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消滅した魂はまた全く同じ魂をつくることはできますか?

A 回答 (9件)

そう思います。


でも、それこそ偶然中の偶然と云う事になるのでしょうね。

宇宙とは、存在(時空間)とそこに現れる物質(感覚)とその変化(理的)です。

その理的な変化の中で、突然変異と思われることが起きているのですから、偶然中の偶然があっても不思議ではありますが、あり得ると云えるのです。

要するに、自然発生ですね。
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この回答へのお礼

宇宙の法則で可能になるようにできていると思うんですが

お礼日時:2018/12/07 15:11

消滅した魂は復活しない、肉体が生きているうちに悔い新ためれば天国へ行く方法がある努力することもなく、魂は永遠不滅!

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この回答へのお礼

永遠不滅のものと消滅するものの2つがあるのですね

お礼日時:2018/12/09 09:20

神様も想定外!



実際、この宇宙は神様が創造されたのだと思っても、この世界は変化変化の連続。
少しも安定しませんね。

と云う事は、神様でも完全な世界は作れていない、と云う事になります。
神様にとっての完全な世界とは、生き物に苦しみを与えない事ではないでしょうか。

でも、この世界は・・・、

だから、自身(神)の無力故に、生き物たちへの慈悲の涙を流すのです。
慈悲の涙を流すしかないからです。

お前をこんな風に苦しめてしまって済まない、と云う心情なのです。
神は完全ではないのです。

宇宙の法則は理的ですが、突然変異と云うからには理性から外れているのではないでしょうか。
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創造主がいるならば、再創造は可能だと思います。



魂は、その生き物自身という前提です。
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今日(こんにち)まで同じ人間が現われていないようなので、それを思えば同じ魂は作れない(現れない)と思います。



ただし、偶然と云う事のあることを否定することは出来ないので、絶対にないとは言えないとも思います。

考えてみれば、この世の出来事はすべて偶然の産物と言えるからです。

因果の法則ですね。
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この回答へのお礼

何らかの影響で可能になることもありえるということですね

お礼日時:2018/12/05 13:19

魂をはっきり知っている人もいないから、そんなこと誰も答えられません。

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だれもやった事がありません。

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魂は、持ち主の死亡とともに消滅します。


魂とは、物質ではなく思考なので、本体依存です。
自然再生はしませんし、また作れるものでもありません。
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この回答へのお礼

そうなんですか?

お礼日時:2018/12/04 20:05

現時点で予想しても難しそうですね。

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素朴な質問でm(._.)m

とかく善悪にこだわる、わしやけどなんですが、
また妄想染みた質問にお付き合いや、お力添え頂けると助かります

旧約聖書では
神様は、人間を分身として創造された
なんて話がありますが
人間は神様との約束事を破り
楽園を追放された
なんて話しになってますね
知識の実だけは食するな
なんて言われてたのに
食べてしまったそうですね

いっぽう、仏教では
煩悩を捨て去り、解脱やら無の境地なるものに悟りをなんたら、かんたら!

ここからが、私の妄想的な疑問でして
知識=善悪の定義としたならば
( ̄▽ ̄;)暴論やね

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それか、!Σ( ̄□ ̄;)
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学術的な答えだけではなく
あくまでも、個人的な経験や想像から
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素朴な質問でm(._.)m

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今、世界は調和のとれたものではありません。創世記にはこうあります。神はまた、彼らを祝福しこのように神は彼らに仰せられた。「生めよ、ふえよ、地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは全地の上にあって、種を持つすべての草と種をもって実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもので、命の息のあるもののために、食物をしてすべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。(創世記1:28-31)
神さまは人間を造り、この世界を治めることを人間にゆだねられた。創世記のこの箇所から読み取れることは、人間も自然界も共に祝福された始まりです。しかし、今はどうでしょうか。地球温暖化、環境汚染、さまざまな生物の絶滅危惧。神さまからゆだねられた人間の支配が実を結んでいるとは思えない状況です。それはなぜでしょうか。同じく創世記に、質問文にある「知識の実」の記述があります。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」創世記2:16-17 
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ウナギを大量に捕獲して加工し、売れなければそのまま廃棄する人間、飼育している豚にホースで大量の水を注入して重量を水増しして稼ごうとする人間。これこそがまさに善悪の知識の実を食べた人間の行き着いた末かと思います。
私は思います。世界に息あるもの、そのすべてが息あるものとして尊重される世界が最も良い世界です。良き管理者としての任務を放棄しつつある人間は、このままではもうすぐ何かによって滅ぼされるのではないかと危惧しています。

今、世界は調和のとれたものではありません。創世記にはこうあります。神はまた、彼らを祝福しこのように神は彼らに仰せられた。「生めよ、ふえよ、地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは全地の上にあって、種を持つすべての草と種をもって実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもので、命の息のあるもののために、食物をしてすべての...続きを読む

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q<雨がふります 雨がふる>は、前が丁寧文であり、後は普通文ですね。なぜ、丁寧文と普通文が連なっている

北原白秋の作詞の童謡「あめ」は、親しまれていますね。
<雨がふります 雨がふる>が、繰り返し5回現れます。
ところで、このフレーズは同じような内容で、前が丁寧文であり、後は普通文ですね。
質問は、なぜ、丁寧文と普通文が連なっているのでしょうか?
(調子の良い七五調になっていますが)

Aベストアンサー

質問者の方が既にお気づきのように、歌全体を通して調子の良い七五調になるように、
言い方を変えているのでしょう。初めから歌われることを前提にした作詞のはずです。
丁寧な言い方と普通の言い方の組み合わせも、初めは違和感を覚えるかもしれませんが、
<雨がふります 雨がふります>より、また、<雨がふる 雨がふる>より、響きが断
然優れていることに~口に出したり、歌ってみれば~気がつきます。

Q「雨にもまけず 風にもまけず」ではなく、なぜ「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」なのでしょうか?

「雨にもまけず 風にもまけず」ではなく、
なぜ「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」なのでしょうか?

Aベストアンサー

「片仮名」で残されたのは「雨ニモマケズ」だけで、後の詩や童話は「平かな漢字混じり文」で印刷され、出版されています。青空文庫への収録はまだ全部出来ていないようですがやがて完成されるでしょう。賢治は「この詩(といえるかどうか異説あり)」は発表せず、手帳に書き付けたままでした。

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む


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