【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

1. 日本文と英文とは 構文ないし文型として 互いに対極を成すという見方です。

2. 初めから 《文》を扱います。文は 話し手の思想をあらわすものである。

3. 思想は 問いと答えとから成る。話者は ひとつの文の中で自問自答する。

4. 問いは 主題( T )として提示される。答えは 主題を問いとし それに答え
る論述( P )である。答えが さらにあたらしい問いになるという意味でも 論述も 
論述主題である。

5. すなわち 文は 主題( T1 / T2 /・・・)をつらね これらを最後に論述( P )
が承けてひとつの思想をしめくくる。:

   T1 + T2 + … + Tn=P。

6. これは 日本文および朝鮮文にならって 三項形式に還元される。:

   T1  + T2  + T3=P。

   A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――(α)類型とする。




7. さて 議論を端折りますが 世に言う能格( ergative )言語(バスク語など)
では おおむね初めのふたつの主題提示( T1 + T2 ) を この日本文の類型と同じ
ようにおこなうことが ひとつの特徴です。 

8. つまりそのあと 論述主題( T3=P )にあっては 次のようにすでに述語動
詞の担う意味内容から見て その主体(主格)および対象(賓格)を わざわざあら
ためて示します。ていねいに あらわすかたちを採る。
この《 主格 ‐ 述格 ‐ 賓格 》を 英文にならって S - O - V で表わすこととしますと
次のような仕組みに成っています。

 〇 能格言語の文の構成:

   T1  + T2  + T3=P。

   A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――日本文としての(α)類型

   A-a   B-b   C= [ S′ - V - O′ ]。――能格言語の構文


   ・ A-a / B-b: 小文字のほうは 日本語のハ格やガ格に相当する格活用

   ・  S′ / O′: プライム( ′ )なるシルシは 人称接辞を示す。(つまり 
      むろん主題としての A や B を承けてそれらを示す接辞としての代名詞
      である)。

   ・ 賓格: 主格(主体)に対する賓客(客体)を示す格で おおよそ対格
     (ヲ格)か与格(ニ格)かである。

   ・ 述格: 論述主題( T3=P )に当たる《 C= [ S′ - V - O′ ] 》の述語動
     詞( -V- )の格である。つまり 主題提示〔における主格 S 〕に対応す
     る論述提示〔における述格 V )。

 

 9. A-a や B-b なる主題提示を承けたあとの論述提示としての C= [ S′-V-O′ ]
の中の S′ や O′ はたとえば こうである。

   英語‐ハ    彼‐ガ    話す。  :  (α)類型

   英語(A)-a  彼(B)-b   B′‐話す‐A′: 任意に(μ)類型とする。

               [ he-speaks-it ]


   ・ C= [ S′-V-O′ ] ⇒[ B′‐話す‐A′ ] ⇒ [ he-speaks-it ]という形である。


10. したがって 大胆不敵な推測としては 英文は ここから C= [ S′-V-O′ ]
⇒[ B′‐話す‐A′ ] ⇒ [ he-speaks-it ]の部分が突出し 独立した。つまり この論述
主題の提示の部分([ he-speaks-it ])だけでそのまま ひとつの文(思想)を表わす
かたちに成ったのだと。
むろん 代名詞( he や it )は 元の名詞に戻す。

10-1. つまり 言語一般における論述主題( T3 = P )が 日本文等で 論
述主題《 Cナリ。/Cスル。》という形になったそのあと 能格言語の文にあっては
C= [ S′-V-O′ ]という形式を採る。そしてさらに そのあと この論述主題の部分が 
そのまま文の全体に広がり しかもその言わば線形なる論理のみで文を形成すると
いうように展開した。のではないか?

   C= [ S′-V-O′ ]

   ⇒ He speaks English. : (ω)文型とする。



11. 言いかえると 英文は 主題(つまり T1⇒Aや T2⇒B)の提示を省く
ようになったということである。日本文や能格言語文では 主題提示層とそして線
形論理層との二層から成る構文である。

11-1. すなわち 英文は 次の図式の中の[線形論理層]のみから成るのだ
と。つまり二層から成る日本文(α類型)では 《英語ハ》のハ格は――[主題提示
層]において中心主題( T1=A )を提示しますという役目を担うほかに――[線形
論理層]においては  論述動詞( T3=P ⇒ Cスル ⇒ 話す) につらなる意味
連絡としては ヲ格(対格)をも担う。《英語ハ(=英語二ツイテイエバ) / (ここ
で断層があって 線形的な意味連絡の層に移る) 英語(O)ヲー彼(S)ガ―話す
(V)》。


  (α)類型の文: 英語ハ        彼ガ          話す。

  ____________________________________

 [主題提示層]: 中心主題(T1=A)・・・関係主題(T2=B)・・・論述主題
          
 [線形論理層]: ヲ格(英語‐ヲ)・・・・ガ格(彼‐ガ)・・・・・述格(話す)
          対格(O)―――――― 主格(S)―――――― 述格(V)


 ・ ハ格は 中心主題格(~~二ツイテイエバ)とたとえばヲ格(対格 O )との  
    ふたつの役割りを担う標識である





12. 重ねて述べるなら 英文は 主題提示層を無しで済まそうとしたのではない
か? 《 A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――(α)類型 》の構文を 《 S - O - V 》
文型へと進化させた。それ以上の進化がないとすれば (ω)言語類型の(ω)文型で
ある。

13. 中国文は しかし これらの構文や文型の決まりにはいっさい目もくれず 文
法無しの文法でやりくりしている。言いかえると (α)構文における主題提示の部分
もあれば 線形論理の S-V-O なる(ω)文型をも堂々と許容している。

14. (α)構文と(ω)文型との中間に 能格言語の(μ)構造文があり 一般にこ
の(μ)形式文と英文の(ω)文型とのあいだにいろんな進化形態が 諸言語において見
られるようである。


☆ 以上を問います。ご見解をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • ★ ・結局何が言いたいの?
    ★ 日本語と英語では文法が違う。故に話し言葉として英語は自己主張的、
    日本語は曖昧的って言いたいの?
    ☆ たとえばこの具体例としての見解が いかなる言語としての事情から来
    ているのか? それが知りたいという問題です。ゆえに 哲学カテです。

    たとえば 日本語で対話がなされる場合は 線形的な論理(意味連絡)で内
    容を厳密に伝えようとしなくても 主題を互いの前に放り出すことで すで
    にその主題をめぐって起こりかけている事態や情況のことが分かるようにな
    る。 

    それによって 或る程度こころの通い合いも成され得る・・・かも知れない。
    といった社会における人間関係の問題が 明らかになり得ます。

    文化のあり方の違いも明らかになっていくでしょう。

    もっとも英語社会でも 人びとは言葉に表わさなくても その相手の心や気
    持ちがまったく分からないわけではない。でしょうが。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/11/01 09:27
  • №4つづき1

    ☆ その心は 述語動詞にすでに主語は示されていますから 文頭の It は 
    見方によれば 線形論理から外れた一種の《 主題提示 》であるかも分からな
    いわけです。

    細かくみれば そういった問題点(?)も出て来ます。でも 基本は α 構文
    と ω 文型とに――対極のごとくに――分け得るとは見ています。


    ★ 述部動詞が文末に来るほうが自然で優れていると思っています。
    ☆ これは 一概には言えないと思います。セム諸語やケルト諸語では 論述
    用言(述部動詞)が 文頭に来ます。そのあと主語です。

    ★ 英語のように、述部が動詞で始まる言語構造では、必然的に修飾語に前か
    ら修飾するものと後ろから修飾する2種類ができてしまい、その使い分けが生
    まれ、文法が複雑になります。
    ☆ これは 主語のあとに動詞が来るという意味でしょうか?


    つづく

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/11/01 13:50
  • №4つづき2

    ★ 述部が動詞で始まる言語構造は人工的に整えられたものと推測します。
    ☆ いや――わたしの感触では―― S-O-V と S-V-O と V-S-O との三つ
    の語順形式に分かれると思います。互いに中立的に。


    ★ 実際、利用者が使いきれないほど、数式的、符合的に、必ずしも必要のな
    いことまで常に文法が要求するように仕上がっています。無駄にややこしいわ
    りに、日本語で常に表しているニュアンスの違いが表せていません。
    ☆ ニュアンスの違いを出しにくいという点に同感です。


    ★ 多義語が多く、同じ形で様々な意味を兼ねます。結果、文脈がないと分か
    らないことが多いです。語順や人称や性による使い分けは、英語に限らないわ
    けなので、古代ローマ時代あたりを疑っています(そこまではまだ勉強できて
    いません)。
    ☆ ここは さらに詳しく問い求める必要があるかとは思います。

    つづく

      補足日時:2018/11/01 13:51
  • №4つづき3

    ★ ちなみに、日本語で動作主の明示を必要としないのは、動詞の形が非常に
    表現豊かにそろっているため、動作主を言わずとも、動詞の形だけで、動作主
    が分かるからです。
    ☆ そうですね。どちらかと言うとわたしは 主題の提示によってその《文脈
    で 主‐述‐賓の関係具合いが分かる》のだとは思っています。

    ★ ・・・世界の言語学界にはこの事実がまだあまり知られていないようで、
    3人称単数の -s のような印が何もないと書かれてあります。
    ★ 「私はうなぎ」とか「今日は雨」などが取り上げられて日本人の言語感覚
    が笑われてきましたが、日本語が動作主を言わないことは有名です。
    ★ いったいどうやって意思疎通していると思っているのかと腹立たしささえ
    感じられます(笑)。
    ★ 英文法もまだ研究途上です。日本語の存在が、世界諸言語の研究の進捗を
    助けるだろうと思います。
    ☆ 同感です。

      補足日時:2018/11/01 13:55
  • №5つづき1

    ★ 実際、動詞がないと、何を言いたいのか分からないですよね。
    ☆ それは 論述部( T3=P )で話し手の判断がくだされるところです。

    ★ 文脈はいつでも一番ヒントになります。それで日本語が時制の必要のない
    ・・・
    ☆ 過去・未来といった時制は 動態用言(動詞)の相を 完了か不完了かで分
    けたりしますね。意向 (話者について) や推量(相手や第三者)の相で 将来
    や未来を指し示します。

    ★★(A№4) 日本語で動作主の明示を必要としないのは、動詞の形が非常に
    表現豊かにそろっているため
    ☆ これは 補充用言(=助動詞)がそれだけで 尊敬・謙譲・丁寧の相を示し
    て 主客のあいだの人間の身分関係などを表わすといったことだったでしょうか。
    次のご指摘ですね。
    ★ ほかにも、敬語、受け身、可能、自発、使役、終助詞などのために、動作主
    の明示が必要ありません。

    つづく

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/11/02 10:21
  • №5つづき2

    ★ また、日本語の動詞表現は、自・他動詞の別が、活用しているのかと思いた
    くなるくらい違う形を持つ組を成す動詞がたくさんあります(例:開ける、開く、
    伸びる、伸ばす)。英語にも少しありますがたいてい一つの動詞で兼ねてしまい
    ます。
    ☆ そうですね。この点については もう少し詳しい分析を俟ちたいとは思いま
    すが。


    ★ 『フラニーとズーイ』・・・自己顕示欲の話なんですね。
    ★ で、egoism(エゴイズム)は哲学などの専門用語にも使われるそうですが、
    一般的には egotism の意味でも使われると辞書にありました。
    ☆ そうでしたか。無知でした。ふたつを しっかりと――利己主義と自己中心
    主義とに――分けて覚えていました。

    つづく

      補足日時:2018/11/02 10:23
  • №5つづき3

    ★ 好き嫌いが分れる作品で、サリンジャーは作家生命を賭けて書いたようです
    が、自己顕示欲がテーマのせいだろうと思います。幸い、好感を持つ人も多かっ
    たようです。
    ★ 「自我」が強すぎるのが「自己顕示欲」ということになりますか?
    ☆ つねにイニシアチヴを握りたがることと〔たとえそうではなく また メン
    ツがつぶれたとしても〕つねに利益(おカネです)を追求し 自分が得をすれば
    よいという行き方 こういった区分ではないかと。

      補足日時:2018/11/02 10:24

A 回答 (6件)

>★ egoism(エゴイズム) egotism


>☆ そうでしたか。無知でした。ふたつを しっかりと――利己主義と自己中心
主義とに――分けて覚えていました。

分けられたら正解です。単に一般人に混乱があるだけです。私も分かりません(笑)。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

あっ そうなんですか。慣用句などとして派生した意味があるのかも
と思ったのでした。

ほっとしてよいのですね。どうも。

お礼日時:2018/11/04 13:59

>対極のごとくに――分け得るとは見ています。



世界の言語構造を知っているわけではないですけど、日本語と英語の作りは、語順だけでなく、いちいち違います。対極ととりあえず、形容しても構わないと思いますよ。と言っても、意外なところで、言葉の普遍性なのか、共通していることもあります。こういう例を一つ一つあげようとすると、大変な作業になってしまうので割愛させていただきますが。

>★ 英語のように、述部が動詞で始まる言語構造では、必然的に修飾語に前から修飾するものと後ろから修飾する2種類ができてしまい、その使い分けが生まれ、文法が複雑になります。
>☆ これは 主語のあとに動詞が来るという意味でしょうか?

はい、「述部が動詞で始まる」ということが、そういうことになります。
英語は動詞が述部の頭に来るので、つまり、主語の次に来るのが動詞です。

まあ、自然形成があってそれにだいたい沿う形だったろうとは思いますけど、英文法に歴史的に人の手が加わってきたことは分かっています。ラテン語やフランス語を模範とした時代があり、また、数式的な性質のための宿命でなにかと人が安易にルール化してしまいがちなのが欠点です。”規範文法”というのがそれで、イギリス人の書いた文法書に、”規範文法”とは一部の人の趣向で英文法が変化しないように決められたものだと、そういうのが山ほど作られてきたと、書いてあります。ここ50年くらいの間にだいぶん、改善されたものもあります。私の時代もたとえば to不定詞の to と動詞の間に副詞を挟んではいけないと言われましたが、これは今ではすっかり良いことになりました。

動詞が文の先頭に来る言語は、実際は知りませんけど可能性としてこれも、前にも後にも修飾語を置けますね。日本語よりは英語に近いと言えそうですね。

最近の学説では、文は動詞が中心になっていると考えます。
日本語では昔から「連用修飾語」と言って、動詞を修飾していると捉えてきました。もちろん、これは動詞がたまたま文末に来る構造なので、簡単にそう見えます。
実際、動詞がないと、何を言いたいのか分からないですよね。

>☆ そうですね。どちらかと言うとわたしは 主題の提示によってその《文脈で 主‐述‐賓の関係具合いが分かる》のだとは思っています。

もちろん、文脈はいつでも一番ヒントになります。たとえば、それで日本語が時制の必要のないことを証明しています。基本的に日本語は時制は副詞表現で表現しています。あとは、物事の起きた順序を言う方法があれば済みます。これが「た」です。一音節なので省くことがありません。

また、日本語の動詞表現は、自・他動詞の別が、活用しているのかと思いたくなるくらい違う形を持つ組を成す動詞がたくさんあります(例:開ける、開く、伸びる、伸ばす)。英語にも少しありますがたいてい一つの動詞で兼ねてしまいます。ほかにも、敬語、受け身、可能、自発、使役、終助詞などのために、動作主の明示が必要ありません。


それで、話が変わりますけど、この間話していた『フラニーとズーイ』を読みました。ご関心のある箇所かどうか分かりませんけど、フラニーの言葉に doesn't mean I'm not as egotistical and self-seeking as everybody else. というのがあるので、自己顕示欲の話なんですね。で、egoism(エゴイズム)は哲学などの専門用語にも使われるそうですが、一般的には egotism の意味でも使われると辞書にありました。

書店提供の要約サイトや、雑誌提供の読書会なども見たのですが、フラニーの気絶とか、『ズーイ』の結末も、それまでの流れから納得できないくらいあっけなくて、コミック的ですけど、風刺というわけでもないのかもしれません。好き嫌いが分れる作品で、サリンジャーは作家生命を賭けて書いたようですが、自己顕示欲がテーマのせいだろうと思います。幸い、好感を持つ人も多かったようです。

「自我」が強すぎるのが「自己顕示欲」ということになりますか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 〔日本文と英文を〕対極ととりあえず、形容しても構わないと思いますよ。
☆ 《進化》の跡を示します。

【Jap.】: 時ハ 〔それ=時 ガ〕 金なり。―― α 構文

【French】: Le temps, c'est de l'argent.  ―― 主題提示を残している。
(逐語訳): the time, it-is 〔part of〕the money.

【English】: Time is money. (← Time it-is money. )――ω文型

☆ すなわち 第一主題の提示(Aハ)のあとに 断層があるのが 仏文ではな
お残っているけれど 英文では ほぼ消えているといった変化です。



★ 英語は動詞が述部の頭に来るので、つまり、主語の次に来るのが動詞です。
★ まあ、自然形成があってそれにだいたい沿う形だったろうとは思いますけど、
英文法に歴史的に人の手が加わってきたことは分かっています。・・・
★ 私の時代もたとえば to不定詞の to と動詞の間に副詞を挟んではいけないと
言われましたが、これは今ではすっかり良いことになりました。


★ 動詞が文の先頭に来る言語
△ ( Genesis 1:1 )https://www.blueletterbible.org/kjv/gen/1/1/t_co …
בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃
(逐語訳): In-beginning created God the-heaven and the-earth.
(KJV): In the beginning God created the heaven and the earth.
☆ 《初めに》が文頭に来なくても V-S-O という語順です。


つづく
(テーマごとに(あるいは そうでなくても) ご回答を二件なら二件に分けて
いただくと ありがたいです)。

お礼日時:2018/11/02 10:15

>話者は ひとつの文の中で自問自答する。



確かに、ある意味、〈主部〉が自問で、〈述部〉が自答と言えそうです。
でも、第2主題やそれ以上の主題があるとは限りませんし、第1主題が主題で、その他の主題は述部の一部です。
 T1= (T2 +) O/C + V 〔日本語構造〕

その後#10は何を仰ってのかよく分かりませんが、

>11. 言いかえると 英文は 主題(つまり T1⇒Aや T2⇒B)の提示を省く
ようになったということである。

英語も〈主語〉は一応、〈主題〉であって、その証拠に subject と言いますが、それ以前に、動詞の動作主であることに強い”こだわり”を持っています。

しかし、英語も動作を言うわけではない場合(be動詞や seem などです)に動作主を言う必要が自ずと失われて、純粋に文の主題の役目が残ります。

また、件名的な表現(例:About ~)とか日時(例:Yesterday)など副詞的内容を第1主題として主語の前に置くこともあります。


その後は何を仰っているのかよく分かりませんが、

述部動詞が文末に来るほうが自然で優れていると思っています。英語のように、述部が動詞で始まる言語構造では、必然的に修飾語に前から修飾するものと後ろから修飾する2種類ができてしまい、その使い分けが生まれ、文法が複雑になります。

述部が動詞で始まる言語構造は人工的に整えられたものと推測します。実際、利用者が使いきれないほど、数式的、符合的に、必ずしも必要のないことまで常に文法が要求するように仕上がっています。無駄にややこしいわりに、日本語で常に表しているニュアンスの違いが表せていません。多義語が多く、同じ形で様々な意味を兼ねます。結果、文脈がないと分からないことが多いです。語順や人称や性による使い分けは、英語に限らないわけなので、古代ローマ時代あたりを疑っています(そこまではまだ勉強できていません)。

ちなみに、日本語で動作主の明示を必要としないのは、動詞の形が非常に表現豊かにそろっているため、動作主を言わずとも、動詞の形だけで、動作主が分かるからです。が、Wikipedia の記述を見ると、世界の言語学界にはこの事実がまだあまり知られていないようで、3人称単数の -s のような印が何もないと書かれてあります。「私はうなぎ」とか「今日は雨」などが取り上げられて日本人の言語感覚が笑われてきましたが、日本語が動作主を言わないことは有名です。いったいどうやって意思疎通していると思っているのかと腹立たしささえ感じられます(笑)。英文法もまだ研究途上です。日本語の存在が、世界諸言語の研究の進捗を助けるだろうと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ でも、第2主題やそれ以上の主題があるとは限りませんし、・・・
 T1= (T2 +) O/C + V 〔日本語構造〕
☆ 第一主題(Aハ)と第二主題(Bガ)のあとにも 主題は いくつでも続
き得ます。

〇 英語ハ 彼ガ 訪れたアメリカ人(B1)二 上手な英語(B2)ヲ 話す。

☆ 言いかえると 論述主題の用言(動詞)の述格は これらすべての主題
を 支配しそれぞれにしかるべき格活用を要求します。


★ 英語も〈主語〉は一応、〈主題〉であって、その証拠に subject と言い
ますが、それ以前に、動詞の動作主であることに強い”こだわり”を持っていま
す。
☆ 主格(動作主・現象主・定義主etc.)が 述格と密接な意味連絡を持つこ
とは 当然です。あるいは:

〇 Regret, I had a few.

☆ のように確かに英文でも 主題を――主語だけではなく目的語についても
――提示する機能は ほんとうのところ あります。

つまり これは 初源の言語( α 類型)から進化したあと その痕跡を残して
いると捉えるわけです。

★ しかし、英語も動作を言うわけではない場合(be動詞や seem などです)
に動作主を言う必要が自ずと失われて、純粋に文の主題の役目が残ります。
☆ 現象主の場合などは 確かに:

〇 It rains.

☆ のごとく 線形論理の層としてはそのまま成り立っているけれども 意味
じょうは 主題提示のごとくであるかも知れません。この場合などは むしろ
主題は 隠れている(隠したままとなっている)のかも分かりません。


★ また、件名的な表現(例:About ~)とか日時(例:Yesterday)など副
詞的内容を第1主題として主語の前に置くこともあります。
☆ おっしゃるとおりですね。α 構文での《Aハ= Aニツイテイエバ》と同じ
ような形式で 主題提示をおこなうことが出来るようです。

《痕跡》とか《余韻》と呼びたいのですが 詳しくは 次のようになります。

〇 It rains. : ここで rains は 実際には it-rains という形式と意味
とを持つ。

つづく

お礼日時:2018/11/01 13:47

申し訳ない


何度か読み返してみて途中の論理で
「ん?」「( -_・)?」と理解できなくなってしまいます

私個人の素養の無さ、bragellone的哲学思考への
理解力の無さの為だと判断しました

私の回答は無視しても構いません
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。



№1のご見解が 的を射ていると思いますが?



《進化》の骨組みとしては:

初源   T1   + T2   + T3=P。

α類型  A ハ  B ガ   C ナリ。/ C スル。――日本文など
    (英語ハ 彼ガ  話す。)

μ類型  A-a   B-b    C= [ S′ - V - O′ ]。――能格言語(バスク語など)
                 ↓
 ・・・(主題が省かれた)・・ S' - V - O'.  
      ↓          ↓
ω類型     S - V - O. (He speaks English. )――英文

お礼日時:2018/11/01 09:51

ん?待てよ、、、


日本文として提示されてる
T1 + T2 + … + Tn=P。って
この質問の文体の事?
そうだとしたら
この文章が「代表的な日本文」になる
って事?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ そうだとしたら
この文章が「代表的な日本文」になる
って事?
☆ むろん そういう意味ではありません。

★ ん?待てよ、、、
日本文として提示されてる
T1 + T2 + … + Tn=P。って
この質問の文体の事?
☆ 主題(T)の羅列は 言葉の始まりにおける文のかたちです。

そこから 日本文がそうであるように 三項形式に落ち着きます。
→(6)を参照。

この《A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――(α)類型》に 日本
文もその起こりの初めから そう成ったのでもないとは思います。

基本的な要素として 三項から成り それが 主題提示(その層)
とそして〔むろん文の意味を表わす形式としての〕線形論理(そ
の層〕との二層構造なのだと見ています。うんぬん。

そのように落ち着いて行ったのだと。

お礼日時:2018/11/01 09:36

・なんで英語と日本語で方程式が違うの?そも、方程式が違うなら対極にはならんでしょ


・なんで主要な言語である英語と日本の母語日本語だけメインで比べるの?
・ソレって「主要な言語である英語」と「日本の母語日本語」だから
 考察を開始して結果対極をなすって結論になっただけじゃないの?
・と、いうか結論ありきの持論なんじゃないの?
・なんで主題が一文内に複数あるの?そんな構成の文なんて読みにくくない?
・なんで文法、主語、述語、動詞と言った言葉使わないの?自分の頭の中の用語を用いて回答せよ
 って傲慢なんじゃないの?
・結局何が言いたいの?(意味が解らないという意味では無い。対局を成すから何なの?と問うてます)
 日本語と英語では文法が違う。故に話し言葉として英語は自己主張的、日本語は曖昧的って言いたいの?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ・なんで英語と日本語で方程式が違うの?そも、方程式が違うなら対極
にはならんでしょ
☆ 初めっから両者を類型としての対極だと見なして 取り上げるのではあ
りません。

結果として 文の成り立ちにおいて互いに対極を成していると捉えた結果で
す。報告としては あたかも日英が対極だという仮説をあたまから掲げて述
べています。

★ ・なんで主要な言語である英語と日本の母語日本語だけメインで比べる
の?
☆ 人類にとって言葉が持たれるようになり――そしてその起源という問題
は取り上げていませんが―― その曲がりなりにも文法体系を持つ言語と成
ったとき その初源の成り立ちは 日本語や朝鮮語に見られるのではないか
と仮説したからです。

その仮説に従うと 英語は その進化の最後のかたちではないかと見たから
です。(たまたま そうなっていた)。


★ ・ソレって「主要な言語である英語」と「日本の母語日本語」だから 
考察を開始して結果対極をなすって結論になっただけじゃないの?
☆ 初源は 主題の羅列。進化の果ては S-V-O 文型なる線形構造〔の一
本〕。そういう必然性があると見ています。

★ ・なんで主題が一文内に複数あるの?そんな構成の文なんて読みにくく
ない?
☆ 《象は 鼻が 長い》のように 三項形式が 言わば普遍性を持つよう
です。

中心第一主題(A=象)を まづポンとその会話の場へ投げ込みます。
そのあと この主題に関係する別の主題(B=鼻)を 持ち出して来る。
あとはそのような主題をめぐる話し手の答え(論述)(C=長い)が来ます。

B ガ の B が 関係主題だというのは 《象の鼻が〔長い〕〕》というよう
に A ハのハ格をノ格(属格)に代えても意味が通じるというようなところ
からです。

★ ・なんで文法、主語、述語、動詞と言った言葉使わないの? 自分の頭の
中の用語を用いて回答せよって傲慢なんじゃないの?
☆ ああ 《主語》だけは使ってないですね。主格に立った語(体言ないし
名詞)が 主語です。=鼻ガ。

補足欄へつづく

お礼日時:2018/11/01 09:26

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Q努力は報われるというのが実感しにくい原因は「時間」の存在ですか?

人生では時間が有限だから、努力は報われるというのが実感しにくいのではと、ふと思いました。
それとも他の理由があるのでしょうか。


大体、高校・大学入試、就職、友達作り、結婚、出世など時間が限られているので何かしらを諦めなければならないのでしょうか。
私の場合は趣味が向いていないというようなことを人から言われましたが、何年も努力して勉強して人並近くに上達しました。これは、趣味だから期限がありませんでした。仕事であれば何年も人を待たせることは出来ません。

Aベストアンサー

努力が結実していないのだと思う
時間も必要だが方法論が大切

かりそめ天国 剣道が強くなりたい 2018‎年‎11‎月‎8‎日、‏‎0:20OA
チャンカワイを見ると努力を結実させる糸口はあるかも

Q"アホはほっとけ"は正しいか

どうなんでしょう。

Aベストアンサー

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


人間のさだめのようなもので、分かった気になり、自己満足を優先させる。万能じゃない部分でしょう。

どこまでも、目の前のアホのような奴は、自分とは異なる存在の「他者」であると覚れば、ある程度ほっとけるのではないですか。

相手はいずれ成るように成るもので、何を掴むか、受け取らないかは己がやらなきゃ自分の意味にならない。
他人がどうこうする領域じゃないと知っていれば。

お互いに具体的な言葉にするほど自他の異なりが露わになるでしょう。
同じようで違う、違うようで同じ、というのを確認します。
そうした体験すれば作用にも気づきます。
自分の方法は増えるのですが、人間は頭では体験を超えられません。
冷静に相手の立場に立って出来るものなど取るに足らない小ささに思います。
大人?日本人?は関係を怖れている?みたいに見えます。


ある人に悩みを言ってもらい、何人かで聴きます。
それを後で皆で検討してみると、問題点、課題はほぼ同じ意見ですが、その人をどう思うか、感想を具体的にすると其々です。
相手ではなく、自分というものがそこに出てきます。

相手の立場に立つとは、
人間というものや個人を理解した上でやれる力量かもしれないですね。

余談ですがカウンセリングや相談をインターネットの文字の世界でやれると考える人と反対する人がいるんです。
文字では情報が不十分ですからね。

言い合いをしたり、食い違っても、そういう二人が向き合った体験は後に信頼の間柄になれるものでもあるという実感はありますが、使いわけていますね。

言い合いは悪い結果になると思い込んで、ほっとく、避ける一般の人が多いかもしれないです。

ほっとくの意味一つ取っても、自他は違うんですよね。

相手の立場に立ったつもりで言い、その人をよく知らない第三者からすると正論のようですが、肝心のアホにとってありがた迷惑であったりします。

気遣いができるアホは、無理解な正論にお礼を言うかもしれません。
でも、ほっとけない人が、アホを理解しているとは限りません。
ボランティアと同じです。
自分がしたくてするのか、相手の為なのか、自意識の深めがどの程度かです。


人間というものは、相手の立場に立ったつもりが立てていない時、相手はこころを開かない。

すれ違いながらもお互い辻褄を合わせ、共有した時間に意味を感じることで穴を埋め、その代償行為に気づかず、意味を後付けする生き物です。
その時を穏便に済ませるのですが、そういうときは、後から自分に違和感が出るものなのです。

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


人間のさだめのようなもので、分かっ...続きを読む

QHaruさんの存在主義の欠点は何ですか

客観的情報が欲しいのでHaruさん以外の人に回答して欲しいです。

Aベストアンサー

Haruさんとは誰?

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q神の存在証明について、詳しく教えて下さい 4種類の証明のうち、どれでも良いです

神の存在証明について、詳しく教えて下さい
4種類の証明のうち、どれでも良いです

Aベストアンサー

太古から人間は神の存在を想像していましたね。
これは、認識は出来ていないけれど存在するのではないかという意識はあった、という事です。

ダブルようですが人間は、神が物ならば認識できたはずなのに、それが出来ないばかりに想像でその存在を意識してきました。
神は精神だからでしょう。

一般に神と云えば善の象徴であり、悪と云えばサタンとなります。
でも、創造主とした場合の神は、単に善の象徴ではなくて宇宙そのものと云えます。そしてその宇宙=精神の中に善もあれば悪もある、と云う事になります。

そうです。創造主としての神は善も悪も孕んでいるのです。

人間の精神もそうですよね。
好ましい心の状態の時もあれば、好ましくない時もあります。
創造主と同じなんです。

そう思えば自身の心の存在こそが、神の存在を証明していることになるのです。

Q<極東で日本は浮いてるんじゃない?>なのですか?

先日のこのカテで次の記述に出会いました。
<極東で日本は浮いてるんじゃない?>
私は、浮世のことに疎いもので、この文章に驚愕し慌てました。
今、日本は浮いた状態なのですか?
お願いは、これに関した出来事や根拠を教えて下さい?

Aベストアンサー

#2のお礼に関して。

<極東で日本は浮いてる>という言葉は、数年前まで日本のマスメディアが日本人に自虐史観を植え付けるために散々使われていた類の言葉です。ところがネットの普及で、今まで日本のマスメディアが「アジアでは」という言葉で日本を批難するときは「中国と韓国と北朝鮮」のたった3ヶ国だけの話であったことがバレてしまったのが現在です。

他のアジアの国々は日本をディスりたいこの3ヶ国とは全然違った意見を持ち、一般に日本に対して大変好意的です。そこで、最近では、この3ヶ国を特亜と呼ぶようになり、例えば、「特亜で日本は浮いてる」などのように、もっと正確に表現されるようになっているのが最近のネットでの流れです。

Q素朴な質問シリーズなんですが お知恵を貸して貰えると助かります 続、善悪の定義 (  ̄▽ ̄)ニャリ

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが


集団の教えから離れ
個人的な善悪の判断を迫られた時に
どうやって定義付するのでしょうか?

( ̄~ ̄;)個人的には、どうあっても
善であると、思い込んで生きているが
その、大前提に疑問を抱いた時に

もしも、この世の中に善悪なんて存在しないかも?
でも、自分自身は善であるはずなんだが・・・

そんな状況はまずおこらないでしょうが
おきたとしたら

他人と比較して、他人を悪にしてしまう
悪を造り上げてしまうのかな?
あれは、間違えてるから、悪であって
自分自身は間違えてないから、善である
と、なるのかな?

今ここに居るわたしは、善か悪か解らないが、それで良いじゃないか
と、定義付を辞めるのかな?


誰しも、自分自身が善でありたいとは思われますが

はたして・・・

ほんまに突拍子もない
素朴な疑問なんですが、お時間のあるかた
貴重な回答をお待ちしてますm(._.)m

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが

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Aベストアンサー

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 " も
同じに なるであろう

行動で 云えば 宮﨑駿 の
『もののけ姫』が 語っている
他方から みれば 善 であり
また 他方からは 悪 に なる
それは
一方からは " 生きる為に必要な もの" であり
もう 一方では " 生きる為に取り除きたい もの " なのである
利便 快適 を 相対するもの からみれば 搾取であり
また 同時に 糧である(対する位置に 居るものに取れば)

パンドラの匣に 残った
総ての悪 災 禍 が 去った後に残った 希望
そのひとつは
忘れ去る能力なのだ と思う

ただ 総ての 欲を 葬り去れば
無 に しかならない
待つのは 死 (無)である


と こんな事 考えてみました

浅かったら ごめんね

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 ...続きを読む

Q<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされた常連さんは、今後、この愚かな大衆を相手にして投稿をされ

先日、このカテである常連さんが<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされていらしゃいました。そのことについては、私にはわかりません。
ところで、この常連さんは、今後、このような愚かな大衆を相手にして投稿をされることはない、と思われますか?

Aベストアンサー

ありますよ。
釣り堀りの住人が一生懸命撒き餌していると思えば良いです。

<大衆は 絶対的に愚かか?>
こういう質問の仕方が撒き餌効果アリと考えている。
で、エサを撒いている限り自分のほうが魚より賢いのは確かだと悦に入っているわけです。
他人を貶めることでしか自分の価値を確認できない憐れな輩です。
ま、逆切れして実社会に迷惑かけても困りますし、暇な人が相手してやれば良いかと。
無駄・無意味・不毛につき、賢人は寄り付きません。

Qなんで《物自体》なんていうものを言いだしたのか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の先天的形式(範
疇)によって総合的に構成されたものである。

4. したがって、われわれのもっとも素朴な感覚与件でさえ、すでに空間・
時間という主観の形式を経由したものであるから、われわれは感覚を刺激する
外なるものをそのあるがままに認識することができない。

5. それをカントは物自体とよぶ。

6. のち『実践理性批判』においては、物自体の世界を自由の概念と結び付
けて、現象界に対して叡智界(えいちかい)と名づけた。

7. 物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が
集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に
始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であった
ともいえる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


8. 解説〔に依拠しその内容〕をめぐって問うといういささか邪道の質問で
すが 次のように問い求めます。


9. もし:
▲(3) ・・・世界は、従来思われてきたように物のあるがままに現れてい
るものではなくて
☆ という条件を前提するのなら すでにそこから帰結する内容は敷かれてい
るのではないか?


10. つまり 《物のあるがまま》〔の姿〕は:

(あ) 人間の能力では認識しがたい。または し得ない。――かまたは:

(い) 認識し得るのだが それは 部分的な内容とならざるを得ない。そし
て 認識そのこともあやまち得る。――さらにあるいは:

(う) 《物》は 《人間が認識しうる言わばその仮象》とそして《認識し得
ない本体》とに分かれる。

☆ といった可能性がすでに孕まれている。はずだ。

11. つまり 前項の(う)から 《物自体》を想定することがあり得たと
しても ただそれだけのことに過ぎない。のではないか?

12. つまり 物自体を想定しようがしまいが 《人間の認識能力には限界
がある》という命題を言ったまでである。と捉えなくてはならない。はずだ。


13. なんでこの物自体が《現象界に対する叡知界》のことに成るのか?

14. 叡知界たる物自体に就くならば 《実践理性》としての《自由意志》
が実現し得て ひとは自由であると成るといった議論に発展するのか?

15. 無茶である。それなら 形而上学的実体なる神を据えている議論と違
わないのではないか?

16. カントは阿呆ではないか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の...続きを読む

Aベストアンサー

カントはついに神の心を感じる事が出来なかったか、或いは感じようとしなかった、なのでしょう。
それ故に、叡知界を無理やりに理的に解釈したのだと思います。

これでは埒は開かないと思います。

もっと素直に、私のように、人の心は宇宙の本体・霊体の心と本質は同じなんだと、受け止めるべきでした。
霊体に慈悲の涙があるからこそ、我々の心にも思いやりの涙を流せる働きがあるのだと。

Q日本(日本史上)で、どういう際に正義(正義論)が戦わせられたのでしょうか?

昨日このカテで、tanzou2様から、次のような正義論の説明があり、興味を惹かされました。
<正しいとは何か?を探究する>のが<正義論といいます。>
<欧米では盛んですが、日本では少ないですね。>
<正とは何か。欧米の哲学者は数百年議論していますが、未だに定説を見ません。>
だそうです。
日本(日本史上)で、どういう際に正義(正義論)が戦わせられたのでしょうか?
(振り返ってみて、私は、この数学の問題の回答は正しい、位にしか使ったことがありません、矮小なことですね)

Aベストアンサー

所謂、現在の「正義論」は、どちらかと言うと、絶対的な「正しさ」や「善」と言うもののを考えると言うより、(公)正=フェア(fair)な正しさとは、どうあるべきかを論ずる事を意味しています。(これがわからないと、ロールズとかの「正義論」の意味がわからなくなります)
もちろん、絶対的な「正しさ」が、イコールになれば、申し分ないわけですが、それでは、いろいろな社会や集団の意見や、個別的ルールに対して、フェアとはなりません。(フェア(fair)とは、一方に偏らない、ほどほどのレベルと言う事です)
これは、政治哲学としての議論で、公法をどのレベルで実現できるかの議論です。
ギリシャ哲学までさかのぼれば、プラトンの「国家」も一種の「正義論」とは、言えるでしょう。
欧米においては、このような政治哲学は、長く議論されてきたのは確かでしょう。
日本の場合は、江戸時代までは、儒学者、国学者、僧侶などが、このような政治哲学に該当するような分野を担ってきたと言えるでしょう。
幕末は、欧米の国家を見本とした、国家論を打ち出す思想家が、明治維新などの原動力になりました。
明治以降は、社会思想家などが、その役目を担ってきました。
現代の日本では、政治哲学と言う立場の学者もいますが、多くは、政治哲学から政治学と言う科学へ分離した形になっています。
政治学と言う科学では、実務的な公正さをどのように実現するかが、目的ですから、哲学的な探求とは、一線をかくしていると言えるでしょう。
なお、欧米の政治哲学としての、「正義論」も現代では、科学的になっているので、あまり哲学的なイメージはありません。
なお、現代の「正義論」では、正義(justice)と善(good)は、対立概念として、議論されます。
平等がどの程度実現出来れば「正義」なのか、格差の公正さとはどのようなものか、「自由」は、どの程度までが、公正さとして認められるのかなどが、主な議題と言えるでしょう。

所謂、現在の「正義論」は、どちらかと言うと、絶対的な「正しさ」や「善」と言うもののを考えると言うより、(公)正=フェア(fair)な正しさとは、どうあるべきかを論ずる事を意味しています。(これがわからないと、ロールズとかの「正義論」の意味がわからなくなります)
もちろん、絶対的な「正しさ」が、イコールになれば、申し分ないわけですが、それでは、いろいろな社会や集団の意見や、個別的ルールに対して、フェアとはなりません。(フェア(fair)とは、一方に偏らない、ほどほどのレベルと言う事で...続きを読む


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