ウォーターサーバーとコーヒーマシンが一体化した画期的マシン >>



暴力というものの本質は何だとお考えですか?

A 回答 (23件中1~10件)

こんにちは、ねこりんさん。


まだ営業中のようなので再びお邪魔します。


暴力を行使しなければならない状況に陥るのは、
自分が【人間】であることに対する自覚の欠如。

人間なら言葉を尽くして対話で解決に導く、
という方法がありますから、
表現方法は【暴力】に限られませんし、
暴力という【発作】は起きません。

___________


あるいは、言葉を尽くして自分が傷つくことに対する
【恐怖】こそが暴力として現れるのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

50代の母親が親子げんかで中学生の娘の首を絞めて、その娘が
意識不明の重体だとかいうニュースをさっきチラリと見ましたが
そんなニュースが多いですね。

暴力を受けて育つから暴力を使うようになる、なんてよく言われ
ますが、そんな単純なものでもないと思います。

>あるいは、言葉を尽くして自分が傷つくことに対する
【恐怖】こそが暴力として現れるのではないでしょうか

うむ、それもあるでしょうね。

お礼日時:2019/01/09 02:56

不当に使われるちから。




傲慢とは思い上がった気持ちで人を見下すようすのこと。二人の人がいて一方が他方にたいして自分を下において一方が他方を傲慢だと指弾した場合、他方の人は、え……そんなこといわれてもととまどう。背の高い人が低い人に対していつも中腰になって視線をの高さを合わせてきたらイラつく。仲良しだから特別扱いしてもらえるはずと期待したっていいじゃない。てゆうかもともとは高慢だったじゃん。Q:存在理由-No.20さんへのお礼コメントより。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10394634.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

正当とは道理にかなっているという意味ですね。
不当とはその反対です。

あなたは道理というものをどうお考えですか?

そのあたりをきちんと考えないと、ただ攻撃的なことだけが暴力ということに
なりかねません。

お礼日時:2019/01/06 14:15

どの様にして支配は生まれたかと言うことについて知っておくべきかと思っていますが、まだ私にはよく分かっていません。



ただ、人々があるべくして自立した時には、支配者は別に必要無くなると言う事だろうと思います。

ここら辺のことは重要なのにも関わらず、私の考えはまだあまりハッキリしていません。人々があるべくして自立するとはどう言う事かをうまく説明出来ません。
端的に言えば自分が自分の主になると言う事なのですが、どうも人類社会には、人々を何かに従属せしめようとする圧が存在する様に思います。支配構造を維持しようとする力が働いているのでは無いかと思うのですが、それが何なのかよく分からない。
頂点は実は空席で、ただ君臨するものが居るのだという幻想だけがあるのかもしれない。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再び、本質的な難しい問題ですね。

私も考えがまとまっているわけではありませんが、次のように考えています。

人の能力が違うということは、我々は経験上知っています。リーダーシップがあるとか、
物事を広く見る能力、深く見る能力、IQの高さなどを持つ人間に社会生活の中の特定の
分野の主導権を委ねる、ということは合理的であり、自然なことだと思います。

そうして、特定の能力の高い人間たちがリーダー的な立場に立ち、次第に権威づけられて
「帝王」などというものが生まれたのでしょう。

「支配」というものは、上下関係によって生まれたのだと思います。
能力の高いもの、地位のあるものが「上」、それに従うものが「下」、この観念がいつ生
まれたのかは分かりませんが、これによってリーダーが支配者に変わったのだと考えられ
ます。

つまり、「上等な人間」だから、「下等な人間」を支配するのは当然だということでしょう。
だから、残虐なことを歴史上さんざんにやってきてしまった、と。

一方、被支配者たる庶民の最大の誤りは、これらの支配者たちを讃嘆してしまったことだと
思います、神あるいは神に準ずるものとして。

民意を得る、ということは私たち経験のない者にとって想像を越えるものであるらしいです。
近頃のお笑い芸人などで売れてしまうと、とんでもない傲慢な心を持つ人がいるとか、アホら
しいですね。
この傲慢の心が、人間を巨大化させて、「特別な人間」にしてしまう。この存在が多くの社会
悪を生んでいると思います。

現代においてはこれが小粒になり、山ほどいるように思います。

この心は以前お話した十界論では「修羅界」です。「声聞・縁覚」にほど遠い、学ばない、反省
しない自我。話して見ればわかります。頭が悪いです。

お礼日時:2019/01/02 19:43

自分の属する集団が悪に染まっている時に、自分だけ正義を表するのは勇気のいる事です。

内部告発しかり。社会の犯す悪に自分も染まっていながら、それを指摘し抜け出すのには勇気と困難な問題解決に向かう行動が求められます。誰も助けてくれないどころか、昨日までの味方が敵になり、孤軍奮闘を要求されるかもしれない。

もし、徳を普及する事ができれば多くの個人問題も社会問題も解決するでしょうが、徳は教えられるものでなく、自ら覚えなければならない事です。徳の体現者達が人類史にも史前にも現れて、その言葉も多く現代に伝わっているが、現代人には色濃く浸透しているわけでは無いように見える。

他の質問にもあったが、人には自分が善で正しいと思いたがる傾向があり、またそう思いなしてしまう弱い意識を持ちつづけているからでしょうか。

ただ、暴言や誹謗中傷、嘘、馬鹿笑いは音量が大きく、まるで社会の中にそれらばかりが溢れているように感じるかもしれないが、本当にそれをしている人は割合として少ないのでは無いか?と私は見立てているが実際はどうなのだろうかと思う。

静かさこそが盤石なのであって、騒々しさは塵芥なのだと。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

巨大な人間の集団を個人で改革しようとしたら、現体制の破壊以外にないでしょう。

昔は様々な策略や戦略でもってリーダーを倒し、武力で制圧したものです。
現在は勿論武力での改革は認められません。
また、ホリエモンが失敗したように、敵対的買収などはそううまくゆくものではない
と思います。

巷でよくある内部告発というものは、ほとんどが改革が目的ではなく、そういうつも
りになりたいのか、あるいは別の目的があるものと思われます。
それをやったら、完全に体制側と対立すると思うからです。

キサラギさんは「徳の普及」と仰る。それは宗教的、哲学的概念の共有、と言って飛躍
はないと思います。
「人間としてこれは正しい」という概念の共感の普及、ですね。

スポーツや音楽や将棋などで高い才能を発揮している人たちがいます。それと同様に文化
的な分野に興味を持ち、高い才能を持つ人もいるはずです。

そういう人たちが才能を発揮する時代になったと思います。ただ、問題は大きく極めて難
しいです。

例えば、あちこちで「炎上」をさせているような人たちは、現代では大きな影響力を持っ
ていると思います。日常生活の中でも、同じような手法で人の自由な言動を圧迫している
人たちがいると私は思っていて、仰るように、これらの人々はノイジーマイノリティーと
言えると思います。
このようないくつかのカラクリが絡み合って複雑な社会になっているのですが、そういう
ことを見抜いている才能はあると思います。

いわゆる「有識者」などという人たちには大抵無理ですね。危機感も情熱も見えませんから。

お礼日時:2019/01/01 12:59

訂正


中盤、成功者という特異な一視点を創造→想像
    • good
    • 0
この回答へのお礼

了解しました。

お礼日時:2018/12/30 18:36

大したことが出来なくても生きていける時代ではないという事を感じています。

努力して何かを身につけ続けなければならない。にゃんぽこさんがどこかで仰っていましたが、能力がものをいう時代であると思います。厳しい競争社会ですが、努力って、能力を獲得するためだけに為されるものではないんですけどね。人間関係や社会関係を豊かにするのも大きな大きな努力が必要なんだと思うんですが。

最近は、能力がー、テクノロジーがー、AIがー、と言った価値観が幅を利かせてますよね。これって新産業で成功した人の視点を、部外者が勝手に想像して生み出した価値観にすぎないんですよ。それが時代の正当性の裏付けになってるんですが、それにのみ拠っかかるってことは、他の人間性、具体的に言えば、人に本来ある多様な役割、例えば連帯感を高める人、自由な気風を持ち込む人、責任感を宿らせる人、情に報いる人、理知的な判断に導く人、アイディアを湧かせる人、様々な社会スキルに支払われるべき対価を軽視するってことになる。

で、この能力至上主義は、時代の正当性を謳う人々の間で主流です。時代は進んでいる方が優れていると考え、時代を進める技術やアイデア、行動力を持つ人がリーダーに相応しく、またそのような人々が開拓する未来こそが正しいと思われている。でもこれはやはり狭い考えだと言わざるを得ないでしょう。豊かさや多様性と言うのは、そういう一方向のベクトルしか持たないものではないからです。むしろ先進的な価値観に対する伝統的な価値観や、都市での生き方に対する辺境の生き方なども、そこに活かされていなければ人々の望むような未来は来ないでしょう。今謳われているのは、成功者と言う特異な一視点を創造することで見た世界における価値なのです。英雄や王の意志に代わって、成功者の意志が現代社会では強く働き、人々もそれに合意するが、その上っ面で想像した視点から見るだけの価値観を信じて進んでいけば、思ってたのと違った、となるのは目に見えています。多様な視点からみた世界における価値観を主張してゆくべきです。今まで価値を与えられてこなかった事柄に価値を与える。これこそが社会の富を増大させることなのです。

近所の川に鮎が帰ってきたとか、珍しく山に虹が出たのを近所のおばさんと見たとか、虐められていた子の友達になったとか、百二十年続いた豆腐屋の代を受け継いだとか、過疎の村に赴任したとか、おばあさんが横断歩道を渡るのを助けたとか、私が考え付くのはこのようなことですが、こういう事柄もまた人が生きる社会の富になっていることを忘れて、負けたくない、落伍したくない、時代に遅れたくない、集団から疎外されたくない、田舎に飛ばされたくない、金欠になりたくない、惨めな思いをするのは嫌だ、と言った恐怖から来た動機によって進もうとするのは、進まなければならないという束縛であり、不自由であり、しかも多くのものを排斥してしまう。
現代日本にある、先進性を是とする主張の内、少なからずにこの恐怖から来た動機が見えるので、どうも未来は暗いらしいという予感もするんですよね。

能力がー、テクノロジーがー、AIがー、と言うのはよした方が良い。浅慮に見える。そうではなくて、人間がテクノロジーを行使するのだという前提を強調しないと、テクノロジーが何かも大して分からない大多数の人々は、十分にそれを使いこなせないだろう。テクノロジーのあるべき姿と言うのも、人間がテクノロジーを使うのだという観点を除いては見出すことができない。
その点、ジョブズは分かってたと思う。人が使う製品を作ったから。アップルはクリエイターだけど、ソフトバンクは投資会社って言われる違いですよね。

テクノロジーで安全保障や経済や国民生活を語るのではなく、人間がどうにかするんだという意識を強く持たなきゃいけない。

哲学で人生を語る事も、今時は無価値と思われるけれども、それに意味や価値を与えるのもまたそれを為す人間なんですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

年末の煩わしい雑務がようやく片付きました。

現代という時代は、嫌になるほど「科学的」な考え方で、現体制という「大船」の外が
どうなっているかということを全く考えないということが、一つの特徴だと思います。
現体制自体の正誤のことは考えないということですから、哲学性がないということです
ね。

また、温暖化問題やら、資源の問題やら深刻な問題についての「解決」を実質放棄し、
何かあったときに「対処する」ということしかやろうとしていません。
これも科学的であると言えると思います。そしてこれは人間として楽な態度です。

そして、船の中ではお金が回り、消費しつつ快適に過ごし、問題があれば適度に対処し
それを続けること以外のことは発想の中にない、という時代になっていると思います。

更に悪いことには、「改革を嫌う」という保守性・保身性が強くなっているということを
感じています。

このことは文明内において致命的な欠陥で、つまり人々が社会のためになることを考えて
いる顔をしつつ、自分の利益しか考えていないということで、その結果、「良さそうなこ
と」ばかりやるのだけれど、本当に良い改革は「やりたがらない」ということに大抵なっ
ていると見ています。

そんなことをしていても船は無事に進んでゆくのだろうと思っているのでしょう。あまりの
お花畑に嫌になります。

仰ること大いに賛成です。

私流に言いますと、例えがちょっと悪いかもしれませんが、ミミズとか微生物が土壌を豊かに
するような庶民的な努力を皆したがらなくなり、社会悪を滅してやろうという青年的な心意気
をダサイと思うようになっていることが、現代の深い精神的疾病であると思います。

一億総老人化、公家化といったところでしょうか。

お礼日時:2018/12/30 18:35

出会いによって、良くも悪くも人生思わぬ方向へ動き出すものですね。


出会いはよく見極めないといけないなと最近思います。

クウキについてですが、何となくその場ではこうしなければならないとか、こうしてはならないとかいうものがありますね。これはとても日本的なもののように思います。集団から外れることを極端に恐れ、実際に集団から外れれば生き難くなる日本社会の特徴ともいえるでしょうか。
自分の意志をクウキに色濃く反映させている者でも度が過ぎれば集団から排除されるように思います。

現代日本、女性が強いとは私は思いませんが、強い女性が望まれている面はあると思います。それが良いのかどうか。女性が男性化してきているとも言えるでしょうか。それは女性でも矢面に立つという事です。メルケルもメイもクリントンも女性ですね。
私は、性別によって向き不向きと言うのはあると思います。しかし女性権力者も古今に見られますから、性に合っている人材も居ることは間違いないでしょう。クリントンはカダフィを殺害した時、満面の笑みでした。その様な女性権力者もいるという事です。そのうち、女性権力者が暗殺対象になり、死亡する時代が来るのでしょう。その時の世間の反応はどのようなものになるのかなあ。女を暗殺するなんて卑劣な!とは決してならないし、なってはならないでしょう。
まぁ、国を案じるのにトップが男性か女性かはどうでも良くて、信頼できる、そして能力のある人かどうかだけが問われるのでしょう。

日本は乱世と言うか、世代差や性差を理由にしたヘイトが生まれているのは事実ですが、どちらかと言うと人口の多いシルバー世代がもっとも発言力を持っているのではないでしょうか。若い人はもっと選挙に行かないと。そして、全般的には発言力を高めるよりも聴く力を高めた方が良いでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「クウキ」というよりも「場」と言った方が、私の持っているイメージをよく表現
出来ると思いました。

人間、一人でいるときの意識と集団でいるときの意識は違いがあって、一人の時は
独断で行動出来ますし、自分というものを見つめることも基本的には難しいことで
はありません。
しかし、集団でいるときの個人の意識というものは、その構成員でできた「場」の
中の「一部分」であることを十分に意識して人は存在していると思います。だから
集団の中で自分が一体何なのかということに戸惑うことがあるのでしょう。

家族であっても、友人同士のグループであっても、もっと大きな組織であっても、
全体のことを独断でするためには「力」が必要であり、故に人は力を求めるのでし
ょう。

場の中での人々の関係性は力関係を中心としたものばかりではないはずです。愛情、
信頼、敬愛、などの心情での繋がりがこれまでは、庶民のレベルでは多々存在したも
のが現代において急速に消えつつあると見ています。
庶民のレベルでも力関係の繋がりが主流になっていると思います。そうではないと
若者を中心に一生懸命弁明していますが…

さて、現代の日本社会はこれまでに人類が経験したことのない場になっていると思っ
ています。

仰るように中高年の男性が数も多く、社会の中枢を相変わらず握っていると思います。
それに対し若い世代とか女性は、それを直接改革しようとはせず、旧体制を痛烈に批判
しながらも、独自の世界を作ろうとしていると思います。

日本社会の主たる体制に依存しながら、それを改革しないで、自分たちの場所つくり、
食い扶持を稼いでいるという状態です。
ですから、仰るように日本の女性はまだ強くなっていないと私も思います、若者も。

こんな社会をかろうじて支えているものは、中高年男性の「意地」と若者や女性が信じ
ている「時代の正しさ」という哲学・思想だと思います。

キサラギさんも十分に認識しておられると思いますが、その「時代の正しさ」という哲学
は誠にあやふやなもので、「時代遅れ」の一言で中高年世代を黙らせているだけの代物な
んだと思っています。

現代はこの哲学が若者及び女性を中心に正しいと認識され、中高年男性が何も言い返せない
状態であるがゆえに、女性・若者が力を持っているということだと思っています。

お礼日時:2018/12/23 22:44

蜀の義兄弟ですか。

良い例えでした。よく見てらっしゃるなと。人との出会いはかくにも大切で、自分、他人と簡単に割り切れるものではありませんよね。私の言い分の方は短絡的だったかも知れません。

それと、クウキについてですが、これもわかりやすい言い方だなと感じました。

とり急ぎここまでを記してまた後日にお邪魔します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お待ちしています。

お礼日時:2018/12/19 23:58

成る程という思いで読ませていただきました。


私も支配と言うものとは反りが合わず、支配されるのもするのも全く性にありません。
自分の上の地位に属する者に仕えると言う生き方が、ある程度社会秩序を形成しているのは事実でしょう。しかし現代にも昔にも、自分の主は自分とする事が説かれており、私もその通りだと思います。

つまり大事なのは、仕えるに足る自分自身、信頼に足る自分自身でいる事であると思うのです。自分を裏切るような事をしないと言う事。

身分を捨てると言うのは一つのリスクです。地位があれば社会が守ってくれる事も多い。しかし地位を求めれば、責任や義務というものも同時に生じて、自由に生きられない。昔は責任とって腹を切る上司もいたわけです。

権力者を信任するかどうかよりも、大事なのは自分自身を信任出来る事であるのではないでしょうか。

で、集団が何によって動いているのかという事ですが、確かに大衆は権力者によって操られる事もままあります。ところが大衆性というのは人間の集団の一側面であり、全体の相ではありません。私が気になるのは、人間の集団の全体の相、すなわち世間が何によって動いているのかという事です。一人の人間でさえその行動原理を明らかにするには中々の思索と観察が必要ですが、世間の動きを知るというのはこれはなかなか難しい。そもそも世間に人格に似た何かがあるのかどうかもわからない。世間が何を求めているのかもわからない。

ただ世間には大きなうねりがあって、時代というものを形成してきた。世間にとっては時々の権力者が誰であるかなどはどうでもよく、挿げ替え可能な仮の部品に過ぎないと思われ、世間の向かうところは一個人間にはなかなか知り難い。
この様な所感を持っています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうですね、支配というものは自由の反対語でもあり、主体性の反対語でもあると
言えると思います。嫌な言葉です。

人に惚れるというのは、私は人間として崇高なことになり得ることだと思うのです。
共倒れもあるでしょうが、惚れた相手の中に「理想」を見ることができると思います。
劉備玄徳に仕えた、関羽・張飛らは、劉備の人格を通して、「崇高な正義」を見たの
だと思います。

そして、それは関羽・張飛らの心に中にあったものと共鳴したはずだと思います。
酒飲みで粗暴なところのあった張飛などは、一人では何もできなかったのかもしれま
せん。また、劉備も良き臣下がいなければ、大志に向かうことは出来なかったでしょう。

そうした意味で、人とのかかわりというものはやはりその人の命運を握っていると言える
のでしょうね。

>大事なのは自分自身を信任出来る事

自身の中に不動の信念が生まれること、と私の言葉で言い換えてみました。

>人間の集団の全体の相

ふうむ、これは全く根拠の示せない主観的な話になってしまいますが、ずっと昔から私が
感じていることは、友達同士で話しているときに、個々の存在のほかに「全体のクウキ」
みたいなモノがある、ということです。

例えばもう一人の友人がその輪の中に入ってきたときに、馴染むのに少し時間がかかり、
馴染んでくると少しだけクウキが変わる気がしました。

人間の集団には必ずこのようなクウキがあるのではないかと思います。

そして、そのクウキはその集団の中の一番強い「意志」によって、従うものを支配し、従
わないものを攻撃したり排除しようとしたりするのではないかと。

国家などの集団の中では、現代においては必ずしもいわゆる権力者だけではなく、力を持っ
ていると思われている存在の意志によって動かされているのではないかと。

今の日本社会では、乱世で群雄割拠の相を呈していると思います。その中で頭一つ抜けてい
るのが「女性」ではないでしょうか?
しかし、乱世だから今後どうなるかわからないと思います。

お礼日時:2018/12/19 00:01

流浪の民でもない限りは属している集団、例えば国が破滅すればそこに属する個人も大概は破滅します。

ですが、国の起こりというものが何なのか考えると、あながち常に集団が個人に対して優位性があるかというとそうでもない気がします。ここら辺はまだ考え中です。世の中、社会は自分の事を考えてくれるのか?高校生が持つような疑問ですが、少なくとも、個人の都合に合わせては考えてくれないでしょう。集団の論理が個人の論理を常に支配するか?という問題は、正直深淵すぎてすぐには答えられません。国家というものが人間のイデアを掌握していたり、それに漸近していたり、或いは生み出しているならば、人間の論理はそれに従うべきでしょうが、人間の論理というものが一体どのようなものなのか。
個人の思惑を超えて集団が動くのは常ですが、集団は何によって動いているのか、そこら辺も分かる人は分かっていると思われますが、私にはまだはっきりしていません。社会、世の中は人生をささげるに値する高尚なものなのか?というような疑問もあります。

市民はどのようにしたら賢くなるのか?これは計算高くなったり、無感情に冷たくなれというのではありません。事態を把握しても正常でいられるかという度量の育成の問題だと思います。高学歴ならば賢くなるというものでもないのです。自分だけのことを考えていると、どうしても度量は狭くなる。失うものも何もない、と言ったような人が増えている現代、そのような人に何か守るものを見出せと言っても自分くらいしかない。

昨今は個人が尊重される風潮で、世代を渡る大家族などは絶滅が危惧されていますが、この個人尊重の一長一短を知ることで、(つまり自己犠牲を払う必要がなく自分のために自分が生きていいという事が良いところで、逆に自分の属する身近な集団を失うために安定性に欠けるというダメなところを知って、)短所を補完出来れば良いと考えます。
一人で安定するような鉄の意志を持った個人などそうそう生まれません。ですから、それぞれが何かの集団に属さなければ全体の安定は得られないと思います。自分のために生きていいというところを起点に、何を為すかで社会の中での位置取りや乗る流れが決まり、その中で様々な出会いあり、新たな集団に属し、または新たな集団が生まれ、そのために幾らか自分が生きられるようになれば、自分以外にも守るものもできるでしょう。そうすれば度量も一人の時よりは増えるでしょう。家族、国、おおきくは人類と言った集団のために生きるには度量が無ければならない。その度量は、たった一人の自分から始まり、無限の過去未来の人々への想いへとつながってゆくのではないでしょうか。そして自分の今の度量がいかほどのものなのかは、自分に訊けばわかる事です。
人類全体の事を考えその様に生きられるほどの度量を持った人間は、もしいるならば、化身のような精神を持った、常人には計り知れない様であると思います。そして、その様な人には出会ったことも、またそのような人を見たことも聞いたこともありません。個人には限界があるのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

論点が満載のご回答ですが、「集団は何によって動いているか」という点について
少し述べてみたいと思います。

日本では明治以前では、殿様の為、お国の為ということ、そして明治以降では日本国
の為ということが個人の為よりも常に上位にあったと思います。
これは個人主義と言われる欧米においても同様であったと思います。
つまり、このことは人間の本能的な部分にアプリオリにあるものではないかと思って
います。

しかし、この本能的なものが歴代の権力者によって利用され、民衆が苦しんできたこ
とも歴史を学べば分かることです。

その長い支配の歴史から、ようやく民衆は目覚めようとしている意志は事実あると思
います。
以前引用したザッカーバーグの言葉などに顕著にあらわれています。

これは歴史の必然と言えるし、必要なことであると考えます。権力者というものをもは
や信用できないし、その本質から見て信用してはならない存在であると思うからです。

では、個人の意思の総計が集団をうまく動かしてゆくことができるのか、と問われると
そう思えない自分がいます。
何故かと言えば、現代人は自分の利益ばかり考えているとしか思えないからです。

個人中心でよいと思うのですが、そこには全体を統括する「力」がなければ集団を維持
できないと思います。
これは、私が現実に所属する集団において痛いほど感じることです。

集団の維持・発展のためには、「アプリオリな直観」が元になるべきだと思います。し
かし現代人は直観をほぼ捨てています。

そして、それを取り戻すには、「精神性」の変化が必要であると思います。

まあ、ざっと述べましたが如何でしょうか?

お礼日時:2018/12/16 15:17

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q絶対的に正しいことを定義してみました。

絶対的に正しいことを演繹的に定義してみました。

私たちは「大切なものを守ることは正しい」と感じます。(うん、そりゃみんなそう思うね)
では「最も何よりも大切なものを守ることは最も何よりも正しいとなる(まあ、当然そうなるな)

では「群れにとって最も何よりも抜群に大切なものは群れの命でしょう」(まあ、そりゃ~、そうだろうな)
それでは「最も何よりも大切な群れの命を守ることは最も何よりも正しい」となります。(そうなるね)
逆から言えば「何よりも抜群に最高に正しいことは群れの命を守ることである」となる。(そりゃ~そうだろう)

つまりその群れにとって、「絶対的に、何よりも最高に正しいことは群れの保存、存続である」と言うことが導かれる。
結論、その群れにとって、何よりも、絶対的に、最高に正しいことは群れの存続、群れ社会の安寧秩序を守ることである、となった。

私は哲学は素人なもので、どこか間違っていないでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>詳しくは下記のリンクを覗いてください。絶対善を定義していますから。読まれましたら、コメントください。

読みました。

例えばイギリス人が、物事の正しさを問う時は、「何が正しいかは、歴史に答えがある。」として、歴史の知見で正しさを考えます。(半分ステレオタイプです。)

例えばムスリムが、物事の正しさを問う時は、「何が正しいかは、コーランやハディースに答えがある。」として、コーランやハディースを出典にして正しさを考えます。(意外とステレオタイプではありません。)



私がミスリードしたのかもしれませんが、あなたの文章は、「僕の考えた絶対に正しい事」を主張しているだけにしか思えませんでした。また、「絶対」と言う言葉は、他人からは胡散臭く聞こえるので私はあまり使いません。

Q素朴な質問シリーズなんですが お知恵を貸して貰えると助かります 続、善悪の定義 (  ̄▽ ̄)ニャリ

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが


集団の教えから離れ
個人的な善悪の判断を迫られた時に
どうやって定義付するのでしょうか?

( ̄~ ̄;)個人的には、どうあっても
善であると、思い込んで生きているが
その、大前提に疑問を抱いた時に

もしも、この世の中に善悪なんて存在しないかも?
でも、自分自身は善であるはずなんだが・・・

そんな状況はまずおこらないでしょうが
おきたとしたら

他人と比較して、他人を悪にしてしまう
悪を造り上げてしまうのかな?
あれは、間違えてるから、悪であって
自分自身は間違えてないから、善である
と、なるのかな?

今ここに居るわたしは、善か悪か解らないが、それで良いじゃないか
と、定義付を辞めるのかな?


誰しも、自分自身が善でありたいとは思われますが

はたして・・・

ほんまに突拍子もない
素朴な疑問なんですが、お時間のあるかた
貴重な回答をお待ちしてますm(._.)m

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが

...続きを読む

Aベストアンサー

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 " も
同じに なるであろう

行動で 云えば 宮﨑駿 の
『もののけ姫』が 語っている
他方から みれば 善 であり
また 他方からは 悪 に なる
それは
一方からは " 生きる為に必要な もの" であり
もう 一方では " 生きる為に取り除きたい もの " なのである
利便 快適 を 相対するもの からみれば 搾取であり
また 同時に 糧である(対する位置に 居るものに取れば)

パンドラの匣に 残った
総ての悪 災 禍 が 去った後に残った 希望
そのひとつは
忘れ去る能力なのだ と思う

ただ 総ての 欲を 葬り去れば
無 に しかならない
待つのは 死 (無)である


と こんな事 考えてみました

浅かったら ごめんね

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 ...続きを読む

Q人間 生きる目的や意義や意味が無かったら寂しいでしょうねえ?

人間として生きていて 生きる目的や意義がなく 意味のない一生だったら

非情に空しいし、寂しいでしょうねえ。

人間の生きる意味や目的は何でしょうか? ズバリ言って?

Aベストアンサー

>どういう事が出来れば「悪くない人生だったな」と思えるんですかねえ?

美味しいものを食べて、
綺麗な景色を見て、
美しい音楽を聴く。

そういう時間を大切な人と共有できればなお可。

Q存在理由=レゾンデートルの味

人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

Aベストアンサー

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Q酒は飲んでも飲まれるな

酒は飲んでも飲まれるな

本は読んでも読まれるな

理論は使っても使われるな

他に何がありますか?

Aベストアンサー

《流れ》に乗っても、流されるな。

Q現代、哲学で解けている問題は何でしょうか?

現代、哲学で解けている問題は何でしょうか?
また、解けている問題は何でしょうか?
代表的、主要な問題とその解とを教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

問:答えのない問いを立てることは可能か?
答:可能である。

一例として、観察できないものが存在すると言えるか?という問い。
「神は観察できないけれど存在する」という命題に真偽の答えはないので、答えのない問いを立てる事が可能である。

Q芸術の絶対性

https://www.youtube.com/watch?v=dhA5D7qkHwA&list=RDdhA5D7qkHwA&start_radio=1

音楽好きの私のとって彼は日本では宇多田ヒカル以来の才能だと思いました。
k-popに刺激されたのでしょうか?
世界でどう評価されるかという問題はあるにせよ、何十年に一人の才能に思えます。

音楽もダンスもいいですね。○ soul brothersとは悪いけどケタが違うと思います。

音楽にせよ何にせよ、芸術というものには「好み」という相対的なものと、多くの人が
「いいね」と感じる絶対的なものがあると思います。この点どう思われますか?

また、絶対的なものがあるとお考えの方、それは何だと思われますか?

Aベストアンサー

No.16 関連で。

>アーツの流れがエンタメに流れ込んでいる

に関して、最近、ある日本画の画伯から聞いた感動的な話を紹介しましょう。その方は60代後半の方で、著名な寺社の襖絵や天井絵をお描きになるなど、芸術家として大成なされた方です。今までの生き様をお聞きしました。

彼は中学時代から話をされましたが、芸大の日本画科の大学院を出て、最初の8年間自分の書いた絵が一枚も売れない。すでに結婚しておられたのですが、極貧の生活だった。その苦しみたるや、絵を描いている最中に筆が指から落ちてしまい、絵を描けないようなことが2度ほどあったそうです。そんなある日、テレビ局から番組の背景の絵を描いてくれないかとの依頼が入り込んできた。それを請け負ったら凄いお金が入ってきた。その直後、宣伝会社の博報堂の方が、画伯に博報堂の専属の社員として働かないかと言うのです。そしてその給料が目の飛び出すほどだったのです。早速画伯の奥様に話した時の、その奥様の反応がすごかった。

「もしあなたが、それを受けてしまったら、最早芸術としての絵を描ける人にはならないでしょう、それでも良いんですか。」

と言われたそうです。娯楽に走ってしまったら、芸術は諦めることになるが、それでも良いのか。その画伯は、結局博報堂の提供を断ったそうです。その後、絵の買い手が少しづつ付くようになって生活も安定し、今ではこのように大学の芸術科の教授を依頼されたり、自分の工房で何人もの弟子を取って後輩を指導できる身になったとのことです。

その話を私の家内に言ったところ、一言「その奥様は、天晴!」と言いました。芸術の流れが娯楽に流れ込む、その画伯はその危険性を本能的に感じて、一歩踏みとどまったんだと思います。

常々思っていることなんですが、チャイコフスキーの劇的な音楽は娯楽志向の境目にいるのですが、ギリギリ芸術の領域にとどまった。ところが、なるほどこの手があると娯楽映画の映画音楽作家たちが、チャイコフスキーの音楽を真似しだした。でも、それは結局退化であって、芸術と娯楽の境目で、皆娯楽側に落ち込んでしまった。確かにバーバーの『アダージョ』など、映画の背景として用いられ、素晴らしい効果を出した曲もありますが、バーバーはそれを映画音楽として作曲したわけではありません。娯楽が芸術の成果を使わせてもらっているだけでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=s9xrUotL7wc

No.16 関連で。

>アーツの流れがエンタメに流れ込んでいる

に関して、最近、ある日本画の画伯から聞いた感動的な話を紹介しましょう。その方は60代後半の方で、著名な寺社の襖絵や天井絵をお描きになるなど、芸術家として大成なされた方です。今までの生き様をお聞きしました。

彼は中学時代から話をされましたが、芸大の日本画科の大学院を出て、最初の8年間自分の書いた絵が一枚も売れない。すでに結婚しておられたのですが、極貧の生活だった。その苦しみたるや、絵を描いている最中に筆が指から落ちて...続きを読む


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング