【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

侍の勝負について質問です。

久しぶりにるろうに剣心の実写版を観ましてですね、「やっぱりアクションは凝っていて、大迫力やなあ」と感心しました。

映画を観てて思ったのが、日本の侍達が活躍してい
た時代(何時代か分からない。すみません。)での刀の勝負って、映画のような激しい、速い、かっこいいものだったのでしょうか?
(かっこいいというのは、ある種の見世物的な。キメ技決めたり、ローマの闘技場のグラディエーターとかのような)

それとも、先に早く抜いて斬り殺した者勝ちですか?
西部劇のガンマンのような感じの。

「ゆくぞ!」
「かかってこい!」
(緊張が解け、両者共に鞘から抜刀して人振り。スパンッ。相討ち)

みたいな。

歴史に詳しい方お願いします。

A 回答 (6件)

戦争ではなく、一対一の決闘形式の斬り合い


ですね。

実際の記録をいくつか紹介します。


永遠に続くかと思われていたにらみ合いを
やって、その後双方が突進した、と思ったら
片方が倒れた。

エイヤ、と斬り込んだが、間合いが遠すぎて
届かず。
それどころが、自分の膝に斬りこんでしまった。

さあ、斬り合いだ、と思った瞬間、意識が遠のき、
相手がはるか遠くにいるように感じた。
気がついたら相手が倒れていた。

誰かが侵入したらしい。
刀を持って待ち伏せしていたが、無性に喉が
乾き、雑巾を入れたバケツの水を飲み干した。
相手はそのまま姿を見せず、逃走。

たかが試合だって、極度に緊張するのが現実です。
それが刃物を持った殺し合いですよ。
緊張は極限状態に達します。
通常の精神状態で殺し合いなど出来ません。





久しぶりにるろうに剣心の実写版を観ましてですね、
「やっぱりアクションは凝っていて、大迫力やなあ」と感心しました。
 ↑
あんなアクロバット剣術など存在しません。
あれは映画用のただの見世物です。

下半身をしっかり大地に踏ん張っていなければ、
作用反作用の法則からいって、人を斬ることなど
不可能です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/12 13:09

現代の剣道と違い、剣術には振り棒の訓練が有りました。

幕末明治の剣客榊原健吉などは、10kg以上の振り棒を毎日4~5000回振っていたと伝わっています。従って剣術の免許皆伝の強者は、刀を指揮棒の様に軽々と扱ったと思われます。

そんな猛者が刃を刃で受ければ、刃こぼれが凄く、又刀身も曲がり、切り合いの続行は不可能でしょう。あの足利義輝は、松永弾正の反乱により討ち死にしましたが、十数本の名刀を畳に突き刺し、のこぎりの様になった刀を取り替えて最後まで戦ったと伝わります。つまり刀身のダメージなしの戦いはあり得ないのです。

かっての剣豪は、砥石迄持ち歩き、真剣での試合や決闘を前にして、刃は蛤刃(鋭い刃を、蛤を合わせたような鈍いものに変える)にしたり、多人数を切り倒すため、脂がのらないように白研ぎ(仕上げ砥を使わない)にしたりしたようです。映画は作りものです。蛇足ですが、戦争映画も実戦とはまるで違うようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/12 13:09

平均的な日本刀の長さは1m前後、重量は1.5㎏。

これって野球のバットよりも長く、5割増しの重いもの。これをあのスピードで長時間振り回すことは至難の業。
 それから日本刀は非常に固い刃物ではありますが、日本刀どうしであんな勢いでガンガン打ちあったらさすがに刃こぼれだらけになります。また変な切り方をしたら刀身が曲がって鞘に収まらなくなるとのこと。だから映画のような激しいものはまずありえないでしょうね。

 また先に早く抜いて切ったほうが云々はその場のシチュエーションによって異なります。戦国時代であれば一対一の真っ当な切り合いが尊重されましたので互いに名乗りを上げてから尋常に勝負ってやつですが、幕末頃になると正当な果し合いってのはすたれ(勝手にやると罪になることも)、集団戦法による1対多、もしくは不意をついた形が多くなっていたようですね。あんまり恰好よくはない。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/12 13:09

かなり確実な資料が残っているのは「池田屋の変」。


大まかにいうと。

新撰組側は4人。
志士側は10~20人前後(確定していない)。

近藤の「御宿改めである」の掛け声とともに乱戦となった。

沖田は体調不良のため早々に離脱。
藤堂も額を割られ序盤で退場。
長倉はかなりたたかったが掌に裂傷を負い終盤戦闘不能。
近藤はほとんど傷を負わず最後まで戦い抜いた。

部屋、廊下、階段、様々なところを駆け巡って戦いが行われた。
長倉は途中刀を破損し、死んだ志士の刀を拾って戦いを続けた。

志士の半数は死亡・捕縛となったが、半数は外部に逃れた。

30分後駆け付けた土方の援軍とさらに後から駆け付けた会津軍により、市中掃討が始まる。

まあ30分の間
1階と2階を駆け巡りながら
鉄の棒を上げ下げし続ける
というのは、超人の技だと思いますが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2018/10/24 23:18

武士が習う剣術にも流派(北辰一刀流など)という物があるのでキメ技とまではいきませんが流派特有の技名などはあります。



侍の勝負というのが1対1の決闘の事でしたら、場所と日時を書いた果たし状を送って行われます。その段階を踏んでいない突発的な場合、相手が刀を抜き、それに応じて刀を抜けば決闘成立です。勝手に切りつければただの辻斬りになります。
決闘は真剣で行うので、勝っても負けても軽重傷を負ったり、最悪死んだりします。(真剣勝負という言葉はこういった所から来てるんでしょうね。)


しかし、江戸時代でそれを行えば、領内での乱闘、殺人事件となりお縄案件です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/12 13:09

質問が曖昧すぎて答えづらいですが、1対1の決闘は置いておいて、集団戦となると主役は弓矢と鉄砲です。

歩兵の主な武器は槍です。刀は、倒した敵兵の首や鼻を切り取り、軍功の証拠として上官に提出する為に使うのが基本です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/12 13:09

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aと関連する良く見られている質問

QNHK大河ドラマ『西郷どん』は本当?

西南戦争の最中に、西郷隆盛と奥さんが戦場で対面したという話は本当ですか。信じられない。

Aベストアンサー

島流しから戻った後、1度再会したと記憶していますが、西南戦争のときではなかったのでは。
ドラマだから現代の人のウケが良いように脚色してあるのは当然のことです。
もし真実をそのままドラマ化すれば、西郷さんに対するイメージが悪くなってしまうかもしれませんからね。
まあ、今と時代が違うんだから、何が善で何が悪かなどなど、価値観も違うのだから
もしタイムテレビのようなものがあってそれで西郷さんとその周辺を見たら、ショックを受けるかもね。

Q1600年関ヶ原の戦いで宮本武蔵は本当に戦に参戦したんですか? もし参戦したのならどのくらいの活躍し

1600年関ヶ原の戦いで宮本武蔵は本当に戦に参戦したんですか?
もし参戦したのならどのくらいの活躍したのか詳細まで知ってればなによりです。

Aベストアンサー

はじめまして、

No3さんの内容にほぼ同意なのですが、宮本武蔵が関ヶ原合戦に参加しただろうというのはほぼ定説です。
16歳でしたら元服をしている可能性が高いので、当時でしたら一人前、戦争に参加するのはあたりまえでしょう。

規模のおおきい戦場では多数の軍勢がぶつかりますので、剣豪とはいえ活躍するチャンスはありませんし、実際記録もありません。
島原の乱にも幕府軍の一員として参加していますが、一揆軍の投石により負傷しているぐらいです。
剣豪といえども一対一ならともかく団体戦や乱戦になればたいしたことはないんですね。

以下ウィキから2カ所を引用します

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。

島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。

宮本武蔵(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵
(URLはコピペしてください)

はじめまして、

No3さんの内容にほぼ同意なのですが、宮本武蔵が関ヶ原合戦に参加しただろうというのはほぼ定説です。
16歳でしたら元服をしている可能性が高いので、当時でしたら一人前、戦争に参加するのはあたりまえでしょう。

規模のおおきい戦場では多数の軍勢がぶつかりますので、剣豪とはいえ活躍するチャンスはありませんし、実際記録もありません。
島原の乱にも幕府軍の一員として参加していますが、一揆軍の投石により負傷しているぐらいです。
剣豪といえども一対一ならともかく団体戦や乱戦にな...続きを読む

Q今年の大河ドラマ「西郷どん」と2008年放送の「篤姫」とを見比べて思ったのですが、「篤姫」では篤姫が

今年の大河ドラマ「西郷どん」と2008年放送の「篤姫」とを見比べて思ったのですが、「篤姫」では篤姫が幾島に文を託すも西郷に断られ、勝海舟に父成彬からの文を託し、それが西郷の心を動かし、江戸無血開城が決まり
、篤姫自身は西郷には会ってないようですが、「西郷どん」では勝海舟に会う前に幾島とも篤姫とも会う設定になっていますが、史実からするとどちらの方がより正しいのですか?

ナレーションでは「実に12年ぶりの再会となりました。」とあるので、「西郷どん」の方が正しいのでしょうか?

Aベストアンサー

史実には諸説あります。
だから小説も多数の作家のものがあります。
小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。

篤姫の場合、記録が少なく、NHKドラマは「脚本」があたかも
本当のように面白く(悲しく)描けていました。

西郷と勝の江戸城無血開城交渉は緊迫したなか行われましたので
これ以前に江戸城に入るのは無理だと思われ、これはドラマを
面白くするための脚本の所作と思われます。
つまり「西郷どん」はフィクションです。

そもそも、この時代のトップには「内戦回避、外国からの介入
回避」の認識があり、第一次長州征伐では激戦が起こりませんでした。
では薩長と徳川のNO2・3とNO1の激突である倒幕に何故
西郷は舵を切ったのでしょうか。
長州はともかく、西郷薩摩には「舵を切って」も「激突は回避され
る」と踏んでいたのでは、ないでしょうか。
こういう推理がスリルなのです。
歴史探訪の醍醐味です。


西郷さんには思い入れが強い人が多く、よく描かれることが
多いようです。
「人を愛し、弱きを助け、国を憂え、強くをくじき、ブレル
 ことなく突進し、信念は生涯変わることはなかった」など
と描かれ、作られる。
実際には、迷い、悩み、試行錯誤し失敗もし進んだのでは
ないでしょうか。
完全な人間などはいないのです。

史実には諸説あります。
だから小説も多数の作家のものがあります。
小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。

篤姫の場合、記録が少なく、NHKドラマは「脚本」があたかも
本当のように面白く(悲しく)描けていました。

西郷と勝の江戸城無血開城交渉は緊迫したなか行われましたので
これ以前に江戸城に入るのは無理だと思われ、これはドラマを
面白くするための脚本の所作と思われます。
つまり「西郷どん」はフィクションです。

そもそも、この時代のトップには「内戦回避、外国からの介入
...続きを読む

Q西郷隆盛は天才だったのでは?

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の人間だったにも関わらず、弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、日本の進むべき方向性を理解し、今やるべきことをわかっていた人のように感じます。

 そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。

以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?

Aベストアンサー

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
  ↑
ここがポイントです。
西鄕さんが解りにくいのは、私欲に乏しい
からだと思います。
私欲に乏しいから、どういう人間像なのか
把握しにくいのです。
彼ほど解りにくい人物はおりません。



以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能
を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?
 ↑
特別な才能を持っていたのではなく、私欲に乏しかった
ということだと思います。

彼は一度死んでいますね。
あれで私欲を無くしたのでしょう。
私欲が無くなれば、適格な判断が出来るように
なるのです。

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
  ↑
ここがポイントです。
西鄕...続きを読む

Q60代後半〜70代前半の方達に、「昔は貧しかった。スマホやゲームもない。今の若者が羨ましい。」 とよ

60代後半〜70代前半の方達に、「昔は貧しかった。スマホやゲームもない。今の若者が羨ましい。」
とよく言われます。

※「貧しかった」は戦後の混乱期を指します。今年81歳になる祖父に当時の苦しさを頻繁に聞かされてるんで、よく理解してます。

この世代は、スマホがない。ゲームがない。貧しい。と思って暮らしてたわけじゃありませんよね?存在を知らないし。戦前の記憶もないんですから。
戦後混乱期〜昭和30年頃の娯楽を調べてみると、その時代はその時代なりの娯楽を楽しんでおり、今に比べて大勢で仲良く遊ぶことが多く、私からすると羨ましいです。

今の若者達だって、これから技術の発達で50年後くらいには、もっと便利な暮らしが当たり前になって、今の暮らしが不便に感じる時が来ると思います。

だから、今の若者も60代後半〜70代前半の方達もお互い様。一緒だと思うんですが、間違ってるでしょうか?

Aベストアンサー

アラフィフです。親が戦中の生まれなので、質問者様の祖父と同じぐらいです。

私の親も「昔は貧しかった。お前たちはいいな」と言われました。確かにアラフィフとはいえ、いや今のねんだいだからこそ高度成長期からバブルの恩恵を受けた世代であるとはいえます。

また私の祖父(すでに他界しましたが、生きていれば110歳)も私に「昔は貧しかった・・」といいました。祖父は大正デモクラシーの豊かな時代に青春を過ごしているので、戦中生まれの父よりも豊かだったはずなのにです。

そしてアラフィフになって最近周りの人たちが「昔は良かった。今の若者は・・」と言いだし始めました。

個人的にはすごくイヤです。少なくとも私たちの世代はバブルの真っただ中でまだネットも携帯もない(出る直前)でしたが、それでもものすごく豊かだったしバカなこともたくさんやってきた世代だからです。

だから年寄りが「昔は○○だった・・」というのは、適当に相槌をうっていればいいのです。そのかわり自分が年寄りになったときに「昔は○○だった、と言わない」覚悟はもってください。

Q【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川】 【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座

【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
座して喰らふは 徳の川】

【織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
座りしままに 食うは徳川】


お餅をついて食べるまでを天下統一に例えたこの詩。
数種類ありますが、正しいのはどれですか?

Aベストアンサー

「天下餅」の狂歌は初出がいつで、出典がどこかはっきりしていません。
一応、「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは徳川」であれば下記にデータがあります。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076300

Q織田信長 謀反の明智光秀は、思いつきで 【やるなら今 敵は本能寺にあり】と たまたまいた 京都ちかく

織田信長
謀反の明智光秀は、思いつきで 【やるなら今 敵は本能寺にあり】と たまたまいた 京都ちかくにいたから??


朝廷に対して敬意が無かったから??

…で 織田信長には 息子がいたかと思うんですが 秀吉は仮の征夷大将軍ですよね?

何故に天下取ってんの??

Aベストアンサー

明智光秀の話は、後世の作り話。
あり得ないです。

秀吉は太閤です。
征夷大将軍は、源氏の子孫で無ければ成れない。
信長の息子たちは、全てぼんくらで、天下人に成る資格は無い。
力がなければ、殿様には成れない、実力社会でした。

Q昔のヨーロッパでは残虐な方法で殺戮をする魔女狩りというものが流行りましたよね。そこで質問なのですが、

昔のヨーロッパでは残虐な方法で殺戮をする魔女狩りというものが流行りましたよね。そこで質問なのですが、アメリカが日本に原爆を落としたことを正しいと言う人がいるように、魔女狩りを正当化するヨーロッパ人はいますか?もしいるのならその数はどれぐらいなのでしょうか?

また、魔女狩りが与えた大航海時代への影響はどんなものがありましたか?海賊や政府とかと関連したものがあれば教えていただきたいです。

Aベストアンサー

>魔女狩りを正当化するヨーロッパ人はいますか?

変わり者はどこの世界にもいるでしょうが、一般的にその様な人は皆無かと憶測します。
理由は現在のヨーロッパ人の価値観は、その様な魔女狩りをするような野蛮な宗教価値観から脱却して勝利した人たちによって作られたからです。これは、人権思想の誕生にも関わっていきます。原爆投下は、アメリカは戦争に勝った側ですので「勝てば官軍」のごとく自己正当化が可能ですが、魔女狩りを正当化する側は負けているので状況が全く異なります。



具体的には、30年戦争で勝負が決しました。30年戦争は、野蛮な宗教価値観から脱しようとする者と、伝統的な宗教価値観を守ろうとする者との総決算です。最終的に野蛮な宗教価値観から抜け出そうとする勢力が勝利し、現在のヨーロッパ社会が作られました。

このような前近代の野蛮な宗教価値観から脱する事を、近代化と呼びます。
現在のヨーロッパ人は、プロテスタントもカトリックも近代化されているので、魔女狩りを肯定するような価値観を持っている人は皆無と思われます。


勿論、魔女狩りを正当化するような変わり者はどこの世界でもいるでしょう。
当時の価値観では魔女を処刑する事は正義でした。

その宗教価値観から抜け出せないものが、現代のヨーロッパにどれだけいるかは不明です。
地下にあるカルト宗教など、影で信仰している人たちでしょうか。どちらにしろ、かなり少ないかと思います。

>魔女狩りを正当化するヨーロッパ人はいますか?

変わり者はどこの世界にもいるでしょうが、一般的にその様な人は皆無かと憶測します。
理由は現在のヨーロッパ人の価値観は、その様な魔女狩りをするような野蛮な宗教価値観から脱却して勝利した人たちによって作られたからです。これは、人権思想の誕生にも関わっていきます。原爆投下は、アメリカは戦争に勝った側ですので「勝てば官軍」のごとく自己正当化が可能ですが、魔女狩りを正当化する側は負けているので状況が全く異なります。



具体的には、30年戦...続きを読む

Q三国干渉(1895年4月23日)というのは、歴史上の事例はあったのでしょうか?

三国干渉とは「第三者である三国が戦勝国に分け前を少なくせよ」と勧告した事例であると考えます。

このような歴史上の事例は、外にあるのでしょうか?

宜しくご教授ください。

Aベストアンサー

露土戦争のあとのベルリン会議が似てるでしょうか。

Qなぜ、戦国時代に、手柄をほめる”感状”を女性に送る習慣がなかった、のでしょうか?

小和田哲郎監修の“戦いの作法”を読んでいます。
戦国のおんな武者について、次のように書いております。
<残念なのは、手柄をほめる「感状」を女性に送る習慣が戦国時代になかったこと。こうした文献があれば、もっと多くの女武者が後世に名を残していたからもしれない。>
なぜ、戦国時代に、手柄をほめる感状を女性に送る習慣がなかった、のでしょうか?

Aベストアンサー

類推ですが・・

感状は鎌倉時代から存在し、主君クラスの上位者が武勲を立てた功労者に贈るもので、直筆・花押という公文書的性格の強いものであったようです。これが戦国時代のような下剋上の時期になると、感状は「推薦状」としての機能も果たすようになり、戦に敗れて主君が死亡し、浪人になった時などにも「これだけの感状をいただいているので、私を召し抱えると有益でしょう」という売り込みに使えたはずで、というよりそのために感状は発給されたとみるべきでしょう。

今でいえば勲章のようなものであり「その人の実力をそのまま示すもの」だったといえます。

戦国時代は女武者が全体の3割程度居たのではないか、と推測されています。それも有力な武将レベルではなく足軽などにも結構いたようです。

これは農民の生活が「領主と盟約を結ぶ安全保障」だったからです。個人の土地の所有権を領主が保障する代わりに、戦争時には庄屋クラスが地域の農民を連れて参戦する約束をしていて、農民個々人の家から男性を出せない場合には女性が替わりに出ていた、と考えられています。

秀吉の刀狩以降は、農民と武士を分離させ、職業軍人と職業公務員である武士と農業を主体とする農民を分離させ、同じ家系でも武家と農家に分かれて行くのですが、それ以前は武家と農家が未分離で、農家の後継ぎになれない次男以降は「武功を立てて職業軍人になりたい」という人がおおかったのです。

感状はこれらの「跡継ぎになれないのだから、軍人として成り上がりたい」という人々の求めに対して「武功を証明する」ものだったといえます。

女性は武功はたてたとしても「職業軍人」になる道はありません。参加は、あくまでも「男が出せないため」だったわけです。となれば女性に感状を出しても役に立たないので、出さなかったと考えるのが自然だと私は考えます

類推ですが・・

感状は鎌倉時代から存在し、主君クラスの上位者が武勲を立てた功労者に贈るもので、直筆・花押という公文書的性格の強いものであったようです。これが戦国時代のような下剋上の時期になると、感状は「推薦状」としての機能も果たすようになり、戦に敗れて主君が死亡し、浪人になった時などにも「これだけの感状をいただいているので、私を召し抱えると有益でしょう」という売り込みに使えたはずで、というよりそのために感状は発給されたとみるべきでしょう。

今でいえば勲章のようなものであり...続きを読む


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング