里崎智也さんからビデオメッセージがもらえる

江戸時代、私のご先祖は代々氏名を世襲してた下級武士ですが、継ぐのは名字だけで名前は違うのが普通みたいですが、家督を渡されたときには名字だけを継ぐのでしょうか?
確かに隠居してる当主と跡を継いだ当主が同じ氏名だったら、ややこしいですけどね
それと話しは変わりますが、江戸時代265年間武士だったわりに7、8代と少ないです、普通50歳〜70歳で家督渡しますから、計算が合わないです
私のご先祖の由緒書きに書かれてるみたいです

質問者からの補足コメント

  • ご隠居と呼ばれるが、氏名はそのまま使用し、また新しい当主も同じ氏名を使っていたという解釈で、よろしいですか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/12/27 06:49
  • 親のご先祖は氏名を継いでいたので、なにか理由でもあったんですかね
    その氏名は郷士時代から在郷藩士時代の江戸時代すべての期間なのか、在郷藩士として新たに取り立てられた時からの氏名世襲なのかは、わかりません
    因みに江戸時代中期に90歳以上生きた、ご先祖がいます

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/12/28 00:07

A 回答 (4件)

>親のご先祖は氏名を継いでいたので、なにか理由でもあったんですかね



なにか理由があったのでしょう。下級武士で郷士ということなら、技術的なことではなく「地域に必要な役職」としての家督相続だったかもしれません。

たとえば「昔から村の長老職を代々継ぐ」とか「神主などのいない村の祭祀を取り仕切る家系」などです。

こういう場合は、武士ということではなく、地域の要職ということで、氏名全部を継ぐこともありえます。
    • good
    • 0

武士の場合、名前まで継ぐというのはあまりなかっただろうと思います。



なぜなら武士は「自分の手柄が重要」だからで、戦国時代までは必ずしも長兄が家督を継ぐとは限らず、武功があれば次男などが継ぐ、または新たに主君から取り立てられて別の武家になる、ということもあったからです。彼らが継いでいるのは家系と家督(その家系の役職)であったので、名前まで継ぐ必要性はあまりありませんでした。

逆に名前まで継ぐ、のは技術継承が必要な職人や芸能家が多くこれは「一子相伝」の伝統を伝えるために「名前を継いだ○代目が相伝された一子」ということになり、だから陶芸の○代目柿右衛門とか、歌舞伎の○代目市川団十郎ということになるわけです。そしてたとえば落語の三遊亭圓楽のように6代続いているのに、縁戚関係はまったくない、という場合も起こり得るわけです。

>江戸時代265年間武士だったわりに7、8代と少ないです
少ないですが、不思議ではありません。265年を8代で割ると1代あたり33年か34年程度ですから、15歳(しかも数え年だから実際は満14歳)で家督を譲られれば34年で49歳、実際には20歳ぐらいで家督を継ぐとしても34年で54歳程度、当時の平均年齢は50歳程度ですが、これは乳幼児死亡率が高かったためです。

実際には男性でも元服すれば50歳以上生きても不思議ではなく、たとえば徳川家の将軍15代の平均寿命は51歳ですから、武家できちんとした栄養を取れているなら、8代程度で265年続いても不思議はないでしょう。ただ、早世した人がほとんどいなかったと推測できるので、ラッキーな家系であることは確かだと思います。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

お礼日時:2018/12/27 23:52

江戸時代には戸籍簿(侍帳・家中帳・給所帳など分限帳)に、 子供が生まれたら登録しますが、親の名字がそのまま継承され、分限帳に基づいて俸禄が支給されていました。



隠居したら「御隠居(様)」(または「先代」)として区別(旗本など家内では大名と同じく「殿様」でしたから「大殿」「殿」で区別)
長い間の習慣で同じ氏名でもややこしいとは思いませんでした。
幼名:武士が幼児である期間につけられる名前で、元服して諱をつけるまでその名前でいる。
この回答への補足あり
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

お礼日時:2018/12/27 06:36

武士よりも町民が名前を継いだほうが多いのでは、何代目〇〇屋○○とか。

明治時代~になってもその流れはあったのでは。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。確かに町民の間でも氏名世襲は多いですね

お礼日時:2018/12/27 06:34

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q江戸時代の武士の割合

江戸時代、上級武士から下級武士まで徒士階級まで全ての武士身分の人は、どれくらいいたのでしょうか?
それとご先祖が江戸時代、武士だったとはっきりわかる人は、どれくらいいるのでしょうか?

Aベストアンサー

戦前の戸籍には「氏族」と書いてあるので、祖父や祖母の戦前の戸籍が入手できる人なら明白です。

戦後に日本人になった半島出身者を除き昔から居る日本人なら、90%以上の人は祖父の戸籍を取り寄せられるのではないかな。

Qヨーロッパの貴族で女公爵というのは存在しましたか?また、貴族の養子になることってできましたか?養子に

ヨーロッパの貴族で女公爵というのは存在しましたか?また、貴族の養子になることってできましたか?養子になったら、公爵位や伯爵位って継ぐことはできたのですか?回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>ヨーロッパの貴族で女公爵というのは存在しましたか?

存在しました。
例えば、イギリスのマールバラ公爵は初代は男性ですが子供が女性しかいなかったので、ヘンリエッタ・チャーチルが2代公爵になりました。

>貴族の養子になることってできましたか?

出来ました。

>養子になったら、公爵位や伯爵位って継ぐことはできたのですか?

養子に爵位の継承権は原則ありません。

Q西郷隆盛は天才だったのでは?

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の人間だったにも関わらず、弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、日本の進むべき方向性を理解し、今やるべきことをわかっていた人のように感じます。

 そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。

以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?

Aベストアンサー

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
  ↑
ここがポイントです。
西鄕さんが解りにくいのは、私欲に乏しい
からだと思います。
私欲に乏しいから、どういう人間像なのか
把握しにくいのです。
彼ほど解りにくい人物はおりません。



以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能
を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?
 ↑
特別な才能を持っていたのではなく、私欲に乏しかった
ということだと思います。

彼は一度死んでいますね。
あれで私欲を無くしたのでしょう。
私欲が無くなれば、適格な判断が出来るように
なるのです。

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
  ↑
ここがポイントです。
西鄕...続きを読む

Q歴史上、東アジアが世界の中心だったことはあるでしょうか?

人類はアフリカで生まれ、メソポタミアやエジプトで文明を築いた。
最初に大帝国を築いたのはペルシア帝国で、次はギリシャ、ローマ。
そしてキリスト教、イスラム教といった一神教の発展。
それからルネサンス、大航海、宗教改革。
産業革命は西欧で始まり、帝国主義の時代は西欧が世界中を植民地にした。

このように書いていくと、歴史の中心は常に地中海沿岸にあったような感じです。
そして東アジア地域は常に傍流で、歴史学においてはあまり重要視されてこなかったように思いますが、それでは過去数千年の歴史の中で、東アジアが世界の中心だったことはあったのでしょうか?

Aベストアンサー

まず秦という国家。この国の素晴らしい所は、紙に書かれた文書によって命令を伝達し、支配する組織を確立した事です。これにより中間管理職の恣意的な命令改竄ができなくなりました。ヨーロッパでは一部にパピルスが使用されていたものの、国家統治レベルで大規模かつ広範囲に紙が使用されるようになるまで、随分と時間がかかります。

元という国家では、東アジアから中東および東欧までを、モンゴル系の民族が支配し、人や物の交易を盛んにしました。中東から西欧にかけてはローマ帝国の時代に交易ルートが確立していましたので、元の成立をもって、ユーラシア大陸を股にかけた大規模な交易が確立したと言って良いでしょう。(小規模な交易は、その前からありましたよ、念の為)


いずれにせよ、中華文明は、世界全体の GDP の3割程度を常に占める大帝国でした。東アジアが世界の中心だったと言って良い。没落したのは19世紀、欧米の植民地主義に敗けた一時期だけの事です。今、中華人民共和国は再び、世界の中心を占める国家へと復権しつつあります。

Qなぜ、アフリカには、アジアのモンゴル帝国・ヨーロッパのローマ帝国のような巨大な帝国が、現れなかったの

アジアを、モンゴル帝国が制しました。
ヨーロッパをローマ帝国が。
しかし、アフリカを支配する帝国は現れていません。
なぜ、アフリカを統治する巨大な帝国が登場しなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

・アジアやヨーローッパは東西に大陸が伸びていたが、アフリカ大陸は南北方向に伸びているので大陸内でも気候帯が変わり、人が移住し難く伝播もし難い。
・労働量に比してカロリーの高い作物を得られなかった。
・熱帯地方特有の病気。
・乾燥地帯或いは熱帯ジャングルが占める割合が多く、また南北の交通も分断されていた。
上記の理由による巨大な帝国に必要な人口の不足と人口の集中が不足したからです。

Q朝鮮はどうして独立を維持できたのでしょうか。

朝鮮半島を見ていて、いつも不思議に思うことがあります。それは、中国はどうして朝鮮半島を取り込もうとしなかったのか。逆に言えば、朝鮮はどうして独立を維持できたのかという事です。中国が帝国主義であることは紛れもなく、広大な国土に加え、今でも「台湾の独立は認めない」、「チベットの自治は認めない」と言っています。普通に考えれば、朝鮮半島は海に突き出ていて立地条件も良く、何としても手に入れたい土地だと思うのです。独立というのは口で言うほど簡単ではなく、国力がなければできません。力関係で言ったら、朝鮮は中国(清)にとても敵わなかったはずです。朝鮮半島は、かつては百済、新羅、高句麗と三つに分裂していました。なおさら取り込まれ易かったはずです。それを思うと不思議でなりません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉...続きを読む

Q戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。 実際

戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。
実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
普通の声のトーンで話さなかったのですかね?

Aベストアンサー

実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
 ↑
そういう人が多かったと思います。
1,軍議は自己アピールの場でもあります。
 声が大きい方が目立つし、意見も通りやすいのは
 今も同じです。
2,戦国時代の武将の声はとてつもなく大きかった
 と言われています。
 広い戦場で自分の名前をCMするのですから
 大きいことが要求されたのです。



当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
徳川家康は、部下の自由なディスカッションに任せ
それろじっと聞いていて、最後は自分で決める、
そういう軍議をしていたという話があります。
声がでかくないと、主君の耳に入りません。

Q日本100名城の43番が犬山城だそうです。 1番はどこですか? あとどういう理由で順番が付けられたの

日本100名城の43番が犬山城だそうです。

1番はどこですか?

あとどういう理由で順番が付けられたのでしょうか?

Aベストアンサー

この順番は、たとえば規模とか価値とか人気などのランキングではなく、単純に北からの番号です。
1番だからとか43番目だからといった意味はありません。順位ではなく番号です。
No.2のkifimi_gooさんの説明通りです。
従って、1番は一番北にある城で、北海道にあるどれかでしょう。

Q江戸時代の武士は自然石のお墓は作らない?

江戸時代の武士は自然石でお墓を建てた人もいるんでしょうか?
江戸時代の自然石の、お墓でも文字がはっきり彫ってある、お墓はありますけど、自然石って安いイメージがあるので

Aベストアンサー

そもそも、人工石自体が存在しません。
自然石を利用するしかありません…

Q鎌倉時代の正誤問題で 寺社の門前や交通の便利なところで定期市(市)が開かれるようになった。 は誤りだ

鎌倉時代の正誤問題で
寺社の門前や交通の便利なところで定期市(市)が開かれるようになった。
は誤りだとありました。
月に三回、三斎市が開かれていたと思うのですが
何故誤りなのですか?

Aベストアンサー

厳密に言えば、平安末期に酉の市などが開かれていた事例があるので×にしたのではないでしょうか。
定期市は三斎市(10日毎)だけではなく、干支の市(12日毎)もあります。子の市や酉の市は平安時代末期に開催例があります。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング