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0. 言語類型論におけるあたらしい仮説です。ご検証ください。

1. 日本文と英文とは 構文ないし文型として 互いに対極を成すという見方です。

2. 初めから 《文》を扱います。文は 話し手の思想をあらわすものである。

3. 思想は 問いと答えとから成る。話者は ひとつの文の中で自問自答する。

4. 問いは 主題( T )として提示される。答えは 主題を問いとし それに答え
る論述( P )である。答えが さらにあたらしい問いになるという意味でも 論述も 
論述主題である。

5. すなわち 文は 主題( T1 / T2 /・・・)をつらね これらを最後に論述( P )
が承けてひとつの思想をしめくくる。:

   T1 + T2 + … + Tn=P。

6. これは 日本文および朝鮮文にならって 三項形式に還元される。:

   T1  + T2  + T3=P。

   A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――(α)類型とする。





7. さて 議論を端折りますが 世に言う能格( ergative )言語(バスク語など)
では おおむね初めのふたつの主題提示( T1 + T2 ) を この日本文の類型と同じ
ようにおこなうことが ひとつの特徴です。 

8. つまりそのあと 論述主題( T3=P )にあっては 次のようにすでに述語動
詞の担う意味内容から見て その主体(主格)および対象(賓格)を わざわざあら
ためて示します。ていねいに あらわすかたちを採る。
この《 主格 ‐ 述格 ‐ 賓格 》を 英文にならって S - O - V で表わすこととしますと
次のような仕組みに成っています。

 〇 能格言語の文の構成:

   T1  + T2  + T3=P。

   A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――日本文としての(α)類型

   A-a   B-b   C= [ S′ - V - O′ ]。――能格言語の構文


   ・ A-a / B-b: 小文字のほうは 日本語のハ格やガ格に相当する格活用

   ・  S′ / O′: プライム( ′ )なるシルシは 人称接辞を示す。(つまり 
      むろん主題としての A や B を承けてそれらを示す接辞としての代名詞
      である)。

   ・ 賓格: 主格(主体)に対する賓客(客体)を示す格で おおよそ対格
     (ヲ格)か与格(ニ格)かである。

   ・ 述格: 論述主題( T3=P )に当たる《 C= [ S′ - V - O′ ] 》の述語動
     詞( -V- )の格である。つまり 主題提示〔における主格 S 〕に対応す
     る論述提示〔における述格 V )。

 

 9. A-a や B-b なる主題提示を承けたあとの論述提示としての C= [ S′-V-O′ ]
の中の S′ や O′ はたとえば こうである。

   英語‐ハ    彼‐ガ    話す。  :  (α)類型

   英語(A)-a  彼(B)-b   B′‐話す‐A′: 任意に(μ)類型とする。

               [ he-speaks-it ]


   ・ C= [ S′-V-O′ ] ⇒[ B′‐話す‐A′ ] ⇒ [ he-speaks-it ]という形である。


10. したがって 大胆不敵な推測としては 英文は ここから C= [ S′-V-O′ ]
⇒[ B′‐話す‐A′ ] ⇒ [ he-speaks-it ]の部分が突出し 独立した。つまり この論述
主題の提示の部分([ he-speaks-it ])だけでそのまま ひとつの文(思想)を表わす
かたちに成ったのだと。
むろん 代名詞( he や it )は 元の名詞に戻す。

10-1. つまり 言語一般における論述主題( T3 = P )が 日本文等で 論
述主題《 Cナリ。/Cスル。》という形になったそのあと 能格言語の文にあっては
C= [ S′-V-O′ ]という形式を採る。そしてさらに そのあと この論述主題の部分が 
そのまま文の全体に広がり しかもその言わば線形なる論理のみで文を形成すると
いうように展開した。のではないか?

   C= [ S′-V-O′ ]

   ⇒ He speaks English. : (ω)文型とする。




11. 言いかえると 英文は 主題(つまり T1⇒Aや T2⇒B)の提示を省く
ようになったということである。日本文や能格言語文では 主題提示層とそして線
形論理層との二層から成る構文である。

11-1. すなわち 英文は 次の図式の中の[線形論理層]のみから成るのだ
と。つまり二層から成る日本文(α類型)では 《英語ハ》のハ格は――[主題提示
層]において中心主題( T1=A )を提示しますという役目を担うほかに――[線形
論理層]においては  論述動詞( T3=P ⇒ Cスル ⇒ 話す) につらなる意味
連絡としては ヲ格(対格)をも担う。《英語ハ(=英語二ツイテイエバ) / (ここ
で断層があって 線形的な意味連絡の層に移る) 英語(O)ヲー彼(S)ガ―話す
(V)》。


  (α)類型の文: 英語ハ        彼ガ          話す。

  ____________________________________

 [主題提示層]: 中心主題(T1=A)・・・関係主題(T2=B)・・・論述主題
          
 [線形論理層]: ヲ格(英語‐ヲ)・・・・ガ格(彼‐ガ)・・・・・述格(話す)
          対格(O)―――――― 主格(S)―――――― 述格(V)


 ・ ハ格は 中心主題格(~~二ツイテイエバ)とたとえばヲ格(対格 O )との  
    ふたつの役割りを担う標識である

 ・ ここで《線形》と呼ぶのは 直線形あるいは線状といった単純な意味です。



12. 重ねて述べるなら 英文は 主題提示層を無しで済まそうとしたのではない
か? 《 A ハ B ガ C ナリ。/ C スル。――(α)類型 》の構文を 《 S - O - V 》
文型へと進化させた。それ以上の進化がないとすれば (ω)言語類型の(ω)文型で
ある。

13. 中国文は しかし これらの構文や文型の決まりにはいっさい目もくれず 文
法無しの文法でやりくりしている。言いかえると (α)構文における主題提示の部分
もあれば 線形論理の S-V-O なる(ω)文型をも堂々と許容している。

14. (α)構文と(ω)文型との中間に 能格言語の(μ)構造文があり 一般にこ
の(μ)形式文と英文の(ω)文型とのあいだにいろんな進化形態が 諸言語において見
られるようである。


☆ 以上を問います。ご見解をどうぞ。

A 回答 (2件)

お礼拝見しました。


ものの見方に新しい一面を与える。
これが目的ですね。
一般人から見ると微に入り細を穿つような。
ありがとうございました。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

うまいこと 言いますね。恐れ入りました。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/01/08 10:10

見解


こういう研究ってどういう場面で成果を利用するのですか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ひとつには 言葉というものに興味を持つ者の道楽として ただし
ほかの人がまだ言っていなかった仮説を打ち出すことに精を出します。

したがって 言語学の学会で二十年・三十年も経てば 注目されるよ
うになります。それからの研究は 新仮説を踏まえなければ始まらな
いというようになります。


人びと一般にとっては どうか?


すでに好奇心の問題にとどまらないとすれば 大きな成果のひとつは
《言語の類型のあり方と その言語の話者が形成しているその社会の
あり方との相互の影響関係は どうか?》という問いに答えるヨスガ
になることです。

生活態度やナラハシ・果ては国民性が どのように成り立っているの
か? これが 言語のあいだの類型としての異同を捉えることによっ
て 或る程度の知見を提供することができるでしょうね。

たとえば アイ・ラヴ・ユーといった〔直線形の〕表現のかたちは 
日本語を話す人間にとって どういう意味合いがあるか? ほかの言
語人口にとっては どうか? などなどです。

お礼日時:2019/01/08 09:45

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Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Qわれら日本人は 母語たる日本語を知らなすぎるのではないか

1. かつてエズラ・フォーゲルは 日本人は英語が下手だとはっきりと書い
ていました。
 
2. われら日本人が 外国語をその母語のいわゆる教養ある話し手と同じく
らいに習得したという事例(人数)が少ないと思われるのは われわれの母語
たる日本語についてよく知らないことから来るのではないか?

3. これが 問いです。



4. 知っていれば外国語を覚えるのにも役に立つような文法を知らない。

5. 動詞の活用がどのようにして成り立っているのか。これが あいまいで
ある。活用形を暗記しているだけだ。

6. 終止形とは どういう法( mood )なのか。つまり 話し手のどういう
気分や意志で言い出されている活用形なのか。これを知らない。文がその形で
終わるから 終止形だというのみ。

7. ならば 命令形だって 文を終始させているのではないか。

8. そしてこの場合は はっきりと《主観の要望〔としての命令〕》の気分
(= mood :つまり命令法)で言っている〔から 命令法に活用したと言う〕。

9. 未然形が 不定詞に当てはまる不定法( infinitive mood )だと知れば 
ただちに世界標準に立てる。

10. 《未だ然らざるかたち(つまり 動きがまだ定まっていないし 定め
ないかたち)にその動詞を置く気分》。つまり まだその活用を決めていない
(定めず)のだから 不定法なのである。いわゆる英語の《 to 不定詞》であ
る。

11. そのあと: 

・ 行か(不定法)-ない(否定法)( do not go ) だとか 
・ 行か-む(意志法( will go);推量法) あるいは 
・ 行か-ば(仮定条件法)( if he go, ) だとか

に活用するのだ。

・ 行か‐し(ソレと指定する断定法)⇒ゆかしい(近くへ行きたい気持ちだ)

cf. ▲ weblio 辞書:ゆかしい:《動詞「行く」の形容詞化》
https://www.weblio.jp/content/%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%84



12. 気分ないし意志のヱクトルで決まるのが 用言の活用。つまり自己表
現のあり方。言葉を使っての人生の歩み方・つまり文体。つまり 実存の仕方
である。



13. 文法だけに限らないであろうが たぶんこのような視点(それが お
そらく哲学)としての常識そしてグローバル化が必要なのではないか。

14. そうすれば われら日本人は ふつうにまじめでそれなりに優秀なの
だから うんとほかの言葉の習得は早いはずだ。


(15. 使用言語としては ものになるところまでは高め得なかった人間の
もらすひと言ふた言ですが)。

1. かつてエズラ・フォーゲルは 日本人は英語が下手だとはっきりと書い
ていました。
 
2. われら日本人が 外国語をその母語のいわゆる教養ある話し手と同じく
らいに習得したという事例(人数)が少ないと思われるのは われわれの母語
たる日本語についてよく知らないことから来るのではないか?

3. これが 問いです。



4. 知っていれば外国語を覚えるのにも役に立つような文法を知らない。

5. 動詞の活用がどのようにして成り立っているのか。これが あいまいで
ある。...続きを読む

Aベストアンサー

あなたの理論だと、日本語に堪能なら外国語にも堪能とゆうことになりますか?
日本語に堪能でもドイツ語ができない人はいっぱいいるし、日本語が怪しい人でも外国語には堪能な人もいますよ。
日本語と英語、ドイツ語、フランス語では文法も発音もまるで違うので連関性は無いでしょう。
しかし、最近は、ここの質問でも日本語になってない、日本語が間違っている文が増えていて嘆かわしいのは確かですね。

Qブロック

ブロックされた。
はじめて。

私はアホな質問に真面目に皮肉で答えた。

当人は真面目な質問にアホが答えたと思ったらしい。

天国か!

そこで、私と質問者双方に一言コメントお願いします。

なお当質問ではお礼はいたしません

Aベストアンサー

ん~ブロックなんて日常茶飯事なんで
気にも留めてませんね
まぁ人はアフォじゃないんで皮肉や馬鹿にしてる文章は
理解できます(その奥に隠されてる真意は理解しにくいですがね)

所詮、貴方も哲学者もどきのかまってちゃんだったのね
ってこの質問みて思ったくらいですね

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q芸術の絶対性

https://www.youtube.com/watch?v=dhA5D7qkHwA&list=RDdhA5D7qkHwA&start_radio=1

音楽好きの私のとって彼は日本では宇多田ヒカル以来の才能だと思いました。
k-popに刺激されたのでしょうか?
世界でどう評価されるかという問題はあるにせよ、何十年に一人の才能に思えます。

音楽もダンスもいいですね。○ soul brothersとは悪いけどケタが違うと思います。

音楽にせよ何にせよ、芸術というものには「好み」という相対的なものと、多くの人が
「いいね」と感じる絶対的なものがあると思います。この点どう思われますか?

また、絶対的なものがあるとお考えの方、それは何だと思われますか?

Aベストアンサー

No.16 関連で。

>アーツの流れがエンタメに流れ込んでいる

に関して、最近、ある日本画の画伯から聞いた感動的な話を紹介しましょう。その方は60代後半の方で、著名な寺社の襖絵や天井絵をお描きになるなど、芸術家として大成なされた方です。今までの生き様をお聞きしました。

彼は中学時代から話をされましたが、芸大の日本画科の大学院を出て、最初の8年間自分の書いた絵が一枚も売れない。すでに結婚しておられたのですが、極貧の生活だった。その苦しみたるや、絵を描いている最中に筆が指から落ちてしまい、絵を描けないようなことが2度ほどあったそうです。そんなある日、テレビ局から番組の背景の絵を描いてくれないかとの依頼が入り込んできた。それを請け負ったら凄いお金が入ってきた。その直後、宣伝会社の博報堂の方が、画伯に博報堂の専属の社員として働かないかと言うのです。そしてその給料が目の飛び出すほどだったのです。早速画伯の奥様に話した時の、その奥様の反応がすごかった。

「もしあなたが、それを受けてしまったら、最早芸術としての絵を描ける人にはならないでしょう、それでも良いんですか。」

と言われたそうです。娯楽に走ってしまったら、芸術は諦めることになるが、それでも良いのか。その画伯は、結局博報堂の提供を断ったそうです。その後、絵の買い手が少しづつ付くようになって生活も安定し、今ではこのように大学の芸術科の教授を依頼されたり、自分の工房で何人もの弟子を取って後輩を指導できる身になったとのことです。

その話を私の家内に言ったところ、一言「その奥様は、天晴!」と言いました。芸術の流れが娯楽に流れ込む、その画伯はその危険性を本能的に感じて、一歩踏みとどまったんだと思います。

常々思っていることなんですが、チャイコフスキーの劇的な音楽は娯楽志向の境目にいるのですが、ギリギリ芸術の領域にとどまった。ところが、なるほどこの手があると娯楽映画の映画音楽作家たちが、チャイコフスキーの音楽を真似しだした。でも、それは結局退化であって、芸術と娯楽の境目で、皆娯楽側に落ち込んでしまった。確かにバーバーの『アダージョ』など、映画の背景として用いられ、素晴らしい効果を出した曲もありますが、バーバーはそれを映画音楽として作曲したわけではありません。娯楽が芸術の成果を使わせてもらっているだけでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=s9xrUotL7wc

No.16 関連で。

>アーツの流れがエンタメに流れ込んでいる

に関して、最近、ある日本画の画伯から聞いた感動的な話を紹介しましょう。その方は60代後半の方で、著名な寺社の襖絵や天井絵をお描きになるなど、芸術家として大成なされた方です。今までの生き様をお聞きしました。

彼は中学時代から話をされましたが、芸大の日本画科の大学院を出て、最初の8年間自分の書いた絵が一枚も売れない。すでに結婚しておられたのですが、極貧の生活だった。その苦しみたるや、絵を描いている最中に筆が指から落ちて...続きを読む

Q予め喪われている自明性

正直自分でも何を訊きたいのか明確ではありません。何を言っているのかわからんという人はそのままお通りください。親切な人の気まぐれなお付き合いを希望しての投稿です・・・

精神病理学者木村敏の著作のなかで、彼の「分裂病」(70年代当時)の患者が、主治医である木村氏に言った言葉が強く印象に残っています。
それは
「皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」

ところで、今のわたしの感覚を正確に表現すれば、この患者とは正反対で、

「自分が皆と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」
ということです。

別にわたしは自分が人間ではないと証明されても一向に悲しみませんが、
『人間を人間たらしめている根拠乃至条件』とはいったい何ですか?

「他者への思い遣り」「共感能力」「愛する心」etcといったものでなく、
また生物学的な分類でもなく、「ある者は人間に等しい」ということが言えるとしたらそれは果たしてなにを根拠にしているのでしょう?

グレゴール・ザムザは「ヒト」でしょうか?或いは「甲虫」でしょうか?

例によってお礼が遅れるかもしれませんが、ご容赦ください。

正直自分でも何を訊きたいのか明確ではありません。何を言っているのかわからんという人はそのままお通りください。親切な人の気まぐれなお付き合いを希望しての投稿です・・・

精神病理学者木村敏の著作のなかで、彼の「分裂病」(70年代当時)の患者が、主治医である木村氏に言った言葉が強く印象に残っています。
それは
「皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」

ところで、今のわたしの感覚を正確に表現すれば、この患者とは正反対で、

「自分が皆と同じ人間なんだとい...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは、Blueさん。

以前、【人間】を【ニンゲン】と書いて質問し、猪突さんからお叱りを受けたことがあります。10年近く前のことですが。

___________

いきなり話が逸れますが、
1.わたしはあなたを愛します。なぜならわたしがあなたを求めるからです。
2.わたしはあなたを愛します。なぜならあなたがわたしを求めるからです。

わたしの場合は2.ですが、Blueさんならどちらですか。どちらも、という答えもありです。

___________


あなたが人間であることが自明なのは、

あなたがあなたとは違う、
あなたではない、
他の【人】を求めているからです。
狼ではなく【人】を。

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q何故私は「反・知性主義」なのか?

こんばんは。

例によって、「ヘン」な質問ですので、お暇で、何か感想を持たれた方の書き込みを希望します。

むかしから、「読書家」と言われる人、更には「利口者」「賢い人」「博識」「才気煥発」といった人たちに、ほとんど「憎悪」と言っていいほどの生理的嫌悪感を抱いています。

それが単に「持たざる者」の「持てる者」への羨望、嫉妬、やっかみに過ぎないというのならそれはそれで構わないのです。

わたしは精神障害者ですが、知的障害者でもある可能性も高いと感じています。

さて、わたしがこのような「反知性主義者」である理由は何に起因すると考えられますか?

上に述べたように、出来ない者が出来る者へ感じる至極単純な劣等感、情けない妬み・嫉みであるというお答えでももちろん結構です。
ただ、そのようにお答えになられた場合、何故あなたはそのような結論を出されたのか?
その理由を教えてください。

このような質問をするくらいですので、精神状態はあまりよくありません。お礼が遅れることもあると思いますがご理解ください。

Aベストアンサー

質問者さん自身が、「お礼」で「『自信ありげな態度』というのはどうしても好きになれません」などと書かれてますので。
それがそのまま「理由」じゃないですかね?

すなわち、知性が嫌いなのではなくて、「知性をひけらかす」などの行為や態度が、嫌いなのでは?
もしそうなら、質問者さんに限らず、そんなのが好きな人は、少数派ですよ。(^^;)

私も、哲学やその精神や本質(知を愛す)は好きなのですが・・。
言葉遊びとか、知(智)を弄ぶ様な、一部の「哲学ゴッコ」などには反吐が出ます。
他人を論破して喜んでいる様な哲学者気取りは、哲学を語る資格さえ無いと思います。

逆に哲学の原点は、「無知の知」であって。
「知」に対しては、常に謙虚であるべきですから、謙虚さのない知性に嫌悪する質問者さんは、真に哲学的なんでしょう。

Q足りないのは頭

だから、あなたと私は同じ。
なんか意見ある?

(削除されたので訂正再投稿)

Aベストアンサー

No.4です。

そっか、もし本当に知らなかったのならd_y_nさんは、ここの哲学欄を切っ掛けに好奇心をエンジンにして、いろいろ検索したり勉強すればこれから見違えるように伸びるよ。d_y_nさんはソクラテス並みに優れてるってことです。無知の知で検索してね。だから、あなたは皆さんと同じじゃない。

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む


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