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西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の人間だったにも関わらず、弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、日本の進むべき方向性を理解し、今やるべきことをわかっていた人のように感じます。

 そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。

以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 補足その1です。
    西郷の征韓論はねつ造で、留守政府内で開国強硬派と開国穏健派の対立があったことが重要だと思いますが、これらは征韓論の中にうずもれてしまっています。
    徳川幕府時代の李氏朝鮮との国交は極めて細々としたもので、国交断絶されても痛くもかゆくもなかったはずです。
    留守政府の打ち手は富国強兵そのもので、太陰太陽暦を太陽暦にスパッと変えてしまうような欧米偏重としか思えない無謀なこともやっているので、開国にこだわるのは何か重要な意味があったはずなのにそれがわかりません。

      補足日時:2018/11/20 05:12
  • 補足その2です。
    過去の歴史の延長上にすぎない出来事と全く新しい出来事に分類してみます。

    1.過去の歴史の延長線上にすぎない事
    ・単なる下克上ですが、一国一城の規模ではなく国家的規模に変化しています。
    ・政権交代時の権威付けは全く同じで変化なしです。

    2.新しい出来事
    ・下剋上なので強烈な権威付けが必要だったようで、天上人の神格化がスタートしています。
    ・これまでのお手本は中国でしたが、欧米諸国に乗り換えたことから、日本の現状にマッチした完璧な手本となる国がなく、これについては苦労したようです。
    ・有史以来、初めての海洋国家に昇格し、海路による大規模な交易が急速に進むとともに、国家的規模の海軍の立ち上げが急速に進みます。
    ・自分たちで自分の首を絞めるという事態に陥ります。武士の大量失業です。

    以上です。

      補足日時:2018/11/23 07:30
  • 補足その3です。

    征韓論や韓半島を「教えてgoo」の中で検索すると、相反する回答がベストアンサーになっており、面白いと思いました。確かなことは、歴史の試験で、朝鮮半島を韓半島と記載したら×になるということだけです。

    古事記も含め、公式文書にはねつ造や隠ぺいがあるのは当たり前で、しかもその詳細な経緯は一切わからないようにできています。ゴーンのV字回復から始まった企業会計に関わるごまかしが、その良い例です。

     明治6年の政変で、西郷隆盛が下野した後、中央政府に携わる400人以上が下野しましたが、西郷にとっては誤算だったと思います。この人々の中には、古い考えの人や新しい考えの人、関心ある分野も雑多で多様だったと思いますが、人材の宝庫だったのは間違いないと思います。これによって、中央政府が機能不全に陥り、急激な変革に対する民心の不満も一気に高まったと思われます。

      補足日時:2018/11/26 05:07
  • 補足まとめです。

    明治6年時点の士族の失業問題は深刻で、その受け皿として教師と軍隊が考えられていたような気がします。西郷隆盛が下野した意図に反して、西郷を慕う人々がクーデターを画策し行動を起こしたことにより、西郷は明治政府を確固なものとするために、新しい時代の変化に適応できない人々を一掃する方針に転換したのではないかと思います。

    天才と言うと科学技術分野の人々を思い浮かべる人が多いのではないかと思いますが、こういう天才というのもいるのではないかと思います。
    天才は天賦の才とも言いますが、そこには、天から与えられた才能という意味もあり、西郷隆盛は、古代中国で言うところの「天命の子」だったのではないかと思います。
    回答していただいた皆様、ご協力ありがとうございました。

      補足日時:2018/11/26 05:10

A 回答 (4件)

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの


日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
  ↑
ここがポイントです。
西鄕さんが解りにくいのは、私欲に乏しい
からだと思います。
私欲に乏しいから、どういう人間像なのか
把握しにくいのです。
彼ほど解りにくい人物はおりません。



以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能
を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?
 ↑
特別な才能を持っていたのではなく、私欲に乏しかった
ということだと思います。

彼は一度死んでいますね。
あれで私欲を無くしたのでしょう。
私欲が無くなれば、適格な判断が出来るように
なるのです。
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> 西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能を有していたのではないか



歴史上有名な人物というのは、多くの場合、稀代まれな天賦の才能を有していて & 周囲の状況がその人物を浮かび上がらせるようなものだった ということだと思います。
中には、凡庸あるいは愚劣、狂っているという人物がいて & 周囲の状況がその人物を浮かび上がらせるようなものだった ということで、歴史上有名になる場合もあるでしょうから、歴史上有名というだけでは、稀代まれな天賦の才能を有しているとは区分できないとは思います。 ただ、残され伝承される逸話が、一種の適切な判断や挙動というものが多いのならば、凡庸あるいは愚劣、狂っているという人物であるよりは、稀代まれな天賦の才能を有している人物として《人々が評価したかった》ということを表していると考えるのが妥当だと思います。

この下のURLの記載には次の一節があります。
https://bushoojapan.com/scandal/2017/07/31/10194 …
このまま倒幕派がくじけたら、西郷の失脚は間違いありません。もはや西郷の選択の余地は、ない。そこで彼は武力の道を選びました。西郷の密命を帯びた井牟田尚平・益満休之助ら薩摩藩浪士隊が、将軍不在で治安が悪化していた江戸および関東一円で暴れ回ったのです。
慶喜らは、江戸を目指し上方から撤退。自ら謹慎し、恭順の意を示します。静寛院宮(和宮)や天璋院も、慶喜の助命を嘆願しながら、西郷としては何としてでも切腹させたいと考えていました。(しかし、無血開城合意)
西郷は、江戸での彰義隊との上野戦争を指揮し、その後、出羽・米沢庄内へと転戦。庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり、激しい抵抗を示していました。そして力尽き、9月に降伏すると藩主以下厳しい処分を覚悟します。が、西郷の意を受けた黒田清隆は寛大な処分を下したのです。減封は16万石から4万石の12万石。あれほど血を流すことを望んでいた西郷は、すっかり変貌していたのです。
西郷にはネゴシエーターとしての才覚があります。長州征討の際にも敵の懐に飛び込み、解決に導きました。
敵の懐に飛び込んでどうにかするのは西郷が最も得意とするところ。「俺さえ行けば何とかなる」
https://history-men.com/seikanron/#i-3
また、日清修好条規や後年の日朝修好条規をみると、西郷はもしかすると、俺ならばなんとかうまくやれると思っていた可能性はあるような気もします。
https://nihonsi-jiten.com/nissinn-syuukou-jyouki/

> 西郷の征韓論はねつ造で、

この下のURLでは、ただの板垣の説明であったように説明されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93 …
史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。 
西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。

> 留守政府の打ち手は富国強兵そのもので、太陰太陽暦を太陽暦にスパッと変えてしまうような欧米偏重としか思えない無謀なこともやっているので、開国にこだわるのは何か重要な意味があったはずなのにそれがわかりません。

強兵のための国軍体制作りは、中央新政府の方針で、その具体的リードを西郷に託すため、西郷が中央に呼び戻されたのではないですか。 留守政府の施策は、岩倉使節団の面々の方針の推進実現ではないのですか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E5%AE%88 …
1869年2月~1860年12月は基本的に鹿児島に西郷はいて中央の政策には直接関係してないようです。
この下のURLだと、開国にこだわるのは、新政府の新たな方針とは言え、幕末期から盛り上がってしまった夜郎自大的な血気なのでしょう。 西郷にもそうした気はないわけではないにしろ、《ただ息巻いて突っ走るのではダメだ》という大人の思考が江戸進攻の途中からは強くなっていたから、遣韓使節としてどこかで折り合いをつけるつもりだったのかもしれません。 西郷自身が、朝鮮との関係や欧米、中国との関係をどうすべきと思っていたのかは知りません。 ただ、強兵を実現するのに、士族主体の志願兵構想を撤回して徴兵制の確立を図ったというのは、廃藩置県と同じで、時代の方向をきちんととらえたものだと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0 …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93 …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5 …

あくまで、webを見ただけの感想です。 深く、西郷の人物を知っているわけではないです。
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大久保と袂を分かったとたん時期尚早の征韓論をぶち上げた人物。


大久保とか勝とか桂とかの影響下にあった時期がもっとも輝いた人物。
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少し冷静に判断した方がよろしいらしいです。

鹿児島の友人からの情報では,やはりあれだけ多くの若者を死なせてしまった事態を招いたのは西郷の責任あるいは判断ミスなどなどだという歴史家もいるやに聞いています。確かに魅力的な人間だったのでしょうが,そのおかげで庄内からの若者を死なせてしまったのも,どうやら事実のようですね。僕はよくわからないので,それだけコメントしておきます。他の方々からもっと詳細を回答いただけると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
1時間後の自動削除にもひっかからなかったので、幻の質問に終わることなく一安心です。
回答していただき、大変感謝しています。

お礼日時:2018/11/18 20:10

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Q朝鮮はどうして独立を維持できたのでしょうか。

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Aベストアンサー

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
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Qヒトラーはユダヤ人を迫害したのは一体何故でしょうか。

ヒトラーはユダヤ人を迫害したのは一体何故でしょうか。

Aベストアンサー

ヒトラー自身がユダヤ人を迫害する理由は諸説ありまして、例えば、幼い頃に取り立てに来たユダヤ人の金貸しが意地悪でそいつを憎んでいたからとかいろいろあります。


ただ、もともとヨーロッパ社会はユダヤ人を迫害する歴史を歩んでいます。これは元々は、イエスを殺したのがユダヤ人だからという理由になります。

十字軍の時代でも、特に理由はないが景気付けにユダヤ人を虐殺したり、血の中傷といって、「ユダヤ教徒がキリスト教徒の子どもを拉致誘拐し、その生き血を祝祭の儀式のために用いている」という噂が広まってそれを信じた住民が暴走してユダヤ人を虐殺する事件なども起きました。もともと、ヨーロッパ世界ではユダヤ人を迫害する土壌があり、その理由はイエスを殺したからです。


彼らからすると、ユダヤ人は親の仇なのでしょう。
秀吉は、カトリックを「日本人を奴隷として売ったり、他の宗教を攻撃したから」と言う理由で、カトリックを迫害しましたが、ヨーロッパ世界のユダヤ人の迫害は、「イエスを殺したから」というものです。
日本人には理解できないとは思います。

前者の場合は、カトリック自身が奴隷売買や他の宗教への攻撃を止めれば、カトリックの弾圧も停止すると言う政策も可能ですが、後者の場合はその様な解決は成り立ちません。




その様に、当時のヨーロッパ社会は非常に深刻なユダヤ人への迫害の土壌が存在しました。

ドイツも当然その様な土壌が存在し、ヒトラーはそれを利用して求心力を高めたのかもしれませんが、実際のところは、ヒトラーのみぞ知る事です。

ヒトラー自身がユダヤ人を迫害する理由は諸説ありまして、例えば、幼い頃に取り立てに来たユダヤ人の金貸しが意地悪でそいつを憎んでいたからとかいろいろあります。


ただ、もともとヨーロッパ社会はユダヤ人を迫害する歴史を歩んでいます。これは元々は、イエスを殺したのがユダヤ人だからという理由になります。

十字軍の時代でも、特に理由はないが景気付けにユダヤ人を虐殺したり、血の中傷といって、「ユダヤ教徒がキリスト教徒の子どもを拉致誘拐し、その生き血を祝祭の儀式のために用いている」という噂...続きを読む

Q戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。 実際

戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。
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当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
普通の声のトーンで話さなかったのですかね?

Aベストアンサー

実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
 ↑
そういう人が多かったと思います。
1,軍議は自己アピールの場でもあります。
 声が大きい方が目立つし、意見も通りやすいのは
 今も同じです。
2,戦国時代の武将の声はとてつもなく大きかった
 と言われています。
 広い戦場で自分の名前をCMするのですから
 大きいことが要求されたのです。



当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
徳川家康は、部下の自由なディスカッションに任せ
それろじっと聞いていて、最後は自分で決める、
そういう軍議をしていたという話があります。
声がでかくないと、主君の耳に入りません。

Q開戦時の首相であった東条英樹が、敗戦に際し「戦時下の国民の弱さを想像できなかった私の不明を恥じる」と

開戦時の首相であった東条英樹が、敗戦に際し
「戦時下の国民の弱さを想像できなかった私の不明を恥じる」
と述べたのは、史実ですか?

Aベストアンサー

次のHPに以下の様な記述が有ります。
http://no3park.sakura.ne.jp/wp/2018/11/11/愁思の季節%ef%bc%8d%ef%bc%8d日米戦争の秘話/

<開戦(昭和16年12月)前から首相を務め、サイパン陥落(昭和19年7月)で
辞任した東條英機(とうじょう・ひでき)は、敗戦に際し、「戦時下の国民の
弱さを想像できなかった私の不明を恥じる」と述べ、敗れたのは国民のせいだ
と言わんばかりであったという。
ーー以上は、文藝春秋10月号、保阪正康(ほさか・まさやす)氏の文章を
参考にまとめたものである。記して感謝する。>

保坂氏は著名な歴史学者ですから、史実であると思います。

Q豊臣秀吉の死から関ヶ原の戦いの間で、徳川家康に勝てる大名なんていませんよね?

豊臣秀吉の死から関ヶ原の戦いの間で、徳川家康に勝てる大名なんていませんよね?

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黒田如水が有名ですね。

QNHK大河ドラマ『西郷どん』は本当?

西南戦争の最中に、西郷隆盛と奥さんが戦場で対面したという話は本当ですか。信じられない。

Aベストアンサー

島流しから戻った後、1度再会したと記憶していますが、西南戦争のときではなかったのでは。
ドラマだから現代の人のウケが良いように脚色してあるのは当然のことです。
もし真実をそのままドラマ化すれば、西郷さんに対するイメージが悪くなってしまうかもしれませんからね。
まあ、今と時代が違うんだから、何が善で何が悪かなどなど、価値観も違うのだから
もしタイムテレビのようなものがあってそれで西郷さんとその周辺を見たら、ショックを受けるかもね。

Q侍の勝負

侍の勝負について質問です。

久しぶりにるろうに剣心の実写版を観ましてですね、「やっぱりアクションは凝っていて、大迫力やなあ」と感心しました。

映画を観てて思ったのが、日本の侍達が活躍してい
た時代(何時代か分からない。すみません。)での刀の勝負って、映画のような激しい、速い、かっこいいものだったのでしょうか?
(かっこいいというのは、ある種の見世物的な。キメ技決めたり、ローマの闘技場のグラディエーターとかのような)

それとも、先に早く抜いて斬り殺した者勝ちですか?
西部劇のガンマンのような感じの。

「ゆくぞ!」
「かかってこい!」
(緊張が解け、両者共に鞘から抜刀して人振り。スパンッ。相討ち)

みたいな。

歴史に詳しい方お願いします。

Aベストアンサー

戦争ではなく、一対一の決闘形式の斬り合い
ですね。

実際の記録をいくつか紹介します。


永遠に続くかと思われていたにらみ合いを
やって、その後双方が突進した、と思ったら
片方が倒れた。

エイヤ、と斬り込んだが、間合いが遠すぎて
届かず。
それどころが、自分の膝に斬りこんでしまった。

さあ、斬り合いだ、と思った瞬間、意識が遠のき、
相手がはるか遠くにいるように感じた。
気がついたら相手が倒れていた。

誰かが侵入したらしい。
刀を持って待ち伏せしていたが、無性に喉が
乾き、雑巾を入れたバケツの水を飲み干した。
相手はそのまま姿を見せず、逃走。

たかが試合だって、極度に緊張するのが現実です。
それが刃物を持った殺し合いですよ。
緊張は極限状態に達します。
通常の精神状態で殺し合いなど出来ません。





久しぶりにるろうに剣心の実写版を観ましてですね、
「やっぱりアクションは凝っていて、大迫力やなあ」と感心しました。
 ↑
あんなアクロバット剣術など存在しません。
あれは映画用のただの見世物です。

下半身をしっかり大地に踏ん張っていなければ、
作用反作用の法則からいって、人を斬ることなど
不可能です。

戦争ではなく、一対一の決闘形式の斬り合い
ですね。

実際の記録をいくつか紹介します。


永遠に続くかと思われていたにらみ合いを
やって、その後双方が突進した、と思ったら
片方が倒れた。

エイヤ、と斬り込んだが、間合いが遠すぎて
届かず。
それどころが、自分の膝に斬りこんでしまった。

さあ、斬り合いだ、と思った瞬間、意識が遠のき、
相手がはるか遠くにいるように感じた。
気がついたら相手が倒れていた。

誰かが侵入したらしい。
刀を持って待ち伏せしていたが、無性に喉が
乾き、雑巾を入れた...続きを読む

Q日本は過去に女性が天皇になったことが多いのはなぜですか?

過去の歴史において女性が王や皇帝になったことは世界的に少なく、中国は長い歴史の中で1度だけですし、ヨーロッパでも女王が多かったのはイギリスくらいです。

その中で、日本は過去に10人の女性が天皇になっており、これはイギリスの女王と並んで最多になります。
日本の場合、女性天皇は古代から存在しており、それより前に女性君主を立てたのは古代エジプトくらいです。
このように、過去の日本が君主に女性を立てたことが他国と比べ多かったのはなぜでしょうか。

Aベストアンサー

神武天皇から推古天皇までは33人の天皇を選んだのでしょうね。皇統譜を組むときにね。だから神功天皇、飯豊天皇は日本書紀が外したのでしょうね。3が二つ並んで縁起がいいということですね。当時の日本人は語呂合わせが好きだったのでしょうな。
天皇は通常男子が成るのが普通でしたが、ほかになり手がない時は一時的に女子を建てようという政治的意図で女帝が出ただけ。いわば、候補者が決まらぬ時のつなぎ。
あのー、神功天皇とか飯豊天皇を認めるのはいいですが、歴代天皇を数えるときは入ってないですよ。今は125代とか言いますが、あの場合の125代の中に、神功天皇、飯豊天皇の2人は入っていません。日本書紀が外して続日本紀以降、神功皇后だけ歴代に追加したみたいですが、明治になってまた外しましたね。となれば、論じるなら8人の女帝といった方が現実的な気がする。まあ追加してくれるのはありがたいですが、質問者さんは進歩的ですな。
天照大神・卑弥呼は天皇ではありません。天皇は神武天皇に始まるものです。天照大神は神代の神様、まあ実在の人を当てる説もありますがね。卑弥呼は祭主でしょうね。女王にしたのは中国人の史観ですね。

神武天皇から推古天皇までは33人の天皇を選んだのでしょうね。皇統譜を組むときにね。だから神功天皇、飯豊天皇は日本書紀が外したのでしょうね。3が二つ並んで縁起がいいということですね。当時の日本人は語呂合わせが好きだったのでしょうな。
天皇は通常男子が成るのが普通でしたが、ほかになり手がない時は一時的に女子を建てようという政治的意図で女帝が出ただけ。いわば、候補者が決まらぬ時のつなぎ。
あのー、神功天皇とか飯豊天皇を認めるのはいいですが、歴代天皇を数えるときは入ってないですよ。今...続きを読む

Q幕末四大人斬り(岡田以蔵、桐野利秋、河上彦斎、田中新兵衛) このへんで大河ドラマできますか?

幕末四大人斬り(岡田以蔵、桐野利秋、河上彦斎、田中新兵衛)
このへんで大河ドラマできますか?

Aベストアンサー

桐野利秋は、民放でドラマ化されましたよ。
もう何十年も前の話ですが、

若山富三郎 (東京12チャンネル『風雲児半次郎』、1964年)
の「風雲児半次郎」

示現流の腕を西鄕に見込まれ、以降西鄕の
懐刀として活躍し、西南戦争で戦死。
ドラマになります。
風雲児半次郎では、北進一刀流の達人にどうしても
敵わなかったが、腕を上げて遂に討ち果たす、という
場面が印象的でした。



岡田以蔵は、脇役ならともかく、主人公となると
陰惨で、難しいです。


河上彦斎、田中新兵衛は、大した実績がありません。




このへんで大河ドラマできますか?
 ↑
つくるなら、桐野を主人公にして、後は
脇役ですね。

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今、「赤穂城断絶」(監督 : 深作欣二)を観てます。
まだ途中までしか観てないないですが、幕府(?か当時の裁判所)は、喧嘩両成敗にしなかっのでしょうか?
吉良上野介は、御咎めなし。
浅野内匠頭は、お家断絶、切腹。
は、不公平ではないでしょうか?
背景とかあるのでしょうか?

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喧嘩ではなく浅野内匠頭の発狂と見たのでは?
そうなれば吉良上野介は被害者。
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浪士の討ち入りは吉良への恨みではなく幕府への意趣返し。
実は本当の悪者は幕府という落ち。


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