【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

①生きる意味は無いから自分で作る これってつまらないと思いますか?

最初から使命があったほうが、自分で作る生きる意味なんかよりもよっぽど心の拠り所になると思いますか?


②それとも生きる意味がある方が生きる事が窮屈で苦痛になると思いますか?

A 回答 (16件中1~10件)

最初からある使命は、自分で選んだことではないですからね。



子供は親を選べないのと似ているかもしれません。
親にいつまでも興味持ち、心の拠り所にする子供はまずいませんが、惚れた相手や恋人にはとても夢中になるでしょう。それは自分で選んだ道だからでは? 違うのでしょうか。
同時に、血の繋がりというのは宿命的に重い責任を負うことをも意味します。時としてそれが人を追いつめることになり、暴力や殺人にもなり得る。おそらく殺人で最も多いのは家族間でしょう。

生まれながらの使命、自分で作った生きる意味・・どちらもその人を束縛するものなのは確かです。(目的や課題をもつことは、自らを縛り付けることそのものなので。)
が、自分の意思でいつでもやめられるぶん、後者はかえって人を夢中にさせますし、なかなかやめられないものなのかもしれませんね。単に「やめられない」という理由があるからやめられない「使命」と、積極性の点では段違いかもしれません。
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意味うんぬんより。

生活あらからね。普通は
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いや、そもそも今自分が生きているかどうかも分からないですし。







もし、私の言ってる意味が分からないならあなたの頭が硬いと思います。
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たとえば、白紙に絵を描くとします。

なんの絵を描いても良いが、その出来上がった絵は素晴らしくなくてはならない。
難しいでしょう、先ず、何を描けばいいのかわからない人も多い。しかし絵心のある人は、大して迷わず描き出すことでしょう。或いは、何かモデルやモチーフが無いと描きづらいと言う人は、モデルやモチーフ探しから始めることとなる。
さらに不得手な人は、絵を描いてみようとさえ思い難いかも知れない。
そしてそれぞれの人にはかけてもらいたい言葉があるだろう。その言葉が人生のヒントです。ある人は古くからある書物にそれを聞き、ある人は身近な友人からそれを聞き、ある人は道すがらの広告にそれを見て、ある人は自ら思いついて、その絵を素晴らしいものにするでしょう。

その言葉を聞いて、絵心のある人は絵の極意を知り、モチーフ探しから始めた人は自由に描くと言うことを知り、絵を描く気さえない人は絵の楽しさを知る。

人それぞれに差異はあれど、皆、絵を描いて良かったと思える様な結末になって欲しいでしょう。

人生の意味とは、喩えでは絵を描く意味のことですが、絵を描いて後悔しない事が大事であり、人生をして後悔しない事が大事なのです。そこに、意味はあったと言える人生が、存在しているのです。

こんな絵ならば描かない方が良かった、と言うのならば失敗です。
同じ様に、こんな人生なら生きない方が良かったと思う事が失敗なのです。
即ちそれは(自分も含め)人を傷つけたとか、そう言うことで失敗するでしょう。
やさしい人ほど、些細な事を気に病んで、その人生に汚点のあるのを見逃さない。
如何にすれば良いのか、それを示唆してくれる言葉や振る舞いを見出す事、それが自己の人生を克服すると言う事なのではないでしょうか。
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生きて存在していくこと、それで未来を拓く事 それが生きてる意味です。



その生き方拓き方をご自分で考えてみて下さい。

生きてる意味がなければ 自由も楽しくないと思いす。
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自分の個性にあったやりがいを見つけて


人生を楽しもうとする。
人生って普通にそういうものだと思います。
その過程の模索の中で
個性に合わない形式に苦しむ経験をすることも避けられない。
ということなんだろうと思います。
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その通り


しかし忘れている場合が多い

この世と言う舞台に上がったが、自分の役柄が分からないで
舞台の上で右往左往する大根役者で一生終わらないようにしましょう

自分の役柄が分かると、大胆に、楽しみ切って人生を送れる

自分は何処から来て、何処へ行くのか
「何のために」

ソクラテスの「汝自身を知れ」・・・です

その汝自身の解明は、東洋哲学ですね
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《生きる意味》を考えたり あるいは無いと結論づけたりするひまが


あるなら 《なんで生きないのか?》という問いを持ちます。
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「生きる意味」とかを考える時って


たいてい、弱ってる時なんですよね

人生、生活が充実してるひとは
あまり考えない
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生きる意味と言うのは「世の中を勉強する事です」


苦しみや喜び、聞くもの観るもの全てです。
その目的はいらないと思います...!(^^)!
自殺はそれを放棄する事です。
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Q死後の世界

「自分が死んでも自分がそれまで生きてきた世界は存在しつづける。」
という科学的根拠が示せない理由および原因について。

a)理由
b)原因

それぞれを説明して下さい。




IOI
HXH
NSZ

Aベストアンサー

科学的根拠は示せますよ。

科学が科学的である最も基本的な根拠は、それが思索に基づいて論じられているのでなくて、経験に基づいて世界を把握しているからです。そして経験によると、この世界は時空によって把握できる。さらに経験によると時空の一部を占めている存在にはその広がりに不連続なものは存在していない。一つ二つと数えられる粒子といえども、各粒子は連続場の衣をまとって、粒子の縁は連続的に空間に広がっています。だから、貴方が死んだからといって、その時に不連続的に世界がなくなるという仮説は、経験から得られた科学的な仮説ではありません。

たとえ世界が消滅する場合にも、その消滅速度が速かろうが遅かろうが連続的に消滅するというのが、貴方が生きていた経験から得られる科学的事実です。ですから、貴方が死んでも貴方がそれまで生きてきた世界はしばく存在しつづけるというのが科学から得られる結論です。

また、ある事象の時間的長さが長いか短いかは相対的な概念であり、何か基準になる時間の長さと比べて初めて意味のある概念です。たとえば、地球の公転数が1000回たった場合の時間、すなわち1千地球年は貴方の寿命からみて長いと思えるでしょう。それに比べて、原子内で励起原子が光を放出して基底状態に落ち着きまでの時間は10のマイナス8乗秒程度です。ですが、この時間で電子は原子核の周りを百万回ほど回っています。すなわち百万電子年経ったといえます。さて、この百万電子年というとてつもない回転の数と、1千地球年というたった千回の回転数と、どちらが長い間の出来事だったのでしょう。だから、たとえ貴方にとって瞬時になくなったように見えても、連続的に消滅する事象でも、別な基準から見るととてつもなく長い間にゆっくりと消滅している事象であるとも言えるのです。

科学的根拠は示せますよ。

科学が科学的である最も基本的な根拠は、それが思索に基づいて論じられているのでなくて、経験に基づいて世界を把握しているからです。そして経験によると、この世界は時空によって把握できる。さらに経験によると時空の一部を占めている存在にはその広がりに不連続なものは存在していない。一つ二つと数えられる粒子といえども、各粒子は連続場の衣をまとって、粒子の縁は連続的に空間に広がっています。だから、貴方が死んだからといって、その時に不連続的に世界がなくなるという仮...続きを読む

Q思考と言語

思考に言語を使うことのデメリットを挙げて下さい

Aベストアンサー

我々が世界を認識しそれに合理的、あるいは論理的に意味づけをする方法には2種類あります。一つは時系列的論理であり、もう一つは空間的論理です。多くの方が論理的だと考えているのは時系列的な論理です。その典型が言語で表される論理です。すなわち、言葉は時系列として時間の経過とともに順番に出てくる。数学もそうです。AはBを導き、BはCを導き、、、という具合に。そして、そのような時系列で把握されたものだけが思考だと思っている。

ところが、私たちは(動物たちも)もう一つの世界の認識方で世界を捉え、それに従ってそれなりに合理的に思索し合理的に振舞っています。それが空間的論理です。この場合、自分の置かれた環境や状況や事象を瞬時に全体として捉え、物事が収まるべきところに収まっているかどうかで、その全体の整合性を認識します。事実、絵画にも立派な論理があり、思索が表現されているのですが、それは決して、山が木立や東屋を導き、その木立が月を導き、、、というようには把握されず、そてぞれの各点が収まるよころに収まっているかどうかでその合理性の深みを理解しようとします。また、人間も多くの動物も言語以外に、ボディー・ラングエッジでも意思疎通をしていますが、これはどちらかというと空間的論理の把握と言えるでしょう。

その点、音楽にある合理性は時系列としての合理性であり、言語による合理性の把握に親和性があります。ただし、音楽や言語やその一種である数学が時系列的であるとは言っても、決してその流れは一方的だけではありません。我々は、現在目の前にある音や単語ばかりでなく、その音や単語より以前に出た音や単語との関連、すなわち時間相関を思い描きながらその作品を観賞し、また、この先の未来に出てくるであろう音や単語を、過去の時間相関を参考にしながら予測して、ある意味時間を超えた同時発生的な把握でその作品を観賞しています。そしてこの時系列的な相関の距離が長いほど、我々は思考が深まったと考えているようです。

もちろん空間的論理の把握にも、空間における各点をバラバラに捉えているのではなくて、各点の間の空間的相関を認識し、その空間相関の距離が長いほど、その空間的論理の合理性に深みがあると考えているようです。

この時系列的思索と空間的思索の存在は古代から認識されており、例えばそれが仏教における顕教と密教の違いとして認識されております。すなわち、顕教の本質は、この世の真理なるものを文章に顕に書き下すことができる。すなわち、時系列的な論理だけで表現が可能であるという立場です。だから、先人たちの名著をとことん読んで咀嚼すれば、この世の真理が解るようになるという主張です。ところが、密教では、この世の真理なるものには言葉という時系列的な論理では表現しきれないものもある。そして、それを掌握するためには、それを掌握した師の唾を浴び、迫力やオーラを浴びなくてはならないという立場です。さらに密教では曼荼羅を重視しますが、これもこの世界を掌握するには時系列的な言語だけでは不完全で、絵画的空間的論理による認識も必要であるという主張です。私は物理学者ですが、自分の師と巡り会うまでは、物理学も顕教の世界だと思っておりました。しかし、その師の唾を浴びているうちに、物理学の多大な部分が密教の世界であることに気づかされました。

さらに、テレビドラマでもわかるように日本人の数倍もおしゃべりなアメリカ人の意思疎通の内の90%ほどが、言葉でなく、先ほど触れたボディー・ラングエッジによっている、という研究結果が出ているそうです。考えてみればそれは驚くことではありません。実際、人間が言葉を使い出す前の数百万年もの間、人間はボディー・ラングエッジだけで意思疎通をしてきたのですから。例えば、馬も集団生活をしており、馬の間のボディー・ラングエッジが高度に発達しています。私の住むテキサスで小さな牧場を持っているある日本女性がこの馬のボディー・ラングエッジの重要性に気づき、それを人間の母子間に取り入れて、頭でっかちでない自然な子育てに使う運動を起こし、そこで訓練を受けた多くの母親が育っています。

このように、我々が世界を認識するとき時系列的でなく、空間的な掌握法が圧倒的に巨大な領域を占めているのです。ところが、言葉だけで論じられている哲学を学んでいる連中では、時系列的な論理だけが合理的な論理であると誤解して、世界の圧倒的な部分を認識できなくなっているようです。これが思考に言語を使うことの最大の欠点でしょう。この連中はこの巨大な世界を認識できないので、ある意味可哀想な連中です。

我々が世界を認識しそれに合理的、あるいは論理的に意味づけをする方法には2種類あります。一つは時系列的論理であり、もう一つは空間的論理です。多くの方が論理的だと考えているのは時系列的な論理です。その典型が言語で表される論理です。すなわち、言葉は時系列として時間の経過とともに順番に出てくる。数学もそうです。AはBを導き、BはCを導き、、、という具合に。そして、そのような時系列で把握されたものだけが思考だと思っている。

ところが、私たちは(動物たちも)もう一つの世界の認識方で世界を...続きを読む

Qいいことをおしえてやろう

最近、人に回答を求めるのではなく自分でやってみろと、ある人に言われたので、やってみる。

とはいっても自分の知らないことには答えられない。
答えられる質問にはどんどん答えてやる事に決めました。

こんな心構えでいいでしょうか?

Aベストアンサー

違うと思います。

どこかのカテゴリーで、回答に対するお礼コメントでやられて現在進行中の質問者のマネをして回答してみます。

Q:人に回答を求めるのではなく自分でやってみろ
A:初めての職場に行くと先輩が、「わからないことがあったら、なんでも聞ききなよ。」と言ってくれますが、それを信じて質問すると、「なんでもかんでも人に聞けばいいってもんじゃないだろ!!まずは自分で考えて、それでもわからなかったら質問するんだよ!!」と言われて、自分なりに「まあっ、いいか、これで」と思ってやってみると、「お前、なんてことしてくれたんだ。やるまえに、わからないことがあったらなんでも聞けと言っただろ。」と怒られてしまいます。

Q:自分の知らないことには答えられない
A:知っていることとは、しょせん知識でしかないのだから、インターネットでチョチョッと調べて、たぶんこれだな、と思った新しい知識で答えればいいんじゃない?

Q:答えられる質問にはどんどん答えてやる
A:たぶん、答えられる質問に対して答えるのではなく、自分が回答したいと思った質問に答えるのだと思います。

質問に答えたいものがあったときの心構えは、以下のようなことも必要だと思います。
・こいつ、ホントか?創作とかなりすましじゃないだろな?
・それとも、現実社会で誰も相手してくれないから、この虚構の世界で相手して欲しいのかな?
・いやいや、真剣に悩んで質問しているんだと思うけど、なんでこういう質問してるんだろ?

違うと思います。

どこかのカテゴリーで、回答に対するお礼コメントでやられて現在進行中の質問者のマネをして回答してみます。

Q:人に回答を求めるのではなく自分でやってみろ
A:初めての職場に行くと先輩が、「わからないことがあったら、なんでも聞ききなよ。」と言ってくれますが、それを信じて質問すると、「なんでもかんでも人に聞けばいいってもんじゃないだろ!!まずは自分で考えて、それでもわからなかったら質問するんだよ!!」と言われて、自分なりに「まあっ、いいか、これで」と思ってやって...続きを読む

Q認めたくない現実

あなたにはありますか?
それはどんな?

Aベストアンサー

おそらくあるであろうと言う事。
それは、過去に自分が過ちを犯しておきながら、それを今も知らないという事。それを今も知らないので、今も同じ過ちを継続している可能性があるという事。そしてそれを知り得ない限りは、その過ちは未来にも続くであろうという事。

自分の外に悪がある事を見るのは簡単である。自分の内に確かに存在する悪を自らで見いだすことは容易では無い。自分自身の影に隠れてしまうからである。そこで、他人からの指摘が大いなるチャンスとなる。その指摘が的を得ていようが外していようが、他人から得たその言葉をきっかけに自らを省察する人は賢者である。一方で、聴く耳のない者、耳触りの良い言葉のみに対しての反応しか出来ない者、この様な者が人生を全うすることなくくずおれる。賢者は自己を健全化し、しあわせに至るが、愚者は自ら犯す過ちによって自己を損ない苦悩を受ける。

人は皆苦しんでいる。見難きことであるが、これを先ず人は観なければならない。

意固地になっていても埒は明かない。以上に述べた見難き真実を見て、人は初めて自己を知るのである。

QHaruさんの存在主義の欠点は何ですか

客観的情報が欲しいのでHaruさん以外の人に回答して欲しいです。

Aベストアンサー

Haruさんとは誰?

Q生物を食べる生物

は、食べられる生物の命を絶ち、それを食べ、生き、生を繋ぎます。
人間もこの種の生物です。

考えてみなくても、これは残酷な事です。
私やあなたが、他の生物に狩られて、その生命を奪われ、食べられた時を考えると、すぐわかります。

生物は、他の生物の生命を奪って生き永らえます。
残酷な事です。

ただ、果物の木は、自分の一部を実として提供して、子孫を残す事に協力して貰い、同時に他の生物も生かします。
ほかの植物にしても、太陽と、大気と、土中の養分から、自分の身を作り、その命を維持します。
植物は、とても進化していると思います。

皆さんはこの事についてどう思いますか?
他の生物の命を絶って、自分の生を繋げる存在として。

Aベストアンサー

>ただ、果物の木は、自分の一部を実として提供して、子孫を残す事に協力して貰い、同時に他の生物も生かします。

たしかに。
ただ、完全に放置された自然環境の中では、植物同士での生存競争は行われています。
ある木の日陰になったために枯れてやがて朽ち果てる木もある。
身近でも、雑草が生い茂る中、毎年生えていた草花が淘汰されてしまう例はいくらもあります。
顕著になっていないだけであり、本質的に弱肉強食である点では変わらないでしょう。

植物も動物も、そもそもが「自分を活かす」ために生を受けるのであって、また、自分を活かすためには何らかのエネルギーを他者から獲得せざるを得ない仕組みになっているのは明らかだろうと思います。
その意味で、生きとし生けるものはすべて残酷性を秘めていると言わざるを得ないでしょう。

人間界に目を向けた場合も同様で、人間は別に天使でもなんでもありません。
生きるために他の生命を犠牲にする「残酷な」生き物であるのは、ライオンやハイエナと何ら変わらない。
自分の手を汚さないで肉を口にするだけ偽善的な残酷性を保持した生き物だとも言えますね。
むしろ、猛獣たちより質(たち)が悪い。
いずれにせよ、生命をつなぐために残酷であることは必要不可欠なのだという認識は必要です。偽善者になりたくなければ、ですが。

その上での話ですが、人間が純粋な捕食動物と異なるのは、質問者さんのように、食われる側の動物に対する想像力が働く、という点です。
ライオンやハイエナに他者に対する想像力というものは、おそらく働かない。
こうした意味で、人間は本能の壊れた動物だと言えるでしょう。つまり、動物としては極めて不自然な発達を遂げた生き物である、ということ。
と言うか、むしろ本能を一部捨てることによって、代替的に大脳が発達するように進化した生き物である、と言うほうが適切かもしれません。
この大脳、特に前頭葉がどのように発達していくものなのか興味深いと思います。
ともかくも、人間は、そうした矛盾を背負って生きざるを得ない動物なのだ、ということを大前提にした上で、それでもなおかつ他の動物や植物、そして他者としての人間に対して、どこまでの想像力を発揮することができるか。
また、その想像力を梃子にしつつ、背負っている矛盾をどこまで解消していくことができるか、などといった方向に思考が進んでいくようであるなら、現在の、このろくでもない世界より、多少はマシな世界へと変貌できる可能性も見えてくるような気がします。

>ただ、果物の木は、自分の一部を実として提供して、子孫を残す事に協力して貰い、同時に他の生物も生かします。

たしかに。
ただ、完全に放置された自然環境の中では、植物同士での生存競争は行われています。
ある木の日陰になったために枯れてやがて朽ち果てる木もある。
身近でも、雑草が生い茂る中、毎年生えていた草花が淘汰されてしまう例はいくらもあります。
顕著になっていないだけであり、本質的に弱肉強食である点では変わらないでしょう。

植物も動物も、そもそもが「自分を活かす」ために生を...続きを読む

Q身近な洗脳を見たことありますか?

洗脳というと、カルト新興宗教のイメージが、強いですが、
私は、身近に、あるいは社会でよく行われている気がします。
政府が国民を、メーカーが消費者を、経営者が従業員を、教師が生徒を、親が子供を、
洗脳していることは多々あると思います。意図的に、あるいは無意識に。
そのような事例を経験、あるいは目撃したことはありますか?

Aベストアンサー

「洗脳は身近なものである」という視点はとても良い事だと思います。

「それが普通、〇〇に決まってる」と口癖のように言う人がたまにいます。
しかし普通の定義は個人によって違いますし、決まってると言っても公的に法的に定められているものではない。
その人が勝手に思い込んでいるだけなんです。

特に世間など周囲の目を気にする我々日本人は、個が弱い為に自分の考えや価値観を社会常識と混同してしまう悪い癖があります。
物事を言っているのは自分ではなく世間なので、自分は発言の責任をとらなくていいから楽なんですね。

私たちは個人の発言を全体の発言のように感じてしまい日々それに踊らされているのです。

誰が言ったのかもわからない考えや価値観がふわふわとそこらに漂い、それを何の疑いもなく受け入れているのはとても恐ろしいと思います。

Q認識とは何か?

認識論というものの存在を知ったのは実は数か月前のことで、その概要を
知って尋常でない興味を持ち勉強を少しづつやっていた矢先に、認識形式
とかカントのコペルニクス的転回等の質問がありました。
そして、私なりに順を追って理解したいと思い、質問をさせていただきま
した。

1.合理論と経験論の欠陥について。

2.1に対するカントの哲学の優位性について。

3.ニコライ・ハルトマンの認識形而上学の概要を教えて下さい。

4.主観と客観が一致するという仏教の依正不二について概要を教えて下さい。

5.認識とは何ぞや?

どれか一つでも結構ですし、学問の枠に収まらない持論でも結構です。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

1.合理論の欠点→合理性を保証する存在が必要になる。(もしくは、合理性を確証する原理が必要になる)
  経験論の欠点→経験のみで、全ての現象が把握できる理由がわからない。(経験を現象として、無条件に承認する必要がある。
2.カントの優位性
  現象の把握は、感性と悟性によりなされ、それはアプリオリに与えられていると判断。(合理性と現象(経験)は、無条件に保証される)
  現象(経験)により、純粋理性が、その合理的判断を行う事が可能になる。
  つまり、合理論と経験論の欠点を解消できる。
  ただし、純粋理性だけでは、判断不可能な問題は残る。
3.ニコライ・ハルトマンの認識形而上学
  ニコライ・ハルトマンは、認識を、心理学的、論理学的、存在論的、認識論的の4種類に分類し、それを階層的に分析しています。 認識に関して、知覚レベルまで含めるとすれば、カント的な受動的感性が要求する「物自体」の存在の知覚による情動が、その実在性の根拠となると考えています。 また、最終的な認識論において、存在論は、分離不可能なので、形而上学として、認識論を考えるしかないと判断します。
  つまり、カントが「純粋理性批判」において、純粋理性では判断不可能と考えた、形而上の問題を解決しなければ、認識論は成り立たないと言う事になります。
4.これは、他の回答者の回答のとおり、主観と客観の問題では無いと思います。(仏教的な縁起の問題でしょう)
5.認識とは、ある対象に対する、合理的な解釈が結果となる、過程と言えます。 カントにおいては、現象の純粋理性による解釈と、実践理性による解釈があります。
  どちらにしろ、我々が、現象をどのように解釈するかと言う問題になります。(形而上学的問題と考えれば、現象を与える、人間の認識の外の存在への解釈も含む事になります)

多少、誤解されている人もいるかもしれませんが、哲学者のほとんどは、人間が把握する「現象」は、ほとんどの人で同じと考えています。(カントが、悟性と理性を分けたのは、その為です)
後は、現象の理解が、人によって変わると言う事です。
良くないたとえですが、ある映画を、複数の人が見た場合、現象(あらすじ)は、同じでも、現象の関連性の解釈は異なる場合があります。
また、その映画の製作者が意図した理解を観客が得ない場合も多いでしょう。(これは、観客に与える現象が適切で無かったり、曖昧である場合によくあります)
この場合は、はたして、「真理」や「真実」とは、何でしょうか?
製作者の意図でしょうか?、それとも観客が受けた印象でしょうか?
どちらでも、変わらない「真実」とは、映像だけとしか言えないでしょう。
つまり、我々にとっては、「現象」のみしか「真実」と言えないと言う事です。(その裏に隠された意図があったとしても、わかりません)
物理学者が、物理的法則が、宇宙全般で一般的に成り立つと考える根拠は、宇宙が均一であり、特別な局所性は無いと言う概念に基づいています。(宗教の場合は、地球や、太陽、人間、その他の惑星などを特別な存在と考える場合があります)
これも、一つの観念にしか過ぎませんが、実験や観測により、成り立つ範囲を検証しようとします。(これが、科学と言う事です)

1.合理論の欠点→合理性を保証する存在が必要になる。(もしくは、合理性を確証する原理が必要になる)
  経験論の欠点→経験のみで、全ての現象が把握できる理由がわからない。(経験を現象として、無条件に承認する必要がある。
2.カントの優位性
  現象の把握は、感性と悟性によりなされ、それはアプリオリに与えられていると判断。(合理性と現象(経験)は、無条件に保証される)
  現象(経験)により、純粋理性が、その合理的判断を行う事が可能になる。
  つまり、合理論と経験論の欠点を解消で...続きを読む

Q哲学の面白さって?

哲学などの概論を読んでいて、ひっかかる疑問があります。

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。特にカントなどが現れた頃からです。

この人たちが問題にするのは理性とか、存在とかそういうものですが、自分はどうしても科学的な気持ちが邪魔してしまいます。例えば存在するみたいな主題があると、自分は科学的にそれを捉えてしまいます。

存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先祖、つまり人類が生まれた時にまで行きつきます。これを哲学においては、やや抽象的な解釈をする。ここがどうしてもつかめない。それを言えばおしまいじゃないかと思っても、どうしても科学的に考えてしまうのです。

理性とか経験とかもそうですよね。心理学や科学、物理が発展した世の中ではどうしてもそっちで解釈したほうが早くないか?って思ってしまう。でも哲学には哲学の見方がある。これはどうすれば身につくのでしょう?哲学の見方が出来ればもっと哲学を楽しめるのにと思ってしまいます。

Aベストアンサー

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、
だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。
 ↑
この世には色々不可思議なことがあります。
人間は、知性があるので、不可思議な事を説明
しようとします。

最初は神話で説明しました。
しかし、次第に神話では飽き足らなくなり、哲学と
なりました。

その哲学もキリスト教と結びついたので、一神教との
整合性を保つため、やたら理窟っぽくなったのです。




存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先祖、
つまり人類が生まれた時にまで行きつきます。これを哲学においては、
やや抽象的な解釈をする。ここがどうしてもつかめない。
  ↑
人間存在だけではなく、もっと広く普遍化
一般化するのです。



心理学や科学、物理が発展した世の中ではどうしてもそっちで
解釈したほうが早くないか?って思ってしまう。
でも哲学には哲学の見方がある。
これはどうすれば身につくのでしょう?
哲学の見方が出来ればもっと哲学を楽しめるのにと思ってしまいます。
  ↑
哲学の意義は、本来は真理発見にあります。
しかし、真理の発見なら科学の方がはるかに
優れています。

哲学と科学の違いは実証にあります。

科学は実証しますが、哲学はしません。

つまり、実証出来ないモノは科学の対象になりませんが、
哲学の対象にはなります。

そこが哲学の弱点であり、かつ魅力でもあると
考えています。

実証にこだわらなくてよいのですから、自由な発想、
思考が可能です。

その結論が正しいかは、後生になって科学が
実証してくれます。

古代から始まる哲学の歴史を読みながら興味深く読めるのですが、
だいたい近世以降くらい?からか少し難しくなってきます。
 ↑
この世には色々不可思議なことがあります。
人間は、知性があるので、不可思議な事を説明
しようとします。

最初は神話で説明しました。
しかし、次第に神話では飽き足らなくなり、哲学と
なりました。

その哲学もキリスト教と結びついたので、一神教との
整合性を保つため、やたら理窟っぽくなったのです。




存在するっていうのは、単純に親から生まれた。これを辿ると先祖の先...続きを読む

Q素朴な質問シリーズなんですが お知恵を貸して貰えると助かります 続、善悪の定義 (  ̄▽ ̄)ニャリ

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが


集団の教えから離れ
個人的な善悪の判断を迫られた時に
どうやって定義付するのでしょうか?

( ̄~ ̄;)個人的には、どうあっても
善であると、思い込んで生きているが
その、大前提に疑問を抱いた時に

もしも、この世の中に善悪なんて存在しないかも?
でも、自分自身は善であるはずなんだが・・・

そんな状況はまずおこらないでしょうが
おきたとしたら

他人と比較して、他人を悪にしてしまう
悪を造り上げてしまうのかな?
あれは、間違えてるから、悪であって
自分自身は間違えてないから、善である
と、なるのかな?

今ここに居るわたしは、善か悪か解らないが、それで良いじゃないか
と、定義付を辞めるのかな?


誰しも、自分自身が善でありたいとは思われますが

はたして・・・

ほんまに突拍子もない
素朴な疑問なんですが、お時間のあるかた
貴重な回答をお待ちしてますm(._.)m

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが

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Aベストアンサー

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 " も
同じに なるであろう

行動で 云えば 宮﨑駿 の
『もののけ姫』が 語っている
他方から みれば 善 であり
また 他方からは 悪 に なる
それは
一方からは " 生きる為に必要な もの" であり
もう 一方では " 生きる為に取り除きたい もの " なのである
利便 快適 を 相対するもの からみれば 搾取であり
また 同時に 糧である(対する位置に 居るものに取れば)

パンドラの匣に 残った
総ての悪 災 禍 が 去った後に残った 希望
そのひとつは
忘れ去る能力なのだ と思う

ただ 総ての 欲を 葬り去れば
無 に しかならない
待つのは 死 (無)である


と こんな事 考えてみました

浅かったら ごめんね

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 ...続きを読む


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