【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編

世界最初の殺人、カインとアベルの兄弟殺し。
カインは農夫、アベルは羊飼い、神えの供物はカインが収穫物、アベルは子羊
何故神は子羊を選んだのか、その後アベルはカインを殺す。
このユダヤ教聖典と新約聖書の違いでは、西暦約400年アウグスティヌスが、カインはユダヤ人、アベルはクリスチャンを書き付けた。クリスチャンとユダヤ人の憎しみはここから始まる。
では、憎しみを煽る事をアウグスティヌスは書き込んだのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • カイン、アベル、聖母マリア、イエス、総てユダヤ人
    アウグスティヌスのみローマ人
    これはローマ人クリスチャンの悪意と思います。

      補足日時:2018/12/26 06:13

A 回答 (6件)

カインは主流の象徴


アベルは主流から排斥されて善処していた側の象徴
くらいに解釈していいと思います。

主流には進歩する実質とのギャップから
時の流れとともに
ひずみが蓄積していきます。
蓄積したひずみの絶対量が限界いっぱいになると
アベルのような犠牲者が出てしまう
ということだと思います。

ニーチェの超人思想みたいなものでしょうね。
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歴史の一般的概説では、「ユダヤ人の故郷パレスチナはローマ帝国の後、ビザンツ帝国、セルジューク朝、十字軍、オスマン帝国などの支配を受け、現代にたるまで祖国を失った民として、世界中に離散(ディアスポラ)していった。

中世ヨーロッパでは各地を移動する商人として活動したが、キリスト教社会の中では異教徒として存在していた。しかし、ユダヤ人は最初から迫害されたわけではなく、11世紀頃までは共存していた。」「ユダヤ人に対する迫害が始まるのは、11世紀末に始まる十字軍時代以降のことであった。」とされているようです。
https://www.y-history.net/appendix/wh0101-071.ht …
https://matome.naver.jp/odai/2139229391637520901
アウグスティヌスの著作などの影響で、キリスト教徒とユダヤ人・ユダヤ教徒の憎しみが始まったと解するのは、無理があるのではないですか。
https://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/220e41f12af335 …
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カインとアベルについては


様々な解釈がありますね
(ちなみに聖書は「様々な解釈がある、できる」から、ここまで読み継がれてきたという側面もあります)

「そもそも、神に対する捧げは
血の犠牲が必要とされていた」
と言っていたクリスチャンの方がいます
また、ユダヤ人は牧畜業だったので羊飼いが優先される物語にしたのだと言う説

それにしてもそんなことくらいで
弟を殺すなんて、に関しては
「結構アベルって常日頃生意気な嫌な奴だった」
「逆にあまりに純真で、それがまたカインをイラっとさせた」
など
心理学的なアプローチもいろいろです
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旧約聖書の成り立ちをご存知ですか?



旧約聖書はユダヤ人の伝承なんだから
主な登場人物がみなユダヤ人なのは当たり前ですし

イエスはユダヤ人社会に生まれ
それを宗教的に改革しようとした人物で
その母親がユダヤ人なのも当然です

イエスの教えは後に
非ユダヤ人社会に広まりました
(これはパウロの功績)
そしてローマ帝国で国境となる

アウグスティスの神学的解釈を論じる以前の話だと思うのですが
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相変わらず西洋かぶれ、西洋中心主義の御仁ですね。

本当に世界最初の殺人なんですか。彼らだけが人間なんですか? 他の地域に人間はいなかったのですか? 日本人は人間ではなかったのですか?
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この回答へのお礼

Thank you

アメリカはインデアンの国、40年住んで反捕鯨になったのか、ダメだこいつ、40才の坊や

お礼日時:2018/12/26 10:00

それ


ほんとにそんな風に書き換えられてるんですか?

初耳です

ユダヤ人というならば
両親が同じなので
二人ともユダヤ人ですよね??

そしてカインとアベルの時代
まだイエスは生まれてなかったのだから
クリスチャンであるというのも
不思議な感じがしますが
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この回答へのお礼

助かりました

アウグスティヌスがユダヤ教よりキリスト教が上と庶民に知らせる為に付け加えたそうです。

お礼日時:2018/12/26 10:04

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なるほどねー
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たぶん彼の言う「宗教」と
あなたの「宗教」って意味が違うんだと思う…
あ、違うな

彼の中で宗教っていうのは
生活の仕方から何から全部決められてしまうようなものなんじゃないかな…そういうイメージ
で、
お寺のことは
宗教というよりは
おまじないみたいなもんなんだよ、きっと
供養とかやっとかないと、悪いことが起きるとやだから、とりあえずやっときます、って感じの
「信仰でない」というのは
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別にそこに、生き方とか考え方とかの指針を求めてないの
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有意義な質問
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色々と感謝(*-ω人)いたします

ではでは
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あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

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この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q良心の呵責を感じることはありますか?

哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
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参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

Aベストアンサー

私も感じますよ。それも取り返しのつかない子供の頃の自分の行動とかにね。
歳を重ねていくうちにいろいろ経験していく中で、まだ自分の感情が未熟だった頃の失態とかを思い出して、何であんなひどい事をしてしまったんだと感じます。
たとえば犬を飼ったのに遊んだのはちょっとの間だけで、あとはほおっておいて散歩もしないでフィラリアで死んでしまったときとか、思うようにならない事で腹を立ててヤツ当たりに弟を叩いて泣かせてしまったことや、子供の時の事なんで誰でもやってしまう仕方がない事とはいえ、とても辛く思い出すときがあります。ほかにもいろいろと自分の失態を思い出しては良心の呵責に胸がつまります。不思議なことにそういう想い出だけは心に残ってるんですよね。

Q思考の技術

を学ぶためにこのカテに来ています。

哲学は総ての基盤だと。

四つのkeywordを挙げて
端的に説明してください。


(欲張りなのはご容赦を)

Aベストアンサー

確かに、

>哲学は総ての基盤だと、

思われていた時代がありましたね。それは人間が成長する仕方とよく似ています。幼児の時に言葉を覚えますが、それが思春期の頃になると、理屈や理念の世界があることに目覚める。要するに屁理屈を言いだすようになる。それで成長が止まってしまう人も中にはいるでしょうが、普通は大人になると理念よりも重要なものがあることを、いろいろな痛い経験をしながら判ってくる。それは事実の世界です。

経験の未熟なものはまず理念を頭でこねくり回し、人はどうあらねばなぬ、自然はどうあらねばならぬ、と論じ始め、それで事実の世界を整理しようとする。ところがそれではうまくいかないことを経験で認識し始めます。そして、理念や理屈をこねくり回す前に、「ところで人はこいう時どう振る舞ってきたんだ」とか、「自然てどうべきかではなくてどうあるのか」という事実の世界を一先ず観測して、その観測事実に基づいて、あとから理屈や理念を後出しジャンケンのように付けてゆくのが筋ではないかと分かるようになってきた。

事実、人類は言葉を使い出して、最初のうちは、理屈だ理念だ哲学だと語り出した。その数十万年にも及ぶ経験の結果、今から2500年ほど前にある意味理念の世界が極限に到達した。それが、孔子や釈迦やソクラテスやそれから500年ほど遅れてイエスです。彼らは人類の師と呼ばれ、いまだに彼らを凌駕する人は出ていないと考えられているようです。そして、彼らは「人間はどうあるべきか」という理念を語った。その同時期にアリストテレスは「自然はどうあるべきか」という理念を語った。

ところが、その後2000年も経っても戦争も病気も無くならず、世の中一向に良くならなかった。そんな痛い経験をして行くうちに、人間が大人に成長して行くのと同じように、人類も、

「ちょっと待てよ、人間はどうあるべきかという理念や哲学を語る前に、そもそも人間はどうあるのかという事実をまず認識しようじゃないか」

と言い出した。それがマキャベリです。そして、政治学という社会科学が誕生した。また同時期に、「自然はどうあるべきか」という理念や哲学を語る前に、そもそも「自然はどうあるのか」という事実をまず認識しようじゃないかと言い出した人がいた。それがガリレオです。そして、自然科学が誕生した。すなわち、人間一人一人も人類も、まず未熟な段階では、

 理念や哲学による理屈づけが先、事実があと、すなわち、哲学 => 科学

という順序で世界を認識してきた。しかしその後、色々な経験をして成長を遂げた結果、

 事実が先、理念や哲学が理念や哲学による理屈づけがあと、すなわち、科学 => 哲学

という順序で世界を認識するように進化してきたのです。その傾向は20世紀以降著しく、特に量子力学や相対性理論の発見以降、世界の認識に対する哲学者の未熟さが白日のもとに曝け出され、世界認識に対する哲学者の権威の座を科学者たちに譲渡してしまったというのが現状です。事実、20世紀以降世界の認識における重要な進歩は哲学者ではなくて、科学者によってなされてきたのが歴史的事実です。

哲学者は人間の性として、どうしても自分の育ち至った経験を通した思索によって、さらに我々が通常使う言語によって、我々の経験を外挿して世の中を認識しようとします。ところが、自然界の認識には、日常言語ばかりでは不十分であり、数学という特殊言語を駆使しないと認識不可能なことがあることが判ってきました。例えば、世界を認識するのに例えば長さがや大きさなどを数値で表し、それを比較すれば、論理的に解ると思っていた。ところが、事実はどうなんだという自然科学の発達で、我々が世界を認識するには「数」そのものでなくて、そのような長さや大きさに対応した「演算子」なる実態がそのような数値で表される量の裏に潜んでいることが本質であることが明らかにされました。このような世界認識に対する事実の発見は、日常言語を使いながら頭に浮かび得るどのような整合した論理的思索をしても、発見できるものではありません。

事実の認識は、カントの言う「総合的真偽の判断」に基づいた認識であり、 理念の認識は「分析的真偽の判断」に基づいた認識です。だから、如何に理念の分析をしても事実の世界は認識できないのです。

科学者に比べて哲学者の未熟さを揶揄って見せた一例として「ソーカル事件」をググってみてください。

もう一点のkeywordに関してですが、哲学は人間の言語で語ります。そして各言語にはそれ特有の個性的な文化がある。例えば質問者んは日本語を話し、日本語をみながら育ってきました。そして、日本語は、漢字という表意文字であり、ひらがなやカタカナは表音文字です。さらに漢字には音読みと訓読みがある。このように日本語は他の言語界では考えることすらできないような多次元的で多様な言語空間を持っているのです。ヨーロッパ語のような表音文字しかない一次元的な単純な言語空間ではない。

当たり前なことですが、多次元空間ではその次元を制限して、より低次元の世界を見ることができる。例えば3次元空間に住む我々は2次元空間を見ることができます。ところが、我々は4次元空間を見ることができません。同じように、多次元に住む日本人は表音文字しかない一次元的ヨーロッパ人のみている世界を簡単に認識できますが、その反対にヨーロッパ人には日本人の見ている多次元的な世界認識を理解することは至難の技なのです。

私は、質問さんが例として挙げたkeywordsがどうして、そんな単純なアルファベットという低次元言語で表されているものだけなのか、理解に苦しむところです。

確かに、

>哲学は総ての基盤だと、

思われていた時代がありましたね。それは人間が成長する仕方とよく似ています。幼児の時に言葉を覚えますが、それが思春期の頃になると、理屈や理念の世界があることに目覚める。要するに屁理屈を言いだすようになる。それで成長が止まってしまう人も中にはいるでしょうが、普通は大人になると理念よりも重要なものがあることを、いろいろな痛い経験をしながら判ってくる。それは事実の世界です。

経験の未熟なものはまず理念を頭でこねくり回し、人はどうあらねばな...続きを読む

Qこれまで数千人の命を救ってきた天才外科医1人の命となんの取り柄もないニート50人の命。どっちが大事で

これまで数千人の命を救ってきた天才外科医1人の命となんの取り柄もないニート50人の命。どっちが大事ですか?

Aベストアンサー

政治や経済、そして社会の利益から考えれば、天才外科医1人の命のほうが大事です。

でも、人道的にはどちらも大事、と云うしかありません。

宗教的には、ニート50人の命のほうが大事です。
本質的には、数は関係ありませんが、あえて選択するならと云う事です。
なぜかと云えば、天才はニートよりは理性という点において、数段神に近いという立場を確保しているからです。

だから神は、神にとっての遠い存在である“弱者”への想いが強いのです。

Q「とうもろこし」にまつわる世界観

「とうもろこし」と聞くと、焼きとうもろこしやコーンスープを思い浮かべる方が多いと思います。しかし、今やアメリカでは、45000種類の食品のうち1/4以上の食品にとうもろこしが使われていることをご存知でしょうか。日本も例外ではありません。

コーンスターチ(トウモロコシの澱粉)コーンフラワー(とうもろこし粉)に加工され、コーン油も搾油されていますが、食品の原材料表示の中の、ブドウ糖果糖液糖、加工デンプン、デキストリン、キサンタンガム、アスコルビン酸、カラメル色素など。とうもろこしから作られる添加物は何百種類に及ぶといわれます。
ドライミルと呼ばれる製粉所に対して、ウェットミル(湿式工場)があります。
ここは複雑なパイプや機械部品からなる怪獣みたいなもので、毎日大量のとうもろこしを飲み込み、反対側についている蛇口から、さまざまな製品、糖類、デンプン、アルコールや酸、乳化剤や安定剤を流し出す。そのほとんどが食品添加物として、シリアルやスナック菓子、調味料やドレッシング、チキンナゲットや冷凍食品、ありとあらゆるものに使われています。

この中で「ブドウ糖果糖液糖」これは1960年代に日本で開発されたとうもろこしを原料とする甘味料で、安価で甘味が強いので、砂糖に変わるものとして、清涼飲料水、調味料、菓子類、加工食品全般に大量に使われていて、血糖値が上昇しやすくなるという危険性があります。
また、最近よく耳にする「難消化性デキストリン」
これは消化されないデンプン。食べても消化されないので、胃も腸も通り抜けてしまう。つまりカロリーのない究極のダイエット食品。「栄養にはなりません」なんて宣伝したら逆効果ではないか、と考える人もいましたが、昨今のダイエットブームが追い風になりました。これでカロリーを考えずに安心して食べられる。ダイエットに救世主とも言える存在になったのです。いわば、栄養もなくただ人の中を通りすぎるだけという、一見役に立たないことで勢力をさらに拡大しようとしています。

人間の食料だけでなく、牛、豚、鶏の飼料として加工されます。ほとんどがアメリカ産牛肉一億頭分の飼料。
ここで思い出すのが、ケーキを作っていたときのこと。使用していた卵は海藻、青菜、木酢、かき殻、米ぬか、オリゴ糖、パプリカ、にんにくなど20種類以上を配合したえさを食べている鶏で、濃厚で味わいのある卵だったのですが、あるとき、飼料のベースを輸入とうもろこしに変えるということになって受け入れざるを得ませんでしたが、結果はやはりケーキの食味が変わり、業者を替えることになりました。

人間と同じように、食べ物にも個性があって、どんなに栄養のある良いものでも、一種類の食べ物だけを食べて生きる事はできません。主食副食バランスよく食べてはじめて、健康が支えられるように人間はできていると思います。
皆さんはどのように思われますか?

「とうもろこし」と聞くと、焼きとうもろこしやコーンスープを思い浮かべる方が多いと思います。しかし、今やアメリカでは、45000種類の食品のうち1/4以上の食品にとうもろこしが使われていることをご存知でしょうか。日本も例外ではありません。

コーンスターチ(トウモロコシの澱粉)コーンフラワー(とうもろこし粉)に加工され、コーン油も搾油されていますが、食品の原材料表示の中の、ブドウ糖果糖液糖、加工デンプン、デキストリン、キサンタンガム、アスコルビン酸、カラメル色素など。とうもろこしか...続きを読む

Aベストアンサー

米国在住です。

十五年ほど前、ご質問にある、米国人のトウモロコシの食べ過ぎの件について、長女が高校で習ってきまして、それ以来、彼女はトウモロコシを食べることを拒否しています。理由としては、取り立てて料理をして食べなくても、”箱入りの食べ物”には、必ずトウモロコシが使われていて、私達の体内は、トウモロコシだらけだからだということででした。

その後、私の家族の”食事セオリー”はどんどんと発展を続け、現在では、肉食をやめ、一週間に二度のオリーブオイルで調理した鮭・マスがたんぱく源となり、酪農製品も摂らず、ピーナッツバターやアーモンドバターを、全粉のパンに塗り、お茶も、ビーツや生姜の薄切りを煮だしたものを飲んでいます。

何が体にいいのかよくわからないのですが、キノアやケールやビーツなど、あまりおいしくない食材も、出すと喜ばれるので、頑張って調理しています。あとは、季節の野菜を、組み合わせを考えて、蒸したり、茹でたり、いためたりして、”味付けをしないで”、そのまま食卓に出しています。サラダには、ライムジュースを振りかけるだけです。

基本的に、出来合いのものを使わず、食料品店で、丸のままの食材を買ってきて、それを調理する、というやり方です。体には良いのかもしれませんが、手がかかるし、そして、食費も普通の倍以上はかかります。

これが、行き過ぎた健康志向、アメリカの意識高い系の食事の実態です。もはや、バランスが取れればよい、などという問題ではないところに来ています。

一方、80パーセント以上のアメリカ人は、現在でも、漂白された白いパンを食べ、チーズバーガーをほおばり、ビールにバーベキュー、タコスに山のようなチーズ、トウモロコシだらけのシリアルを毎日食べているような状況です。

私も、食事はバランスさえ取れていて、おいしければ、それが、ベストだろうと考えていましたが、私の家族を見る限り、何が何だか、判らなくなっている現状です。私事で恐縮ですが、お知らせまで。

米国在住です。

十五年ほど前、ご質問にある、米国人のトウモロコシの食べ過ぎの件について、長女が高校で習ってきまして、それ以来、彼女はトウモロコシを食べることを拒否しています。理由としては、取り立てて料理をして食べなくても、”箱入りの食べ物”には、必ずトウモロコシが使われていて、私達の体内は、トウモロコシだらけだからだということででした。

その後、私の家族の”食事セオリー”はどんどんと発展を続け、現在では、肉食をやめ、一週間に二度のオリーブオイルで調理した鮭・マスがたんぱく源と...続きを読む


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