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現代文で『身体〈の〉疎外』を勉強しています。

形式段落④の「近年では、癒しや呼吸、スローライフなど、生命体、生物体として、環境の中に存在している私という身体的側面に目を向けなければ、にっちもさっちもいかなくなるという状況が生じてきた。」という文章の意味が全くもって理解できません。

デカルトは「精神=私」と考えているのに対し、少しずつ時代が「身体=私」になってきて、神経系と身体性の齟齬が起きたこと、までの把握はできています。

上記の文は、「私の存在=身体で感じる」ということでしょうか?

A 回答 (1件)

以下、1つの意見として。


正しいか正しくないか、ということより、1つの考え方(発想の転換、とでも言えば良いでしょうか)として参考にしていただければ幸いです。

まず、疎外感を感じるときはどんなときなのか、と考えてみれば良いのではないか、と思います。
自分自身(自己)は、早い話が、宇宙の一部でもありますよね。
ですから、全体の中に存在しているわけで、内と外とを持っている存在でもありますね。
このとき、内(自己)から外に対して働きかけていったり、あるいは、外から内へ働きかけ・影響を受けたりする存在でもあるので、当然、外(環境)とのかかわりを持って存在しています。

つまり、ここで、自己と外との関係性を考えてゆくわけです。

次に、その関係性とは、と考えてゆきます。
精神・心理面でのかかわりもあれば、肉体・身体面でのかかわりもあるはずです。
自己は、対人コミュニケーションによって自他ともに精神・心理に影響を及ぼす存在でもありますし、肉体・身体的な活動が自他ともに影響を及ぼす存在でもあります。

要は、自分の行動(身体的活動)が周りの環境に影響を及ぼしてしまう、ということもある、ということ。
もっと言えば、だからこそ、環境の中に存在する自己、という自覚を持たなければ、心も身体も、逆に、環境から影響を受けてしまうのだ、ということ。
影響が多大であれば、相互に対等なかかわり合いができないので、つまりは「身体の疎外」ということになるということ。
そういうことだと思います。

かかわりあいが対等なものとなっていなければ、自己の無力感にさいなまされてしまうでしょう?
そのこと自体が「疎外」となってしまうのだと思いますが、いかがでしょうか?

以上のように、「自己の存在を身体で感じなければならない」というよりも、「自己は、環境に影響を受ける身体であり、また、環境に対して大きな影響を与える存在でもある。そのことを意識しなければならない。」ということを伝えようとしている文章なのだ、と理解したほうが良いのではないか、と思いました。
(地球温暖化を防ぐための二酸化炭素等排出量の国際的コントロール「京都議定書」などが良い例)
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