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豊臣秀吉の死から関ヶ原の戦いの間で、徳川家康に勝てる大名なんていませんよね?

A 回答 (4件)

黒田如水が有名ですね。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/11/29 22:20

徳川家康は伊達政宗の才幹を恐れたといいます。


当時は天下も定まった後なので、政宗はその器量を発揮するチャンスは無かったのですが、宇和島に伊達の分家を作らせたり松平性を送ったり、とその才幹を恐れて懐柔していました。
また、毛利や島津も大きな大名で徳川の本拠地の東海や関東から大きく離れているため、徳川も完全に潰すことは出来ずに、これが明治維新の薩長連合の因縁とよくいわれます。歴史の皮肉ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/11/29 20:59

小早川秀秋の裏切りがなければ、石田三成。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/11/29 20:52

いるわけない

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/11/29 20:46

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当時は、現在ほど、「ピンポイントの殲滅」の技術はありませんので、事件に関係ない「女、子どもを殺した」という事件も発生したでしょうが、これは当時の技術的な問題でやっている事は現在の「政治に介入してくる危険な原理主義者のテロの撲滅」とあまり変わりません。




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 そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。

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ここがポイントです。
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を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?
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当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
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そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
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まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

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日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
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Aベストアンサー

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あのー、神功天皇とか飯豊天皇を認めるのはいいですが、歴代天皇を数えるときは入ってないですよ。今は125代とか言いますが、あの場合の125代の中に、神功天皇、飯豊天皇の2人は入っていません。日本書紀が外して続日本紀以降、神功皇后だけ歴代に追加したみたいですが、明治になってまた外しましたね。となれば、論じるなら8人の女帝といった方が現実的な気がする。まあ追加してくれるのはありがたいですが、質問者さんは進歩的ですな。
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