グッドデザイン賞を受賞したウォーターサーバー >>

結果を知っている後世の人間が歴史でIFを語るのはご法度かもしれませんが・・・
もし明治維新後の日本が徹底的な「不拡大政策」を推し進めていれば、太平洋戦争のような悲劇も回避できて日本は幸せになっていたのでしょうか?
(朝鮮や台湾への進出もあきらめ、ほぼ現在の日本領にとどまり、拡大を目指さない)

欧米列強のアジア植民地が固定化され、ロシアの南下が止まらない等、不拡大政策自体が無理だったのでしょうか。

A 回答 (9件)

どうだでしょう。

確かに不拡大政策であれば大陸でのゴタゴタに巻き込まれる(引き起こしたとも)ことはなかったのだろうけれど、それで国がもったのでしょうか。
 そもそも江戸期の日本の人口は3000万人前後で、明治期にこれが一気にほぼ倍増するという近代国家には他に例を見ない人口爆発が起こっているんですね。悲しいかな当時の技術では農産物の増産なんて人口の増加スピードには追いつけない。したがって明治の中ごろからは主食である米の輸入が始まっています。つまり、自給自足できた江戸時代と違って明治の途中からは食料を輸入しないと喰っていけない国になった。
 こういう状況下、国家経営が順調で外から食料を自由に買えるのであればいいのだけれど、大恐慌のあおりを喰らった状況で買えなくなったらどうするか。失業者の群れをどうするのか。大陸への拡大方針は確かに後で考えると失敗だったとは思うけれど、目的としてはロシアの南下阻止とかアジアの植民地化阻止とかいう戦略的なもの以外にも上のような理由もあったんだと思うんですよ。ではその時にそれをやらなくて国が保てたのか、国家破綻を防ぐことはできたのか、という疑問は解消しえないんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

そういった観点もあったんですね。とても参考になりました。

お礼日時:2019/01/12 12:19

欧米列強のもつアジア植民地を侵略し得る実力をもつことを日露戦争によって日本が証明するまで、不平等条約の改正は実現せず、日本が欧米列強から対等に扱われることはなかったわけですから、不拡大方針を徹底して太平洋戦争のような事態を回避できたとしても、それで日本が幸せになったかどうかは疑問です。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2019/01/12 12:19

確かに清国は大国でしたね。


しかし、大国=一流国 ではないと思います。
最近まで、大国だが途上国 と言って隣国からODAを受けている国がありましたし。



A:>もし明治維新後の日本が徹底的な「不拡大政策」を推し進めていれば、太平洋戦争のような悲劇も回避できて日本は幸せになっていたのでしょうか?

B:>欧米列強のアジア植民地が固定化され、ロシアの南下が止まらない等、不拡大政策自体が無理だったのでしょうか。


↑のAとBですが、あなたの脳内の「不拡大政策」と「日本の幸せ」の定義や内容が不明です。

質問は「日本が拡大政策を取っていた」という前提でのものです。
回答を求めるなら、まずあなたがそれを証明して下さい。

不拡大政策とは、拡大政策を取っていない という事です。
そして ~していない、 ~は無い という完全な証明は不可能です。


私は日本は他国の拡大政策に抵抗(巻き込まれた?)していたのであり、それを不拡大政策を取っていなかったとは言えないと思ってます。(理由は後述)



このような話題では、日本が日露戦争以後も「矛を収めて居なかった」とか仰る意見もあるようですが、矛を収めず日本の権益を奪おうとした国に対抗するのは「拡大政策」なのでしょうか。

私は当時の日本が幸せであるには、他国も不拡大政策を取っていなければならないと思います。
そうでない場合、日本は現在の領土すら守れなかったと思います。

それとも、質問者様は当時の世界は平和を愛し諸国民の公正と信義を信頼するごりっぱな皆さんばかりで、日本だけがそうでなかったとお考えなのでしょうか。



>朝鮮や台湾への進出もあきらめ、ほぼ現在の日本領にとどまり、拡大を目指さない

「進出」の意味や内容が不明です。
それらへの「進出」の理由をご存じなのでしょうか。
そもそも進出だったのでしょうか。

日清戦争は朝鮮の独立の為でした。
独立後も「なるべく干渉はやめて朝鮮を自立させる」という方針でした。

一方、ロシアは↓のように考えていました。

朝鮮への清国の保護がなくなった朝鮮に、威を示し移民させる。それを日本が妨害するなら(朝鮮の独立を維持)衝突は免れられない。
シベリア鉄道が開通すれば、日本が露国に勝つ見込みはない。


他にも、質問者様は清国滅亡後の大陸に発生した政権の数や、それらの日本との関係をどのようにお考えなのでしょうか。


質問者様は日本が台湾を領有した理由や経緯をご存じでしょうか。
漂着した外国人を虐殺するような原住民がいる島と、自国内での事件なのに責任を取らず再発防止の措置を取ろうともしない清国。
航路上にそのような地域があることを日本は放置できるでしょうか。



無知が、日本を貶めて自分だけ良心的日本人を気取ろうとしている まで読みました。
(こういう、IFと称して自分では何も考えず、他人様に丸投げしてネタを出しただけで、何かを語ったつもりになっている人の質問の名を借りた御高説にはうんざりしています)
「明治維新の時に国是として不拡大政策を掲げ」の回答画像7
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この回答へのお礼

ちょっとわかりにくいですね。

お礼日時:2019/01/12 12:18

>欧米列強のアジア植民地が固定化され、ロシアの南下が止まらない等、不拡大政策自体が無理だったのでしょうか。



無理だったと思います。
まず日本は明治維新で近代化を進めるとすぐに隣の李氏朝鮮に「近代化しないか?」と声を掛けています。「不拡大政策」を取るならこの行為自体をやめる必要があったでしょう。

しかし、当時の日本はシベリアを東進して日本海にたどり着いたロシア・清をむしばむその他の列強国と直接対峙しないために「李氏朝鮮になんとしても緩衝地帯になってほしい」という願いがあったわけです。

結局、李氏朝は日本の申し出を断り、清朝に事大することによって(日本から見れば)自体を悪化させたため、結局清政府(とその後ろで権益を得ている列強国)と朝鮮半島を巡って戦うことになったわけです。

そして日清戦争で勝ち、下関条約の第1条は「朝鮮国の清国からの独立」だったわけですから、そもそも明治政府が不拡大政策を行うのは無理だったと私は考えます。

これは現在でも実は同じで「なぜ日本は韓国に甘いのか?」という質問の答えになる部分です。日本は韓国を自分の側に引き付けておく必要があり、それによって共産党中国やソ連(当時)さらには北朝鮮の侵略的影響を軽微な状態で済ませることが出来たからです。

明治政府が不拡大政策を行い、戦後の日本政府が韓国に甘い政策を行わなければ、いずれも対馬が沖縄並かそれ以上の軍事基地になっていて、日本海を守るために莫大な予算が必要になったでしょう。

明治政府にそんな余裕はなかったですし、戦後の日本もできなかったわけですから、不拡大政策も戦後の日韓友好も避けて通れなかった、と言えると思います。

ただ、まあ近年は「韓国は大陸側に取り込まれた」として、日本海防衛を固める意思ができつつあるようにも感じます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2019/01/12 12:17

高杉晋作等が、上海に出かけ、そこで


奴隷化した中国を目にして、このままでは
日本もこうなる、ということで明治維新に
突入しました。

それ以降は、なんとしても植民地にはならないぞ、
という行動の連続でした。

日清日露戦争は、対ロシアの侵略を防止する
為の戦争です。

朝鮮半島にロシア軍が駐留するようになったら
日本の安全保障はどうなるか、火を見るよりも明らかです。

日本は欧米列強のように、地球の裏側まで
乗り込んだ訳ではありません。
近隣諸国を押さえて、防波堤にしようとしただけです。




太平洋戦争のような悲劇も回避できて日本は
幸せになっていたのでしょうか?
  ↑
そうはなりません。
欧米の侵略に対抗するか、おとなしく
植民地にされてしまうか、二者択一しか
選択肢が無かったと思われます。


当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、国民の1/4が
失業し、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
はっきりしません。

これに加えて、当時は社会主義運動が盛んに
なりつつありました。
うかうかしていると、体制すら崩壊しかねません。

また、米国は英国フランスなどにも大量の資金を
貸し付けており、彼等が敗戦になれば、貸し金が焦げ付く
可能性がありました。

それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きずり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。

マッカーサーは戦後、あの戦争は日本の自衛戦争であったと
米国議会で証言しています。

ハルノートのハルは、真珠湾攻撃を耳にして躍り上がって
喜んだ、という側近の証言が残っています。
「これで戦争ができる」
また、パル判事は、あのような要求を突きつけられたら
モナコのような小国でも銃を持って立ち上がっただろう
と述べています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
最近の反日は全て許されるという支離滅裂な韓国を見ているとロシアに任せておいた場合の歴史を見てみたいです。

お礼日時:2019/01/07 07:13

清国は、当時、世界の一流国でした。


そのちょっと前、明治維新が有り、ちょんまげと刀で、やあやあ!と言っていた、ルーベンレン「日本人」が、世界の一流国だった、清国に、大勝したのだからたまりません。
その上なな、南下策を講じるロシアと、朝鮮での利権をめぐつ、大激突、
ハルピン近郊の二〇三高地で、クロポトキン率いるロシア軍を、破り、それを機に中国東北部一帯の権益を日本軍が掌握し、後に、前述の満洲帝国建国に、繋がりました。
更に、当時、世界最強と言われた、ロシアのバルチック艦隊を東郷元帥率いる帝国海軍が水陸両方に跨り、大勝利を占め、一躍、日本は、世界の強豪国に、成り上がりました。
当時、世界の誰しもが、日本みたいな、成り上がりの弱小国が、他国との戦争に勝つなんて、思いもよらなかったでしょうね。
しかし、歴史は変えられません。
確かに、日本も、そこで、矛を収めて居たら、歯舞、国後など、北方領土は、盗られて居ませんでしたよね。
もしもや、もしかしての話は、置いて、これから日本が国際社会にどう、立ち向かって行くかが、これからの課題と、しんじます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2019/01/06 23:52

日露戦争に、日本が勝った時、市井では、連日、提灯行列が出来たものです。


その前に、日清戦争を日本が、清国を相手に、日清戦争を起こし、黄海海戦に、大勝し、その結果、日本は、台湾を領有。
日露戦争でも勝利した日本は、南樺太を領有した。
第一次世界大戦では、日本は勝利し、青島を99年間租借条約を結び、パラオなど南洋諸島を、信託統治しましたが、第二次世界大戦では、日本は、連合国に敗れ、かつて、領有していた、それらを全部無くし、その上、北方4島もロシヤに取られたままです。
これらは全て、日本が拡大政策をとり続けた結果です。
明治に、日本は、韓国を併合し、昭和になってから、中国大陸に、進出。
満洲傀儡帝国を世界の反対を浴び乍ら、建国。
それらのツケが未だに燻っています。
明治から昭和にかけて、日本は、南太平洋や、中国大陸、更に、ベトナムや、インドネシア、フィリピンなどに権益を有し、不拡大どころか、拡大の一路を辿り、今日の、結果を招いています。
まあ、韓国が横暴な行為に今、走っていますが、これも日本が38年の長きに亘り、韓国を占領していた結果が現在を、招いています。
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この回答へのお礼

仰る通りですね。
最初の勝利での「戦争って儲かるじゃん」がずっとつきまとったような気がします。
日清戦争で大苦戦していれば歴史も大きく変わってたかもしれませんね。

お礼日時:2019/01/06 23:20

全ては徳川300年の鎖国政策の結果です。

長い鎖国の間に日本は世界に取り残された。焦ったんでしょうね、当時の人々。おっしゃる通り確かに悔やまれることが多すぎました。
私の父も入隊しましたし伯父はシベリア抑留もから帰還。でもその大きな犠牲の上に今の幸せがあることをひとえに感謝するしかありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2019/01/06 21:59

今でも中国がこじ開けようとしてますからね


太平洋戦争が回避出来たとしても幸せにはなっていないと思います。
無理だったでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2019/01/06 21:58

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朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
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選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
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(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
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紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
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ひとつには明治天皇の東京入りが「御幸(天皇が皇居を出て外出すること)」であり「京都の御所に帰る」という予定で出発したこと(実際、明治天皇は御所に帰れるとは思っていなかったでしょうが、そういわないと京都の人が納得しなかったのです)

そのため遷都の勅令もだせず、ということは東京と名前を変えても「御所を新設することはできなかった」わけです。というより、日本の首都が「天皇がいるところで、それは遷都の勅使が必要」という古来の法律を尊重するなら、今日とは未だに首都なわけです。

御所を作れなかった、と言う点が第一点

また、徳川幕府は大政奉還で政府としての役割を終えたとはいっても、国内の統制や外交、さらには予算などは薩長の藩士では手に負えない状態だったため、江戸城で官僚的な仕事をしていた武士たちはそのまま、そっくり明治政府の役人として勤めることになりました。

その為初期の役所は外交を担う外務省庁舎を作ったぐらいで、後は全部霞が関付近の大名屋敷か旧江戸城で行っていたのです。天皇は江戸城の西の丸を皇居にしていました。

その後明治6年に旧江戸城が火事になり、西の丸も焼失したため、新しく御所を作り太平洋戦争末期まで皇居として利用されました。

また霞が関付近は官庁街として大規模な都市計画が何度か計画されたのですが、結局大きな計画は進行せず、国会議事堂などが霞が関の高台に出来たぐらいで、旧江戸城は結局皇居として利用され続けることになった、というのが第二点です。

ひとつには明治天皇の東京入りが「御幸(天皇が皇居を出て外出すること)」であり「京都の御所に帰る」という予定で出発したこと(実際、明治天皇は御所に帰れるとは思っていなかったでしょうが、そういわないと京都の人が納得しなかったのです)

そのため遷都の勅令もだせず、ということは東京と名前を変えても「御所を新設することはできなかった」わけです。というより、日本の首都が「天皇がいるところで、それは遷都の勅使が必要」という古来の法律を尊重するなら、今日とは未だに首都なわけです。

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Qなぜ戦後の日本人はGHQを疑わなかったのか?

日本は第二次大戦の敗戦後、価値観が180度変わり、旧軍を悪とみなす風潮になったとされています。マスコミも負けた途端言うことがガラッ変わりました。でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは国民も知っていたはずです。だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は素晴らしい!」みたいなことを言っても、「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」と疑ってかかるのが普通だと思います。なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。

Aベストアンサー

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」
と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
それを受け入れたのが、日本の支配層であり、
指導層だったからです。
多くの国民は、日本は負けたから悪者にされた、なんて
ことは百も承知でした。
そういう意見は総て封殺されたのです。

では、どうして指導層、支配層は受け入れた
のか。

表面だけ従うように見せておき、米国の
影響が無くなったら元に戻そう、と考えて
いたのです。

ところが、GHQが、洗脳工作に、当時盛ん
だった社会主義者を使ったので、彼らが
マスコミなどの要職に就き、
見せかけが本当になってしまいました。


■1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な
「自由主義者」として、野坂参三、鹿地亘らの共産主義者を挙げて活用した。

マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、
野坂らの提唱で設立された日本人民解放連盟の中国での
日本兵捕虜洗脳教育を対日心理戦に利用できると確信し、
WGIPのモデルとなった。

エマーソンは「日本国内の戦争反対分子を励まし、内部崩壊を早める」
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でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
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西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の人間だったにも関わらず、弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、日本の進むべき方向性を理解し、今やるべきことをわかっていた人のように感じます。

 そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。

以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?

Aベストアンサー

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
  ↑
ここがポイントです。
西鄕さんが解りにくいのは、私欲に乏しい
からだと思います。
私欲に乏しいから、どういう人間像なのか
把握しにくいのです。
彼ほど解りにくい人物はおりません。



以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能
を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?
 ↑
特別な才能を持っていたのではなく、私欲に乏しかった
ということだと思います。

彼は一度死んでいますね。
あれで私欲を無くしたのでしょう。
私欲が無くなれば、適格な判断が出来るように
なるのです。

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
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ここがポイントです。
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Q日本の本来の国名は「豊葦原中津國」(とよあしはらのなかつくに)だった。 ってどういう意味ですか? 卑

日本の本来の国名は「豊葦原中津國」(とよあしはらのなかつくに)だった。

ってどういう意味ですか?

卑弥呼の時代でも日本ではなく豊葦原中津國だったの?

いつの時代から豊葦原中津國で、いつの時代から豊葦原中津國から日本に日本は変わったの?

Aベストアンサー

日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界・・・すなわち我々の今いるこの世界です。日本神話が書物になったのは古事記や日本書紀なので、たとえば古事記は稗田阿礼(ひえだのあれ)が『帝紀』『旧辞』に書かれていたことを覚えていて、それを太安萬侶が編纂して古事記ができたということになっています。
古事記ができたのが712年なので、卑弥呼の時代に日本神話があったものかどうかは不明ですね。おそらくその頃、外国からは「魏志倭人伝」の「倭」と呼ばれていたのではないでしょうか。

「日本書紀」が編纂されたのが古事記より少しあとの720年なので、おそらくこの頃神話での豊葦原中津國ではなく、対外的な呼ばれ方「倭」から「日本」に変わったのだと思います。
もちろん「日本」とは中国から見て太陽が登る方角「日の本(ひのもと)」から来ていると思います。


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