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ヨーロッパの貴族で女公爵というのは存在しましたか?また、貴族の養子になることってできましたか?養子になったら、公爵位や伯爵位って継ぐことはできたのですか?回答よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

>ヨーロッパの貴族で女公爵というのは存在しましたか?



存在しました。
例えば、イギリスのマールバラ公爵は初代は男性ですが子供が女性しかいなかったので、ヘンリエッタ・チャーチルが2代公爵になりました。

>貴族の養子になることってできましたか?

出来ました。

>養子になったら、公爵位や伯爵位って継ぐことはできたのですか?

養子に爵位の継承権は原則ありません。
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イギリスにおいては (王族以外の) 世襲爵位の継承は特許に定められています. 原則は


初代の男系子孫
なので, 貴族家に養子で入ったとしても爵位を継ぐことはできません (当人が血統によって爵位を継承する場合を除く). 逆にいうと, あるところで直系が断絶すると傍系に爵位が移動するので, 「先代の爵位所持者との間柄が 10親等」なんてケースも存在します.

ちなみにイギリスの王家は家名が
Windsor ← Saxe-Coburg-Gotha ← Hannover
と変わっています. Hannover → Saxe-Coburg-Gotha は #2 にあるようにザクセン=コーブルク=ゴータ家から婿を取ったため, そこから Windsor へは (第一次世界大戦により) 敵国ドイツの地名から自国イギリスの地名に変更したことによります. なお現王太子チャールズの姓は Mountbatten-Windsor だけど家名は Windsor のまま. 本来家名は男系によるので Mountbatten になるはずなんだけどなぜかそうなっていない.

なお, ヨーロッパの王国では王位の法定推定相続人には公爵の儀礼称号を与えることがよくあり, その場合王位の法定推定相続人が女性であれば当然「女公爵」になります. 現時点では, 例えばスペインがそうですね.
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#3です。


すみません、補足です。

#3は、イギリスの場合であって、ヨーロッパの各国に通用するかどうかは分かりません。
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ローヤル・ファミリーは別にして、一般の公爵は、女性が継承する事は出来ないでしょう。


又、継承は、血縁関係が必要で、息子がいなければ、他の男性親族が継承するようです。

ですから、息子がいなくて、娘の夫を婿養子にした時には、娘夫婦の子供、つまり、孫が継承するようですね。

以前、BBC(イギリスの公共放送局)のTV番組で放映された「ダウントン・アビー」という連続ドラマを見ると、この辺の事情が良く分かります。
DVDに成っていて、日本でも購入出来ますので、興味があれば、ご覧になったら、如何ですか。
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>ヨーロッパの貴族で女公爵というのは存在しましたか?



公爵どころか、イングランドのメアリー1世(ブラッド・メアリー、在位:1553~1558年)、エリザベス女王(1世、在位:1558~1603年)、ヴィクトリア女王(在位:1837~1901年)、現女王のエリザベス2世(在位:1952~ )など、たくさんいますよ。
ヨーロッパで重要視されるのは「血統」であり、男子を優先しますが、男子がいない場合には女子が継ぐこともあります。
この辺の「優先順位」で王位継承の争いが起こるのはどこの国でも共通です。

なお、ヴィクトリア女王のお婿さんは、ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世(ヴィクトリア女王の母親の兄)の次男アルベルトで、英語名はアルバート。2人の間に生まれた長男エドワードが次のイギリス国王エドワード7世(在位:1901~1910年)。

また、現エリザベス2世のお婿さんは、ギリシャおよびデンマーク王子フィリッポス(フィリップ)。2人の間に生まれたチャールズが現在の皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)。

これから分かるように、女系貴族に婿入りした男はあくまで「女系貴族のつれあい」です。その子供は母親の貴族の血統を受け継ぎます。「婿入りした男」は、あくまで次代国王や貴族の「父親」であるにすぎないということです。
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はじめまして、

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規模のおおきい戦場では多数の軍勢がぶつかりますので、剣豪とはいえ活躍するチャンスはありませんし、実際記録もありません。
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剣豪といえども一対一ならともかく団体戦や乱戦になればたいしたことはないんですね。

以下ウィキから2カ所を引用します

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。

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宮本武蔵(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵
(URLはコピペしてください)

はじめまして、

No3さんの内容にほぼ同意なのですが、宮本武蔵が関ヶ原合戦に参加しただろうというのはほぼ定説です。
16歳でしたら元服をしている可能性が高いので、当時でしたら一人前、戦争に参加するのはあたりまえでしょう。

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Q4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があったのは確実ですか?

4~6世紀というと古墳時代の真っ只中ですが、大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中しています。

古墳は日本全国に散在していますが、大阪府南部の古墳は特に大きく、巨大な権力を持つ者によって建造されたのは確実だと思われます。おそらく全国レベルで影響力を持った者でしょう。

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巨大古墳という、これ以上ないほどのその存在を示す証拠があるわけですから。

Aベストアンサー

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが、彼らが大阪南部勢力に従属していた根拠はありません。(敵対していたという記載もあるようです。)
これらの複数地区が全て単一権力の支配下にあったという証拠は無く、ゆるいつながりをもった地方権力の並列性であった可能性もあります。
であれば、単一権力による中央集権制では無く、首都という言葉とはややずれます。

また、「大阪府南部に日本(倭)の首都があった」根拠として、あなたが示されているのは「大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中」という事実と、「宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われる」という推測ですが、後者を裏付ける根拠が必要です。(あえて宮殿から離れた場所に古墳を作った可能性も排除できません。)
上述のような古墳の大阪南部・奈良・岡山と広がる広範な分布は、単一権力大阪南部存在説では説明困難です。

もちろん、「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」可能性はあります。
4~6世紀大型建造物であれば、土台構造物(穴や柱石など)などの遺構が残ります。
それによって、古代都市そのものを確定し、さらには政治形態を確定、首都と定義なども必要で、お示しされた根拠だけを理由に「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」と確定するのはやや無理があるでしょう。

参考までに巨大古墳を20位までお示しします。
5位までに大阪南部が多いことは事実ですが、同時期に岡山にもあり、20位までで考えれば奈良にけっこう後半に分布しています。
この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。

1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵
4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m
5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m
6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m
7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m
9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m
10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m
14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵
15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m
16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵
17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵
18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m
19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵
20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが...続きを読む

Q「矮人」読み方を教えてください

プラド美術館展で 宮廷のテーマの中に「矮人」を素材とした作品がありました。見るからに、「こびと」であるのはわかりますが、解説文に「矮人 」の文字があり読み方がわかりません。ご教示ください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

わいじん

意味:背丈が低く、からだの小さい人。

参考まで。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/237391/meaning/m0u/

Q日本は過去に女性が天皇になったことが多いのはなぜですか?

過去の歴史において女性が王や皇帝になったことは世界的に少なく、中国は長い歴史の中で1度だけですし、ヨーロッパでも女王が多かったのはイギリスくらいです。

その中で、日本は過去に10人の女性が天皇になっており、これはイギリスの女王と並んで最多になります。
日本の場合、女性天皇は古代から存在しており、それより前に女性君主を立てたのは古代エジプトくらいです。
このように、過去の日本が君主に女性を立てたことが他国と比べ多かったのはなぜでしょうか。

Aベストアンサー

神武天皇から推古天皇までは33人の天皇を選んだのでしょうね。皇統譜を組むときにね。だから神功天皇、飯豊天皇は日本書紀が外したのでしょうね。3が二つ並んで縁起がいいということですね。当時の日本人は語呂合わせが好きだったのでしょうな。
天皇は通常男子が成るのが普通でしたが、ほかになり手がない時は一時的に女子を建てようという政治的意図で女帝が出ただけ。いわば、候補者が決まらぬ時のつなぎ。
あのー、神功天皇とか飯豊天皇を認めるのはいいですが、歴代天皇を数えるときは入ってないですよ。今は125代とか言いますが、あの場合の125代の中に、神功天皇、飯豊天皇の2人は入っていません。日本書紀が外して続日本紀以降、神功皇后だけ歴代に追加したみたいですが、明治になってまた外しましたね。となれば、論じるなら8人の女帝といった方が現実的な気がする。まあ追加してくれるのはありがたいですが、質問者さんは進歩的ですな。
天照大神・卑弥呼は天皇ではありません。天皇は神武天皇に始まるものです。天照大神は神代の神様、まあ実在の人を当てる説もありますがね。卑弥呼は祭主でしょうね。女王にしたのは中国人の史観ですね。

神武天皇から推古天皇までは33人の天皇を選んだのでしょうね。皇統譜を組むときにね。だから神功天皇、飯豊天皇は日本書紀が外したのでしょうね。3が二つ並んで縁起がいいということですね。当時の日本人は語呂合わせが好きだったのでしょうな。
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Q氏名も世襲されてるのは珍しい?

江戸時代、私のご先祖は代々氏名を世襲してた下級武士ですが、継ぐのは名字だけで名前は違うのが普通みたいですが、家督を渡されたときには名字だけを継ぐのでしょうか?
確かに隠居してる当主と跡を継いだ当主が同じ氏名だったら、ややこしいですけどね
それと話しは変わりますが、江戸時代265年間武士だったわりに7、8代と少ないです、普通50歳〜70歳で家督渡しますから、計算が合わないです
私のご先祖の由緒書きに書かれてるみたいです

Aベストアンサー

>親のご先祖は氏名を継いでいたので、なにか理由でもあったんですかね

なにか理由があったのでしょう。下級武士で郷士ということなら、技術的なことではなく「地域に必要な役職」としての家督相続だったかもしれません。

たとえば「昔から村の長老職を代々継ぐ」とか「神主などのいない村の祭祀を取り仕切る家系」などです。

こういう場合は、武士ということではなく、地域の要職ということで、氏名全部を継ぐこともありえます。

Q平成初期、末期で携帯電話、ゲーム、車、PC等、さまざまな技術の進化がありました。 ですが江戸時代は鎖

平成初期、末期で携帯電話、ゲーム、車、PC等、さまざまな技術の進化がありました。

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Aベストアンサー

江戸時代初期の、一人当たりGDPは5百ドルぐらいです。

それが末期だと740ドルぐらいになっています。

だから、1,5倍程度の技術進歩があった
のでしょう。




2008年と2018年の10年間の進化くらいらでしょうか?
  ↑
これだと10%にも満たないです。

一人当たりGDPで1,5倍を計算すれば
2018年と1987年程度の違いになります。

Q昔のヨーロッパでは残虐な方法で殺戮をする魔女狩りというものが流行りましたよね。そこで質問なのですが、

昔のヨーロッパでは残虐な方法で殺戮をする魔女狩りというものが流行りましたよね。そこで質問なのですが、アメリカが日本に原爆を落としたことを正しいと言う人がいるように、魔女狩りを正当化するヨーロッパ人はいますか?もしいるのならその数はどれぐらいなのでしょうか?

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Aベストアンサー

>魔女狩りを正当化するヨーロッパ人はいますか?

変わり者はどこの世界にもいるでしょうが、一般的にその様な人は皆無かと憶測します。
理由は現在のヨーロッパ人の価値観は、その様な魔女狩りをするような野蛮な宗教価値観から脱却して勝利した人たちによって作られたからです。これは、人権思想の誕生にも関わっていきます。原爆投下は、アメリカは戦争に勝った側ですので「勝てば官軍」のごとく自己正当化が可能ですが、魔女狩りを正当化する側は負けているので状況が全く異なります。



具体的には、30年戦争で勝負が決しました。30年戦争は、野蛮な宗教価値観から脱しようとする者と、伝統的な宗教価値観を守ろうとする者との総決算です。最終的に野蛮な宗教価値観から抜け出そうとする勢力が勝利し、現在のヨーロッパ社会が作られました。

このような前近代の野蛮な宗教価値観から脱する事を、近代化と呼びます。
現在のヨーロッパ人は、プロテスタントもカトリックも近代化されているので、魔女狩りを肯定するような価値観を持っている人は皆無と思われます。


勿論、魔女狩りを正当化するような変わり者はどこの世界でもいるでしょう。
当時の価値観では魔女を処刑する事は正義でした。

その宗教価値観から抜け出せないものが、現代のヨーロッパにどれだけいるかは不明です。
地下にあるカルト宗教など、影で信仰している人たちでしょうか。どちらにしろ、かなり少ないかと思います。

>魔女狩りを正当化するヨーロッパ人はいますか?

変わり者はどこの世界にもいるでしょうが、一般的にその様な人は皆無かと憶測します。
理由は現在のヨーロッパ人の価値観は、その様な魔女狩りをするような野蛮な宗教価値観から脱却して勝利した人たちによって作られたからです。これは、人権思想の誕生にも関わっていきます。原爆投下は、アメリカは戦争に勝った側ですので「勝てば官軍」のごとく自己正当化が可能ですが、魔女狩りを正当化する側は負けているので状況が全く異なります。



具体的には、30年戦...続きを読む

Qなぜ、戦国時代に、手柄をほめる”感状”を女性に送る習慣がなかった、のでしょうか?

小和田哲郎監修の“戦いの作法”を読んでいます。
戦国のおんな武者について、次のように書いております。
<残念なのは、手柄をほめる「感状」を女性に送る習慣が戦国時代になかったこと。こうした文献があれば、もっと多くの女武者が後世に名を残していたからもしれない。>
なぜ、戦国時代に、手柄をほめる感状を女性に送る習慣がなかった、のでしょうか?

Aベストアンサー

類推ですが・・

感状は鎌倉時代から存在し、主君クラスの上位者が武勲を立てた功労者に贈るもので、直筆・花押という公文書的性格の強いものであったようです。これが戦国時代のような下剋上の時期になると、感状は「推薦状」としての機能も果たすようになり、戦に敗れて主君が死亡し、浪人になった時などにも「これだけの感状をいただいているので、私を召し抱えると有益でしょう」という売り込みに使えたはずで、というよりそのために感状は発給されたとみるべきでしょう。

今でいえば勲章のようなものであり「その人の実力をそのまま示すもの」だったといえます。

戦国時代は女武者が全体の3割程度居たのではないか、と推測されています。それも有力な武将レベルではなく足軽などにも結構いたようです。

これは農民の生活が「領主と盟約を結ぶ安全保障」だったからです。個人の土地の所有権を領主が保障する代わりに、戦争時には庄屋クラスが地域の農民を連れて参戦する約束をしていて、農民個々人の家から男性を出せない場合には女性が替わりに出ていた、と考えられています。

秀吉の刀狩以降は、農民と武士を分離させ、職業軍人と職業公務員である武士と農業を主体とする農民を分離させ、同じ家系でも武家と農家に分かれて行くのですが、それ以前は武家と農家が未分離で、農家の後継ぎになれない次男以降は「武功を立てて職業軍人になりたい」という人がおおかったのです。

感状はこれらの「跡継ぎになれないのだから、軍人として成り上がりたい」という人々の求めに対して「武功を証明する」ものだったといえます。

女性は武功はたてたとしても「職業軍人」になる道はありません。参加は、あくまでも「男が出せないため」だったわけです。となれば女性に感状を出しても役に立たないので、出さなかったと考えるのが自然だと私は考えます

類推ですが・・

感状は鎌倉時代から存在し、主君クラスの上位者が武勲を立てた功労者に贈るもので、直筆・花押という公文書的性格の強いものであったようです。これが戦国時代のような下剋上の時期になると、感状は「推薦状」としての機能も果たすようになり、戦に敗れて主君が死亡し、浪人になった時などにも「これだけの感状をいただいているので、私を召し抱えると有益でしょう」という売り込みに使えたはずで、というよりそのために感状は発給されたとみるべきでしょう。

今でいえば勲章のようなものであり...続きを読む


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