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1. 消えてこそ 独我論は生きる――のではあるまいか?

2. すなわち 消えずに ほかの人たちにうったえるというかたち
を採っているのなら 独在性も成り立っていない。ことになる。

3. 消えずにいるのなら なおまだほかの人びとと互いに独在性に
ついて 《成り立っているよね?》と言って 念押しをしていること
を意味する。まだ 不安なのである。

4. 独在性の理論は 何もうったえない〔でいるのが 自然で合理
的である〕ときに 生きるのだ。

5. 結論:ひとたるわたしたちは それぞれ《独り在る》わけでは
ないのだ。




☆ おまけの問いです。

6. ▲ (心の哲学まとめWiki:永井均) ~~~~~~~~~~~
https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html

§ 独在性

「眼が視野に属さぬように、主体は世界に属さない」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

6-1. もしそうなら 《「眼が視野に属さぬように、主体は世界に
属さない」》という心の眼による世界認識の一端であるに過ぎない。




7. ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

§ 累進構造

決して普遍化できない、「語れない」ものが〈私〉の本質なのだ。〈私〉
を普遍化し、言葉で表現しえたものは〈私〉の本質である唯一無二性を
喪失したものである。言い換えれば、本質を喪失した形でしか〈私〉の
問題は語れないのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

7-1. つまり じゅうぶん語ったのです。《〈語れない〉と語った》
のだ。

7-2. そのアポリアをやぶるためには 《非知》なる概念を導入す
る必要がありましょう。




8. ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

§ 非還元主義

(☆ 省略しますが その全体)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8-1. この項目は わたしには お手上げです。まったく意味が採
れません。だれかおせーて!

質問者からの補足コメント

  • おぎないます。

    独在性とは わたしは《独りある存在》だと言うんでしょ?

    だったら そのことをわざわざ 他人(ひと)につたえることはないわけです。

    必要ないでしょうし そういう主張をうったえるというのは 独在性なるわた
    しに反することになるわけです。

    こんな単純なことが 分からないのでしょうか。

      補足日時:2018/12/24 16:20
  • №6 つづき1

    ★ Aでも、自分でも、世界でも、言葉によってそれを指示するわけで
    すから、外側にそれはある。
    ☆ 言葉は 心の中から出て来る――とも言われますよ。それが自分を
    傷つけることがあると。

    ★ 呼称する対象は、言葉の機能自体の外側に位置する。
    ☆ そうだとしても その対象も言葉もそしてわれも 世界の内にあり
    ます。

    ★ ならば・・・=自分=なのであり、=世界=なのであり、=外=な
    のではないかと。・・・すなわち 無=外=無 だろうと。
    ☆ ですが まだ先ほどの《自然本性としての世界。天与という条件》
    のことを表わしていることに等しいと見られます。《天》は 次の命題
    のように 《無根拠》と言ってよいかと。

    ★ 自分も、世界も、外も、Aも、無根拠に成立しているのでは?
    ☆ はい。

    つづく

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/12/26 04:40
  • №6つづき2

    ★ 子どもがAと言うものを認知するに至る場合、数多くのAっぽい形
    を見て、またAっぽい発音を何度も聞いてそれらがAであることをつい
    に認知するでしょう。無数の、固有のAっぽい何かが統一されて、普遍
    のAになるのだとするならば、それを統一しているのは普遍のそれ自身
    (それのエッセンス群)です。
    ☆ A 自身の自己同一性から 他の A っぽいものとの類似性に移りま
    した。

    ★ 例えば・・・サンマだけを取り上げるためには、サンマと他の魚を
    分けなければならない。・・・分別するには、サンマの他に、何も取り
    ださない事です。つまり、サンマと、他には無を取り出せばいいわけで
    す。無の認識が暗に隠れて居るという事を言いたいのです。
    ☆ いや ここは分かりません。《サンマの他》と言ったときにすでに
    他の種類の魚は種類が違うという判断をくだしているのでは?

    つづく

      補足日時:2018/12/26 04:42
  • №6つづき3

    ☆ 一匹づつ A は A なりという自同律を当てはめて識別し その結果 
    A なる呼称で捉えたものたちは Aであり ほかのBらとは区別した――
    という事態なのだと思いますが?

    ただしサンマがサンマであるのは そういう生物のひとつとして生まれ
    て来たという《無根拠の事実》によるものなのでしょう。

    ★ で、自在とは何かというと、無に接している存在という事になるの
    かな。
    ☆ 《〈自己ならざる何ものか〉とカカハリがある》というふうに捉え
    ることが出来るようには思います。

    この《自在》という視点が 神とわれとの問題につながっているようで
    す。

    そのカカハリとは:
    ・ 絶対と相対
    ・ 無限と有限
    ・ 超経験と経験

    ★ 無に接している存在
    ☆ これは 《無》が絶対性のことならば 《絶対無とのカカハリ》と
    もそして《絶対有とのカカハリ》とも表わし得るわけです。

      補足日時:2018/12/26 04:54

A 回答 (8件)

絶対無を間接的に経験するとはどういう意味でしょうか?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


絶対無の場合というのは 絶対有の場合と 同じです。

さて 直接には――人間の側からは決して――経験しえない神。

つまり 絶対性。

しかも その神のほうからなら 何らかのハタラキカケがあるかも知れない。
(分からないのですが 無いと決めつけることは 絶対性を誤解することに
なります)。

そういった情況(条件)において 神をわれが 無条件で無根拠にてわが心
に受け容れた・つまり信じたとき そこに何がしかの心の動きが起きるかと
思われます。

《神とわれとのカカハリ》が 主観としては いくらか経験的で具体的に成
ったという感じが起きる。このカカハリを 非思考の庭とよぶのですが そ
れは 動態です。生きることそのものです。



つまり 神――絶対――をそのまま経験することは出来ないのですが この
《神とわれとのカカハリ》なる信仰動態においてなら あくまで主観の思い
や動きとしてですが 何らかの思考や感覚が得られるかも知れない。

そのような間接的な経験は 何の足しにもならないかも知れないですし 人
によっては 信仰の効用を大いに得るかも分かりません。


以上が意味合いですが 一般に:
★ 絶対無を〔――あるいは絶対有を――〕間接的に経験するとは
☆ 元気が出るといったことだと思っています。

お礼日時:2018/12/26 17:01

色々とご指摘ありがとうございます。


で、ご指摘全てに応えるのはちょっと無理そうですので(申し訳ない)、ご指摘を踏まえて要点を改めて取り出しますと、

無は経験出来るのか?
無は知り得るのか?

という事かなと思うのですがどうでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 無は経験出来るのか?
☆ さっき泣いていた子どもが いま見ると もう笑っている。
ということは 《泣いている》という有が 無となった。

あるいは さっきそこに坐っていた子どもが いつのまにか外
に出て行って もういない。

経験的で相対的な《有る無し》は この事例のようなものです。
つねに移ろいゆく状態のことです。




有無を超えている絶対性は ひとが勝手に《絶対は有る とか
絶対は無い とか》と言っても不都合が生じないほどです。

言いかえると 絶対は 経験的な事象をすべてふくむことが出
来て その経験事象としての《有る無い》を 表現として当て
はめることが出来る。

つまり 絶対無と絶対有といった表現で 表わそうと思えばで
きる。

この場合 絶対としての無を(そして有を) 経験しているの
か? と言えば していません。

ただし 《絶対とのカカハリ》を 人間たるわれの能力のゆる
すかぎりで 言わば《生きている》。
(想定上のものなのですから 言わば《賭け》のような実存に
なります)。


そのカカハリ経験は 人によって どうでもよいことかも知れ
ないし その人にとっては 人生の突破口にしたいような契機
であるかも知れない。

ということは 間接的にひとは 神を経験している。実際には
神とわれとのカカハリという主観の中での・主観の思いの及ぶ
かぎりでの経験ということでしょう。

無根拠をめぐって無根拠のうえで経験するということは その
ような内実になるものと思われます。


★ 無は知り得るのか?
☆ 経験事象としての有る無いは 経験し得るし 知り得ます。

絶対無については 間接的に経験し得たとするかぎりで その
経験についての――主観的な――知識を持ち得ます。

お礼日時:2018/12/26 16:13

お礼ありがとうございます。

神や超経験の話は、立てられましたもう一つの質問の方に集約しましょうか。

ここでは独在性や独我論について話すこととしませんか。
ですがその前に・・・すこし余計な話をしていいですか。私のために(笑)

自在や無について語る時の”世界の外”という意味について。
これは非常にわけのわからぬことを申し上げなければならないのですが、何かの内側を見つめた時に、つまり個物の内在を見ようとしたときに、内側は外の外であった、と言う事なのです。それが世界を開闢する場という言葉の意味であると私は理解しているのです。
しょうもない言葉遊びと思って一度お付き合いください。私も昔考えたことを久しぶりに整理してみたいと思います。

例えば、A=Aと言うのは自明ですね。これは通常は真です。書く意味がないほどに。しかしながら私の場合、左辺のAと右辺のAは違うAなのではないか?という疑問が生じたのです。AをAたらしめているのは、A自身ではなく間に挟まっている=の記号なのではないかと。
AAと書いただけでは、Aが二つあるという事です。左のAと右のAは同じAという名称であるけれど、違う個体です。二つを、=で繋ぐと一つ(同じ)になる。では、AをAたらしめているこの=は何なのか、違うものを同じにするこの働きは何なのか?このようなことが私は気になったわけです。Aと只表記したとき、暗黙の内にA=Aであることが、Aには内在しているわけです。まぁ普通はここで終わると思います。ですが私は、疑問が晴れなかった。違うものを同じにする、二つのものを一つにする=とは何なのか?が気になったんですね。
で、閃いた。その時、存在を存在たらしめているものが何か解った気がした。無いのだと。
その時全てが開けた気がした。Aはその時、無かった。

それを説明するために、敢えて表記の形を模索するならば、Aとは、
  
 =A=

とできるのではないか?と。顔文字じゃありませんよ(^^;
つまりAを成立させているのは何もない。Aは無根拠にAなのではないのか?
このAが、自分とか、世界とか言った主要概念であっても同じことになるのではないか?
自分も、世界も、無根拠に成り立っているのではないか?と思われたのですね。

で、何かを言葉で呼称するとき、それは常に外側にあります。Aでも、自分でも、世界でも、言葉によってそれを指示するわけですから、外側にそれはある。呼称する対象は、言葉の機能自体の外側に位置する。
ならばすべての対象に当てはまるのではないか?=自分=なのであり、=世界=なのであり、=外=なのではないかと。とするならば、、、すなわち 無=外=無 だろうと。

自分も、世界も、外も、Aも、無根拠に成立しているのではないのか?

子どもがAと言うものを認知するに至る場合、数多くのAっぽい形を見て、またAっぽい発音を何度も聞いてそれらがAであることをついに認知するでしょう。無数の、固有のAっぽい何かが統一されて、普遍のAになるのだとするならば、それを統一しているのは普遍のそれ自身(それのエッセンス群)です。

例えば網で魚を取ったとしましょう。メバル、ガシラ、サンマ、アジ、イワシ、謎の深海魚等々沢山獲れました。その中から、サンマだけを取り上げるためには、サンマと他の魚を分けなければならない。一緒くたではサンマはどれか分からず取り出せません。サンマだけ取り出す、分別するには、サンマの他に、何も取りださない事です。つまり、サンマと、他には無を取り出せばいいわけです。無の認識が暗に隠れて居るという事を言いたいのです。

まぁ、改めて書くとなんというか、吹けば飛ぶような話にも思われますが、昔、こんなことを考えたんですね。 A を開くと、=A= ですよと言う話でした。こんな話をある人にしたら、「意味がない」と言われたのを思い出します。
なんか恥ずかしくなってきたなぁ(笑)

で、自在とは何かというと、無に接している存在という事になるのかな。

(こんなに話し込んでいる場合ではないのに(苦笑))
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ここでは独在性や独我論について話すこととしませんか。
☆ 了解です。

★ 自在や無について語る時の”世界の外”という意味について。
★ 内側は外の外であった、と言う事なのです。それが世界を開闢する
場という言葉の意味である
★ 例えば、A=A・・・、左辺のAと右辺のAは違うAなのではないか?
AをAたらしめているのは、A自身ではなく間に挟まっている=の記号な
のではないか。
☆ 途中のコメントとして:《AはAである》という命題(判断)をその
主体であるわれがおこなった。その内容を 記号および数式で A=Aと
書く。――ということではないかと。

★ AAと書いただけでは、Aが二つあるという事です。左のAと右のAは
同じAという名称であるけれど、違う個体です。
☆ なぜ《違う個体》ですか?

★ 二つを、=で繋ぐと一つ(同じ)になる。
☆ そういう判断(および認識)を 記号で示した――ということだと
思います。

記号とそれによる数式がいちど定義して決められると あとはその前提
のまま 推し進められて行きます。問題があるとすれは 数式以前の判
断について問うべきです。

そのことが 次の問いの問題なはずです。
★ では、AをAたらしめているこの=は何なのか、
☆ Aをわれとすれば 明らかです。等号なる記号は 別です。

★ Aと只表記したとき、暗黙の内にA=Aであることが、A には内在し
ているわけです。まぁ普通はここで終わると思います。
☆ ええ。つまり これが 自然の斉一性の原理ですね。

★ ですが私は、疑問が晴れなかった。・・・閃いた。その時、存在を
存在たらしめているもの〔は〕・・・無いのだと。
★ ~~~
Aとは、
  
 =A=

とできるのではないか
★ つまりAを成立させているのは何もない。Aは無根拠にAなのではな
いのか?・・・
自分も、世界も、無根拠に成り立っているのではないか?
~~~~
☆ 無難な表現としては 《生まれつきそなわった自然本性(広義)》
でありそういった世界全体についての天与の条件なのでしょうね。

★ で、何かを言葉で呼称するとき、それは常に外側にあります。
☆ ここは 分かりません。なぜ 外なのか? 意識の内にはあります。

(あっ 字数制限のため 回答を分けてください!) つづく

お礼日時:2018/12/26 04:36

>超経験ないし非経験の場は 《世界の外》ではないのです。

世界の内と外
とを超えているのです。<

その超えていることはどうやって論証するのですか?
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この回答へのお礼

《想定による》ものです。初めから分かっているものでないからには 探究
の初めに 仮説を立てます。(アブダクション)。

その仮説内容と経験事象とのカカハリとが 合理的な意味関係を持つらしい
と見られるならば ひとまづその仮説をもって 互いにさらに問い求めてゆ
く。――そういう行き方を 哲学がするものと思います。


ご回答をありがとうございます。


一般に《かみ》と言う場合にも やはりこの《超越性》が基本となっている
と見られます。:
▲ (コトバンク:神) ~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E-46603

△ (ブリタニカ) 一般に絶対的,超越的な存在とされ
△ (デジタル大辞泉) 人知を超越した絶対的能力をもち
・・・
~~~~~~~~~~



★ 外
☆ という概念は 《内》と境界をはさんで けっきょくのところでは つ
ながっていると見られ まだ経験事象なのではないかと考えられます。

内と外とは 断絶していると もしするのなら しかもその断絶の境につい
ては 知り得ると見られます。

つまり 超経験の神のばあいには 経験世界とのへだたりが 絶対的である
と想定されるわけなのだと思います。

お礼日時:2018/12/25 21:41

生の没入感と言う言葉を聞いて話が通じる人は、生の没入感の醒めることについての予感を少なからず持っているでしょう。


この世は何故あるのか?とか、自分って何なの?とか考える人は多いですが、彼らもまた、おかしなというか、不思議な事柄についての興味を持っていると言えます。
そもそも不思議なことだから考えてしまうのであり、自明の事なら考える必要もありません。

独我論や独在性と言う言葉も不思議な事柄について考えた時に生まれた言葉であり、不思議なことを感じること自体を否定してしまえば哲学の存在する余地は無くなるでしょう。そして、この不思議だなぁという感覚は十分な市民権を得ているのであり、自在とか無とか言ったこの世の外の事を表現した言葉が理解されないとしても、それが哲学的興味の対象になる事はよくあるのです。

没入感が途切れたのではなく、過剰になった、という事は言えるかもしれません。例えば転覆した船に取り残された場合、船底に空気がたまります。その空気を吸って一瞬でも外に出たという感覚を得ることは考えられます。ただ大事なのは、水中がすべてであると思っている状態と、空気と言う外の世界が在る事を知る事ではやはり根本的に世界認識の変わる契機とはなるのです。この意味で、そこが閉ざされた外であったとしても、問題になりません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 生の没入感と言う言葉を聞いて話が通じる人は、生の没入感の醒める
ことについての予感を少なからず持っているでしょう。
☆ ええ。そう思います。

★ この世は何故あるのか?とか、自分って何なの?とか考える人は多い
ですが、彼らもまた、おかしなというか、不思議な事柄についての興味を
持っていると言えます。
☆ 《今日は 昨日の・そして明日は 今日の続き》といったイイカゲン
な斉一性の原理に どうしても納得のゆかない《思索家》の場合に起きる
と思います。

★  そもそも不思議なことだから考えてしまうのであり、自明の事なら
考える必要もありません。
☆ そこまで よいと思います。問題は 答えを出してみなさい――にな
ると思います。

★ 独我論や独在性と言う言葉も不思議な事柄について考えた時に生まれ
た言葉であり、不思議なことを感じること自体を否定してしまえば哲学の
存在する余地は無くなるでしょう。
☆ いえ。まだこの文の前半と後半とのつながりが はっきりしないと思
います。問題は 自分の納得のゆき人びとも同意する答えが出たかどうか
です。


★ そして、この不思議だなぁという感覚は十分な市民権を得ているので
あり、
☆ 100%同感です。

★ 自在とか無とか言ったこの世の外の事を表現した言葉が理解されない
としても、それが哲学的興味の対象になる事はよくあるのです。
☆ 《答え》の問題です。

《自在》だけでは 中身のあいまいな《さとり》と同じですし 《無》は
《無限〔経験事象としての( π の小数点以下が限りなくつづくような)可
能無限ではなく 真無限)や絶対性 あるいは超経験・超自然》の問題へ
とすすまなければ まだカオスです。

超経験ないし非経験の場は 《世界の外》ではないのです。世界の内と外
とを超えているのです。

★ 没入感が途切れたのではなく、過剰になった、という事は言えるかも
しれません。
☆ おそらく ――断定的になりますが――《思索》の過剰ではないか?

★ 例えば転覆した船に取り残された場合、船底に空気がたまります。・
・・この意味で、そこが閉ざされた外であったとしても、問題になりませ
ん。
☆ ここは もう少し詳しくお聞きしないと コメントがむつかしいです。
船のいない海面に 首を外に伸ばすとか。

お礼日時:2018/12/25 15:29

映画館で映画を見ると、上映中は暗くて他のお客さんは誰が誰だか分からないし、友達と見に行ったとしても、上映中は友達のことなど気にせず映画に集中、没入するでしょう?


世界が私によって生起しているとか、存在しているのは私だけであるとか言うのもこれに似ていると思います。
生きるという現象の没入感故に、独在性とか独我論と言うものが生じる。
むしろ、生きるという事に没入していなければ、生存している世界以外に居たり、今ある時以外を過ごしたりするという”おかしなこと”が起こりうる。
であるから、この意味で独在性とか独我論を語る人はむしろ正常な範疇と言える。映画の登場人物に感情移入して悲鳴や笑い声などを上げたり、感涙する人もいるが、じっと画面を見つめている人もいるでしょう。どちらも映画に没入していることに変わりはない。

ところが、独在性ならいいのだけれど、それが自在であるとか、無であるとか言い出すと、人にはなかなか理解されなくなってくる。生の没入感の途切れる時、その人は何を見るのか。別に何も見ない。映画館の中は暗くても、外は明るいだろう。ただそれだけである。

没入感の途切れる場合と言うのは、特異なことではないが数は少ない様である。

この事が、映画館の話なら別に問題も無いが、生の話になるとやや問題となる。つまり、生まれる前と、死んだ後、すなわち自分のいない間は何なのかという事である。しかし本当の問題は、生まれる前と死んだあとの事が気になって、自分が生きている間の事に集中できない事である。わざわざお金を払って見たい映画を見に来たのである。映画に集中しないのはもったいない。

(今回は議論できないかもしれません。ちと師走で時間が取れない可能性が高いです。お返事中に重要な論点があると感じた場合には考慮しますが、それでも書き込みできるか分かりません。)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《ケッタイナ話》という明らかに哲学の道を逸れた確信犯としての言辞は その
わたしがおそらくほかの多くの人びとと共に ふつうに自然にそれぞれの人生に
★(☆として編集あり) 集中し ときには 没入している
☆ という現実のあり方から来ています。

こう断定しても 意外にも哲学の王道に踏みとどまっていると言っていいんでは
ないでしょうか。

《斉一性の原理》とか言うんでしたっけ。まったくの推測にもとづく考え方であ
り それを実行するのは 哲学が泣くほどの見切り発車になるのですが。

▲ (ヰキぺ: principle of the uniformity of nature ) ・・・科学哲学の世
界で用いられる言葉で「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけで
はなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえ
されるはずだ」という仮定

☆ あくまで《仮定》です。しかも それが ふつうに自然の生活態度(≒思想)
であるという人びとのコモンセンスであろうと思われます。

――議論は ただこれだけのことです。




問題は 何でしょう?

おそらく《没入感》が 一時的・部分的にして過剰である事態の上に 長く居坐
って その狭い見地からのみ《思索》を伸ばして行った――このあたりではない
でしょうか。




★ であるから、この意味で独在性とか独我論を語る人〔も それが自在である
とか、無であるとか言い出す人と同じく〕・・・正常な範疇と言え
☆ ないと思います。つまり:
★ 生の没入感の途切れる時、その人は何を見るのか。別に何も見ない。映画館
の中は暗くても、外は明るいだろう。ただそれだけである。

☆ つまり:
★ つまり、生まれる前と、死んだ後、すなわち自分のいない間は何なのかとい

☆ 場合でも おんなじことであるはずです。基本は同じはずです。映画館だっ
て内と外があるのだから いま着ているうつせみの生を まさか裏返してあの世
の衣装へと着替えたい・・・というんぢゃ無いでしょう。

それとも 《異常》なほどにリヴァーシブルな着物のほうが いまの世の中は 
ウケル・売れる・・・のでしょうか?

《ケッタイナ話》ですよね?


なお:
▲ 開闢
☆ については わたしの神論――《非知》説――があります。

お礼日時:2018/12/25 03:32

>独我論(独在性)というケッタイナ話は なぜ消えないか?


そりゃまあ、憲法の「思想信条の自由」があるので消すことはできないからでしょう。
でもって、自主出版なら、それこそ自由。
で、本当に自主出版かどうかはさておき、永井均さんは、自己の思想が消えないだけの努力をしているということに。
だから、消えません。

で、bragelloneさん、あなたの主張ってどうなの?
永井均さんの主張と違う、 それはわかった。
永井均さんの主張はWikiに記載される程度にはメジャー。それも解った。
でも、bragelloneさん、あなたの主張って、世間でどれだけ受け入れられてるの?
よって、私の回答。
bragelloneさんの主張が検閲により潰されている形跡が無いので、他の人の主張も必然的に生き残る。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >独我論(独在性)というケッタイナ話は なぜ消えないか?
★ そりゃまあ、憲法の「思想信条の自由」があるので消すことはできない
からでしょう。
☆ 趣旨説明欄にしめした反論は だめでしょうか?


★ でもって、自主出版なら、それこそ自由。
で、本当に自主出版かどうかはさておき、永井均さんは、自己の思想が消え
ないだけの努力をしているということに。
だから、消えません。
☆ いえいえ。反証を挙げられて それへの再反論が成り立たなければ も
う勝負はついた――となります。

相手が なおふるい主張にしがみついていても もうそれは 放っておけば
よいだけです。

★ で、bragelloneさん、あなたの主張ってどうなの?
永井均さんの主張と違う、 それはわかった。
☆ どう分かったのですか? きちんと論駁しているはずですよ。

★ 永井均さんの主張はWikiに記載される程度にはメジャー。それも解った。
☆ いや この場合は 特定の主題についての議論が 問題です。一つひと
つ つぶして行けばよいわけです。


★ でも、bragelloneさん、あなたの主張って、世間でどれだけ受け入れら
れてるの?
☆ 生前には 目もくれられなかったという場合もあります。


★ よって、私の回答。
bragelloneさんの主張が検閲により潰されている形跡が無いので、他の人の
主張も必然的に生き残る。
☆ 議論として 互いに批判をしているのですから そんな一般論を持って
来ても 話は始まりません。よ。

お礼日時:2018/12/24 13:47

きちんとした否定ができないからです。


いくら間違っていると指摘しても「君は私がつくりだした幻影だ」といわれればそれで終わりです。

科学については、反証可能性があることが前提となります。
どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではありません。

反証可能性(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%A8%BC …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ きちんとした否定ができないからです。
☆ 趣旨説明欄にしめした反証は 効かないでしょうか?

お礼日時:2018/12/24 13:39

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