グッドデザイン賞を受賞したウォーターサーバー >>

1. 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。という趣旨でその当否を
問います。

2. 日本人が良し悪しの問題のほかに善悪論をあつかわなければ哲学にな
らないとすれば 《悪は存在しない》という命題を西欧哲学に倣って措定す
るでしょうか。

3. ただし なるべく神論から自由に考えたい。

4. つまりたとえば 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?
と問う。

5. いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義
をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 
或る程度は決め合うことができるのではないか?


6. いで立ちを別にしつつ 悪の定義は 《善の欠如( privatio boni )》
なる命題を踏まえたい。


7. 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い 
この存在つまり人間存在ないしいのちを〔色をつければ よく〕保ち守るこ
とを言うのではないか?

8. その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 
心について人と話し合いができるということではないか?

9. 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷つい
たその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為
を言うのではないか?



10. コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない
続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させる
という場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではない
か?

10-1. 発言はやめないが 実質的に心〔の関係〕を閉じている状態を
《押し籠もり》と言う。

11. 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場
でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わ
なければならないか?

12. この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは お
そらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主
張に固執して話をすすめる場合ではないか?

13. ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?



      *


付録:善悪論のあらましを述べます。

§1 善でも悪でもないものごと

14. たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかと
いう選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気をつければ手で
食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。

15. あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ない
でしょう。
 
16. クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判
断とは関係ないと思われます。

17. 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うか
とも思います。
 

§2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。

18. 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》
の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同
主観が成り立つと考えられる。すなわち:

19. すなわち善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうこ
とは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。

20. たとえばウソをつくこと。これが 善を損ねることであり その損
傷行為を悪と名づける。
 
20-1. ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がし
どろもどろになったりする。これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとして
も。つまり別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることでは
ない。ただ隠すすべをこしらえただけである。

20-2. そういう共通の感覚(センスス・コムニス)が観察される。ヤ
マシサ反応は ひとがその意志で起こすものではなく いわゆる良心の成せ
るわざであろう。

21. このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるい
はイツハリあたりにあるのではないだろうか。
 
22. きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心 プラス α
としての良心やヒラメキ ――の動きは うまれつき備わった自然本性として
人間に共通であると推し測られる。ゆえに共同主観(コモンセンス)。


 
§3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか

23. 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主
観の基礎としての身つまり全体として存在じたい これも――それがなけれ
ば 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。

24. つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここ
に社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしをとうとびうやまい
合うこと あるいは 共に生きること これが善であるとなる。

25. 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるとい
うのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心であ
る。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじると
いう基礎的な意味内容である。

26. 悪の事例としては 《押し籠もり》(10-1)を提起しました。

質問者からの補足コメント

  • 趣旨説明が長すぎる場合には 次の問いに答えてください。

    問い: ~~~~~~~

    悪というものは存在しない。
    存在するのは 善のみ。
    この善を損ない傷つけることが 現象としてあるのみ。
    この善の損傷を かんたんに悪と呼ぶ。

    どう考えますか?
    ~~~~~~~~~~~

      補足日時:2019/01/06 13:23

A 回答 (15件中1~10件)

はじめまして。


性善説、性悪説は昔からの論点で、、、
いまだに決めつけないのですが、、

善悪について、、、
電磁波、超音波、赤外線、放射線、圧縮空気などを応用・武器化し
隠れて長期間にわたり、ターゲットの人の頭、目、胸、手足、ひざ、背中、腰などを
攻撃し心身障害者にさせてる、
魂もプライドもないゾンビ、怪物、サイコパスである、
テクノロジー犯罪、集団ストーカーのことを思い、被害者たちは、
本当に性悪説を信じるようになりますが、、
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この回答へのお礼

こんにちは。ご回答をありがとうございます。


★ サイコパス
☆ これには 往生しますね。

★ 性善説、性悪説は昔からの論点で、、、
いまだに決めつけないのですが、、
☆ ただ 性悪説は 原罪説とも違うようですね。(原罪説も それはイエス
によって贖われたと言いますし)。

▲ (ヰきぺ:性悪説) ~~~~
荀子:「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」

ここで言う悪とは、「(人間は様々な意味で)弱い存在」という程度の意味で
あり、「悪=罪(犯罪あるいは悪事)」という意味では無い(「弱い存在」で
ある人間が、犯罪や悪事に手を染めずに一生を終える、という事もありうる)。

また、偽とは、「人の為す行い」という程度の意味であり、「偽=嘘あるいは
偽物」という意味ではない(・・・)。
~~~~~~~~


★ ~~~~~
電磁波・・・を応用・武器化し
隠れて長期間にわたり、ターゲットの人・・・を
攻撃し心身障害者にさせてる、
魂もプライドもないゾンビ、怪物、サイコパスである、
テクノロジー犯罪、集団ストーカーのことを思い、被害者たちは、
本当に性悪説を信じるようになりますが、、
~~~~~
☆ 甘えすぎつづけて気が違ってしまった人たちや 覇道しか道がないと決め
つけている人たち。かれらも ゾンビに近い存在なんですけれどね。

お礼日時:2019/01/17 10:19

お礼をいただきまして、ありがとうございます。



>ないのですか?
ないでしょう。
神は全能であり、絶対だから間違いは起こさない。だから、アラビア語が神の言葉であることは相対化する必要もないです。
全能である神がアラビア語とヘブル語が同じだと考えられたとしたら、2つの言語で伝えられたでしょう。しかし、アラビア語しか選ばれなかったのは、それが神の言葉であるからです。
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この回答へのお礼

――ということを信じない。という立ち場があります。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/01/11 22:49

お礼をいただきまして、ありがとうございます。



>まったく《同じひとつの》神です。
>アラブ人は アブラハムの子のイスマイルの子孫です。
そうです。

>アブラハムとイブラヒームとで どちらかが訛って発音しているからと言って それは《近しい》どころか 同じひとりの人間です。そしてその子孫です。
その事と「アラビア語が神の言葉」である事に何か関係があるのでしょうか。

>自分の信仰に使われている言語を 相対化してみることの問題です。
どうして、相対化する必要があるのでしょうか?。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >自分の信仰に使われている言語を 相対化してみることの問題です。
★ どうして、相対化する必要があるのでしょうか?。
☆ ないのですか?

お礼日時:2019/01/11 22:20

お礼をいただきまして、ありがとうございます。



>SaLaaM と SaLooM とは 同じ語だと言ってよいでしょう。親戚どうしです。なぜ 独り善がりの判断だけで よいのでしょうか?
近しい言語であっても、違うのであれば、別物です。韓国語と日本語は近しい言語ですが、だからと言って、祝詞を韓国語で唱えて良いとはならないでしょう。

>外部に対して みとめよ! と言うのでしょうか? ならば 証明しなさい。
>外部に対しては 人間が間違いを犯そうとしているのです。
みとめよ!と強制しないです。ただ、イスラムの倫理、価値観、世界がありますから、歩み寄れないです。
コーランが不完全だと批判するのは、神を冒涜し、信徒を迫害する行為になります。それは、許されないので罰するしかないです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 近しい言語であっても、違うのであれば、別物です。韓国語と日本語は近しい
言語ですが、だからと言って、祝詞を韓国語で唱えて良いとはならないでしょう。
☆ けれども ムハンマドの神は アル・イラーハ(⇒アッラーフ)であり ユダ
ヤのは ハー・エローホ(実際には複数形のエローヒーム)です。

そして どちらも アブラハム(=イブラヒーム)の神です。これは 《近しい》
のではなく まったく《同じひとつの》神です。

アラブ人は アブラハムの子のイスマイルの子孫です。

アブラハムとイブラヒームとで どちらかが訛って発音しているからと言って そ
れは《近しい》どころか 同じひとりの人間です。そしてその子孫です。




☆☆ >外部に対して みとめよ! と言うのでしょうか? ならば 証明しなさ
い。
☆☆ >外部に対しては 人間が間違いを犯そうとしているのです。
★ みとめよ!と強制しないです。
☆ 《強制》の問題ではありません。自分の信仰に使われている言語を 相対化し
てみることの問題です。

★ ただ、イスラムの倫理、価値観、世界がありますから、歩み寄れないです。
☆ 問題を特定しています。

★ コーランが不完全だと批判するのは、神を冒涜し、信徒を迫害する行為になり
ます。それは、許されないので罰するしかないです。
☆ 問題を特定します。

お礼日時:2019/01/11 18:03

お礼をいただきまして、ありがとうございます。



>クルアーンないしその信仰の外では ではどのようにして 《アラビア語が神の言葉である》と言えるのか? 証明が必要ではないでしょうか?
言えないでしょうし、証明できないでしょう。そして、証明する必要もないでしょう。

>《シャローム ! (平和を!)》というのも 神の言葉になりますか? 《ハロー!》とか《こんにちは》や《お元気ですか》はどうですか?
ならないです。

>アラビア語だけが 特殊だというものですか?
「アラビア語が神の言葉」というのは議論する必要もないです。神は絶対ですから、間違いを起こすことはないです。
神が世界の諸言語の中からアラビア語を選び、天使を通じて預言者に伝えた、という真実が全てを物語っています。

>人間の言葉は 相対的なものであり 《偶像》ではないでしょうか?
神が間違いを起こした。とでも、言われるのでしょうか?。
それはあり得ないですし、コーランは古典アラビア語で書かれ、朗唱されます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >クルアーンないしその信仰の外では ではどのようにして 《アラビア
語が神の言葉である》と言えるのか? 証明が必要ではないでしょうか?
★ 言えないでしょうし、証明できないでしょう。そして、証明する必要もない
でしょう。
☆ では 信仰の内部では 《アラビア語の特殊性》がみとめられたとしても
外部の一般には 無理ですね。なぜ 外部のわれわれに対しても:
★ 証明する必要もないでしょう。
☆ となりますか? 解せません。


☆☆ >《シャローム ! (平和を!)》というのも 神の言葉になりますか? 
《ハロー!》とか《こんにちは》や《お元気ですか》はどうですか?
★ ならないです。
☆ SaLaaM と SaLooM とは 同じ語だと言ってよいでしょう。親戚どうしです。
なぜ 独り善がりの判断だけで よいのでしょうか?


☆☆ >アラビア語だけが 特殊だというものですか?
★ 「アラビア語が神の言葉」というのは議論する必要もないです。神は絶対です
から、間違いを起こすことはないです。
☆ だとしても サラームとシャロームとのあいだで差別するのは 解せません。


★ 神が世界の諸言語の中からアラビア語を選び、天使を通じて預言者に伝えた、
という真実が全てを物語っています。
☆ 証明してください。


つまり 信仰としては 信教・良心の自由において そのままみとめられます。し
かし それは内部にとどまります。外部に対して みとめよ! と言うのでしょう
か? ならば 証明しなさい。


☆☆ >人間の言葉は 相対的なものであり 《偶像》ではないでしょうか?
★ 神が間違いを起こした。とでも、言われるのでしょうか?。
☆ 外部に対しては 人間が間違いを犯そうとしているのです。


★ それはあり得ないです
☆ つまり 間違いを犯すのは 人間です。それはあり得ません。してはなりませ
ん。


★ し、コーランは古典アラビア語で書かれ、朗唱されます。
☆ ヘブル語も 同じようにふるいものです。

お礼日時:2019/01/11 15:29

お礼をいただきまして、ありがとうございます。



>《共同自治》の問題になるかと思います。《独裁》は困ります。
はい、困ります。

>アラビア語が 神の言葉であるとされているが 言葉はどの言語にしても偶像(移ろいゆく仮りのもの)ではないだろうか?
それは、コーランへの冒涜になりますから、議論する相手ではなくて、敵対者になってしまいます。コーランに「アラビア語が神の言葉」とある以上、「神の言葉」です。
>クルアーンもやはり人間の言葉で話されたし書かれている――のではないだろうか?
コーランそのものが神の奇跡と考えがある以上、コーランを人間が作ったものという考えは通用しないでしょう。

我々が考えるような疑問や教義の齟齬は、1,000年以上もイスラム法学者の中で話し合われ、決着ついたものですから。議論で勝つことはできないです。コーランは「絶対に正しい」という前提を疑う者は議論を交わす相手でなく、異教徒(滅ぼす敵)となり、その前提を受け入れる者に対しては1,000年以上も錬られた理論があるので説得は不可能です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >《共同自治》の問題になるかと思います。《独裁》は困ります。
★ はい、困ります。

☆☆ >アラビア語が 神の言葉であるとされているが 言葉はどの言語
にしても偶像(移ろいゆく仮りのもの)ではないだろうか?
★ それは、コーランへの冒涜になりますから、議論する相手ではなくて、
敵対者になってしまいます。コーランに「アラビア語が神の言葉」とある
以上、「神の言葉」です。
☆ それは 《信仰》として個人の主観における特殊絶対性を成すとは思
われます。ということは 《特殊》なあり方であるはずです。

哲学は 普遍性を問い求めます。クルアーンないしその信仰の外では で
はどのようにして 《アラビア語が神の言葉である》と言えるのか? 証
明が必要ではないでしょうか?

☆☆ >クルアーンもやはり人間の言葉で話されたし書かれている――の
ではないだろうか?
★ コーランそのものが神の奇跡と考えがある以上、コーランを人間が作
ったものという考えは通用しないでしょう。
☆ 信仰の内部での――良心・信教の自由にもとづくところの――見解だ
と思います。

アッサラームアライクム( the peace with you ! )のサラーム(平和・
安寧)は ヘブル語のシャロームと同じ言葉です。(どちらかが少し訛っ
ています)。

ならば 《シャローム ! (平和を!)》というのも 神の言葉になりま
すか? 《ハロー!》とか《こんにちは》や《お元気ですか》はどうです
か?

★ 我々が考えるような疑問や教義の齟齬は、1,000年以上もイスラム法
学者の中で話し合われ、決着ついたものですから。
☆ どう結着がつきましたか? アラビア語だけが 特殊だというもので
すか?

★ 議論で勝つことはできないです。コーランは「絶対に正しい」という
前提を疑う者は議論を交わす相手でなく、異教徒(滅ぼす敵)となり、そ
の前提を受け入れる者に対しては1,000年以上も錬られた理論があるので
説得は不可能です。
☆ 人間の言葉は 相対的なものであり 《偶像》ではないでしょうか?

お礼日時:2019/01/11 05:18

こんにちは、ぶらじゅろ~ぬさん。




10年近く前に「ニンゲンには何故ワルモノが必要なのですか。」
という質問をしたことがあります。


相変わらず「ワルモノ」は必要だと思ってゐます。
電柱がワルモノにされて蹴飛ばされたり、
100円の皿がワルモノにされて割られたりします。


しかしその質問の中で「ワルモノ」=「悪」ではない、
とyukkin66さんが教えてくれました。

___________


ときどき【ま】が違うのは、
善意と善意がたまたま交差すること無く
すれちがったのでしょうね。
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この回答へのお礼

いや そのお考えは この質問にとっては マが違うとは思います。

ご回答をありがとうございます。

悪というものが 善と同じように 存在するとは見ない。
と同時に 善を損ない傷つけるという意志は 起きてることがあっ
て その行為が現実に現象するとも言おうとしています。

もし表現として悪という言葉をすでに前提した場合には 善――存
在や生命やそれを守る心などなど――を損なう意志というのは悪意
です。

そしてこの悪意を催しおまけにそれを実行するとしたら それは誰
の所為か? 何の所為でやってしまったか? を問題にすることと
は 別だと思うのです。

悪意は実際に起きるが それは 善を傷つけるという意志であり 
善のほかに善に対立するようなものとしての悪が 別に存在してい
るのではない。――こういう見方をめぐっての問い求めです。

お礼日時:2019/01/07 19:11

お礼をいただきまして、ありがとうございます。



>存在や生命を大事にすることは 揺るぎないものだと思いますが
そうですね。それは絶対に譲れないものだと思います。
だから、それを損なう存在、認識、思考は許されず、悪として対処する必要があるでしょう。

>一定のまとまった集団としての社会にとって その内外の考え方については いま先ほど考えたように つねに風通しをよくしてその思想を練って行くとよいと思います。
おおむね、同意します。ただ、風通し良くして「共通の文化」というのが更新され易いものになれば、集団の中から更新された善についていけず、悪へ転落する者もあらわれるでしょう。
それを防ぐために、善の変化は遅く、少ない方が良いと思います。

>イスラームなる社会と文化に対しては 違いが大きいですから その差異を互いにしっかりと受け留め合って行くことでしょうか。
「互いに」は重要だと思いますが、質問本文にある「《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる」というのが、それらの集団です。
なので、イスラムと非イスラムの場合に、歩み寄るのは常に非イスラムであり、イスラムは歩み寄らない(寄れない)です。

>伝統的なことですから だいたいそういった民主的な判断や取り決めを経て 対処することになると思います。
不十分だと感じます。常識を損なう存在を「民主的な話し合い」で対処しても、最初から話し合いできない、取り決めを守らないですから。

悪への対処は、古来から続く手法が一番効果があり、確実です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >存在や生命を大事にすることは 揺るぎないもの
★ そうですね。それは絶対に譲れないものだと思います。
だから、それを損なう存在、認識、思考は許されず、悪として対処する必
要があるでしょう。
☆ 基本であり根幹なのだと思います。

☆☆ >一定のまとまった集団としての社会にとって その内外の考え方
については・・・つねに風通しをよくしてその思想を練って行く
★ おおむね、同意します。ただ、風通し良くして「共通の文化」という
のが更新され易いものになれば、集団の中から更新された善についていけ
ず、悪へ転落する者もあらわれるでしょう。
それを防ぐために、善の変化は遅く、少ない方が良いと思います。
☆ ということは 《共同自治》の問題になるかと思います。《独裁》は
困ります。

☆☆ >イスラームなる社会と文化に対しては 違いが大きいですから 
その差異を互いにしっかりと受け留め合って行くことでしょうか。
★ 「互いに」は重要だと思いますが、質問本文にある「《我れは神を見
た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をす
すめる」というのが、それらの集団です。
☆ じっさいその傾向が強いです。

★ なので、イスラムと非イスラムの場合に、歩み寄るのは常に非イスラ
ムであり、イスラムは歩み寄らない(寄れない)です。
☆ 確かにきびしいようです。イスラームの場合には 偶像禁止の件で話
を入れるのがよいかと。

アラビア語が 神の言葉であるとされているが 言葉はどの言語にしても
偶像(移ろいゆく仮りのもの)ではないだろうか? そしてクルアーンも
やはり人間の言葉で話されたし書かれている――のではないだろうか?と。

☆☆ >伝統的なことですから だいたいそういった民主的な判断や取り
決めを経て 対処する
★ 不十分だと感じます。常識を損なう存在を「民主的な話し合い」で対
処しても、最初から話し合いできない、取り決めを守らないですから。
☆ これは きれいごとのコメントしか出ません。気長に永い目で見て行
くことと実害が出たら取り決め(法律)で対処することです。

★ 悪への対処は、古来から続く手法が一番効果があり、確実です。
☆ かも知れません。あるいは 更生を積極的に目指す方法があたらしく
持たれつつあります。

お礼日時:2019/01/06 14:40

善悪の定義は正しいと思います。


ようするに、共通理解、共通認識、共通知識がある集団にとって悪は、それ以外の存在であったり、あるいは様々な事情で認識や理解に齟齬がある存在だということですね。
「善を損ない傷つける」というのは、話し合いが行える前提条件である共通の言語、習慣、文化、倫理がない者たちを意味すると考えて、良いでしょうか?。

であるなら、多数派の善を損ない傷つける負の善である少数派を、悪と呼ぶので正しいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 善悪の定義は正しいと思います。
☆ やっと かみ合った回答を得ることが出来ました。謝謝。

そして 賛同をありがとうございます。

★ ようするに、共通理解、共通認識、共通知識がある集団にとって
悪は、それ以外の存在であったり、あるいは様々な事情で認識や理解
に齟齬がある存在だということですね。
☆ そうですね。その集団だけで決めつけてはいけないでしょうが。

つねに――と言っても 存在や生命を大事にすることは 揺るぎない
ものだと思いますが―― 内外の意見や思想を受け容れ 主観の共同
性を見つめ直して行くとよいのだと思います。



★ 「善を損ない傷つける」というのは、話し合いが行える前提条件
である共通の言語、習慣、文化、倫理がない者たちを意味すると考え
て、良いでしょうか?。
☆ 一定のまとまった集団としての社会にとって その内外の考え方
については いま先ほど考えたように つねに風通しをよくしてその
思想を練って行くとよいと思います。

そしてまた 互いに《共通の文化や思想》を 出来るところでは 形
成してあゆむこと。これが よいと思います。

たとえばイスラームなる社会と文化に対しては 違いが大きいですか
ら その差異を互いにしっかりと受け留め合って行くことでしょうか。



★ であるなら、多数派の善を損ない傷つける負の善である少数派を、
悪と呼ぶので正しいと思います。
☆ 常識――コモンセンス(共同主観)――というのは 一般に《多
数派》であり 伝統的なことですから だいたいそういった民主的な
判断や取り決めを経て 対処することになると思います。

お礼日時:2019/01/06 13:59

引用=====


つまり 問い:

悪というものは存在しない。
存在するのは 善のみ。
この善を損ない傷つけることが 現象としてあるのみ。
この善の損傷を かんたんに悪と呼ぶ。

どう考えますか?
引用おわり=====

ずっと禅問答してたんですね。
単純化されてやっと気づきました。
悪をどう考えるか?
よく分かりません^^;
いままで何も考えず惰眠貪る人生でしたので^^;
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 禅問答
☆ はお得意ではないのですか?



〇 悪は 存在しますか? 存在しませんか?

お礼日時:2019/01/06 13:45

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Qブロック

ブロックされた。
はじめて。

私はアホな質問に真面目に皮肉で答えた。

当人は真面目な質問にアホが答えたと思ったらしい。

天国か!

そこで、私と質問者双方に一言コメントお願いします。

なお当質問ではお礼はいたしません

Aベストアンサー

ん~ブロックなんて日常茶飯事なんで
気にも留めてませんね
まぁ人はアフォじゃないんで皮肉や馬鹿にしてる文章は
理解できます(その奥に隠されてる真意は理解しにくいですがね)

所詮、貴方も哲学者もどきのかまってちゃんだったのね
ってこの質問みて思ったくらいですね

Q死後の世界をどう解釈しますか?

質問を2つに分けました。

1.天国へ行くなどというのは人間の希望的な創作であり、
なんの根拠も証拠もないですよね。

2.輪廻転生が有ると仮定して、どんな動物か昆虫になるかわかったものではないですよね?

1億年後に転生したとしても時間感覚は0秒以下にしか感じないと思います。
なぜならば、一億年前の過去から今生まれるまで一億年も経ったような気がしません、生まれてなかったからですか?
睡眠はだいたいの時間感覚が分かるのに、死んでる時間は(無)なので0秒ですよね。

俺たちには一体何が起きていると思いますか?
この世知辛い世の中もハッピーなのでしょうか?

Aベストアンサー

1.天国へ行くなどというのは人間の希望的な創作であり、なんの根拠も証拠もないですよね。

人間が生きた証は、痕跡として過去に残ります。
だから、良い表象を持てた人は、その痕跡を過去に残すので、決して書き換えることができない天国になります。

2.輪廻転生が有ると仮定して、どんな動物か昆虫になるかわかったものではないですよね?

輪廻転生とは、生き物の日々の新陳代謝のことです。
私たちの体の細胞は常に死んでいる。けれども、DNAによる情報によって新たに生まれてもいる。
人間の臓器はお互いに情報を交換している。

また、人間の排泄物である有機物、水、空気も、他の生き物のDNAによる情報によって活かされている。

死後の世界とは未来のことであって、そこには、過去に自分であった物を活用している無数の進化した何かが存在している。

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q予め喪われている自明性

正直自分でも何を訊きたいのか明確ではありません。何を言っているのかわからんという人はそのままお通りください。親切な人の気まぐれなお付き合いを希望しての投稿です・・・

精神病理学者木村敏の著作のなかで、彼の「分裂病」(70年代当時)の患者が、主治医である木村氏に言った言葉が強く印象に残っています。
それは
「皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」

ところで、今のわたしの感覚を正確に表現すれば、この患者とは正反対で、

「自分が皆と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」
ということです。

別にわたしは自分が人間ではないと証明されても一向に悲しみませんが、
『人間を人間たらしめている根拠乃至条件』とはいったい何ですか?

「他者への思い遣り」「共感能力」「愛する心」etcといったものでなく、
また生物学的な分類でもなく、「ある者は人間に等しい」ということが言えるとしたらそれは果たしてなにを根拠にしているのでしょう?

グレゴール・ザムザは「ヒト」でしょうか?或いは「甲虫」でしょうか?

例によってお礼が遅れるかもしれませんが、ご容赦ください。

正直自分でも何を訊きたいのか明確ではありません。何を言っているのかわからんという人はそのままお通りください。親切な人の気まぐれなお付き合いを希望しての投稿です・・・

精神病理学者木村敏の著作のなかで、彼の「分裂病」(70年代当時)の患者が、主治医である木村氏に言った言葉が強く印象に残っています。
それは
「皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」

ところで、今のわたしの感覚を正確に表現すれば、この患者とは正反対で、

「自分が皆と同じ人間なんだとい...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは、Blueさん。

以前、【人間】を【ニンゲン】と書いて質問し、猪突さんからお叱りを受けたことがあります。10年近く前のことですが。

___________

いきなり話が逸れますが、
1.わたしはあなたを愛します。なぜならわたしがあなたを求めるからです。
2.わたしはあなたを愛します。なぜならあなたがわたしを求めるからです。

わたしの場合は2.ですが、Blueさんならどちらですか。どちらも、という答えもありです。

___________


あなたが人間であることが自明なのは、

あなたがあなたとは違う、
あなたではない、
他の【人】を求めているからです。
狼ではなく【人】を。

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Q言葉の力で「自分」は変わる?

はじめまして・・・ではないのですが・・・

質問のタイトルの通りですが。少し補足を。

人が読書なり、カウンセリングなり、精神科医なり、或いはどこかで聞いた言葉によって、「変わる」=(改善される)ということがあるとしたら、それはどういう仕組みなのでしょうか?

つまりある特定の言葉=考え方・視点を獲得することによって、その人は何故、変わることができたのか?
逆に何故、誰と話しても、何を読んでも変わることができないのはなぜか?

その辺りを知りたいと思います。

尚以下のリンクは11年前(2007年)師走のわたしの質問です。

・・・今はharuさんではありませんが、長文を読み、またそれに対する意見を記述する体力も気力もありませんので、とてもこの当時のようなやり取りはできません・・・
このなかでも、回答No.3 shift-2007さんは、流石に当時盛んにやりあっていただけあって、質問の裏にあるわたしの真意を見抜かれていたようです。

今のわたしならこれをベストアンサーにするでしょう。

体調不十分で、充分なお礼すら覚束ない状態でノコノコ出てくること自体が間違いかも知れませんが、
それを承知で、何か書き遺してくれる方がいればと思い、投稿しました。

以上ご理解の上、気が向いたら書き込んでください。

可能な限り、補足には応じたいと思っています。

はじめまして・・・ではないのですが・・・

質問のタイトルの通りですが。少し補足を。

人が読書なり、カウンセリングなり、精神科医なり、或いはどこかで聞いた言葉によって、「変わる」=(改善される)ということがあるとしたら、それはどういう仕組みなのでしょうか?

つまりある特定の言葉=考え方・視点を獲得することによって、その人は何故、変わることができたのか?
逆に何故、誰と話しても、何を読んでも変わることができないのはなぜか?

その辺りを知りたいと思います。

尚以下のリ...続きを読む

Aベストアンサー

二者の違いについて。

やらない人はやれる事もやらない。
やる人は出来なくてもやってみる。
やらない人はやる気満々でもやらない。
やる人はやりたくなくてもやる。

違いは何かというと、荷物が多いか少ないかなのです。

おそらくフラグメントさんは、自分が何者なのか、沢山考えて、沢山知っているのでしょう。そしてそれが荷物になっている。
自分が何者か分からないと言う事は、過去にかなりの量のこうではないか、ああではないかという試しを行なって、無数の擬似的な答えを獲得して来たと考えられます。しかしそのどれもしっくり来なかったので、自分が何者か分からないと言うのです。

一方で、自分が何者か分かる人というのは、分からない事が負担になりません。生まれに縛られていないからです。それで、分からなくても歩き出せるのです。歩き出すので現実に何者かになる。歩き続けるので何者であるかも変遷して行く。そうして色のついた人生を築きあげるのです。

先ずは何者かである事から解放されなければ、何者かにはなれないでしょう。

特異な者と言う自己認識は、自分が何者であるか、分かっているし、分かっていないという二律背反が同時に存在している事からくる認識だと想像しました。

二者の違いについて。

やらない人はやれる事もやらない。
やる人は出来なくてもやってみる。
やらない人はやる気満々でもやらない。
やる人はやりたくなくてもやる。

違いは何かというと、荷物が多いか少ないかなのです。

おそらくフラグメントさんは、自分が何者なのか、沢山考えて、沢山知っているのでしょう。そしてそれが荷物になっている。
自分が何者か分からないと言う事は、過去にかなりの量のこうではないか、ああではないかという試しを行なって、無数の擬似的な答えを獲得して来たと考え...続きを読む

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Q人間の器に魂が入ったことは…

人間に生まれたってことは、人間の形の器に入ったってことで、
もしかしたら犬、猫、シマウマの中に入ってしまったかもしれないと言うことですよね。
これは選ぶすきもなく地球に放り出されたということで、
人間に入ったことは喜ばしいような、毎日ライオンに怯えなくて済むだけましのような、
これってラッキーですか?

Aベストアンサー

ラッキーですね
それも7億円の宝くじを当てるよりラッキーですね
生命と言われる生き物は、細菌を含め数限りなくあり
人間として生まれて来る確率は、何100億分の1に過ぎないからです

魂とは情報です
情報に基ずき形ができるのです

この世に偶然とか奇跡とかタマタマとかはありません
科学にもありません
原因と結果の法則と、生と死の法則にもとずきすべてが営まれるのです

死んだら無になる事は非科学的で、道理に合いません
有から無にはなりません、変化して存続するのです
死んだら魂は情報に変化するのです
情報があれば再生するのです

自業自得、因果応報とは仏教ですが
実に化学的な考えで、
その魂に応じた生き物に生まれ変わると言う事です

一個の生命も死ぬと、その人の情報は宇宙に散らばり
一時溶け込むのです、
量子脳理論で説明がでます

ここの④で少し詳しく
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage1.html

Q"女の幸せ"とは言うことがあるにもかかわらず、”男の幸せ”はあまり聞いたことがありません。男は幸せを

レスリングの吉田沙保里が引退を発表しました。
長い間の活躍、お疲れさまでした。
彼女は、引退の理由について「全てをやり尽くした」とは別に「女の幸せを求める」ということ漏らしていました。
ところで、"女の幸せ"とは言うことがあるにもかかわらず、”男の幸せ”はあまり聞いたことがありません。
男は幸せを求めないものでしょうか?
(幸せを家庭の幸せのみに限定することではなく)

Aベストアンサー

いや
そうではなくて

男はプライベートの幸せもパブリックの幸せも
分けて考えない
なぜならば普通に両立可能だから

女はどちらかを選ばざるを得ない
両立させるのは難しい
それでプライベートのほうを「女の幸せ」と分けて表現してるのでは?

ってことです


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