界に目を向けた場合も同様で、人間は別に天使でもなんでもありません。
生きるために他の生命を犠牲にする「残酷な」生き物であるのは、ライオンやハイエナと何ら変わらない。
自分の手を汚さないで肉を口にするだけ偽善的な残酷性を保持した生き物だとも言えますね。
むしろ、猛獣たちより質(たち)が悪い。
いずれにせよ、生命をつなぐために残酷であることは必要不可欠なのだという認識は必要です。偽善者になりたくなければ、ですが。

その上での話ですが、人間が純粋な捕食動物と異なるのは、質問者さんのように、食われる側の動物に対する想像力が働く、という点です。
ライオンやハイエナに他者に対する想像力というものは、おそらく働かない。
こうした意味で、人間は本能の壊れた動物だと言えるでしょう。つまり、動物としては極めて不自然な発達を遂げた生き物である、ということ。
と言うか、むしろ本能を一部捨てることによって、代替的に大脳が発達するように進化した生き物である、と言うほうが適切かもしれません。
この大脳、特に前頭葉がどのように発達していくものなのか興味深いと思います。
ともかくも、人間は、そうした矛盾を背負って生きざるを得ない動物なのだ、ということを大前提にした上で、それでもなおかつ他の動物や植物、そして他者としての人間に対して、どこまでの想像力を発揮することができるか。
また、その想像力を梃子にしつつ、背負っている矛盾をどこまで解消していくことができるか、などといった方向に思考が進んでいくようであるなら、現在の、このろくでもない世界より、多少はマシな世界へと変貌できる可能性も見えてくるような気がします。

>ただ、果物の木は、自分の一部を実として提供して、子孫を残す事に協力して貰い、同時に他の生物も生かします。

たしかに。
ただ、完全に放置された自然環境の中では、植物同士での生存競争は行われています。
ある木の日陰になったために枯れてやがて朽ち果てる木もある。
身近でも、雑草が生い茂る中、毎年生えていた草花が淘汰されてしまう例はいくらもあります。
顕著になっていないだけであり、本質的に弱肉強食である点では変わらないでしょう。

植物も動物も、そもそもが「自分を活かす」ために生を...続きを読む


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