マンガでよめる痔のこと・薬のこと

1. 【Q:認識論における《コペルニクス的転回》の成否を問います。】は
《空間》編です。

2. この《時間》編は カントの文意がなかなか捉えがたく そこで次のく
だりについて それをどう読むか? そのよい読み解きはどうなるか? おし
えを乞いたいという質問です。

3. ▲(カント:時間は アプリオリな認識形式である) ~~~~~~~
4. それだから(☆ 省略)我々は 時間の経験的実在性――換言すれば
およそ我々の感官に与えられ得る一切の対象に関する客観的妥当性――を主張
する。

 ☆ 4-1. 《時が流れる》という素朴に実在的な感覚が われわれ人間
   にはある。と。

5. 我々の直観は幸いに感性的であるから 我々の経験には時間という条件
に従わないような対象は決して与えられ得ない。

 ☆ 5-1. 《感性》は その《時の過ぎゆくこと》を感じ逃さないとい
   うことだろうか?

6. しかし我々は 時間が絶対的実在性を要求することをいっさい拒否する。

 ☆ 6-1. 《絶対的》なる表現は問題だが ただし その拒否の心はい
   かなる内容か?

7. かかる実在性は 我々の感性的直観の形式を無視して 物の条件或いは
性質としてそのまま物に付属することになるからである。

 ☆ 7-1. それは 《絶対的》と むしろカントが先に一方的に条件づ
   けた表現をおこなったからではないのか? 
   
   7-2. だが 例の《物自体》を仮設するからには 《絶対性》は必
   要であって それによってどうしても《経験ないし現象》とは切り離す
   ということだろうか? ――次のくだりからは どうもそうらしい。

8. 物自体に帰せられるような性質は 感性によっては決して与えられ得な
い。

 ☆ 8-1. 感性は――たとえば恥ぢ意識ないしヤマシサ反応として――
   天与の《良心》というハタラキの成せるわざであり得ると考えられ そ
   れは 《物自体》とかかわっていることではないのだろうか?

9. これが時間の先験的観念性(主観性)の主旨である。

 ☆ 9-1. 《絶対性》を想定するかぎりで 《先験的・アプリオリ》で
   あることは そのままそれとしてみとめられよう。定義の問題である。

   9-2. ただし その《先験的・アプリオリな〔言ってみれば〕超主
   観性》に《時間》というものが入っているのか? 

   9-3. 入っている・つまり《時間なる形式》が 良心と同じように
   われらが自然本性に確かにそなわっている・・・として そうだとした
   場合 けれども その《アプリオリなそなわり》は 感官がそこから刺
   激を受ける対象のほうにも――経験世界なる場として――同じくそなわ
   っているものではないのか?

   9-4. 《時間の先験的観念性(主観性)》は 《時間〔および空間〕
   が経験世界において――それは 四次元の座標として分かりやすく捉え
   られるようなその――場と 互いに呼応していると言わざるを得ないの
   ではないか?

   9-5. なんで人間の主観のほうにだけ認識の形式としての時間〔お
   よび空間〕が 対象たる世界〔との接触〕より先にすでにはたらいてい
   る・・・と言えるのか?

(I.カント:『純粋理性批判』Ⅰ・第一部門・第二節 時間について 6
これらの概念から生じる結論 ( c ) 篠田英雄訳 1961 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

10. 《コペルニクス的転回》は 時間・空間という形式が 生まれつき人
間にそなわっているというだけではなく さらにそのハタラキが 実際の時空
間なる経験世界とわれとの接触に先行する能力だと言えなければ 成り立たな
い。はずではないか?

10-1. その《先行性》は 時間的なあとさきのことであるよりも われ
われが対象を認識するときに 主導性を発揮するという意味であるらしいから。

10-2. 経験事物たる対象やその経験世界にわれわれがあい向かい合うこ
とによって 時間や空間をわれわれが認識するということ(その意味での天動
説)ではなく すでに初めに先にわれわれの身心たる存在の側に 時間空間な
る認識の形式がそなわっていて その物指しのごとき・人間の側の形式によっ
て世界を捉えるもの(その意味での地動説)であるからこそ 人間による認識
というものが成る。・・・ということであるらしい。

10-3. どうしてそんなことが言えるのか? いわゆるヒラメキや良心の
呵責といった心の動きは おそらく人間の側の――意志による――ハタラキだ
けなのではなく それ以上に何か経験事象を超えたチカラがかかわっているよ
うに思われることがある。あたかもそのような直観と同じように――時間なる
形式について――推し測ることが出来るだろうか? 知り得ようか?

10-4. そうだとしても――出来る・知り得るとしても―― それは 対
象たる環境世界〔が時間や空間として成り立っていること〕と 同時一体なの
ではないか? (=9-3や9-4)。

A 回答 (1件)

そういえば時間を経験することはなんなので物販僧ね。


時間を体験。デモ老化はする。

藻が南穴よ。
指定だの先生だのもみ上げだの

揉むだの。

カントの話だそれより。
数学的経験という本は有るの今検索したらスクロールシア。
とか現象学とか南アのd章ね。
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QHaruさんの存在主義の欠点は何ですか

客観的情報が欲しいのでHaruさん以外の人に回答して欲しいです。

Aベストアンサー

Haruさんとは誰?

Q数学に造詣の深い方、ここにいらっしゃいますか?

教えてもらいたい事があります!
もしいらしたらレスを!

Aベストアンサー

まぁ、まぁ、
しかし、
数学のカテゴリーにしないと、
見てくれる人は少ないと思いますよ。
造詣の深い人は。

もう一度質問を出された法が良いかもしれませんね

Qなんで《物自体》なんていうものを言いだしたのか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の先天的形式(範
疇)によって総合的に構成されたものである。

4. したがって、われわれのもっとも素朴な感覚与件でさえ、すでに空間・
時間という主観の形式を経由したものであるから、われわれは感覚を刺激する
外なるものをそのあるがままに認識することができない。

5. それをカントは物自体とよぶ。

6. のち『実践理性批判』においては、物自体の世界を自由の概念と結び付
けて、現象界に対して叡智界(えいちかい)と名づけた。

7. 物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が
集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に
始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であった
ともいえる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


8. 解説〔に依拠しその内容〕をめぐって問うといういささか邪道の質問で
すが 次のように問い求めます。


9. もし:
▲(3) ・・・世界は、従来思われてきたように物のあるがままに現れてい
るものではなくて
☆ という条件を前提するのなら すでにそこから帰結する内容は敷かれてい
るのではないか?


10. つまり 《物のあるがまま》〔の姿〕は:

(あ) 人間の能力では認識しがたい。または し得ない。――かまたは:

(い) 認識し得るのだが それは 部分的な内容とならざるを得ない。そし
て 認識そのこともあやまち得る。――さらにあるいは:

(う) 《物》は 《人間が認識しうる言わばその仮象》とそして《認識し得
ない本体》とに分かれる。

☆ といった可能性がすでに孕まれている。はずだ。

11. つまり 前項の(う)から 《物自体》を想定することがあり得たと
しても ただそれだけのことに過ぎない。のではないか?

12. つまり 物自体を想定しようがしまいが 《人間の認識能力には限界
がある》という命題を言ったまでである。と捉えなくてはならない。はずだ。


13. なんでこの物自体が《現象界に対する叡知界》のことに成るのか?

14. 叡知界たる物自体に就くならば 《実践理性》としての《自由意志》
が実現し得て ひとは自由であると成るといった議論に発展するのか?

15. 無茶である。それなら 形而上学的実体なる神を据えている議論と違
わないのではないか?

16. カントは阿呆ではないか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の...続きを読む

Aベストアンサー

カントはついに神の心を感じる事が出来なかったか、或いは感じようとしなかった、なのでしょう。
それ故に、叡知界を無理やりに理的に解釈したのだと思います。

これでは埒は開かないと思います。

もっと素直に、私のように、人の心は宇宙の本体・霊体の心と本質は同じなんだと、受け止めるべきでした。
霊体に慈悲の涙があるからこそ、我々の心にも思いやりの涙を流せる働きがあるのだと。

Qヨーロッパ人の真理論は成っていない!?

1. 次の見解に示されたヨーロッパ人の真理論は どの説もあやふやであり 成
っていない。という見解を示して問います。

2. ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86

§ 1 西洋哲学における真理論

真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。

A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:
res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。

アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、
バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッ
ド・タルスキ、カール・ポパー

B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的
な真理観。
    
中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル

C. 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
    
ルネ・デカルト、エトムント・フッサール

D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
    
フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ

E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
    
チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス

F. 真理の定義不可能説:命題 P は命題「命題 P は真である」と同値であるから、
真理の概念は定義不可能であるという立場。
    
フレーゲ

G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 P は真
である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
    
フランク・ラムゼイ

H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
    
アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理
的で演繹的な真理観。
☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよい
のだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分
からないかが分からないナゾである――を 真理として想定しますよと。


4. 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名
づけたというだけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこ
の仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが
――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。人間が勝手
につなげたことになる。自然の驚異かつ脅威は 神の怒りであり天罰だという説を
みちびく。

5. 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によ
れば 真理は 人知を超えており 人間に理解しうる整合性から自由であるのだか
ら。有無を超えており 善悪の此岸ではなく彼岸であり 或る意味で人間の判定す
る真偽をも超えている。


6. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。
☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並
列させても それらを真理は超えており それらから真理は自由であるのだから。


7. 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題(その判
断)として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問う
ている。絶対としての真理ではない。


8. まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題につ
いて まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なさ
れる。――これが:
▲ C. 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことで
ある。


9. すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事
実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 
真理ではなく 真実である)。すなわち:
▲ A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」
(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。


10. そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真
実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく
自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が
成る。


11. この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえ
ば意志自由とその相互尊重にもとづく民主制なる理念など―― これは 共同主観
(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。
すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。


12. 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 
部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であると
する。
 


13. 民族(≒その一定の言語)の文化をさらにその独自性において重く見る立
ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではな
く 真実である):
▲ H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。


14. この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでも
う一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば そ
れが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただ
し 真理ではなく 真実である):
▲ G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 Pは
真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。


15. それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたた
びのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理なる桃源郷を提示する道にのがれる。:
▲ F. 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、
真理の概念は定義不可能であるという立場。

☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり(3)に戻って 真
理を 《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として
想定すればよい地点に戻っている。

16. ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。

1. 次の見解に示されたヨーロッパ人の真理論は どの説もあやふやであり 成
っていない。という見解を示して問います。

2. ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86

§ 1 西洋哲学における真理論

真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。

A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:
res、レス)が一致ないし対応していることが真理で...続きを読む

Aベストアンサー

我が家の神棚には、祓い清められたお神札があって、真理とは斯く斯くと書かれている。耶蘇教のお札は捨て、須く各人もこれにならうべし。
という主張になっていないかをちょっと検討しましょうか。ご自身の真理説を正面に打ち出す論考ではないという点は割り引くつもりですが、対質に充分かは問題とします。

ウィキペの説明を利用した、「想定すればよい地点に戻っている」という論法は殆ど無意味でしょう。ウィキペのならべた立場は、何方かの記述を参照したのかも知れませんが、まあ言わば素朴実在論を基とした上での分類に過ぎない。真理概念無用とか定義不可能とかを同列にならべるなど、無雑作に集めたに近い。

真理と真実とを区別して、大半が後者に過ぎないというのが、ご批判の基調になっています。その中で、規約主義を<部分真実>としています。bragelloneさんの見解からはそうだとしても、彼らが実際に、何を「真理」としてそれを言っているのかの検討は不要なのか。言語に依存するという側面から、相対的・限定的だろうと見るのは可能であるとしても、対象とされる「真理」は果たして相対的と見うるものか。真理・真実の区別の可否に関わらないか。言語を問題とする人たちが語る「真理」とbragelloneさんの「真理」は、真理・真実の区別とも違う、ということはないのか。言い換えると、言語の問題と見るという時点で、「真理」概念がそれまでのものと大きく変わっている、と見られるのではないか。

例えば、bragelloneさんの言う「事実認識」の例で考えてみましょうか。
10kgの鉄球と500gの木の玉とを同時に手を離して、どちらが先に地面に着くか。義務教育の悪い影響を受けていない人なら、鉄球と答えるでしょう。手に持っただけでもう分かる。強い力で引かれているから重い。より強い力はより速い速度を生む。さあ、両手に持って同時に落としてみましょうか。鉄の方が先に地面に着く!
「重たいものは先に落ちる」は真実であっても、真理とは呼ばない、というのがbragelloneさんの「真理・真実」の解釈ですね。それは規約主義にとっても真理ではないだろう。理論「重たいものは先に落ちる」と実験結果とが一致したとしても、理論の蓋然性が増しただけである、としているのではないだろうか。実際の規約主義を知りませんが、おそらく、realな事柄についての「真理」には触れないのではないか。
しかし、ガリレオ・ガリレイにとってはそうではなかった。理論「重たいものは先に落ちる」が、真理であるのか否かは実験によって厳密に検証されるべき事柄だったはず。解明されるべき・解明された自然の法則を、真理と呼ばない方がどうかしている。ガリレオは自然学者で哲学者ではない、などという解釈は西洋の学問を知らない者でしょう。
その理論・実験を「真理の対応説」に填めて、十把一絡げに数え上げたのがウィキペですね。bragelloneさんの見解も、そこにあるのは事象の説明原理として認証されたものに過ぎない、として精々「真実」なのだ、とする。

さて、ヨーロッパ人ではない者として、「真理」と「真実」は分けなければならない言葉なのか。別概念として、現に日本人に在るのか。
哲学なるものを勉強し始めた若者とか、学問を目指そうと目覚めた者なら、「真理を求める」とか何とか思うかも知れない。その時は神棚に奉られるようなものと思っているのかも知れない。しかし少し反省すれば、「真理」を奉るというのは、馬の鼻先に人参をぶら下げるのと同じこと、と分かるのではないか。「真理」なるものがあると思うのも、真理と真実とを区別するのも、その人の自由。私にとっては、先に来るのは「正しい」であって、「それは真理だ」とか「真実だ」などという表現は気取ってみたときしか出てこない。精々、有形であれば「真実」、無形は「真理」、どっちで良いときは「真」と使い分けるか、というところ。
因みに、我が家に神棚はない。

我が家の神棚には、祓い清められたお神札があって、真理とは斯く斯くと書かれている。耶蘇教のお札は捨て、須く各人もこれにならうべし。
という主張になっていないかをちょっと検討しましょうか。ご自身の真理説を正面に打ち出す論考ではないという点は割り引くつもりですが、対質に充分かは問題とします。

ウィキペの説明を利用した、「想定すればよい地点に戻っている」という論法は殆ど無意味でしょう。ウィキペのならべた立場は、何方かの記述を参照したのかも知れませんが、まあ言わば素朴実在論を基とした...続きを読む

Q閲覧ありがとうございます。唯物主義に生きがいはありますか? 人間は物質からできているので精神活動も物

閲覧ありがとうございます。唯物主義に生きがいはありますか?

人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものです。
水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう?
尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。
科学の観点から自由意志は錯覚とされています。世界は物理の法則に従って動いているため、自由意志は錯覚と考えるのが普通でしょう。
また意識は傍観者で、自分は人生という映画を観ているだけでしかない。
クオリアも錯覚という説もあります。

また、人間のすべての行動は利己的です。(利己的遺伝子論) 母親が子どもを愛するために取る自己犠牲の行動、助け合うこと、またそれらを美しいと感じること…すべてに関して利己的。遺伝子の思うがままになっていると思うと、やや恐ろしくも感じるし、行動が遺伝子にコントロールされていると思うと、虚無感も感じてしまいます。

何をしても楽しくないです。例えば、奇麗な夜景を見てホッとしますが、
すぐさまこれも遺伝子にプログラミングされた自動的な感情(錯覚)だ気づき絶望します。

しかし、生命及び精神活動が科学的に解明されても、その仕組みが分かっただけで本質(中身?)は分からないと言いますが、中身(主観?)なんてないんじゃないでしょうか?
精神活動などあみだくじのようなもので、ある入力がされたらある出力がされるだけで
自分とか主観とかそんなものはなく、今こうしてこう思った!考えた!も自動的な計算による出力にすぎない。機械と大して変わりはない。

いろいろ考えた結果、自殺ということが頭に浮かびます。
しかし、世の中の唯物論者(この定義がそもそも間違ってるのかもしれませんが、スピリチュアルなことを信じない科学的な人です)の方が全員自殺されてるわけではないですよね?どうしてでしょう?何に生きがいを持ってるのでしょうか?
虚無感に襲われて辛いです。生命、精神、存在などの素晴らしさについて教えてください。
哲学や科学について素人なので簡単な言葉で教えてくださると嬉しいです。
どうかよろしくお願いします。

閲覧ありがとうございます。唯物主義に生きがいはありますか?

人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものです。
水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう?
尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。
科学の観点から自由意志は錯覚とされています。世界は物理の法則に従って動いているため、自由意志は錯覚と考えるのが普通でしょう。
また意識は傍観者で、...続きを読む

Aベストアンサー

酸素と水素が「化学反応すると」、水になる。

では、何故、空気中に、酸素があり、水素があるんですかね?

地球上、何故、水だらけにならないんですかね?

確かに、化学的には、そうかも知れませんが、二酸化炭素も硫酸も
実際に存在していますよね。

結局、人生なんて、無限に近い組み合わせのなかで、その時々で、
「化学反応」を起こしているので、それほど真剣に考える必要はないのでは?

「人間のすべての行動は利己的です。」といっても、「種の保存」の本能から
言えば、当然でしょう。

「遺伝子」だ、「ミトコンドリア」だ、と言ったところで、これらは「複製」を
求めているだけで、「誰を好きになれ」とか「誰を嫌いになれ」なんて言っていません。

外国人と結婚しても、同郷の人と結婚しても、構わないのです。
それこそ「自由」です。
自由すぎて最近うるさい「同性愛者」なんてのも居ますが、
「遺伝子」が反対した、なんて話は聞いたことが無い。

実は、私も若い頃、同じような考え方を持ってましたが、ズボラなので、
3年ほどで、すっかり忘れてしまったようです。

選択肢は、極端ですが、無限にあります。

下らない「極論」に振り回されないことです。
「極論」とは、その論を成立させるために、多くの有用な実体を、
無視し、捨て去って成立しています。

大抵は、全く役に立たない。

酸素と水素が「化学反応すると」、水になる。

では、何故、空気中に、酸素があり、水素があるんですかね?

地球上、何故、水だらけにならないんですかね?

確かに、化学的には、そうかも知れませんが、二酸化炭素も硫酸も
実際に存在していますよね。

結局、人生なんて、無限に近い組み合わせのなかで、その時々で、
「化学反応」を起こしているので、それほど真剣に考える必要はないのでは?

「人間のすべての行動は利己的です。」といっても、「種の保存」の本能から
言えば、当然でしょう。

「遺伝子」だ...続きを読む

Q新知見や新理論が提出されたなら 問い求める自由な人間は 寄ってたかって批判するものである。

学問というのは 誰でもよい ひとりがみづからの研究の成果を得たなら 
ただちにその新知見を発表するものです。

そして 寄ってたかってその新理論を批判する。これが ふつうのナラハ
シです。


自然科学ではおこなわれているはずです。おそらく研究の途中の過程です
でに意見交換がなされていましょう。

ところが 人文・社会科学の方面では――日本人だけの陋習かも知れない
のですが―― なあなあで進めて シャンシャンで済ませる。学者らのヒ
エラルキアをまもることが第一だというナラハシのもとに 一日一日が過
ぎて行きます。



人間の自由と学問の精神は どこに行ったのか?

日本人の《奥ゆかしさ》は 杭の出ることを好まず望まないというのか?



その代わり 学問のエピゴーネンらのあいだでは――親分一統の中でをむ
ろん別として―― 足の引っ張り合いだらけである。それ以外にやること
はないのか? と言いたくなるのが この哲学カテである。きみよ どう
なのか? どうなんだ?

Aベストアンサー

>新知見や新理論が提出されたなら 問い求める自由な人間は 寄ってたかって批判するものである。
それに類することを、
・科学と非科学の違い
のようなこととを科学技術カテで回答したことがあり、確かに、
・新理論に対し寄ってたかって批判する。
と書きました。

でも、
・新知見に対し、とは書いていない。(新理論に対して、であるため。知見の実験条件に対する批判はアリとする。)
・問い求める自由な人間は批判 とは書いていない。(新知見や新理論の意味を解っているヒト限定であるため。)

以下なら解るけど。
・新知見に対し、論文通りに誰かが再試験して、論文と違った結果が出たから再試験に関わった者が、反論記事書いた
・論文の計算式(あるいは前提条件)に間違いがある、という指摘。問い求める自由な人間ではなくて、それなりの素養があるヒトが反論する。

よって、「問い求める自由な人間の批判」なぞ、あっても無くても学術的な意味は無いのだけどね。

>人文・社会科学の方面では――なあなあで進めて シャンシャンで済ませる。
とうの昔に、中核部分に爆撃を受けていて、今さら爆撃する意味がない、それだけ。
爆撃内容だけど、ポパーの「反証可能性」。いわゆる、(自然)科学と似非科学の判別ルールとして有名。
なので、人文・社会科学の新理論とは、「反証可能性が無い新理論」なので、(自然)科学のかたは静観。
人文・社会科学のかたは、自分の理論が、「反証可能性」のブーメラン受けたくないので、やっぱり静観。
このあたりは、(自然)科学系に人間にとっては明らかもいいところ。今更、「反証可能性」も何も無いので、
いちいち、2番煎じの反論をしない、というだけ。


>日本人だけの陋習かも知れない
そういう思想誘導(質問に形を変えた誘導)はやめてください。世界共通に決まってるじゃん。
せめて、日本特有の思考形態という、統計か文献を明示してください。

>新知見や新理論が提出されたなら 問い求める自由な人間は 寄ってたかって批判するものである。
それに類することを、
・科学と非科学の違い
のようなこととを科学技術カテで回答したことがあり、確かに、
・新理論に対し寄ってたかって批判する。
と書きました。

でも、
・新知見に対し、とは書いていない。(新理論に対して、であるため。知見の実験条件に対する批判はアリとする。)
・問い求める自由な人間は批判 とは書いていない。(新知見や新理論の意味を解っているヒト限定であるため。)

以下なら解...続きを読む

Q神の存在証明について、詳しく教えて下さい 4種類の証明のうち、どれでも良いです

神の存在証明について、詳しく教えて下さい
4種類の証明のうち、どれでも良いです

Aベストアンサー

太古から人間は神の存在を想像していましたね。
これは、認識は出来ていないけれど存在するのではないかという意識はあった、という事です。

ダブルようですが人間は、神が物ならば認識できたはずなのに、それが出来ないばかりに想像でその存在を意識してきました。
神は精神だからでしょう。

一般に神と云えば善の象徴であり、悪と云えばサタンとなります。
でも、創造主とした場合の神は、単に善の象徴ではなくて宇宙そのものと云えます。そしてその宇宙=精神の中に善もあれば悪もある、と云う事になります。

そうです。創造主としての神は善も悪も孕んでいるのです。

人間の精神もそうですよね。
好ましい心の状態の時もあれば、好ましくない時もあります。
創造主と同じなんです。

そう思えば自身の心の存在こそが、神の存在を証明していることになるのです。

Q嘘とは

"吐いていい嘘" など典型的な矛盾ではないか。

また、面接などでも "自身のPRの工夫" としてもの嘘で、それっぽく話せ突き通せるならばそれは立派な "工夫" ではないだろうか。

Aベストアンサー

物には限度がありますが、なるべく少なくしたいものです。

Q女性美、に付いて。

女性の肉体的な美に付いての質問です。
精神的な内面の美ではありません。

男目線、女目線のどちらでもいいです。
女性の美にセクシーの度合いはどの位ありますか。
何パーセントぐらいだと思いますか。

セクシーさがなければ美とは云えないですか。

安室奈美恵のファンを長い事やってきたので、彼女の体躯をみての質問です。
ご意見聞かせてください。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

女性の美にセクシーの度合いはどの位ありますか。
何パーセントぐらいだと思いますか。
 ↑
30%ぐらいですかね。

ワタシは、美しさと、性的魅力は
別だと考えています。

百%別とは思いません。
ある程度影響し合っています。

キレイな女性でも、性的魅力が乏しい人が
おります。

性的魅力があっても、それほどキレイではない
人もおります。

しかし、キレイで性的魅力があるひとも
おります。

だから、別だけど、お互いに干渉し合っている
というように考えています。

安室奈美恵ちゃんは、キレイだけど、
性的な魅力には乏しいですね。

Q《科学する》なる主題について なぜ価値自由性を言わないのか?

1. 価値ないし価値観ないし主観〔の片寄り〕からなるべく自由に対象を
・世界を認識する。

2. そうして おのれの思想や個性をも含む人間たる自己そのものの表現
として その世界観を明らかにする。


3. つまり ① 価値判断をできるだけつつしむ事実認識の段階と その
あと ② 自由に――表現の自由なる公理にもとづき まったく自由に――
価値判断をおこないこれを述べる。

4. 《哲学する》が ふたつの段階に分かれているだけである。


5. 初めの段階をひとまづ切り離しておこなうようになれば これを 《狭
義の哲学する》こととして 《科学する》と呼ぶだけのことではないか?

6. 形而上のことは 価値判断に――間接的・隠然としてにしろ――ふく
まれるものだ。人間が つねに超自然なるものと接しているとするならば。

Aベストアンサー

> ☆ ということは 哲学の話にはおさまる――ということなのでは?
言うまでもないと思いますが、科学は哲学の一分野です。「個人の判断はいかになされるか」ということを対象として取り上げて研究するのであれば、それは「哲学の話」です。しかしながら、ある個別事例において「その判断がその人の形而上学的信念に左右されたかどうか、あるいはその人がたまたま当の科学者だったのかどうか」をいくら論じてもせいぜい文学であって、哲学にはならんでしょう。

> 自然科学者が《科学者》に徹しようとする場合がありますが それは人間
> として広くはふつうに自然に哲学者であることを――その人の信念からか
> 趣味からか――禁欲しているだけだと考えられます。

 いわゆる専門家が、自分の専攻分野以外の大抵のこと(哲学や科学を含めて)に何の興味も持っていない、という状況はごく普通に見られることでしょう。禁欲とは関係なく、単にアホであり教養がないということです。これは科学とは無関係だと思いますよ。
 一方、科学において新分野を開拓する人はしばしば哲学的考察を行う。科学の方法論が非常に厳しく限定されているためにほんの足元しか見えないという制約のもとで、見通しを得ようすれば、自由な発想を温めつつそれを(科学の方法論を逸脱してはいるが)できるだけ論理的に構造化しようとするのは、必然じゃないでしょうかね。


> ②の価値判断に
> は――早い話が 《有る神》派か《無い神》派か 二つに一つの――おのれ
> の形而上学を踏まえた上で 経験的な思考と意思決定をおこなっているは
> ずです。
 そうは思えません。その価値判断が拠るところは神秘的な話などではなく、むしろ、哲学の中でも倫理学と呼ばれる分野でしょう。(現実の社会とその動力学的仕組みを如何に的確に認識しているかによって、企図した通りに物事が進むかどうかは違ってくるわけですが、少なくともその価値判断の動機は倫理に導かれている、という意味です。)
 倫理をあたかも数学のように体系化しようとすれば、ユークリッドの方法に倣って「原理」からすべてを演繹することになり、(怪しい新興宗教やスピノザのように)ズッコケるのは目に見えています。一方で「大多数の人がどう感じるか」を調査して倫理に代えようとするのはその場しのぎであり、人々の想像力の限界の先にどんな矛盾を孕んでいるかもしれない危険で安易な倫理学です。しかしながら、えーい、どうせ分からんのなら超自然のせいにしちゃえ、というほど無責任な人は、重要な価値判断に関わるほどの研究ができる人の中では、かなりの少数派でしょう。

> ☆ ということは 哲学の話にはおさまる――ということなのでは?
言うまでもないと思いますが、科学は哲学の一分野です。「個人の判断はいかになされるか」ということを対象として取り上げて研究するのであれば、それは「哲学の話」です。しかしながら、ある個別事例において「その判断がその人の形而上学的信念に左右されたかどうか、あるいはその人がたまたま当の科学者だったのかどうか」をいくら論じてもせいぜい文学であって、哲学にはならんでしょう。

> 自然科学者が《科学者》に徹しようとする場合があ...続きを読む


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