『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

西南戦争の最中に、西郷隆盛と奥さんが戦場で対面したという話は本当ですか。信じられない。

A 回答 (4件)

島流しから戻った後、1度再会したと記憶していますが、西南戦争のときではなかったのでは。


ドラマだから現代の人のウケが良いように脚色してあるのは当然のことです。
もし真実をそのままドラマ化すれば、西郷さんに対するイメージが悪くなってしまうかもしれませんからね。
まあ、今と時代が違うんだから、何が善で何が悪かなどなど、価値観も違うのだから
もしタイムテレビのようなものがあってそれで西郷さんとその周辺を見たら、ショックを受けるかもね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/28 11:32

ドラマです。



説は多数あるものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/28 11:32

現実どおりに物語を構成したら、


その物語は現実同様の味気ないものになります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/28 11:32

九州南部で戦争してたのですから、会えないことは無いですね



まあ、西郷どんは小説なので、何でもありですが (^_^;
厳密な史実ドラマじゃないですから
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/28 11:32

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Aベストアンサー

史実には諸説あります。
だから小説も多数の作家のものがあります。
小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。

篤姫の場合、記録が少なく、NHKドラマは「脚本」があたかも
本当のように面白く(悲しく)描けていました。

西郷と勝の江戸城無血開城交渉は緊迫したなか行われましたので
これ以前に江戸城に入るのは無理だと思われ、これはドラマを
面白くするための脚本の所作と思われます。
つまり「西郷どん」はフィクションです。

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だから小説も多数の作家のものがあります。
小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。

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Q侍の勝負

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(かっこいいというのは、ある種の見世物的な。キメ技決めたり、ローマの闘技場のグラディエーターとかのような)

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「かかってこい!」
(緊張が解け、両者共に鞘から抜刀して人振り。スパンッ。相討ち)

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歴史に詳しい方お願いします。

Aベストアンサー

戦争ではなく、一対一の決闘形式の斬り合い
ですね。

実際の記録をいくつか紹介します。


永遠に続くかと思われていたにらみ合いを
やって、その後双方が突進した、と思ったら
片方が倒れた。

エイヤ、と斬り込んだが、間合いが遠すぎて
届かず。
それどころが、自分の膝に斬りこんでしまった。

さあ、斬り合いだ、と思った瞬間、意識が遠のき、
相手がはるか遠くにいるように感じた。
気がついたら相手が倒れていた。

誰かが侵入したらしい。
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たかが試合だって、極度に緊張するのが現実です。
それが刃物を持った殺し合いですよ。
緊張は極限状態に達します。
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久しぶりにるろうに剣心の実写版を観ましてですね、
「やっぱりアクションは凝っていて、大迫力やなあ」と感心しました。
 ↑
あんなアクロバット剣術など存在しません。
あれは映画用のただの見世物です。

下半身をしっかり大地に踏ん張っていなければ、
作用反作用の法則からいって、人を斬ることなど
不可能です。

戦争ではなく、一対一の決闘形式の斬り合い
ですね。

実際の記録をいくつか紹介します。


永遠に続くかと思われていたにらみ合いを
やって、その後双方が突進した、と思ったら
片方が倒れた。

エイヤ、と斬り込んだが、間合いが遠すぎて
届かず。
それどころが、自分の膝に斬りこんでしまった。

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 そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。

以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?

Aベストアンサー

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
  ↑
ここがポイントです。
西鄕さんが解りにくいのは、私欲に乏しい
からだと思います。
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把握しにくいのです。
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以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能
を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?
 ↑
特別な才能を持っていたのではなく、私欲に乏しかった
ということだと思います。

彼は一度死んでいますね。
あれで私欲を無くしたのでしょう。
私欲が無くなれば、適格な判断が出来るように
なるのです。

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
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弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
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(羽柴長吉は太閤秀吉の小姓で、比類ない美少年であった。太閤は、ある時、長吉を人のいない場所で近くにさし招かれた。常日頃、太閤は男色をお好みではないので、人々はこれを知ってみな珍しいことだと思ったのである。さて太閤が長吉に御問いになった内容はといえば、『お前に姉か妹はいないか?』という事であった。長吉の顔が美しいため姉妹がいればさぞ美人だろうと思ったためである。)

羽柴長吉は池田信輝の三男で、秀吉の近臣として「羽柴」姓を名乗るのを許可された人物です。 秀吉が、美少年を目の前にしながら、本人には興味を持たずその姉妹が美人だろうと考えるあたり、筋金入りの女好きであると共に男色には縁がなかったことを如実に表しています。

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規模のおおきい戦場では多数の軍勢がぶつかりますので、剣豪とはいえ活躍するチャンスはありませんし、実際記録もありません。
島原の乱にも幕府軍の一員として参加していますが、一揆軍の投石により負傷しているぐらいです。
剣豪といえども一対一ならともかく団体戦や乱戦になればたいしたことはないんですね。

以下ウィキから2カ所を引用します

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。

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宮本武蔵(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵
(URLはコピペしてください)

はじめまして、

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