グッドデザイン賞を受賞したウォーターサーバー >>

はじめまして・・・ではないのですが・・・

質問のタイトルの通りですが。少し補足を。

人が読書なり、カウンセリングなり、精神科医なり、或いはどこかで聞いた言葉によって、「変わる」=(改善される)ということがあるとしたら、それはどういう仕組みなのでしょうか?

つまりある特定の言葉=考え方・視点を獲得することによって、その人は何故、変わることができたのか?
逆に何故、誰と話しても、何を読んでも変わることができないのはなぜか?

その辺りを知りたいと思います。

尚以下のリンクは11年前(2007年)師走のわたしの質問です。

・・・今はharuさんではありませんが、長文を読み、またそれに対する意見を記述する体力も気力もありませんので、とてもこの当時のようなやり取りはできません・・・
このなかでも、回答No.3 shift-2007さんは、流石に当時盛んにやりあっていただけあって、質問の裏にあるわたしの真意を見抜かれていたようです。

今のわたしならこれをベストアンサーにするでしょう。

体調不十分で、充分なお礼すら覚束ない状態でノコノコ出てくること自体が間違いかも知れませんが、
それを承知で、何か書き遺してくれる方がいればと思い、投稿しました。

以上ご理解の上、気が向いたら書き込んでください。

可能な限り、補足には応じたいと思っています。

質問者からの補足コメント

  • これまで3人の方のご意見を伺い、それに対して、お礼(?)をした「つもり」ですが、このようにお礼を書いていて、「なんだ10年前とまるで変ってないじゃないか!」という思いを強くしました。

    お礼を書いていて、自分に対して強い違和感を感じました。

    何か本質からズレている。おまえは回答者の時間を割いて、いったい何がしたいのだ?何を求めているのだ?と。

    (わたしと言う存在の)なにかが間違っている。でも何がどう間違っているのかがわからないのです。

      補足日時:2018/12/17 01:47
  • 補足ではなくひとりごとです。

    下に「嫌われ者や友達がいない人たちを集めて町を作ったら人間関係はどうなる?」という質問がありましたね。正に「キラワレモノ」で「友達のいない」わたしは興味を持って拝見しました。

    わたしが仮に答えるとすれば、上記のような人間たちは、そもそも自分以外の人間を怖れる、或いは信じないという傾向を多分に備えているので、これはいわば「一匹狼株式会社」のようなパラドクスになると思います。つまり、そのような者たちが「集う」ということがそもそも不可能なのでは?と。

    一方で、現実には、自分と同じような痛みや苦しみを抱えた者たち「だけ」の街ということであれば、逆に安心して出ていける、つまりそこでは彼らは最早「キラワレモノ」や「孤独者」という属性を失うことになって、案外うまくいくような気もします。

    ひとりの「友達のいない」「嫌われ者」としては後者に賭けたいですね。

      補足日時:2018/12/17 02:21
  • 続きます

    世紀末ロシア文学に「余計者」という人たちが多く登場します。自分の生きている意味が解らない。
    彼らの多くは没落貴族です。そして彼らの関心は「人生どう生きるか」ではなく「何故生きる?」ということにあります。

    >彼らに多く共通するのは結局”やらない”ということ。

    キサラギさんの目には「やらない」のではなく「やれない」人たちの姿は映りませんか?

    多くの文学作品の中の「余計者」たちが、そして現実の「引きこもり」たちが、「やれないこと」にどれほど苦しんでいるか。

    いづれにしても、わたしが「主体性のない人間であること」「今現在とコミットしていないこと」は認めます。

    お話を伺っていて、これは所謂「健常者」と「障害者」間の決して埋まることのない溝、というよりも、あまりにも「真っ当」な者と、あまりにも特異な者との断絶なのだろうと感じました。

    ご回答、とても参考になりました。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/12/19 18:16
  • みなさん、いろいろなご意見を聞かせていただきありがとうございました。

    どれも傾聴に価するものばかりで、且回答者にも恵まれ、ベストアンサーを選ぶのはとても困難です。

    とくにキサラギさん、猪突さん、チャオポルポさん、そして、ブラジュローヌさん。だれがBAでもいいと思います。

    無理矢理選んだBAということでご理解ください。

      補足日時:2018/12/21 02:53

A 回答 (12件中1~10件)

二者の違いについて。



やらない人はやれる事もやらない。
やる人は出来なくてもやってみる。
やらない人はやる気満々でもやらない。
やる人はやりたくなくてもやる。

違いは何かというと、荷物が多いか少ないかなのです。

おそらくフラグメントさんは、自分が何者なのか、沢山考えて、沢山知っているのでしょう。そしてそれが荷物になっている。
自分が何者か分からないと言う事は、過去にかなりの量のこうではないか、ああではないかという試しを行なって、無数の擬似的な答えを獲得して来たと考えられます。しかしそのどれもしっくり来なかったので、自分が何者か分からないと言うのです。

一方で、自分が何者か分かる人というのは、分からない事が負担になりません。生まれに縛られていないからです。それで、分からなくても歩き出せるのです。歩き出すので現実に何者かになる。歩き続けるので何者であるかも変遷して行く。そうして色のついた人生を築きあげるのです。

先ずは何者かである事から解放されなければ、何者かにはなれないでしょう。

特異な者と言う自己認識は、自分が何者であるか、分かっているし、分かっていないという二律背反が同時に存在している事からくる認識だと想像しました。
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この回答へのお礼

再びこんばんは。

今、新たに3人の方から、回答を頂きましたが、No.9のチャオポルポさんの回答にあった、

>質問者さんは、実は、変わることを望んでいらっしゃらないんじゃないか、だから、言葉が届かないないか、というふうに、感じました。

というご指摘にも、う~んと頭を抱えてしまいました。正にその通りで・・・いや、そもそも(わたしが何かに)「変わる」ということはどういうことなのか、50年以上生きてきて、「変わったこと」(少なくともその実感・自覚)がないので、それがよくわからないというのが本当のところです。

>分からなくても歩き出せるのです。歩き出すので現実に何者かになる。歩き続けるので何者であるかも変遷して行く。そうして色のついた人生を築きあげるのです。

この説明は明快でよくわかります。その通りだろうと思います。どこにも反論の余地はない。また反論するつもりもない。自分でもそう思うから。

ではこちらから質問します。

ここまでこの回答に同意しながら、尚変わらないとしたら、それはとりもなおさずわたしが「間違った存在」だからでしょうか?

真摯なご回答にお礼申し上げます。

お礼日時:2018/12/20 00:55

いえ、変わらなければならないと言う事が別に無いなら、変わらない人が間違っていると言う事はありません。

変わらない事がゆるされているなら問題も無いでしょう。そして、もし変わりたいなら変われば良いと言うだけのことで、変わる為にはDo itですよ、と申し上げているのです。
人は行為によって何者かであるかが知られます。生まれや身分で定まるのでないので、その意味で自由です。

質問者さんはご自分の存在が間違っていると感じているのですか?

ただ私は一般論として、考えるだけで何もしない人生は"勿体ない"とは思います。
余計者の話が出ましたが、余計者達は勿体ない存在ではあると思います。しかしその存在にも何かしらの意味はあるのでしょう。

悪いことをするなら何もしない方が良いですが、そうではないのならやってみると良いと思います。

こう言う回答でよろしかったでしょうか。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>質問者さんはご自分の存在が間違っていると感じているのですか?

う~ん。少なくとも自分は正しいんだとは言えませんね。

キサラギさんはじめみなさんに複数回誠意ある回答をいただき、いちいちもっともだと思いましたが、
わたしは本当は何を問いたいのだったのか?というところが、正直曖昧なままです。

しかし言葉によって人は変わるか?という質問には皆さんから十分な回答を頂きました。

度々お付き合いくださりありがとうございました。

お礼日時:2018/12/21 02:41

▲ (アウグスティヌスと神) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~



そのときはるかに高いところから

私はおとなの食べ物だ。

成長して私を食べられるようになれ。

食べると言っても 肉体の食物のように

おまえが私を自分のからだに変えるのではない。

逆に おまえが私に変わるのだ。

――というみ声を聞いたように思いました。

  (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)



▲ (アウグスティヌスとヨブ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

神はヨブが試されることを悪魔に許した。

ヨブは試された。

悪魔は困惑させられた。

ヨブが神を自由に礼拝すること 神を自由に愛することを見出したからです。

神がヨブに何か〔ちから〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから
去りたまわなかったからであります。

ヨブは言っております。

  主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。
  主の御名はほむべきかな。(ヨブ記 1:21)

と。試練の火はかれに迫った。

しかし その火はヨブが藁ではなく金であることを発見した。
 
その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。

 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 
  茂泉昭男訳 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

こんばんは。

>食べると言っても 肉体の食物のように

おまえが私を自分のからだに変えるのではない。

逆に おまえが私に変わるのだ。

わたしは(猪突さんの言っているのがそういうことか不確かですが)本を読んでも、人と話しても、結局見出すのは自分自身であるという考え方です。ところが、先日まで交流のあった、ある哲学ブログの主は、「誰に(何に)出会っても自己にしか出会わないなんて」とわたしの意見には真っ向から反対のようでした。

読書は、或いは人との対話は、自己の発見か?或いは自己の変革か?

下はマタイの福音書ですか?

よくわかりませんが、こういう謎めいた(?)文章って嫌いではありません。
ただ、それがあまりに饒舌だとうんざりしますが、短く謎めいた言葉って光線の下限によって見え方が違ってくるので好きですよ。

詩的な回答をありがとうございました。

お礼日時:2018/12/21 02:28

no.8です。

補足します。

たとえその言葉が他の人によって発せられていたとしても、その言葉に感銘できた時には、その言葉は自分自身の言葉になったのです。言葉は心が白紙の人に影響を与えることはできません。自分の経験と自省によって、自分自身にある世界の見方、すなわち世界観が出来上がってきます。多くの場合、その人は、その世界観を表現する言葉をまだ見つけていないかもしれません。でも、もやもやした物の見方が萌芽として出来上がっているのです。そんな心の準備ができている時に、他の人の述べた言葉を聞いたり読んだりした。そんな時に、あっ、私がもやもやしていたその気持ちや見方を的確に表してるのはこの言葉なんだ、と感銘を受けるのです。

ですから、一見他人の言葉で表現されてはいますが、本質的には、それは自分の経験と自省が見つけ出してきた言葉なんですね。だから、たとえそれが世間様の言葉のおうむ返しの言葉でも、その言葉があなたを変えることができたのなら、その言葉はあなたの言葉であり、あなたが自分の言葉を自分自身で発見できたことになっているのです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

つまり人生観なり世界観なり、その人の価値観というものは、外側から与えられるものではなく、予め自分の中に、未だ明確な輪郭・姿を持ってはいないけれども、既に備わっているということですね。

また脱線してしまいますが、例えば、トランプを支持するような人たちは、予め彼の発する言葉に感応する下地があったのでしょう。では、何かの折に触れて、痛く感銘を受けた言葉への(例えばそれがフェイクであるかどうかのような)「検証」はいつどこで行われるのでしょう?

わたしは猪突さんの説に反論しているのではありません。この回答自体には異論はありません。

ただ、いわゆるネット右翼と言われるような人たちは、ネットに溢れる真偽定かならぬ言説にたやすく感銘を受け、これこそが真実だと思い込んでいるように見えます。

出会った言葉に照応する情動が予め本人の裡にあって、それを我が物とするのは、いかなる哲学者や文学者であってもそうであったでしょうが、その視点・思想の「真偽」というものは、なおざりにされてもいいものでしょうか。

と、お答えの趣旨から大きく外れてしまいましたが、ふとそんなことを思ったもので。

たびたびのご意見をありがとうございました。

↑はひとりごとです。自分でもあまりよくわからないまま書き付けました。気分が不安定ですのでご容赦ください。

お礼日時:2018/12/21 02:09

お礼の中で、芭蕉や世阿弥の言葉をひいておられたので、しばし、立ち止まりました。

それで、ぼんやりと、質問者さんのおっしゃることをもう一度咀嚼してみたら、どこかで、一度、読んだことがあるような気がしてきました。憤慨なさるかもしれませんが、”方丈記”の厭世観じゃないかと。どうでしょう???

質問者さんは、実は、変わることを望んでいらっしゃらないんじゃないか、だから、言葉が届かないないか、というふうに、感じました。

No.6,7,8番の回答者さんは、お優しいです。男女のうち、本当の包容力があるのは、男性であるというのも、頷けます。自分が変わった、あるいは、自分を変えた経験がおありになるからでしょうね。私は、振り返ってみると、頑固な偏屈物で、全然進歩しません。だから、キリスト教徒なのかもしれません。宗教を隠れ蓑にしているのかもしれません。

ヒューマン・ネイチャーの本については、ジャンルは関係なくて、たまに気になるベストセラーを読んでみる、うちの一冊です。トルストイが自殺をした顛末やら、南極探検隊で難破したグループリーダーの、部下操縦術などが、面白いです。私の場合、ここ十年、スパイものや犯罪心理学者が活躍するミステリーを読んできましたが、新しいジャンルを開発中です。

最期に、世阿弥の”花”について。彼は、芸の神髄を花にたとえます。私は、今でもバレエを踊りますが、美しく見えるには、基礎を何百回も繰り返し、その成果として、そこに立っているだけで美しい。それは、時分の花が散ってしまっても、残るものです。そんな、実践的なアドバイス、として、私は受け取りました。観念的なものなのかなぁ。。。どうですか?
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この回答へのお礼

「方丈記」というよりも、厭世観がわたしのこころに深く深く根を張っているということは事実です。

>質問者さんは、実は、変わることを望んでいらっしゃらないんじゃないか、だから、言葉が届かないないか、というふうに、感じました。

これはほんとうに難しい問いかけです。そもそも「変わる」ということは「過程」ですよね。オタマジャクシがカエルに「変わる」この場合、オタマジャクシにとってのゴールは「変わること」ではなく「カエルになること」では人が、またわたしが変われば「何になるのか?」変わるってどういうことか?それがよくわかりません。

>私は、振り返ってみると、頑固な偏屈物で、全然進歩しません。だから、キリスト教徒なのかもしれません。宗教を隠れ蓑にしているのかもしれません。

チャオポルポさんは、変わりたいのでしょうか?それとも変わりたくないのでしょうか。

>私の場合、ここ十年、スパイものや犯罪心理学者が活躍するミステリーを読んできましたが、新しいジャンルを開発中です。

わたしも読む本や聴く音楽ががらりと変わることがありますが、意識して変えようとしたことは一度もありませんね。なんとなく流れに乗っているだけですね。するとどこにそういう変化の契機が潜んでいるかわからない。
わたしにこのような些細なことでも「変わった」部分があるとすればそれは全て、「期せずして」変わったものばかりのような気がします。

「花伝書」は、単に実践的なアドバイスでもなく、また単なる机上の空論でもなく、詩的な表現で、芸の奥義を伝えているのではないかと思います。それは茶道でも俳諧でも同じだと思います。
その観念的なものを如何に実践に活かしていくか、あくまで半可通の意見ですが^^

ご意見をありがとうございました。

お礼日時:2018/12/20 01:31

変わりますよ。

ただし条件がある。どんなに人を変えてしまうほどの深みのある言葉でも、その言葉で表されているものの萌芽が、まだ明確な言葉で表現できなくても自分の経験や思索で自分の心の中に用意されていない人には、その言葉はその人に何も影響を与えることができません。経験があり自省がある人にのみ、その言葉は影響力があり、その言葉に出会った時に、ハッとした感激があり、その人が変わるのです。経験も自省もない人の心を言葉で変えることはできません。

また、人間て、ものを理解する時には決してだんだんと理解の度が増す訳ではありません。それは爆発現象のように、突然ハッと、驚き、理解し、感激するのです。そして、人間は成長して行くのです。その驚きが多い人ほど人間のスケールが大きくなって行くのです。
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この回答へのお礼

こんばんは、猪突さん。

一昨日でしたか、10年ほど前のやり取りを見ていて、わたしが「あなたのキライな言葉は?」という質問をしたときに、猪突さんの回答が真っ先にあって、「自分を大切に」という言葉が嫌いだと仰っていました。

その時にわたしは例によって反論していましたが、今読み返すと、猪突さんの意見の方が正しい・・・というか、自分でもその通りだなと思うようになっていて、ちょっと驚きでした(苦笑)

なぜ「驚き」かというと、わたしが猪突さんの意見に同意することがひとつ(笑)と、
自分の考え方が、(このような些細な問答ではありますが)「変わっていた」ことに対してです。

このご回答にある、自己の内部に、外側の言葉に照応するもの、まだ言語化されてはいないが、確かにその人の内側にあるものに水をやり温めてやることで、はじめて「それ」が芽吹くという意見もその通りだと思います。

逆に考えれば、変われないわたしの内面はそれこそ廃墟なのかとも思うのです。

いずれにしても、あの時の反論は、今は違うと思っています。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2018/12/20 01:09

自分の事として捉えられてないから変わらないのではないでしょうか。



喫茶店で、隣の座席にたむろしている大学生が、
「俺ってなんでも後回しにして結局やらないんだよねー」
「やるなら”今”でしょ。明日から本気出すってやつは一生やらない。」
などと会話していたとしましょう。
それを傍で聴いて、俺(アラフォー)もそうだなと思い、今日からやる人は変わります。

一方で、身近な人からSNSだけの付き合いの人、目上の人から後輩まで、どのような人が口を酸っぱくして、こうしたら?ああしたら?このように考えたら?とアドバイスし、自信もって!大丈夫!と直接あなたに対して励ましをくれたとしても、自分の事として捉えてなければ変われない。億万の言葉を費やしてもそれは吸収されていないのであなたのものにはならない。一方で変わる人は一言で変わる。たとえそれが自分に向けられたものでないとしても、聴いて自分のものにするからです。言葉を聴くとはそういう事なのです。

自分を他人事のように扱う人は結構いて、それを主体性を欠いた人と私は呼んでいます。
彼らに多く共通するのは結局”やらない”ということ。そして、”今”という現体験を喪失しているという事があります。

総括しますと、変わるためには、

・それを自分の事としてとらえる事
・”今”を取り戻す事
・Do it (1mmでもいいからやる。そしてできれば続ける。)

です。言葉はきっかけに過ぎません。変わるのは、その人自身がどうするかに拠るのです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは、キサラギさん。

ご回答を読んで今更ながらこの質問は、「一般論」としての問いかけなのか?または、「他ならぬこのわたし」が変わるためにはどうしたらいいのか?という切実な疑問なのか、回答者の方々には甚だ失礼なことですが、そのあたりが分らなくなりました。

いづれにしても、

>自分の事として捉えられてないから変わらないのではないでしょうか。

というのは正にその通りだと思います。

わたしはキサラギさんよりも一回り以上(?)歳上です。大学時代からいわゆる「生き辛さ」を感じています。
そのためこれまで様々な精神科医や、カウンセラー、その他、障害者支援と名の付く公的・私的機関の人たちとも言葉を交わしてきました。しかし変わりません。なにも・・・

もちろん、信頼する医師やカウンセラーに恵まれながらも、何10年単位で治癒しない鬱病の人、社会不安障害や引きこもりの人など多くいます。

彼らとわたしと、ではなにかが違うのか?
鬱や引きこもりが治らないのは彼らに「真剣さが足りない」からなのか?

(話は飛びますが、キサラギさんは、「引きこもり」の人たちを「努力」やら「やる気」やら「真剣み」「切実さ」が足りないとは思ってはおられませんよね。また彼らの多くが、「単に」言葉で変わるということが無いということもご存知ですよね・・・そのような「誤解」或いは「障害に対する無智・無理解」が「戸塚ヨットスクール」のような発想の土壌になるのですが)

まぁ、人のことは措いて、我が身を振り返ってみると、「自分の事として捉えられてない」という指摘はまんざら的外れでもないと思います。

つまりわたしはそれこそ『生まれてきたことが即ち敗北なのだ』という言葉に深く共鳴する者として、
なんというか、地球人としての自分、自分が人間として存在することを、どこか遠くから眺めているところがあります。

映画『トラック野郎』のテーマ曲の歌詞にもありますよね。

「もののはずみで生まれつき もののはずみで生きてきた」
 そんな言葉の裏にある こころのからくり 落とし穴・・・」(一番星ブルース)

自分が何者であるかということも分からず、また、なんで自分は生まれてきたのかも分からない者に、
キサラギさんのおっしゃる「主体性」がどうしてそなわるでしょう?

※補足に続きます

お礼日時:2018/12/19 18:00

現在、私の読んでいる本の話です。

ロバート・グリーンの”The Laws of Human Nature"。心理学っぽい本ですが、著者は、四十歳前後で、五十以上の職種を転々としてきた男性らしいです。相当の一匹オオカミであるといえます。親や親せきも匙を投げたかもしれません。自分自身を見つめるために、心理学の著作を片っ端から読み、それをまとめて、この本を上梓したのかもしれません。

残念ながら、まだ、全体の十分の一しか読んでいないので、不十分ですが、理性と感情、自愛から共感へ、社会に適応するための仮面、他人のキャラクター判別、魅力的になる、見方を変える、世間に認めさせる、状況によってカメレオンになる、嫌な自分をどうするか、傷つきやすい自分、限界を知る、内面の男性・女性、目的を持った人間関係、低レベルな人間関係に見切りをつける、リーダーになるには、他人の敵意を察知する、モラルを考える。。。。以上が、目次の筋立てです。著者自身のような人に向かって、励ましの手紙を書いているように見えます。

彼は、自分の本質は変える必要がない。本音を言うと、自分が傷つくだけ。他人に本当の自分をわかってもらおうと思わない。仮面をかぶって、社会の求める人間、リーダーとして魅力的な自分を演じ切ろう、というふうに主張してゆきそうな展開です。それが、苦労して、彼が学習した結実であり、その手練手管が必要な人が、何百万人も、この本を買っています。

私個人でいうと、日本の社会になじめなくて、逃げ出した人間なので、参考にはならないと思いますが:

人には親切だが信用しない。頼らない。孤独を愛する。人間は共感を求める動物だと認識する。意見は、ほんのちょっぴり、どうしても、と言われたときだけ、本当に考えていることの1%。学習の結果です。

グリーン氏は、人間の感情とその人の発する言葉は食い違っていることが多いので、リーダー格になるなら、ボディ・ランゲージで人間を”読み”、対応することを勧めています。しかし、私には、どうしても興味が持てません。リーダーになる資格なしです。
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この回答へのお礼

ふたたびこんばんは、チャオポルポさん。

これはジャンルでいうとどの分野の本なんでしょうね。
心理学の本でもなさそうだし。
(この本がそうであるということではなく)わたしは「自己啓発本」とか「経営学」とかの本を読んだことが無いのですが、内容を聞く限りでは、そんなジャンルの本のようにも聞こえますね。

わたしは世俗的な成功にはまるで関心がなくて、昔の日本的美意識、わびしさ・さびしさ、そして落魄の美に惹かれます。

芭蕉のいう「寂び」というのは「錆び」であり「荒び」でもあるということです。なんという高貴な美意識でしょう!
それに比べて、けっして錆び、朽ちることのないプラスティックの野暮ったさ、田舎臭さ・・・
また世阿弥は「風姿花伝」の中で「花の萎れたるこそ大事なれ」と、「萎れた花」の美しさを語っています。

「詫び」「寂び」「萎れ」・・・考えただけでもうっとりします。


>自分の本質は変える必要がない。本音を言うと、自分が傷つくだけ。他人に本当の自分をわかってもらおうと思わない。仮面をかぶって、社会の求める人間、リーダーとして魅力的な自分を演じ切ろう、

こういう考え方に共感する人も多いのでしょうが、それなら、聖ジェロームのように、山奥の洞窟でライオンと暮らす方がいいですね(笑)

どのような「学習」でも、学んだことを使いこなす、その理論に基づいて自己をコントロールできなければ意味がありませんよね。その点で、自己を制御する能力を持たないわたしには、そもそも「学習」とは何の意味があるのか。

なんだかお礼じゃなく勝手な独り言のようになってしまいました。

ご意見をありがとうございました^^

お礼日時:2018/12/18 01:48

直喩に加えて、隠喩や換喩も使えるようになると会話が楽しくなり、知遇が増えて、結果人生が充実する。


このような好循環のことを申したつもりでござる。
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この回答へのお礼

はい。語彙は豊富であればあるほどいいし、表現の技巧に長けていれば、会話も楽しくなる。その通りだと思います。

『「悪態」も含めて、自分の持つ辞書が厚いほど人生は豊かになる』と誰かも言っていましたね。


以下聞き流してください。

わたしは薄い辞書でも誠実な人柄というものを好みます。そして自分がその正反対にいるということ、加えて、
「言葉」ではなく、他者との「意思」の疎通が不能・不通であるということに悩んでいます。
言い換えれば、言葉を重ねれば重ねるほどに、まるで、目の前にいる相手との間にレンガを積み上げていくような感じになるのです。

再度のご回答をありがとうございました。

お礼日時:2018/12/17 02:03

今、私が読んでいる二冊の本は、”フェイクニュースを見分ける方法”と、”人間の本質を見抜く方法”です。

どちらも、役に立つかどうかわかりませんが、面白いことは、面白い。現代社会の直面している問題を、如実に浮き彫りにしているからです。

社会は混とんとしています。それを何とか解きほぐして、自分の周りだけでも、住み心地よくしてゆくには、それ相応のコミュニケーション・スキルが必要になっています。自分のテリトリーに、たとえ友人や家族でも(友人や家族だからなおさら、)土足で入ってこられないように。そして、人をうまく動かせるように。そのための言葉の向こうにあるものを見通す技術を教える、二冊の本です。

十年ほど前、私の人生がにっちもさっちもゆかなくなっていた時に、カウンセラーの言葉で、随分、気が楽になったことがあります。”今まであなたのしてきた自己犠牲は、素晴らしい。でも、これからは、自分の好きなことだけをしてゆきなさい。それでいいんだよ。”

今でも、頼まれるとホイホイ何でもやりますが、この言葉が胸にあるので、随分気が楽になっています。

なぜ、変わることができないか。。。厳しい言葉ですが、本当の意味で学習をしていない可能性があります。
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この回答へのお礼

こんばんは、チャオポルポさん。

わたしの体調を気遣って、わざわざ短い回答を寄せて下さったのでしょうね。ありがとうございます。^^

わたしの過去の体験から言えば、(あくまで特異な例になりますが)コミュニケーション=言語ではありませんよね。けれども、非・言語的コミュニケーションといっても、結局は「その人の内面にあるもの」しか表現しようがないわけです。言語に因るにせよ非・言語的方法にせよ、その人持っているもの以上のモノは伝えることはできないと思います。じゃあ何が大切かと言えば、つまるところ、人柄、良きパーソナリティではないかと思います。

ところでわたしはその「良質のパーソナリティ」を持ち合わせていない。本質はすぐに見抜かれます。
だとすれば、コミュニケーションスキルをアップするとは、とりもなおさず、人格の陶冶ということになるのでしょう。
しかし人格を磨くには、なかなかひとりでは出来ない(少なくともわたしは)で、手助けしてくれるためのモノが必要になる。それが人であったり、本であったりします。ここで質問文にある

>人が読書なり、カウンセリングなり、精神科医なり、或いはどこかで聞いた言葉によって、「変わる」=(改善される)ということがあるとしたら、それはどういう仕組みなのでしょうか?

に戻ります・・・

>なぜ、変わることができないか。。。厳しい言葉ですが、本当の意味で学習をしていない可能性があります。

いえいえ、厳しい言葉であっても、「物は言いよで角が立つ」、大丈夫ですよ^^

チャオポルポさんの言われるほんとうの学習とはどのようなものでしょうか?個人的な意見で構いませんので、教えていただければ助かります。

ご回答をどうもありがとうございます。

お礼日時:2018/12/17 01:39

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素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが

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Aベストアンサー

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 " も
同じに なるであろう

行動で 云えば 宮﨑駿 の
『もののけ姫』が 語っている
他方から みれば 善 であり
また 他方からは 悪 に なる
それは
一方からは " 生きる為に必要な もの" であり
もう 一方では " 生きる為に取り除きたい もの " なのである
利便 快適 を 相対するもの からみれば 搾取であり
また 同時に 糧である(対する位置に 居るものに取れば)

パンドラの匣に 残った
総ての悪 災 禍 が 去った後に残った 希望
そのひとつは
忘れ去る能力なのだ と思う

ただ 総ての 欲を 葬り去れば
無 に しかならない
待つのは 死 (無)である


と こんな事 考えてみました

浅かったら ごめんね

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 ...続きを読む

Q存在理由=レゾンデートルの味

人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

Aベストアンサー

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q現代、哲学で解けている問題は何でしょうか?

現代、哲学で解けている問題は何でしょうか?
また、解けている問題は何でしょうか?
代表的、主要な問題とその解とを教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

問:答えのない問いを立てることは可能か?
答:可能である。

一例として、観察できないものが存在すると言えるか?という問い。
「神は観察できないけれど存在する」という命題に真偽の答えはないので、答えのない問いを立てる事が可能である。

Qこのような人になりたい

皆さんは、このような人になりたい、と思った方に出会った事はありますか?

ある方は、どのような方かよろしければ教えて下さい。
ない方は、どのような人に出会いたいか、よろしければ教えて下さい。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

皆さんは、このような人になりたい、と思った方に
出会った事はありますか?
  ↑
ありますよ。
法務省のキャリア官僚でした。



ある方は、どのような方かよろしければ教えて下さい。
  ↑
自信に満ち溢れていて、それがちっともイヤミ
でなく、いつも静かにほほえんでいた。

非常に好感が持てる人でした。

歩き方まで、自信たっぷりで、ああなりたい
モノだ、と思いました。

Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

Aベストアンサー

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すと...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q人間 生きる目的や意義や意味が無かったら寂しいでしょうねえ?

人間として生きていて 生きる目的や意義がなく 意味のない一生だったら

非情に空しいし、寂しいでしょうねえ。

人間の生きる意味や目的は何でしょうか? ズバリ言って?

Aベストアンサー

>どういう事が出来れば「悪くない人生だったな」と思えるんですかねえ?

美味しいものを食べて、
綺麗な景色を見て、
美しい音楽を聴く。

そういう時間を大切な人と共有できればなお可。

Q絶対的に正しいことを定義してみました。

絶対的に正しいことを演繹的に定義してみました。

私たちは「大切なものを守ることは正しい」と感じます。(うん、そりゃみんなそう思うね)
では「最も何よりも大切なものを守ることは最も何よりも正しいとなる(まあ、当然そうなるな)

では「群れにとって最も何よりも抜群に大切なものは群れの命でしょう」(まあ、そりゃ~、そうだろうな)
それでは「最も何よりも大切な群れの命を守ることは最も何よりも正しい」となります。(そうなるね)
逆から言えば「何よりも抜群に最高に正しいことは群れの命を守ることである」となる。(そりゃ~そうだろう)

つまりその群れにとって、「絶対的に、何よりも最高に正しいことは群れの保存、存続である」と言うことが導かれる。
結論、その群れにとって、何よりも、絶対的に、最高に正しいことは群れの存続、群れ社会の安寧秩序を守ることである、となった。

私は哲学は素人なもので、どこか間違っていないでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>詳しくは下記のリンクを覗いてください。絶対善を定義していますから。読まれましたら、コメントください。

読みました。

例えばイギリス人が、物事の正しさを問う時は、「何が正しいかは、歴史に答えがある。」として、歴史の知見で正しさを考えます。(半分ステレオタイプです。)

例えばムスリムが、物事の正しさを問う時は、「何が正しいかは、コーランやハディースに答えがある。」として、コーランやハディースを出典にして正しさを考えます。(意外とステレオタイプではありません。)



私がミスリードしたのかもしれませんが、あなたの文章は、「僕の考えた絶対に正しい事」を主張しているだけにしか思えませんでした。また、「絶対」と言う言葉は、他人からは胡散臭く聞こえるので私はあまり使いません。

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む


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