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私の知る得る知識ですので、間違えた知識も多分に含んでいることをご承知おきください

「早風呂」
汚い話ですと「早寝早グゾも芸のうち」
「宵越しのお金はもたない」
「火事と喧嘩は江戸の華(これは少し違うと思いますが)
所説ありますが、お寿司も当初屋台で食べることができて食事の時間を短くできる

当時の民族性と言ってしまえばそうなのかもしれませんが、なぜ(例に挙げたものが全てが正しくなくとも)
そのようなイメージが定着したのでしょうか?

それとも当時の落語家の話や、後の研究者がそのようなイメージを植えつけたのでしょうか?

A 回答 (3件)

江戸は、田舎を捨てて、すなわち農地を捨てて江戸に出てきたものが多いから、この連中は失うものが無い。


同時に、貧しい時代ですから、今、目の前にあるものを食わないと、誰かに取られちゃうかもしれないでしょ。

だから田舎で農業やってる人たちみたいに安定しない生活の中で、せっかちになったと考えられますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに江戸は7:3の男性社会と聞いたことがあります。
江戸で人生を全うしたい!という冒険心あるかたが多かったのですね

お礼日時:2018/12/04 18:15

江戸はその時代火事が多い街でした。

「火事と喧嘩は江戸の華」のいわれです。
なので、何をするにも、いつ火事が起きてもすぐに対処できるように、
という事ですぐに済ませる気性が根付いていきました。
「宵越しのお金はもたない」は、火事で燃やす前に使え、
屋台寿司は、ゆっくり食ってはいられないから、
早風呂は、男は火消しにすぐに行けるように、女は裸で放り出されないように、
こんな感じです。
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この回答へのお礼

そのような事情でしたか。ありがとうございます
江戸は当時人口100人の世界最大の都市だったことを思い出しました。その為住居が密集するのも仕方がなく火事も日常茶飯気なんだとも思いました

お礼日時:2018/12/04 18:06

「宵越しのお金はもたない」


これは畠中恵氏の小説を読むと分かります。

当時の江戸は病気、火事、追剥などが頻発していました。
何しろ江戸城さえ火事で焼けました。
将軍様もけっこうな割合で病気で早死にしています。
町奉行は刑事事件だけでも処理しきれず、民事は「相対済令」要するに奉行所に持ち込まず当事者同士で解決せよ、というお触れを出しています。
江戸に住んでいる以上、これらの災難で命を落とすことは今と比較にならないほど身近であり、逃げることのできないものでした。

つまり、金を貯め込んだところで
・燃えてしまう
・自分がその金を使えないところに行ってしまう
・盗られてしまう
なら、もっと今のために有効に使おう、というのがこの格言のもとです。
私も意外でしたが「飲む打つ買う」のススメではなかったようです。

「火事と喧嘩」「短気」
火事は言わずもがな。
喧嘩は当時は「殺し合い」でした。
相撲でさえ今と違いどちらかが参ったというか死ぬまで、というルールでした。
新興地の特徴として、動きが機敏で荒々しいということがあります。
ちょっと動きを止めるとあっという間に財産を失い、没落してしまいます。
また、他人のことまで心配するゆとりはなかなかありません。
喧嘩は憂さ晴らしであり、自らの言い分を押し通す、一種の戦闘行為でもありました。
特に江戸は将軍おひざ元ということで武士が大勢住んでおり、
「旗本奴」×「町奴」に代表される、武士と町人との利権争い、感情的な争いが多く起こりました。
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この回答へのお礼

今では考えにくい状態だと思いますが、当時はそれが常識だったんですね。
勉強になりました

お礼日時:2018/12/04 18:12

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http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/nagai_menu.html
「江戸っ子の実態」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/nagai25.html
 幕末の安政期、紀伊田辺藩の御典医原田某が参勤交代で江戸に滞在し、その見聞を記録したものに、『江戸自慢』がある。同書は江戸っ子について、次のように記している。
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 少なくとも落語の「江戸っ子」では、公共事業は受注できないし、監督官庁の認可も受けられないのは確実である。

このほかにも同HPにある
「江戸っ子の差別構造」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/nagai46.html
「江戸時代、女の『売値』は」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/nagai53.html
「江戸の美味は危険」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/nagai62.html
「人情長屋は本当か」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/nagai64.html
「火事は江戸の華か」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/nagai66.html
「江戸の治安はよかったか」
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これらなどにも目を通してみると、いろいろと面白いですよ

江戸っ子は「短気で、喧嘩っぱやい」というイメージは多分は落語で作られた、フィクションの江戸っ子ではないでしょうか?

落語は面白おかしく誇張し、しかも現在演じられる話の運び方の大半は明治時代以降に作られ、大正、昭和、平成とその時代に従って改変され続けてきた。だから時代考証として信用に値しないものです。

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でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
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と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
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見せかけが本当になってしまいました。


■1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な
「自由主義者」として、野坂参三、鹿地亘らの共産主義者を挙げて活用した。

マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、
野坂らの提唱で設立された日本人民解放連盟の中国での
日本兵捕虜洗脳教育を対日心理戦に利用できると確信し、
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エマーソンは「日本国内の戦争反対分子を励まし、内部崩壊を早める」
よう提言し実行されたが、同証言で「共産主義の目的についての理解がなかった」
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日米合作の太平洋戦争史観とコミンテルン史観との奇妙な癒着が戦後の
「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツ、温床となった。

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
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「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
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Q日本が一番のんびりしてた時代って60年代か70年代ですか?

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No.5 回答者: Mocojima_Z さんが、回答日時:2019/03/05 16:42 に
「むしろ、一番のんびりしてるのは今では?」と回答しています。
私もそう思います。
理由は、❶ のんびり = 身心がゆったりと落ち着き、内外の制約を気にせずに自分の満足するように行動しているさま ❷ 社会保障厚生施策が厚くなり、収入や職の有無を強く気にせずに済む社会になっている、性差、個体差、人種差、能力差、年齢差、長幼上下先輩後輩血族同族勤務先などの人間関係のしがらみや制約を気にしない発言行動スタイルがとがめられない、❸ テレビの番組内容でも何でもありでとがめらることが少なくなっている、❹ 犯罪事例でも今までは想像しにくい行動が公然となることが多くなっている = 昔ならばもっと別の理由や背景をセットで報じないとおかしいと思われてしまう = 現在はどんなこともあり得る、制約を内的にも持たない人物が出現することさえも納得する時代になっている と思うからです。

まあ、今は子供たちが塾やお習い事で大変で、スマホも離せない時代になっていて、子どもは子どもで勝手に遊び回るというような時代とは違いますが、その子どもは、異年齢子供たちだけで勝手に集団遊びをするのをきついと感じるようですから、現代の子どもにとっては昔の子どもはのんびりとはしてられないというように感じると思うでしょう。
おそらく、人類の歴史では、20歳過ぎまで就労せず家事労働せずというような人が多くなったのは、世界でみても、1970年代以降ではないでしょうか。
http://www.garbagenews.com/img17/gn-20170613-01.gif
「"食うため、生きるために!"を、自分自身の指針として頑張る」のは《のんびりとも言える》と考えるのであれば別ですが、《温泉に浸かってのんびりと》《一日景色を楽しみ海岸でのんびりと》《ビールを飲みながらテレビでものんびりと》のようなのんびりの時間帯を人生の多くの時間で過ごせるのは、多分、現代が一番でしょう。
https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26honpen/img/z1_4_13.gif
職場になじめない、学校になじめない、就活が希望のように進まないという理由で無職で親元にいられるのであれば、それをのんびりした時代の証とも考えられらるでしょう。
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No.5 回答者: Mocojima_Z さんが、回答日時:2019/03/05 16:42 に
「むしろ、一番のんびりしてるのは今では?」と回答しています。
私もそう思います。
理由は、❶ のんびり = 身心がゆったりと落ち着き、内外の制約を気にせずに自分の満足するように行動しているさま ❷ 社会保障厚生施策が厚くなり、収入や職の有無を強く気にせずに済む社会になっている、性差、個体差、人種差、能力差、年齢差、長幼上下先輩後輩血族同族勤務先などの人間関係のしがらみや制約を気にしない発言行動スタイルがとがめられない、...続きを読む

Q織田信長の城ってどこですか? もう焼け落ちて現存していないんですか? 徳川家康が名古屋城で、豊臣秀吉

織田信長の城ってどこですか?

もう焼け落ちて現存していないんですか?

徳川家康が名古屋城で、豊臣秀吉が大阪城ですよね?

織田信長の城はどこ?

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そもそも「信長は安土城」みたいに武将と城が1:1で対応しているわけではありません。
もちろん1つの城にずっととどまっている武将も多数存在しますが、信長・秀吉・家康は複数の城を転々としています。

ちなみに徳川家康は名古屋城を居城としたことはありません。

Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

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太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年が最初
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