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親の七光りの七光りの語源を教えてください。

何が7つ光っているのですか?

A 回答 (5件)

七つの項目があるわけではなく、「多くの」「偉大な」という意味で七を使って表しているそうです。

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この回答へのお礼

みんなありがとうございました

お礼日時:2018/11/26 22:12

数が多い、なら八を使うような気がしますね。



というので調べてみたら、もともとは『親の光は七光り』というものを省略した言い方だったとか。似た言葉に『男の光は七光り』というのもあるようですが、使い方がよくわかりませんw
これだと七の意味がまだよく分かりませんが、似た言葉にもう1つ『親の光は七とこ照らす』というものがあるようです。”七とこ”は7つの所という意味でしょうが、これを四方八方の八方の内の7つと見て、多くを照らしてくれるが1つくらいは光の届かないところもあるという意味じゃないか、という考察がありました。なるほど、これだと”八光”ではないのもうなずけるような気がします。

でももしかしたら、虹の色の数とかかも知れませんねw
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七つ光っているわけではありません。


七光りの七の意味は数が多いという意味です。
親の威光を、子供が大いに恩恵を受けているなので、
大いに→数が多い、大きなという意味→七。
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権力を持った親の恩恵を子供が受けることに使われ具体的に七つの光があるわけではない


語源はわからないが後光を表す仏様のように権力を象徴しているのではと思います
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七福神と一緒で、全てをフォローしてる、たくさん、ってニュアンス。

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大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが、彼らが大阪南部勢力に従属していた根拠はありません。(敵対していたという記載もあるようです。)
これらの複数地区が全て単一権力の支配下にあったという証拠は無く、ゆるいつながりをもった地方権力の並列性であった可能性もあります。
であれば、単一権力による中央集権制では無く、首都という言葉とはややずれます。

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もちろん、「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」可能性はあります。
4~6世紀大型建造物であれば、土台構造物(穴や柱石など)などの遺構が残ります。
それによって、古代都市そのものを確定し、さらには政治形態を確定、首都と定義なども必要で、お示しされた根拠だけを理由に「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」と確定するのはやや無理があるでしょう。

参考までに巨大古墳を20位までお示しします。
5位までに大阪南部が多いことは事実ですが、同時期に岡山にもあり、20位までで考えれば奈良にけっこう後半に分布しています。
この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。

1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵
4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m
5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m
6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m
7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m
9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m
10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m
14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵
15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m
16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵
17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵
18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m
19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵
20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが...続きを読む

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なぜ、戦国時代に、手柄をほめる感状を女性に送る習慣がなかった、のでしょうか?

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類推ですが・・

感状は鎌倉時代から存在し、主君クラスの上位者が武勲を立てた功労者に贈るもので、直筆・花押という公文書的性格の強いものであったようです。これが戦国時代のような下剋上の時期になると、感状は「推薦状」としての機能も果たすようになり、戦に敗れて主君が死亡し、浪人になった時などにも「これだけの感状をいただいているので、私を召し抱えると有益でしょう」という売り込みに使えたはずで、というよりそのために感状は発給されたとみるべきでしょう。

今でいえば勲章のようなものであり「その人の実力をそのまま示すもの」だったといえます。

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これは農民の生活が「領主と盟約を結ぶ安全保障」だったからです。個人の土地の所有権を領主が保障する代わりに、戦争時には庄屋クラスが地域の農民を連れて参戦する約束をしていて、農民個々人の家から男性を出せない場合には女性が替わりに出ていた、と考えられています。

秀吉の刀狩以降は、農民と武士を分離させ、職業軍人と職業公務員である武士と農業を主体とする農民を分離させ、同じ家系でも武家と農家に分かれて行くのですが、それ以前は武家と農家が未分離で、農家の後継ぎになれない次男以降は「武功を立てて職業軍人になりたい」という人がおおかったのです。

感状はこれらの「跡継ぎになれないのだから、軍人として成り上がりたい」という人々の求めに対して「武功を証明する」ものだったといえます。

女性は武功はたてたとしても「職業軍人」になる道はありません。参加は、あくまでも「男が出せないため」だったわけです。となれば女性に感状を出しても役に立たないので、出さなかったと考えるのが自然だと私は考えます

類推ですが・・

感状は鎌倉時代から存在し、主君クラスの上位者が武勲を立てた功労者に贈るもので、直筆・花押という公文書的性格の強いものであったようです。これが戦国時代のような下剋上の時期になると、感状は「推薦状」としての機能も果たすようになり、戦に敗れて主君が死亡し、浪人になった時などにも「これだけの感状をいただいているので、私を召し抱えると有益でしょう」という売り込みに使えたはずで、というよりそのために感状は発給されたとみるべきでしょう。

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Aベストアンサー

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ドラマだから現代の人のウケが良いように脚色してあるのは当然のことです。
もし真実をそのままドラマ化すれば、西郷さんに対するイメージが悪くなってしまうかもしれませんからね。
まあ、今と時代が違うんだから、何が善で何が悪かなどなど、価値観も違うのだから
もしタイムテレビのようなものがあってそれで西郷さんとその周辺を見たら、ショックを受けるかもね。


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