賢いポイント生活をはじめよう >>

芥川の詩です。

〜 

われ目ざむ


われ 目ざめて

わが周圍を顧る

忽 大いなる光あり

來りて われを打つ

われ 問ふ

誰ぞ 汝は

荅ふ

われ 常に 汝と共にあり

何故に 誰ぞと云ふ

われ 光と共に 歩し

光 われと共に 歩す

わが心 病み

わが足 疲れたり

われ 仆る

われ 死す

死して われ

光と共にあゆめる



「われ 問ふ | 誰ぞ 汝は | 荅ふ」という部分には、「われ」が前に打たれた「光」に「誰ぞ」と言いますか。「汝」=「光」ですか。

「汝と共にあり」は「一緒にいる度に」という意味ですか。そして、「われ 常に 汝と共にあり
何故に 誰ぞと云ふ」は「私は光と一緒にいる度になんとなく光に「誰ぞ」と言うという状態ですか。

ありがとうございます。

A 回答 (4件)

こんばんは。



芥川の作品というのは、宗教的に捉えるとかなり見当はずれの解釈となります。だから、そういうようには解釈しない方向で読んだほうがよいと思います。この詩は、大正三年~四年頃の作とされ、当時、芥川は結婚を考えている女性がいたということです。

//
>大いなる光あり來りて われを打つ
まばゆい光のあなたが、近寄って、私に光を浴びせる。(微笑みかける?)

>われ 問ふ誰ぞ
(寝ぼけたのか)私は聞く、あなたは誰。

>汝は荅ふ
あなたは答えます。

>「私は光と一緒にいる度になんとなく光に「誰ぞ」と言うという状態ですか。
私は、あなたといつも一緒にいるのに、なぜ、「誰」というのでしょう?
    • good
    • 1

「汝」と「光」はこの段階ではまだ他者。

後に自己であるとされる。
    • good
    • 1

神と表現されるもの?、自然の法則すべてのこと?、未知なるものの存在を信じた表現?。


仏教などでは世の中の出来事はすべて幻のようなもので、実体は無いと言う考え方もあるようです。
光さえもなければ、見えるものはありません、未知なるものを存在を光で象徴。
詩の表現の各場面でそれを擬人的にとらえて表現しています、その部分に関してはおっしゃる通りだと思います。
>死して、なを光とともにある
死しても、なお光で象徴される、未知なるもの?、の存在?の中にある。
未知なるものの存在を否定すれば、我思う、故に我ありに通じるのかな?。
人間(物質)としての我ではなく、思う(思考)中の我を光で表現、でも死ねば、無くなる?、ではなく活動を停止、いずれどこかで復活・・・?さすがにそこまでは?。
    • good
    • 1

我汝の関係は仰るとおりです。

「汝と共にあり」は「あなたと共にある」意味で、「度に」の意味はありません。

「光に見える私は、作者であるあなたと常に一体であるのに、どうして私に『あなたは誰か』と(まるで他者のように)尋ねるのか。」
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


このカテゴリの人気Q&Aランキング

おすすめ情報