『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

レスリングの吉田沙保里が引退を発表しました。
長い間の活躍、お疲れさまでした。
彼女は、引退の理由について「全てをやり尽くした」とは別に「女の幸せを求める」ということ漏らしていました。
ところで、"女の幸せ"とは言うことがあるにもかかわらず、”男の幸せ”はあまり聞いたことがありません。
男は幸せを求めないものでしょうか?
(幸せを家庭の幸せのみに限定することではなく)

A 回答 (22件中1~10件)

いや


そうではなくて

男はプライベートの幸せもパブリックの幸せも
分けて考えない
なぜならば普通に両立可能だから

女はどちらかを選ばざるを得ない
両立させるのは難しい
それでプライベートのほうを「女の幸せ」と分けて表現してるのでは?

ってことです
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この回答へのお礼

再度のご解答ありがとうございます。
男は、(女は、プライベートとパブリックを<両立させるのは難しい>
が)、プライベートとパブリックが<両立可能だから>、ことさらプライベートを表に出さない、ということですね。(まだ違うかな)

お礼日時:2019/01/17 19:37

まあ…「女の幸せ」っていうのは、所詮は「概念」ですから。


こういうのがそうだよ(大抵の場合はね!)ということで、すべてじゃないです。
そこには注意ですね。

男は、女性よりも「幸せについて」好き勝手に語れるだけです。
「立場」として、また「肉体的に」それが可能だということ。
女性が、育児について多くの時間を割かなければいけないのは、肉体的に「そうであるから」です。
妊娠や出産や、乳児期や幼児期、または思春期に至るまで、女性は自分の子供に「付き添う」必要があります。
それを「幸せ」と感じるなら、それが女性の幸せということなのでしょう。
しかし男性は女性ほどに、子供に寄り添わなくても済む…というか「寄り添っていられない」です。
そして肉体的にも、それが可能でもあります。
可能性が広いがゆえに「特別に語らなくても」男性は幸せというものを深く考えなくて済むのです。

女性と男性は、同じ人間であっても、ことごとく異なるものです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
男性は<「立場」として、また「肉体的に」それが可能だということ。>なのですね。
その<可能性が広いがゆえに「特別に語らなくても」男性は幸せというものを深く考えなくて済む>のですね。
<女性と男性>の間には、埋めにくい溝があるのですね。

お礼日時:2019/01/26 14:52

女は現実的で、打算的で、図々しく、厚かましく、目先の損得計算が働いて、直情的・感情的な生き物ですが、夫や子供に囲まれて平穏で堅実でな家庭生活ができれば幸せなんです。



それに対して男は、ロマンを追い、出世するとか、事業で成功するとか、有名になるとか、風呂敷を広げて自分の夢の実現に賭けることが出来るのが幸せなんです。
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この回答へのお礼

さっそくのごかいとうありがとうございますんs。
女性は数々の欠点があるが(女性の皆さま、ご免、ゆきがかりの言葉です)
<夫や子供に囲まれて平穏で堅実でな家庭生活ができれば幸せ>なのですね。一方、男は<風呂敷を広げて自分の夢の実現に賭けることが出来るのが幸せ>ですね。男・女の間に黒く深い裂け目があるのですね。

お礼日時:2019/01/21 19:21

はい


そんな感じですっ
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この回答へのお礼

ほっとしました。ゆっくり額の汗を拭きます。

お礼日時:2019/01/19 10:48

男の幸せという題でズバリの質問がこのカテにもありました。

それにも8件ほどの回答が寄せられていました。私はその質問に、男は自由を求めるものではないか、と回答致しました。今回はそれとは少し違う回答をしようと思います。

小さな子供達に夢を尋ねると、女の子の夢はお姫様とか、お嫁さんと言ったものがよく聞かれます。これは青年期に入っても明確な目標となって、現実味を帯びつつも持続するもののように思います。
男の子の方は、ヒーローとか社長と言うものがよく聞かれる一方、旦那さんとか、王子様と言うものはあまり聞かれません。
このあたりで既に、男女の幸福観の違いにも繋がる違いが見られるように思います。
男の子の方は英雄や偉い人になりたいと思うようで、これも青年期になっても現実味を帯びつつ確かな目標となって持続します。起業したいとか、独立したいと言うのが多くの男性の抱く夢、幸福観となるでしょう。サラリーマンと言うのが本望であると言う男性はとても少ないと思います。
一方で女性は男性には安定した職、つまり勤め人、サラリーマンである事を求める場合も少なくないですね。

男の幸せがあまり語られないのは、暗に明に、女性によって黙らされていたと言う事も時代によってはあったと思います。悪く言えば、女性が自分の幸せ(家庭)を叶えるために、男性の幸せ(独立)を蝕んで来たと言うことです。そして男性もそれを許容し、それに甘んじて来た。

しかし現代は、この様な様相では最早ありません。共働きが普通で、互いに支え合わなければやって行けず、男性が家庭の仕事を切り盛りする場面もあり、女性が社会運営を切り盛りする場面もある。
女性も組織や立場に縛られる苦しみと、仕事のやりがいを知り、男性も家庭の仕事の喜びを知っている。
で、でもやっぱり、家庭は女性、仕事は男性かな?と言う昔ながらの価値観にゆり戻りつつ、柔軟性をもった関係が構築されつつあり、それが広く認められているのが現代かなと思います。
いい意味でより個人主義が浸透して来たと見た方が、前向きかなとも思います。女性も近代社会の中に自分達の仕事場を作り出すことに成功しているし、男性の、仕事場以外での役割の重要性も認識されています。女性の夢にも仕事の独立が語られる事も今では珍しく無いですし、育児や教育、家庭や地域の環境について大きな役割を担おうとする男性も多いですね。
7:3とか、6:4と言った割合で互いの幸福を交換しあって、男女の幸福観にもより多様性が生まれている様に思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<男の子の方は><旦那さんとか、王子様と言うものはあまり聞かれません。>
”男の幸せ”とうたうと、<旦那さんとか、王子様と>かに引っ張られてしまう懸念があるので、”男の幸せ”の表現を避けるのですね。
とはいえ、<互いの幸福を交換しあって、男女の幸福観にもより多様性が生まれている>のですね。

お礼日時:2019/01/14 14:30

女性に経験できて男性にできないことも代表例は、妊娠・出産ができることと、(乳房で)授乳できることです。



例えば会社員の男女が結婚して「子供を作ろう」となったときに、男性は「育児休暇を取るか取らないか」を選ぶことができます。
しかし女性は会社を辞めるつもりがないなら、何らかの形で「会社を休む」ことが不可避です。
仕事の内容によっては「出産の前日まで仕事をする」というのは不可能ではありませんが、危険です。
また「出産した翌日から働き始める」のは無茶です。
ここは明らかに男女の差があります。

つい最近も医学部の大学入試で女性が不公平な扱いをされていたというニュースがありましたが、あれがまさしくそれです。

女性は「出産する」ということを選択した際には、つまり「仕事の第一線から離脱して、一歩後退する」ことを余儀なくされます。
卓球の福原愛選手も第一線を退きました。今は第二子を妊娠しておられると思います。

男性は「子供を持つ」という決断をしたからと行って、第一線を退かなくてもすみます。
女性は「子供を産む」という決断をするということは、多くの場合は同時に「仕事の第一線から退く」と決断することを意味するのです。
これを「女の幸せを選ぶ」と世間では表現しています。
女性は「女性にしか経験できない幸せを選ぶ」のか、それとも「それを捨てて、仕事の第一線で活躍し続ける」のか、多くの場合はどちらかを選択せざるを得ないのが現状なのです。

男性も、妻が出産するタイミングで「育児休暇を取るか取らないか」を選ぶこともできますが、この場合の「育児」は「男にしかできないこと」ではないので、そこでわざわざ「男の幸せを選ぶ」という表現をしてもピンときません。
一方で「出産する」という幸せは、男性には経験することが不可能です。ですので、これを「女の幸せを選ぶ」と表現するのは誰が聞いてもピンと来ます。

最近は「出産する」以外のことであっても「女性ならではの幸せ」に属することを「女の幸せ」という言い方をすることも増えた気はしますが、もともとは上記のような経緯に由来する言葉だと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。」
たとえば、男が哺乳瓶で授乳しても、<「男にしかできないこと」ではないので、そこでわざわざ「男の幸せを選ぶ」という表現をしてもピンときません。>
一方、「女性ならではの幸せ」がありますね。おっぱいで授乳など。女ならではの「<女の幸せを選ぶ」と表現するのは誰が聞いてもピンと来ます。>ですね。
女は苦労するのでしょうが、喜びも深いのでしょうね。

お礼日時:2019/01/13 19:31

こんにちは、公園ひふみさん。



男の幸せも多様化してゐますが、昭和から平成にかけての男の幸せ、というのは、実は予め用意されていた故に、また男どもがそれを何の疑いもなく男の幸せとして胃袋で消化してきた故に、わざわざ追及されることも無かったのではないでせうか。
結婚して妻を養わせていただき、子どもを2人作らせていただき、子どもが小学生になったらマイホームを買わせていただき、子どもが中高大生になったら学費を払わせていただく、ということが男の幸せだったのとちがいますか。女のわたしから見れば、男どもの云う「オレの幸せ」は、幸せもどきであり、幻想ですけどね。


>”男の幸せ”はあまり聞いたことがありません。
:妻や子どもに飼いならされているからでせうか。またそのことを歓んでゐるからでせうか。

>”男の幸せ”はあまり聞いたことがありません。
:公園ひふみさんの気のせいだと思ひますよ。人生100年時代ですから、60歳で定年して退職金をもらうのが男の幸せとは限らなくなってきました。ですから今の40代や50代の男どもは、リカレント教育を受け、資格を取り、70歳を過ぎても現役で働き、ぢぢいになっても幸せに生きてゐる人もいますので。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<昭和から平成にかけての男の幸せ>は、妻子を養う、ところにあると思い、<男どもがそれを何の疑いも>持っていなかったのですね。<女のわたしから見れば、男どもの云う「オレの幸せ」は、幸せもどきであり、幻想>にすぎなのですね。<妻や子どもに飼いならされているから>男の幸せは、聞くことが少ないのですね。

お礼日時:2019/01/13 17:51

その代わり「男子の本懐」という言葉があります。



自己の信念のためなら、路でのたれ死のうが、敵に鉄砲で撃たれようが、男として本望であるーー。

ただ昨今の風潮、少し時代がかって聞こえますね。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<その代わり「男子の本懐」>がありますね。
そもそも、男には”幸せ”がないのですね。<路でのたれ死のうが、敵に鉄砲で撃たれようが>なのですね。いわんや、”男の幸せ”なぞあるはずがない、のですね。

お礼日時:2019/01/13 15:57

考えたことも無かったですが、確かに聞かないですね( ´∀`)



女の幸せも、其々違うように、男の幸せも様々なんでしょうね。

お金より自由だったり、結婚して幸せに暮らすだったり、事業を成功させるだったり。

結局、男も女も幸せに違いはなく、未来に描くものに近づく努力をするキッカケに転職や引退があるのかもしれません。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
<女の幸せも、其々違うように、男の幸せも様々なんでしょうね。>ですね。
人さまざまですね。月並みのようですが、本人が満足すれば、それで良いのでしょうね。

お礼日時:2019/01/17 19:41

そうですね、時代と共に変わってきてはいますが 男は戦い(仕事等色々)に勝つことが幸せな生き物かなと考えました。

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<男は戦い(仕事等色々)に勝つことが幸せ>なのですね。
ところで、その”幸せ”に”男”を付けた”男の幸せ”という言葉が、なぜ聞かれないのはでしょうか?と質問していますが。

お礼日時:2019/01/13 11:32

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こんばんは。

例によって、「ヘン」な質問ですので、お暇で、何か感想を持たれた方の書き込みを希望します。

むかしから、「読書家」と言われる人、更には「利口者」「賢い人」「博識」「才気煥発」といった人たちに、ほとんど「憎悪」と言っていいほどの生理的嫌悪感を抱いています。

それが単に「持たざる者」の「持てる者」への羨望、嫉妬、やっかみに過ぎないというのならそれはそれで構わないのです。

わたしは精神障害者ですが、知的障害者でもある可能性も高いと感じています。

さて、わたしがこのような「反知性主義者」である理由は何に起因すると考えられますか?

上に述べたように、出来ない者が出来る者へ感じる至極単純な劣等感、情けない妬み・嫉みであるというお答えでももちろん結構です。
ただ、そのようにお答えになられた場合、何故あなたはそのような結論を出されたのか?
その理由を教えてください。

このような質問をするくらいですので、精神状態はあまりよくありません。お礼が遅れることもあると思いますがご理解ください。

Aベストアンサー

質問者さん自身が、「お礼」で「『自信ありげな態度』というのはどうしても好きになれません」などと書かれてますので。
それがそのまま「理由」じゃないですかね?

すなわち、知性が嫌いなのではなくて、「知性をひけらかす」などの行為や態度が、嫌いなのでは?
もしそうなら、質問者さんに限らず、そんなのが好きな人は、少数派ですよ。(^^;)

私も、哲学やその精神や本質(知を愛す)は好きなのですが・・。
言葉遊びとか、知(智)を弄ぶ様な、一部の「哲学ゴッコ」などには反吐が出ます。
他人を論破して喜んでいる様な哲学者気取りは、哲学を語る資格さえ無いと思います。

逆に哲学の原点は、「無知の知」であって。
「知」に対しては、常に謙虚であるべきですから、謙虚さのない知性に嫌悪する質問者さんは、真に哲学的なんでしょう。

Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

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1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


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Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

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この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

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Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Qもし、日本にキリスト教がもっと普及していたら?

アメリカでは、人口の70%がキリスト教徒だそうです。
日本では、キリスト教徒は人口の1%です。その割には、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンなどキリスト教の行事が盛んですが。
それはさておき、
もし、日本に、キリスト教が、もっと普及していたら、日本は変わっていたと思いますか?日本の社会や国民性は変わっていたと思いますか?もしそうなら、どのように変わっていたと思いますか?

Aベストアンサー

日本は「宣教師の墓場」といわれていたくらいで、西洋では知識階層の宣教師の論法が日本の農民に論破されるくらいですから、普及することはあり得ないと思いますよ。ザビエルが日本を撤退するとき、「ほとほと疲れた」と書いています。

インドが200年イギリスに支配されてもキリスト教が布教できなかったり、中国にも景教以外のキリスト教はほとんど入っていません。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)に対抗できる精神的風土を持つ国にはキリスト教は進入できませんでした。持っていなかった韓国のキリスト教はカトリックやプロテスタントではなく、カルト教会が大部分で、代表が統一神霊協会です。

Q存在理由=レゾンデートルの味

人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

Aベストアンサー

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。

Q素朴な質問シリーズなんですが お知恵を貸して貰えると助かります 続、善悪の定義 (  ̄▽ ̄)ニャリ

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが


集団の教えから離れ
個人的な善悪の判断を迫られた時に
どうやって定義付するのでしょうか?

( ̄~ ̄;)個人的には、どうあっても
善であると、思い込んで生きているが
その、大前提に疑問を抱いた時に

もしも、この世の中に善悪なんて存在しないかも?
でも、自分自身は善であるはずなんだが・・・

そんな状況はまずおこらないでしょうが
おきたとしたら

他人と比較して、他人を悪にしてしまう
悪を造り上げてしまうのかな?
あれは、間違えてるから、悪であって
自分自身は間違えてないから、善である
と、なるのかな?

今ここに居るわたしは、善か悪か解らないが、それで良いじゃないか
と、定義付を辞めるのかな?


誰しも、自分自身が善でありたいとは思われますが

はたして・・・

ほんまに突拍子もない
素朴な疑問なんですが、お時間のあるかた
貴重な回答をお待ちしてますm(._.)m

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが

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Aベストアンサー

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 " も
同じに なるであろう

行動で 云えば 宮﨑駿 の
『もののけ姫』が 語っている
他方から みれば 善 であり
また 他方からは 悪 に なる
それは
一方からは " 生きる為に必要な もの" であり
もう 一方では " 生きる為に取り除きたい もの " なのである
利便 快適 を 相対するもの からみれば 搾取であり
また 同時に 糧である(対する位置に 居るものに取れば)

パンドラの匣に 残った
総ての悪 災 禍 が 去った後に残った 希望
そのひとつは
忘れ去る能力なのだ と思う

ただ 総ての 欲を 葬り去れば
無 に しかならない
待つのは 死 (無)である


と こんな事 考えてみました

浅かったら ごめんね

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 ...続きを読む

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Qアラシ投稿の阿呆さについて ご意見をどうそ。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合もある。

3. これらの例は ふつうに自然に起こる人間どうしのヨコの関係です。そして
ここで問題としたいのは このヨコのではなく もしその互いの間に上か下かとい
うタテの関係が生じたなら どうするか? です。



4. 抽象的に規定しますと 《互いのマナザシがどちらか一方が他方よりも上か
ら差して来る》といった上下の関係です。(まだほっかほかの質問として マウン
ティングの問題が出ていましたね)。


5. まづ このタテの関係については ふたつの種類があると思います。
( a ) ふたり――といった単位体を例に採りますが――のあいだにそれこそ自生
的に生じたもの。気楽なマジハリ。
( b ) そして あとは 人為的に作為的につくられたタテ関係。

6. 大昔には 身分の世襲制によって 人びとそれぞれのマナザシは どのよう
にそそぐか(注がれるか)は 決まっていたとも言えます。

7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
下関係を打ち破っているか? マナザシは 完全に自由になったか?

8. 家族の中での――遠慮の要らない――マナザシの錯綜関係もあるでしょうし
けっきょく果ては 国と国との関係における〔こちらは〕深謀遠慮なるアマアガリ
戦術としてのマナザシ照射も 起きるのかも知れません。

9. ここで問うのは こうです。アラシ回答は アマアガリ・シンドロームに落
ち入った阿呆なるマナザシ合戦である――という命題をめぐって 思うところを述
べてくださいと。

10. また広く人間のマナザシ関係について 見解を述べてくださっても結構で
す。制約はありません。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合...続きを読む

Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。

Q足りないのは頭

だから、あなたと私は同じ。
なんか意見ある?

(削除されたので訂正再投稿)

Aベストアンサー

No.4です。

そっか、もし本当に知らなかったのならd_y_nさんは、ここの哲学欄を切っ掛けに好奇心をエンジンにして、いろいろ検索したり勉強すればこれから見違えるように伸びるよ。d_y_nさんはソクラテス並みに優れてるってことです。無知の知で検索してね。だから、あなたは皆さんと同じじゃない。

Q芸術の絶対性

https://www.youtube.com/watch?v=dhA5D7qkHwA&list=RDdhA5D7qkHwA&start_radio=1

音楽好きの私のとって彼は日本では宇多田ヒカル以来の才能だと思いました。
k-popに刺激されたのでしょうか?
世界でどう評価されるかという問題はあるにせよ、何十年に一人の才能に思えます。

音楽もダンスもいいですね。○ soul brothersとは悪いけどケタが違うと思います。

音楽にせよ何にせよ、芸術というものには「好み」という相対的なものと、多くの人が
「いいね」と感じる絶対的なものがあると思います。この点どう思われますか?

また、絶対的なものがあるとお考えの方、それは何だと思われますか?

Aベストアンサー

No.16 関連で。

>アーツの流れがエンタメに流れ込んでいる

に関して、最近、ある日本画の画伯から聞いた感動的な話を紹介しましょう。その方は60代後半の方で、著名な寺社の襖絵や天井絵をお描きになるなど、芸術家として大成なされた方です。今までの生き様をお聞きしました。

彼は中学時代から話をされましたが、芸大の日本画科の大学院を出て、最初の8年間自分の書いた絵が一枚も売れない。すでに結婚しておられたのですが、極貧の生活だった。その苦しみたるや、絵を描いている最中に筆が指から落ちてしまい、絵を描けないようなことが2度ほどあったそうです。そんなある日、テレビ局から番組の背景の絵を描いてくれないかとの依頼が入り込んできた。それを請け負ったら凄いお金が入ってきた。その直後、宣伝会社の博報堂の方が、画伯に博報堂の専属の社員として働かないかと言うのです。そしてその給料が目の飛び出すほどだったのです。早速画伯の奥様に話した時の、その奥様の反応がすごかった。

「もしあなたが、それを受けてしまったら、最早芸術としての絵を描ける人にはならないでしょう、それでも良いんですか。」

と言われたそうです。娯楽に走ってしまったら、芸術は諦めることになるが、それでも良いのか。その画伯は、結局博報堂の提供を断ったそうです。その後、絵の買い手が少しづつ付くようになって生活も安定し、今ではこのように大学の芸術科の教授を依頼されたり、自分の工房で何人もの弟子を取って後輩を指導できる身になったとのことです。

その話を私の家内に言ったところ、一言「その奥様は、天晴!」と言いました。芸術の流れが娯楽に流れ込む、その画伯はその危険性を本能的に感じて、一歩踏みとどまったんだと思います。

常々思っていることなんですが、チャイコフスキーの劇的な音楽は娯楽志向の境目にいるのですが、ギリギリ芸術の領域にとどまった。ところが、なるほどこの手があると娯楽映画の映画音楽作家たちが、チャイコフスキーの音楽を真似しだした。でも、それは結局退化であって、芸術と娯楽の境目で、皆娯楽側に落ち込んでしまった。確かにバーバーの『アダージョ』など、映画の背景として用いられ、素晴らしい効果を出した曲もありますが、バーバーはそれを映画音楽として作曲したわけではありません。娯楽が芸術の成果を使わせてもらっているだけでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=s9xrUotL7wc

No.16 関連で。

>アーツの流れがエンタメに流れ込んでいる

に関して、最近、ある日本画の画伯から聞いた感動的な話を紹介しましょう。その方は60代後半の方で、著名な寺社の襖絵や天井絵をお描きになるなど、芸術家として大成なされた方です。今までの生き様をお聞きしました。

彼は中学時代から話をされましたが、芸大の日本画科の大学院を出て、最初の8年間自分の書いた絵が一枚も売れない。すでに結婚しておられたのですが、極貧の生活だった。その苦しみたるや、絵を描いている最中に筆が指から落ちて...続きを読む


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