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世界史を学ぶと1789年のフランス革命は大きく取り上げられますが、1815年から1830年まで続いたルイ18世による復古王政と七月革命、1830年から1848年まで続いたルイ・フィリップによる七月王政と二月革命はサラっと学習するだけで、非常にマイナーな扱いをされています(更にいうとナポレオン三世もマイナーです)。
フランス革命によって王政が打倒され、共和制になったのがいつの間にか元に戻っているので相当な大事件だと思うのですが、どうしてフランス革命の意義ばかり強調され、それ以後のそういった動きは無視されがちなのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 日本を例えに出すのもいいですが、もう少しフランスの当時の事情に基づいて説明いただければ。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/01/02 07:07

A 回答 (2件)

「マイナーな扱いをしている」のは教科書の編集者ですか? その著者が「歴史の大きな流れ」の中で「フランス革命後の王政復古は、歴史の流れが一時的に停止した(停滞した)特に大きな流れのなかった時期だ」と判断しているからなのでしょう。

「優先順位が低い」とされているからでしょう。
そこを詳しく調べたければ、自分で調べればよいのです。

歴史とは、誰の視点から、何を記述したものかを考えないといけません。また、それをどう受け取るかは「学ぶ者の視点」で判断しないといけません。記述が不足していると思ったら、「学ぶ者の視点」で深掘りしないといけません。
(視点の異なる他人に聞いても役に立たないことが多いです)
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分かりやすいからでしょう。


日本だって「敵は本能寺にあり!」や関ヶ原、大阪の陣などは有名でも、その前後の流れはマイナーです。
関ヶ原や小牧長久手の戦いなんて最終決戦地がそこってだけで、本来はもっと広範囲ですし…ね。
この回答への補足あり
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Q日本は過去に女性が天皇になったことが多いのはなぜですか?

過去の歴史において女性が王や皇帝になったことは世界的に少なく、中国は長い歴史の中で1度だけですし、ヨーロッパでも女王が多かったのはイギリスくらいです。

その中で、日本は過去に10人の女性が天皇になっており、これはイギリスの女王と並んで最多になります。
日本の場合、女性天皇は古代から存在しており、それより前に女性君主を立てたのは古代エジプトくらいです。
このように、過去の日本が君主に女性を立てたことが他国と比べ多かったのはなぜでしょうか。

Aベストアンサー

神武天皇から推古天皇までは33人の天皇を選んだのでしょうね。皇統譜を組むときにね。だから神功天皇、飯豊天皇は日本書紀が外したのでしょうね。3が二つ並んで縁起がいいということですね。当時の日本人は語呂合わせが好きだったのでしょうな。
天皇は通常男子が成るのが普通でしたが、ほかになり手がない時は一時的に女子を建てようという政治的意図で女帝が出ただけ。いわば、候補者が決まらぬ時のつなぎ。
あのー、神功天皇とか飯豊天皇を認めるのはいいですが、歴代天皇を数えるときは入ってないですよ。今は125代とか言いますが、あの場合の125代の中に、神功天皇、飯豊天皇の2人は入っていません。日本書紀が外して続日本紀以降、神功皇后だけ歴代に追加したみたいですが、明治になってまた外しましたね。となれば、論じるなら8人の女帝といった方が現実的な気がする。まあ追加してくれるのはありがたいですが、質問者さんは進歩的ですな。
天照大神・卑弥呼は天皇ではありません。天皇は神武天皇に始まるものです。天照大神は神代の神様、まあ実在の人を当てる説もありますがね。卑弥呼は祭主でしょうね。女王にしたのは中国人の史観ですね。

神武天皇から推古天皇までは33人の天皇を選んだのでしょうね。皇統譜を組むときにね。だから神功天皇、飯豊天皇は日本書紀が外したのでしょうね。3が二つ並んで縁起がいいということですね。当時の日本人は語呂合わせが好きだったのでしょうな。
天皇は通常男子が成るのが普通でしたが、ほかになり手がない時は一時的に女子を建てようという政治的意図で女帝が出ただけ。いわば、候補者が決まらぬ時のつなぎ。
あのー、神功天皇とか飯豊天皇を認めるのはいいですが、歴代天皇を数えるときは入ってないですよ。今...続きを読む

Q4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があったのは確実ですか?

4~6世紀というと古墳時代の真っ只中ですが、大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中しています。

古墳は日本全国に散在していますが、大阪府南部の古墳は特に大きく、巨大な権力を持つ者によって建造されたのは確実だと思われます。おそらく全国レベルで影響力を持った者でしょう。

当時は陸上の移動方法が徒歩か馬しかなく、宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われるので、大阪府南部(おそらく大阪市南部か堺市のどこかの場所)に全国規模、狭くても中国地方から東海地方までを勢力範囲とする政権(大和か倭)の首都が存在したと考えてよいでしょうか。

巨大古墳という、これ以上ないほどのその存在を示す証拠があるわけですから。

Aベストアンサー

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが、彼らが大阪南部勢力に従属していた根拠はありません。(敵対していたという記載もあるようです。)
これらの複数地区が全て単一権力の支配下にあったという証拠は無く、ゆるいつながりをもった地方権力の並列性であった可能性もあります。
であれば、単一権力による中央集権制では無く、首都という言葉とはややずれます。

また、「大阪府南部に日本(倭)の首都があった」根拠として、あなたが示されているのは「大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中」という事実と、「宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われる」という推測ですが、後者を裏付ける根拠が必要です。(あえて宮殿から離れた場所に古墳を作った可能性も排除できません。)
上述のような古墳の大阪南部・奈良・岡山と広がる広範な分布は、単一権力大阪南部存在説では説明困難です。

もちろん、「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」可能性はあります。
4~6世紀大型建造物であれば、土台構造物(穴や柱石など)などの遺構が残ります。
それによって、古代都市そのものを確定し、さらには政治形態を確定、首都と定義なども必要で、お示しされた根拠だけを理由に「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」と確定するのはやや無理があるでしょう。

参考までに巨大古墳を20位までお示しします。
5位までに大阪南部が多いことは事実ですが、同時期に岡山にもあり、20位までで考えれば奈良にけっこう後半に分布しています。
この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。

1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵
4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m
5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m
6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m
7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m
9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m
10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m
14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵
15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m
16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵
17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵
18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m
19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵
20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが...続きを読む

Q歴史上、東アジアが世界の中心だったことはあるでしょうか?

人類はアフリカで生まれ、メソポタミアやエジプトで文明を築いた。
最初に大帝国を築いたのはペルシア帝国で、次はギリシャ、ローマ。
そしてキリスト教、イスラム教といった一神教の発展。
それからルネサンス、大航海、宗教改革。
産業革命は西欧で始まり、帝国主義の時代は西欧が世界中を植民地にした。

このように書いていくと、歴史の中心は常に地中海沿岸にあったような感じです。
そして東アジア地域は常に傍流で、歴史学においてはあまり重要視されてこなかったように思いますが、それでは過去数千年の歴史の中で、東アジアが世界の中心だったことはあったのでしょうか?

Aベストアンサー

まず秦という国家。この国の素晴らしい所は、紙に書かれた文書によって命令を伝達し、支配する組織を確立した事です。これにより中間管理職の恣意的な命令改竄ができなくなりました。ヨーロッパでは一部にパピルスが使用されていたものの、国家統治レベルで大規模かつ広範囲に紙が使用されるようになるまで、随分と時間がかかります。

元という国家では、東アジアから中東および東欧までを、モンゴル系の民族が支配し、人や物の交易を盛んにしました。中東から西欧にかけてはローマ帝国の時代に交易ルートが確立していましたので、元の成立をもって、ユーラシア大陸を股にかけた大規模な交易が確立したと言って良いでしょう。(小規模な交易は、その前からありましたよ、念の為)


いずれにせよ、中華文明は、世界全体の GDP の3割程度を常に占める大帝国でした。東アジアが世界の中心だったと言って良い。没落したのは19世紀、欧米の植民地主義に敗けた一時期だけの事です。今、中華人民共和国は再び、世界の中心を占める国家へと復権しつつあります。

Q江戸時代の教養がある人は中国語の読み書きができたのですか?

江戸時代の大名や学者といった教養がある人は、子供の頃に学校に通ったり専属の教師がついたりして、10年以上勉強に励んだと思います。

当時の世界で勉強するといったら和書と漢籍だったはずで、漢籍の学習に充てられた時間も多く、そうだったら当時の大名や学者の大半は中国語の読み書きができたのでしょうか?

Aベストアンサー

中国語というのは、漢文です。漢文は読み下しなどのテクニックが平安時代には確立されていましたので、漢字が読めれば漢文も読めるようになります。これは現在でも同じで、あまり読もうとする人が少ないだけで、現在の中国語も漢文ですので、同様に読み下して読むことができます。機会があればやってみてください♪

そもそも中国語というのは漢文によって統一されているだけで、10以上の異なる言語が存在していると言われています。北京などの言葉が上海で通用しないとか、まったく異なる言葉だとか言われるのは、そういうことです。

Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

Q豊臣秀吉はフィリピンを征服できる力はありましたか?

豊臣秀吉は日本を統一した後の全盛期に朝鮮半島に出兵し、衰退前の明・李氏朝鮮連合軍と戦って最終的に敗退しますが、中国も朝鮮もそれなりの武力を保有した統一国家だったので当然だと思います。

それでは、秀吉が南方に目を向け、例えばスペインの植民地であったフィリピンに出兵したとしたら、征服できるくらいの武力はあったのでしょうか?

60年後には、清に破れて敗退中の鄭成功がオランダに勝って台湾を征服していますが、秀吉は鄭成功より遥かに強大な武力を保有していました。

Aベストアンサー

日本から見て間にある琉球や台湾などに一切手を出さず、いきなりフィリピンに侵攻するのは非常に難しい。
(途中で襲われて人、物、情報の移動が困難になることが予想されるので、普通はそんな遠隔地へ侵攻はしない)
それなのに秀吉がいきなりフィリピンに侵攻すると言い出したら、側近がまず琉球や台湾などを占領してフィリピン侵攻の拠点にすることを進言するだろう。
(それでも秀吉が最初にフィリピンを攻めると言い出したら正気を失ったものとして軟禁される可能性が高い)
で、琉球や台湾などへ侵攻したりしている間に秀吉の寿命が来る。
ゆえに『秀吉は』フィリピンを征服できないと考えられる。

朝鮮や明は日本と比較的共通の文化圏の文明国だから、占領することで豊かになれるという希望が見いだせて諸大名に命令をきく動機づけが可能だっただろう。
しかしフィリピンみたいなよく判らん土地へ侵攻して征服する動機づけが諸大名に対して可能なのか、そこからして疑問。

Q日本人男性が話しかけるとセクハラなのに、外国人男性だとセクハラにならないのはなぜですか?

若い日本人女性が街を歩くと、男性(日本人・外国人問わず)から声をかけられることがあると思います(いわゆるナンパ)。
そういった場合、話しかける内容は多少なりとも性的なものが入り、セクハラと見なされて仕方ないケースがほとんどのはずです(明らかにナンパ待ちの女性もいて、そういう場合は需要と供給の一致ですが)。

でも、日本人女性にその気がない場合、日本人男性に対しては嫌そうな顔をし、セクハラだと主張することもしばしばなのに、外国人男性から声をかけられた場合はなぜか笑顔になり、断る時も笑顔でごめんなさいと言うのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

まじめな話をすれば、コミュニケーションがとれない相手には
笑顔という盾で防御しているだけ。
日本人に嫌な顔をするのはコニュニケーションが取れている証拠。

Q江戸時代にスペインやオランダが、日本に対して低姿勢だったのはなぜですか?

江戸時代前期というとスペインやオランダが強かった頃であり、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを植民地とし、原住民に対して過酷な収奪をやっていました。
しかしながら、日本に対しては一切手を出さず、徳川幕府がキリスト教を迫害しても文句を言わず、オランダに至っては貿易は出島のみ、それもキリスト教を布教しないという条件でようやく認めてもらっている有様です。

このように、江戸時代の世界の覇権国とも言えるスペインとオランダが、なぜか日本に対しては強いことを言えず、低姿勢に徹したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
そもそもですが、一定レベル以上の文化、文明が
既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
時代です。
鉄砲の数も世界一、と言われたほどです。

植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
という判断が働いたのでしょう。

Qアジアでは西洋から最も離れた日本で最初に近代化が始まったのはなぜでしょうか?

アジアにおける最初の近代化は、言うまでもなく日本の明治維新です。
でも、西洋から最も離れた位置にある日本において、最初に近代化が始まったのはなぜでしょうか。
普通に考えたら、西洋から比較的近い場所にあるトルコやイランで最初に近代化が始まってもおかしくないと思うのですが。

それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

Aベストアンサー

>それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

その通りです。近代化する下地が日本にあったからです。そして日本以外の「半文明国」にはその下地はありませんでした。


大きな理由は二つあります。

①国民国家としての下地が、もともと日本人に備わっていた。
②近代国家を成し遂げてくれる、偉人に恵まれた。




①の説明

トルコやイランは国民意識の統合に躓きましたが、実は、欧米でも国民国家としての意識統一はかなり時間が掛かっています。イギリスですら300年ほどかけて、イングランド人もスコットランド人もウェールズ人もアイルランド人も「先祖の時代からイギリスで生まれ育ったのだから、我々は同じイギリス人だ」という国としての国民意識の統合に時間をかけて行いました。
この、「私は○○人だ」という今では当たり前の国意識は、近代国家になる上では重要です。

これにはどこの国でも時間が掛かりました。自分のペースで国民国家になれたヨーロッパとは違い、「半文明国」は、列強の外圧によって短時間で国民国家にしなければならないため、当然のごとく多くの国が失敗します。



日本が何故、世界で唯一このように短時間で国民国家を成し遂げたかというと、そもそも「とっくの昔から日本人としての国民意識は統合されていた」からです。

日本人の国民意識の統合が完成されたのはかなり昔で、聖徳太子の時代からです。白村江の戦いに破れ、防衛線を張ったのですが、聖徳太子がもしも、九州の人員だけしか、防衛戦力に動員できなかったら、日本は他の国と同じような状態だったでしょう。しかし、聖徳太子は関東などの日本全国から人員を動員しました。これは現在で言う国民国家の動因と同じです。聖徳太子の優れた才覚によって、「九州の海岸防衛の問題は日本の問題。だから関東人も皆日本人として防衛すべき」という、日本人としての共通の意識を完成させたからこそ、全国から動員することが出来ました。この時に、日本人の国民意識の統合は完成されました。


その後は、天皇と言う存在が日本人の統合の象徴となりました。地方によって言葉が通じなくとも、天皇と言う存在が統合の象徴となり、日本人の国民意識の統合は継続されていきます。

そして、嵯峨天皇以降は、天皇が日本を直接統治するのではなく、適切な者にその統治権を委任すると言う形をとりました。幕府がそれに該当します。鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府など、いろいろな幕府がありますが、これは委任統治です。戦国時代は委任統治権の争いであって、「王」になるための争いではありません。

近代化に絶対必要な要素である国民国家ですが、その下地がそもそも日本では聖徳太子の時代からはぐくまれていたので、明治維新で鮮やかな国民国家による近代国家を誕生させる事ができました。




②の説明。

どんなに近代国家になれる下地があっても、実際に近代国家を成し遂げる者が誕生しなければ達成されません。
日本の場合、その幕末の偉人が誕生した事が幸運でした。


実は、幕末の江戸幕府も、近代国家にしなければ滅びるのは分っていましたし、当時の江戸幕府は「無能」と言うイメージが世間にはありますが、実はかなり優秀でした。他の「半文明国」とは違い、江戸幕府は徳川吉宗の時代から、白人の危険性を理解した上で欧米研究をしていたため、欧米の国際状況、植民地の現状などもかなり正確に現状を理解していました。そして、幕府の官僚たちは、何をすべきか分っていました。

しかし、これまでのシガラミのせいで出来ませんでした。そのシガラミを跳ね除けて近代化を達成した者が、大久保利通です。

はっきり言って、大久保利通がいなかったら明治維新はありえません。勿論、高杉晋作や伊藤博文やそれ以外の多くの偉人の功績も大きいですが、大久保利通がいなければ彼らがあのような行動を起こす事もありません。


しかも、大久保利通は、当時では誰も相手にされない小物でした。


幕府の官僚も、徳川慶喜も、近代化しないといけないことは知っていました。しかし長年のシガラミのせいで出来ませんでした。やらなければならない事はわかっているが、それが出来る人が誰もいませんでした。大久保利通以外は。

日本には、彼のような偉人に恵まれたので、明治維新が誕生し、もともと、国民国家としての日本人と言う民族意識が日本中の人に養われていたので、近代化に成功しました。





①も②も、どちらかが抜けていたら、日本の近代化は失敗していたでしょう。




勿論、「日本人は勤勉だった」「原理主義的な宗教価値観がなく、外国の知識であっても優れていれば素直に取り入れた」「寺子屋なので、学問の素養が広く行き届いていた。そのため識字率は欧米よりも高かったと言う説もある」「昔の日本は農業国と思っている人がいるがそれは誤り。多くは兼用農家。工房が盛んで日本は昔からアジア有数の工業国であった。だからこそ戦国時代では鉄砲を自国生産してその保有量が世界一になったり、明治維新の近代化を成し遂げる事ができた。」なども、近代化の成功の要因かと思います。






>西洋から比較的近い場所にあるトルコやイランで最初に近代化が始まってもおかしくないと思うのですが。

近代化が始まったのは日本よりトルコが先です。そして、近代国家に必要な憲法の運用をトルコがしたら2年で停止する羽目になり、見事に近代国家に失敗しました。

伊藤博文が日本にも憲法(大日本帝国憲法を悪法だと思っている人がいますが、当時では世界各国から絶賛されました)を導入すると欧米人に言ったら、「トルコでも失敗しているのに無理でしょ(彼は日本を馬鹿にしたつもりはない。心配してあげただけです)」と言われたそうです。

そして、憲法を運用したら、見事政権交代。伊藤博文は野党になります。しかしそれでもトルコのように憲法停止はしませんでした。そして正当な選挙によって与党に帰り咲きました。

近代化が始まったのは日本が最初ではありませんが、近代化に成功したのは欧米以外では日本が最初です。

>それとも、日本では江戸時代までに近代化に入れる下地が出来ていて、そのために西洋の文明を迅速に吸収できたということでしょうか。

その通りです。近代化する下地が日本にあったからです。そして日本以外の「半文明国」にはその下地はありませんでした。


大きな理由は二つあります。

①国民国家としての下地が、もともと日本人に備わっていた。
②近代国家を成し遂げてくれる、偉人に恵まれた。




①の説明

トルコやイランは国民意識の統合に躓きましたが、実は、欧米でも国民国家としての意識統一はかな...続きを読む

Q英語ではどうしてMissとMrs.を区別しているのですか?

最近でこそMs.という言葉を使うようになってきましたが、少し前までは女性の敬称をMissとMrs.のどちらかで呼び、未婚か既婚かで区別するのが普通でした。フランス語でもマダムとマドモアゼルという使い分けをする(した)ようです。

日本語では昔からこういった使い分けはしてこなかったのでよくわからないのですが、英語やフランス語では少し前まで厳格に使い分けをしていた理由を教えてください。

Aベストアンサー

こんばんは。

>英語やフランス語では少し前まで厳格に使い分けをしていた理由

『足長おじさん』に出てくる管理人のおばさんは、Miss と呼んでくれと、(Miss Joanna Sloane ) くどく言いますね。 Mrs. というのは、結婚をしているということですが、英米の社会では、それは絶対的なものだったろうと思うのです。女性にとって結婚していることは、ある意味ではステータスであり、また、結婚せずに独身の場合は、結婚の意思を持っているということで、聖書の教えに従っているからではないでしょうか。中には、Ms.と呼ばれるのを嫌う女性もいます。その時は、だいたいは、Mrs.○○だと名乗ってきます。フランス語の、Madam というのは、結婚しているかどうかは関係がなく、女性一般の敬称だと思います。

日本では、だいたい、ある程度の年齢になれば、「奥さん」と呼ばれますし、まず、未婚でも否定することはありませんね。しかし、「おねーさん」と呼ばれれば、もしかして、自分は水商売系に思われているのかなって、また、「昔のお嬢さん」って呼ばれて悪い気はしないけれども……。

こんばんは。

>英語やフランス語では少し前まで厳格に使い分けをしていた理由

『足長おじさん』に出てくる管理人のおばさんは、Miss と呼んでくれと、(Miss Joanna Sloane ) くどく言いますね。 Mrs. というのは、結婚をしているということですが、英米の社会では、それは絶対的なものだったろうと思うのです。女性にとって結婚していることは、ある意味ではステータスであり、また、結婚せずに独身の場合は、結婚の意思を持っているということで、聖書の教えに従っているからではないでしょうか。中には、Ms....続きを読む


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