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1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府が1185(イイハコ)と覚えさせるようになった理由は何ですか?

A 回答 (8件)

征夷大将軍が指揮する場所を幕府というのだから、「1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府」が正解だと思うわ。


源賴朝が征夷大将軍になったのは1192年だからな。
1185を使うなら
「1185(イイハコ)作ろう鎌倉政権」というべきだな。
最近の歴史教育は不正確でええ加減だわ。
歴史学者が、単に教育現場を引っかき回そうとしているとしか思えんわ。
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鎌倉幕府の成立時期は一体いつなのか、頼朝の足跡を辿って


それぞれの説を見ていきます。

1. 1180年
頼朝は鎌倉に居を構え、軍事・警察機構となる侍所(さむらいどころ)を設置します。
そして南関東と東海道東部の実質的支配権を手に入れた、
この時を鎌倉幕府の成立とする説があります。

2. 1183年
この年、頼朝の東国支配権が、朝廷から事実上の承認を受けました。

3. 1184年
頼朝は鎌倉に公文所(政所(まんどころ))と、裁判所である問注所を設けます。
公文所(くもんじょ)は、財政を担当する機関でした。

4. 1185年
頼朝と義経の対立は次第に深まっていきます。
そして義経追討のため諸国に軍事・警察権を握るための守護を、
荘園などに地頭を置く権限を朝廷に認めさせます。

5. 1190年
奥州を征服した後に、朝廷から「右近衛大将(うこのえたいしょう)」
という地位を任じられた時という説もあります。

6.1192年
頼朝が征夷大将軍に任命された年です。



もし「将軍の政府」が幕府であるという点を重視すると、5・6番の説が、
幕府成立の年になります。
特に6番の説は、征夷大将軍に就任した、そのため将軍の政府が出来た
という考え方になります。
これが「いい国作ろう源頼朝」や「いい国作ろう鎌倉幕府」
という語呂合わせの根拠になっています。

しかし幕府というものの性格は、「将軍の政府」という側面
だけではないといいます。

頼朝の軍事政権がどのように成立したかを見たときに、
1~4番の説が大事になります。

この「軍事政権」という点を重視する場合、1番の説については、
鎌倉に軍事政権の基礎が出来たという事実が重要視されます。


4番の説については、守護・地頭の任命によって、武士の勢力が
全国に広がったということが根拠になっています。
つまり、このときに鎌倉幕府が日本全国に支配の権限を広げたと言えます。

現在は、これが決定的だったのではないかと考える学者が増えている
からです。
そのため「いいはこ(=1185)作ろう源頼朝」
という語呂合わせもできています。



このように「幕府」の解釈によって、成立年もこれだけ
変わってしまうということが分かります。
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教科書の記述が変わったからです。



学界では50年以上前から、
1180年(侍所)、1183年(東国支配の公認)、1184年(政所)、1185年(守護・地頭)、1190年(近衛大将)、1192年(征夷大将軍)といったような諸説がありました。

教科書では1192年説がとられていましたが、断定からぼかした書き方に変わり、やがて1185年説に変わりました。
最近では、ある年だけで鎌倉幕府の成立というよりも、長い間をかけて徐々に確立されたとされるようになっていってます。
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長年、鎌倉幕府の成立は、源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年とされていました。


しかし、近年、源頼朝が平氏を滅亡させ、諸国に守護・地頭を設置する権限を後白河に認めさせた1185年が鎌倉幕府の始まりである、ということになったのです。

これ以外にも鎌倉幕府の成立と考え得る時期はありますが、いまのところ1185年が有力な学説として認められてるのです。

古い時代のことであり、全国が一斉に鎌倉幕府の支配下になったというわけではないので、どの時点を「幕府成立」とするかは、後年歴史学者がいろいろと検討して決めるわけです。
過去には、天皇からの宣下があった1192年を「朝廷公認」ということで「始まり」としていたのでしょう。
現在では頼朝が実質的に武家政権としての機能を確立させた1185年を「始まり」と考えているということだと思います。
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下記のサイトの説明がわかりやすいですよ。


以下、部分を引用です----------------

なぜ1185年が鎌倉幕府の成立年が変わった理由を確認しましょう。ここでもう1人重要な人物が登場します。平家との戦いの最大の功労者の1人、源義経です。

平家という共通の敵がいる間は互いに協力しあっていた2人でしたが、壇ノ浦の戦い以降義経は自らの行動で頼朝を怒らせてしまい、義経追討を決定し、内紛状態に陥ります。平家という共通の敵がいる間は互いに協力しあっていた2人でしたが、壇ノ浦の戦い以降義経は自らの行動で頼朝を怒らせてしまい、義経追討を決定し、内紛状態に陥ります。

義経が頼朝を怒らせた原因としては、頼朝の許可無く後白河法皇から官位を授かったこととされていますが、実際は義経の権力が高まることによって頼朝にとっての脅威となることを避ける、リスク回避の行動であったという見方が強いようです。

こうした内紛で頼朝は義経を討つために諸国を探索する事を理由として、源頼朝は1185年、諸国に守護・地頭を設置する権限を後白河法王に認めさせました。鎌倉幕府が1185年に成立したとされるのはまさにこの下線部の部分を重視しているのです。

守護というのは、律令体制の時の国司の権限を引き継いだものであり、これを任命する権利があるということは(守護を設置できる国に限っては)頼朝の支配下に組み入れることが出来た。つまり、この時期を有力視するのは1192年に征夷大将軍に任命される以前から、「実質的に源頼朝を中心とする支配体制が確立したといえるのではないか」このように考えるからなのです。

鎌倉幕府の成立年が1192年から1185年になった理由(塾講師ステーション)
https://www.juku.st/info/entry/1246
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学会でそのように変更したからです。

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