人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

1. ▲ (J.-J.ルウソ:エミール・冒頭)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1-1. 万物をつくる者の手をはなれるときすべては よいものであるが 人間の手
にうつるとすべてが悪くなる。

Tout est bien sortant des mains de l'Auteur des choses, tout dégénère entre les
mains de l'homme.
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1-2. ☆ ほんとかしらと思うけれど まぁ そういう想定なのでしょう。
しかし 良し悪しの隔たりが 大きすぎる感じではある。


2. ▲ (同上・第一編 今野一雄訳 岩波文庫 p.31 ) ~~~~~~~~~~~
2-1. 自然の秩序のもとでは 人間はみな平等であって その共通の天職は人間で
あることだ。

2-2. ・・・両親の身分にふさわしいことをするまえに 人間としての生活をする
ように自然は命じている。

2-3. 生きること それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2-4. ☆ 《互いに平等である人間という務め》という規定において《自然人》を
保った。世間との折り合いの第一だ。


3. ▲ (同上 p.28 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3-1. 社会状態にあって自然の感情の優越性をもちつづけようとする人は なにを
望んでいいかわからない。

3-2. たえず矛盾した気持ちをいだいて いつも自分の好みと義務とのあいだを動
揺して けっして人間(☆ または市民)にも市民(☆ または公民)にもなれない。

3-3. 自分にとってもほかの人にとっても役にたつ人間になれない。それが現代の
人間 フランス人 イギリス人 ブルジョワだ。そんなものはなににもなれない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3-4. ☆ これは 必ずしも だからダメだと批判しているのではないようだ。
引用が長くなっていますが もう少し つなぎましょうか。


4. ▲ ( pp.28-29 承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
4-1. なにものかになるためには 自分自身になるためには そしてつねに一個の
人間であるためには 語ることと行なうことを一致させなければならない。

4-2. その人は人間(☆ 自然人=市民)か 市民(☆ 社会人≒公民)か あるい
は人間であるとともに市民であろうとしてどんなふうに行動するかを知るために そう
いうすばらしい人間をだれか示してくれるのをわたしは待っている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
4-3. ☆ とは言うものの 次のような処方箋を書いている。


5. ▲ ( p.30 )~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
5-1. もし 人がめざす〔☆ 自然と文化(社会)という〕二重の目的が一つにむ
すびつけられるなら 人間の矛盾をとりのぞくことによって その幸福の大きな障害を
とりのぞくことになる。

5-2. そういう人間を知るためには すっかりできあがったその人間を見ることが
必要だろう。その人の傾向を観察し 進歩をながめ その道程をたどっておくことが必
要だろう。

5-3. 一言でいえば 《自然人》を知らなければならない。この書物を読めば そ
の研究においていくらか前進したことになるだろうとわたしは信じている。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
5-4. ☆ 出発点に戻ってしまって 処方箋どころか 狐につままれた思いになる。
けれども (2)でつけた折り合いにおいては 主旨がすでに明らかにされているとも
見られる。

5-5. ルウソの〔その後〕示すこたえによるにしろ・よらないにしろ みなさんは
どう考えるか? ただちに問いをみなさんにふってみたいと思います。どうですか?

5-6. つまりたとえば 《人間であるということなる天職》が 樅の木であれば
あとはいかにシガラミのごとくくっついて来ているにせよ そのツリーのカザリは わ
れの引き受けた務めであって 屁でもない。――といった生き方なのだろうか?

質問者からの補足コメント

  • №5お礼欄からのつづきです。

    すなわち:
    ▲ 3-2. たえず矛盾した気持ちをいだいて いつも自分の好みと
    義務とのあいだを動揺して けっして人間(☆ または市民)にも市民
    (☆ または公民)にもなれない。
    ☆ という問題――《運命》とも《天職》とも言える《人間の置かれた
    天与の条件》――のもとに問い求められて行きます。難儀が予想されま
    す。

    すなわち たとえば:
    ★ 5-1. 「「自然」と「社会」が結びつくことはあり得ない。人
    間は自然を支配することができるだけ。」
    ☆ という見解が 社会全体の中でどう捉えられているのか?

    質問者の見解は (5-6)に述べました。《自然と社会とが第二次の
    さだめとしてのごとく結びついたかたちを 自然人たる人間は たずさ
    えて生きることを 〈多くの場合には〉余儀なくされる。屁でもない》。

    このような出で立ちではないかと思います。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/01/18 04:05

A 回答 (5件)

こんばんは。



上記のルソーの言葉について、思ったことを(例によって「回答」ではない)記させていただきます。

1-1. 万物をつくる者の手をはなれるときすべては よいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる。

「万物を造る者」とは具体的には「神」のことでしょうか?
「そのときすべては よいものであるが」──そうは思いません
「人間の手にうつるとすべてが悪くなる。」──基本的にはそう思います。つまり人間は美しいものを創り出すこともこともあるが、それを遥かに上回る大きさで、世界を悪く醜くさせる、と。

2-1. 自然の秩序のもとでは 人間はみな平等であって その共通の天職は人間であることだ。
2-2. ・・・両親の身分にふさわしいことをするまえに人間としての生活をするように自然は命じている。

「人間」の定義が不明。

2-3. 生きること それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。

「生きること」の定義が「曖昧」

3-1. 社会状態にあって自然の感情の優越性をもちつづけようとする人は なにを望んでいいかわからない。

「それが本来の状態だと思う。」

3-2. たえず矛盾した気持ちをいだいて いつも自分の好みと義務とのあいだを動揺して けっして人間(☆ または市民)にも市民(☆ または公民)にもなれない。

「これこそが本来の人間の姿であると思う」

3-3. 自分にとってもほかの人にとっても役にたつ人間になれない。それが現代の人間 フランス人 イギリス人 ブルジョワだ。そんなものはなににもなれない。

「役に立つ人間とは何か?」

4-1. なにものかになるためには 自分自身になるためには そしてつねに一個の
人間であるためには 語ることと行なうことを一致させなければならない。

「一個の人間あること」と「何者かであること」とは同じではない。乞食であっても「一個の人間」に他ならないのだから。
また「何者かになること」と「自分自身であること」とは背馳すると思う。



5-1. もし 人がめざす〔☆ 自然と文化(社会)という〕二重の目的が一つにむ
すびつけられるなら 人間の矛盾をとりのぞくことによって その幸福の大きな障害を
とりのぞくことになる。

「「自然」と「社会」が結びつくことはあり得ない。人間は自然を支配することができるだけ。」

5-2. そういう人間を知るためには すっかりできあがったその人間を見ることが
必要だろう。その人の傾向を観察し 進歩をながめ その道程をたどっておくことが必
要だろう。

「神のことを言っているのか?」

5-6. つまりたとえば 《人間であるということなる天職》が 樅の木であれば
あとはいかにシガラミのごとくくっついて来ているにせよ そのツリーのカザリは わ
れの引き受けた務めであって 屁でもない。――といった生き方なのだろうか?

よくわからない。

「人間である」ということは「天職」ではなく、寧ろ「運命」
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ルウソ自身の趣旨をおもんぱかることは №3を中心として neutraling
さんとのやり取りでいくらかおこないました。

質問者の問い求めの姿勢に重心を移してお応えしてまいります。

★ 2-2. 「人間」の定義が不明。
★ 2-3. 「生きること」の定義が「曖昧」
☆ については なお定義をためらっていますが お話は通じているか
と思います。

★ 3-1./ 3-2. 「これこそが本来の人間の姿であると思う」
☆ というふうに《人間》という言葉を使っておられる。いまは これ
でじゅうぶんかと思います。

★ 5-6. 「人間である」ということは「天職」ではなく、寧ろ
「運命」
☆ こちらの命題は かなり重みを帯びた思想を明らかになさった。と
感じます。

選択の余地がないという意味を強引に共通の要素だと採れば 天職と運
命とは 重なりますね? そしてこれが 《なにものかになる》ことで
もあると見ます。

そしてこの解釈にもとづき 次のご指摘は 基本としてあたらないとも
見ます。
★ 4-1. 「一個の人間あること」と「何者かであること」とは同
じではない。乞食であっても「一個の人間」に他ならないのだから。
また「何者かになること」と「自分自身であること」とは背馳すると思
う。

そのあと たとえば:
★ 3-3. 「役に立つ人間とは何か?」
☆ という課題を持って 社会人で〔も〕あることという応用編に入り
ます。

★ 1-1. 「人間の手にうつるとすべてが悪くなる。」──基本的
にはそう思います。つまり人間は美しいものを創り出すこともこともあ
るが、それを遥かに上回る大きさで、世界を悪く醜くさせる、と。
☆ といった・善悪や美醜が相対的なあり方を成す世界――広く人間の
世界――の問題です。

その世界で《役に立つ人間》とは どういうことか? あるいは 《役
に立つ》必要があるのか?

つづく

お礼日時:2019/01/18 03:59

コーヒーブレイク。


わたしの大好きな詩です。


新川和江 わたしを束ねないで

___________



わたしを束ねないで

あらせいとうの花のように

白い葱(ねぎ)のように

束ねないでください わたしは稲穂

秋 大地が胸を焦がす

見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂


わたしを止めないで

標本箱の昆虫のように

高原からきた絵葉書のように

止めないでください わたしは羽撃(はばた)き

こやみなく空のひろさをかいさぐっている

目には見えないつばさの音


わたしを注(つ)がないで

日常性に薄められた牛乳のように

ぬるい酒のように

注がないでください わたしは海

夜 とほうもなく満ちてくる

苦い潮(うしお) ふちのない水


わたしを名付けないで

娘という名 妻という名

重々しい母という名でしつらえた座に

座りきりにさせないでください わたしは風

りんごの木と

泉のありかを知っている風


わたしを区切らないで

,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落

そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには

こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章

川と同じに

はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩



___________



中学校の国語の教科書で読んでから大好きです。
この「わたし」も「自然人」の部分を
大切にしたい人なのではないかしら。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

まづ№3からのつづきです。

☆☆> 障害と共存しつつこれを突き抜けるといった志向性でしょうか?
★: そうすることを彼ら彼女らは選ぶのだと思います。
☆ そのことも 《なにものかになる》の内容だと見ます。

★ それでも世間からは常識(?)通りになれと言われることがあるよ
うです。そうなると彼ら彼女らは「命を削って生きる思い」をして生き
ることになるのだと思います。
☆ この事態は 応用編なのだと見ます。

応用編は おのおのつねに起こり得ますね。:
★ わたしの娘は保育園および小学生時代、スカートとロングヘアが大
嫌いでしたから、ずっとズボンとショートカットで過ごしました。中学
校に入学して初めて制服であるスカートを穿きましたが、今は納得して
スカートを穿いているようです。


▲> それが現代の人間 フランス人 イギリス人 ブルジョワだ。
★: これは何の象徴なのですか、あるいは何の比喩ですか。
☆ 自然人である部分がつよい場合の人間一般を言っていると見てよい
と思います。

▲> そういうすばらしい人間
★: これはすでに「なにものかになった人間」のことですか。
☆ だと思います。


☆☆ 自然人は どのように折り合いをつけて 社会人と共存するか?
★: どのように折り合いをつけるか、に関してはまだわたしからは意
見が出ません。そのそも自然人は社会人にフィットしたいのかどうかも
分かりません。でも自然人も「ひとり」では人間として生きていられな
いでしょうから、何かしら社会人(あるいは他の自然人)との接点は求
めているのでしょうね。
☆ と思います。《フィットしない》で社会人で〔も〕あることを模索
するかも分かりません。

   *

詩について 出しゃばってコメントします。

◆ (末尾) ~~~
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章

川と同じに

はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
~~~
☆ 《終わりのない文章》と聞いて そのあと《一行の詩》とあるので
ちょっととまどったのですが こう解しました。

つまり 《一行の詩》たるわたしは 《川》であり その内部で流れを
も持ち《旅を推し進めている。つねに あたらしい場所をも経巡ってい
る。果てしなく》と。

新川和江は 名前は知っています。

お礼日時:2019/01/17 16:44

こんにちは、ぶらじゅろ~ぬさん。




もうひとつ分からないことがあります。「なにものかになる」というのはどういう意味なのでしょう。何か地位や肩書を持ったり、何かの集団(例えば地球人だとか日本人だとか会社員だとか学校の児童だとか)に所属することとは少し違うようですね。妻だとか母になるというのとも違うのでしょうね。それはたぶん「役割」のひとつに過ぎないでせうから。

自分にぴったりフィットする「何か」や「枠」を持ってゐるということですか。
自分がどのように生きてきたかを分かり、これからどう生きるかという地図や企画書を持ってゐるということですか。自分の文体として完成しているということですか。
社会的文脈に組み込まれるということですか?
いきなり質問だらけで申し訳ないのですが、これが分からないと「なにものにもなれない」の意味が分からないので。1番の回答で、わたしが間違って解釈しているかもしれないので。


>3-1. 社会状態にあって自然の感情の優越性をもちつづけようとする人は なにを望んでいいかわからない。
:社会人デビューとして、「保育園への入園」というのがあります。それまで「家庭」という社会だけで生きてきた3歳児たちが「保育園」という社会の中で集団生活を始めます。それこそしばらく「なにを望んでいいかわからない」ので、登園した瞬間、母親の姿が見えなくなるまで泣きわめきます。これは、社会人(保育士さんや他の園児)に対しての「求め方」や「甘え方」を知らないからという別の理由もあると思います。
保育園に入ると、お昼ご飯は「みんなと同じ給食」という決まりになります。好き嫌いの激しい幼児は、しばらく給食のほとんどに手を付けないのだそうで、保育士さんは、だいたい何でも食べられるようになると安心するのだそうです。保育園という社会に馴染んだのだなあ、と。もちろん例外もいるそうです。


>たえず矛盾した気持ちをいだいて いつも自分の好みと義務とのあいだを動揺して
:好き嫌いの問題ではないのですが、わたしはトランスジェンダーの方たちを思い浮かべました。自分は男だと感じているのに、女の身体を持って生まれた場合、なにを望んだらよいか分からないどころか、女の形をしている自分の身体に「望むことは何ひとつない」のではないかしら。

>障害と共存しつつこれを突き抜けるといった志向性でしょうか?
:そうすることを彼ら彼女らは選ぶのだと思います。それでも世間からは常識(?)通りになれと言われることがあるようです。そうなると彼ら彼女らは「命を削って生きる思い」をして生きることになるのだと思います。

わたしの娘は保育園および小学生時代、スカートとロングヘアが大嫌いでしたから、ずっとズボンとショートカットで過ごしました。中学校に入学して初めて制服であるスカートを穿きましたが、今は納得してスカートを穿いているようです。


>それが現代の人間 フランス人 イギリス人 ブルジョワだ。
:これは何の象徴なのですか、あるいは何の比喩ですか。

>そういうすばらしい人間
:これはすでに「なにものかになった人間」のことですか。

___________


自然人は どのように折り合いをつけて 社会人と共存するか?
:どのように折り合いをつけるか、に関してはまだわたしからは意見が出ません。そのそも自然人は社会人にフィットしたいのかどうかも分かりません。でも自然人も「ひとり」では人間として生きていられないでしょうから、何かしら社会人(あるいは他の自然人)との接点は求めているのでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「なにものかになる」というのはどういう意味なのでしょう。
▲ 3-3. 自分にとってもほかの人にとっても役にたつ人間
☆ ここが 分かりやすいのではないでしょうか。

次も ルウソ自身の説明ですね。:
▲ 4-1. なにものかになるためには 《自分自身になる》ためには 
そして《つねに一個の人間である》ためには 語ることと行なうことを一致
させなければならない。
☆ この(4-1)は 次のような捉え方において 理論としての基本なの
でしょう。
▲ 2-1. 自然の秩序のもとでは 人間はみな平等であって その共通
の天職は《人間であること》だ。
☆ (3-3)は その応用として社会人であるという観点を加味している
と思います。

理論としても応用としても 《なにものかになる》とは:
★ 自分の文体として完成しているということで
☆ しょうね。

応用編の場面として:
★ 自分にぴったりフィットする「何か」や「枠」を持ってゐるということ
★ 自分がどのように生きてきたかを分かり、これからどう生きるかという
地図や企画書を持ってゐるということですか。自分の文体として完成してい
るということ


ただし 次は微妙です。:
★ 社会的文脈に組み込まれるということですか?
☆ ふつう《組み込まれる》と言った場合には 《主体的に・よく》という
意味はないかも知れません。

でも 情況や世の中全体と《一体である》ときにこそ チカラをよく発揮で
きるということかも分かりません。


3-1.
★: 社会人デビューとして、「保育園への入園」というのがあります。
☆ たしか《公園デビュー》もありますね。

★ それこそしばらく「なにを望んでいいかわからない」ので
☆ いえ これは《慣れ》の問題なのでは?

★ 保育園という社会に馴染んだのだなあ、と。
☆ 園児の場合は まだ思想や文体が成り立っていませんので 別では
ないかと。


★: わたしはトランスジェンダーの方たちを思い浮かべました。
☆ この《T》という場合は 詳しく知らないのですが もし:
★ 自分は男だと感じているのに、女の身体を持って生まれた場合
☆ だとしたら そのように全体としておのれを捉えて その自分が
《なにものかになる》ことに努めればよいと思います。


つづく

お礼日時:2019/01/17 16:33

なんか大量に話し忘れてゐる気がするのですが、今日は疲れたのでこれで終わります。


【自然人】の定義を、ぶらじゅろ~ぬさんの言葉でもっと明確にしてもらえると助かります
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この回答へのお礼

№1お礼欄のお応えは ちょっと端折り過ぎたかも分かりません。

まづ そのつづきです。

★(№1) :そもそも幸福には障害がつきものなのだから、それを人為的に取
り払ってはいけないのではないかしら。
☆ 首ひとつだけは水の上に出ているといった幸福ではないかと。《取り払う》
と言っていますが 障害と共存しつつこれを突き抜けるといった志向性でしょう
か?


5-2
★ :すっかりできあがった人間というのも想像するのが困難です。・・・
☆ 世間とは そういうことなんでしょうけれど。


★ 帰り道でオオイヌノフグリの花を見つけた細かい喜びの他、怒りとか嫌悪と
か淋しさとか悲しさとか、全部われの引き受けた務めであって、屁でもないのだ
と思いますし、その感情のためのゴミ処理場も不要なのだと思ひます。
☆ なるほど。ゴミ処理というのは 実際に心の中で処理することがあるかとは
思うんですが。

    *

そうですね。《自然人》の問題ですが。・・・

文化(言葉化)は――人間関係が出来て 社会化のことになるわけですが――
反・自然であるという見方が まづあるのでしょう。つまり (1-1)です。

社会人というのは ふつう一般に《自然(自然児?)と反自然たる文化》とが
入りまじった《身と心から成る》人格として生きるのだと思われます。

ルウソは 自然人をことのほかおもんじています。何とかこれを――社会人に
なった場合にも――保持したい。という志向性がつよいのではないでしょうか?

▲ 3-1. 社会状態にあって自然の感情の優越性をもちつづけようとする
人は なにを望んでいいかわからない。
☆ といった状態に落ち入るのだと。――そこらあたりの・人間性の問題をあ
つかっているのだと思います。

▲ 5-1. もし 人がめざす〔☆ 自然と文化(社会)という〕二重の目
的が一つにむすびつけられるなら 人間の矛盾をとりのぞくことによって そ
の幸福の大きな障害をとりのぞくことになる。
☆ つまりここで 《矛盾を・あるいは障害を〈とりのぞく〉》と言っていま
すが これは 表現がまづいのでしょうね。

《自然と文化という両方の側面を活かす》こと。そのために 調整するといっ
た方向と内容なのだと思います 言いたいことは。

自然人は どのように折り合いをつけて 社会人と共存するか?

お礼日時:2019/01/16 18:47

こんにちは、ぶらじゅろ~ぬさん。


わたしにとっては質問がむづかしすぎるので、例によって破片的な感想になります。

1-1.
>人間の手にうつるとすべてが悪くなる。
:いきなり納得できません。そもそも人間の手によってしかヒトは人間になれないのと違いますか。人間になる過程あるいは人間になった結果の、「(社会から期待される)出来の良し悪し」だとか「商品価値としての良し」悪しを問わず。

1-2.
>そういう想定なのでしょう。
>しかし 良し悪しの隔たりが 大きすぎる感じではある。
:というのは、それぞれの個人にとっての「事実」、ということなら同意します。

2. 同意。
「なにものかにならなくてはならない」という呪縛から解放されているのは、悪いことではないと思います。

2-4. 同意。

3. 省略。なにものかにならなくてはいけないわけではないと、上に書きましたので。
>自分の好みと義務とのあいだを動揺して
:教育とか労働とか納税とかは普通に義務ですが、実は人間の「義務」というのはものすごく少ないし、人間に「できること」もものすごく少ないのぢゃないかしら。という能天気さがあるのとないのとでは生きづらさに違いが出てくると思ひます。たとへば「空気を読む」のが「義務」の一部になっているやうですが、「そんなものは義務ではない!」と主張する人が増えることをわたしは期待しています。「義務」の姿をしてはいるけれど、実は「こうした方がラクだよ」という囁きのような、名ばかりの「義務」も多く、直感で(?)見分けて取り込んだり捨てたりする必要があると思ひます。

少し話が逸れますが、最近、お金関係の本をよく読んでゐます。お金ももともと「信用しなくてはならない」という義務があるものではありませんが、お金は交換の手段として使えるし、価値を測る尺度としても使えるし、価値を貯めることにもつかうことができ、お金が大嫌いな人はあまりいないと思います。数ヶ月前に出版された本たちを読んでいると、「スマホ決済」「電子マネー」「クレジットカード」「プリペイドカード」「デビットカード」「仮想通貨」「キャッシュレス」などの便利さが強調して書かれています。便利さが協調されていますが、今のところわたしにとっては「必要不可欠なもの」「義務」とは感じておらず(といいますかむしろ嫌いなので)、支払いはもっぱら現金で!を貫いています。


5-1.
>人間の矛盾をとりのぞくことによって
:人間にとって「矛盾の無い状態」というのを想像することができません。

>その幸福の大きな障害をとりのぞくことになる。
:こちらもよく分かりません。そもそも幸福には障害がつきものなのだから、それを人為的に取り払ってはいけないのではないかしら。


5-2
>すっかりできあがったその人間を見ることが必要だろう。
:すっかりできあがった人間というのも想像するのが困難です。人は神ではありませんから、みんな凸凹しています。Aさんの凸は好きだけど凹は苦手、という場合、A凸の部分をありがたく吸収し、Aさんの凹の部分についてはBさんやCさんが凸な部分に視線を移せばよいのでは?


>そのツリーのカザリは われの引き受けた務めであって 屁でもない。
:わたしの感情は、他でもなくわたしのものですから、その感情に付き合うのはわたしの務めでしょうね。帰り道でオオイヌノフグリの花を見つけた細かい喜びの他、怒りとか嫌悪とか淋しさとか悲しさとか、全部われの引き受けた務めであって、屁でもないのだと思いますし、その感情のためのゴミ処理場も不要なのだと思ひます。


質問の趣旨からズレていたら澄みません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1-1.
★ :いきなり納得できません。そもそも人間の手によってしかヒトは人間にな
れないのと違いますか。・・・
☆ 難しいんですが ルウソに沿って受け取るならば おそらく《善と悪を知る
木から採って食べた》といった含みを持たせているのでしょうか?

いちいち人間の知識と判断をとおして――つまりは かんばしからぬことを思い
の中にしのばせて――生きることになったと。

1-2.
★ :というのは、それぞれの個人にとっての「事実」、ということなら同意し
ます。
☆ わたしの意味合いは 良し悪しの白か黒かが 全か無かのかたちに成ってい
るので どうかな・・・と単純なものです。

2.
★ 同意。「なにものかにならなくてはならない」という呪縛から解放されてい
るのは、悪いことではないと思います。
☆ 社会の中にいつつ 人間の知性〔および霊性?〕で何がしか世の中の水嵩を
超えている・・・《蓮》のごとく?



3. 
★ :教育とか労働とか納税とかは普通に義務ですが、実は人間の「義務」とい
うのはものすごく少ないし、人間に「できること」もものすごく少ないのぢゃな
いかしら。・・・
☆ 快不快の原則だとか好悪の原則があると言われます。
先ほどの蓮のごとく水面から首を出しているというのは 善悪の彼岸を見据えて
いるんでしょうか?

★ 最近、お金関係の本をよく読んでゐます。お金ももともと「信用しなくては
ならない」という義務が・・・
☆ そのひとつの存在理由としては 等価交換のシルシに成ることかと。

ただし ルウソの観想(霊性?)は そのような人間が〔社会関係的に〕判定す
る価値にしても それがたとえ等価交換だとしても どうも《人間の手に渡り切
っている》なら かんばしくない・・・と思うのでしょう。相対性の世界の中で 
ただあっちへ行ったりこっちへ来たりしてあたかも撞球の球のようでしかないと
でも受け取っているのでしょう。自然人だとすると。




5-1.
★ :人間にとって「矛盾の無い状態」というのを想像することができません。
☆ それは そうなんですがね。つまり 自然人の霊性のごとき感性が 繊細な
んでしょう。


№2お礼欄につづきます。

お礼日時:2019/01/16 18:28

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先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
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先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

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ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

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こんばんは。

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それが単に「持たざる者」の「持てる者」への羨望、嫉妬、やっかみに過ぎないというのならそれはそれで構わないのです。

わたしは精神障害者ですが、知的障害者でもある可能性も高いと感じています。

さて、わたしがこのような「反知性主義者」である理由は何に起因すると考えられますか?

上に述べたように、出来ない者が出来る者へ感じる至極単純な劣等感、情けない妬み・嫉みであるというお答えでももちろん結構です。
ただ、そのようにお答えになられた場合、何故あなたはそのような結論を出されたのか?
その理由を教えてください。

このような質問をするくらいですので、精神状態はあまりよくありません。お礼が遅れることもあると思いますがご理解ください。

Aベストアンサー

質問者さん自身が、「お礼」で「『自信ありげな態度』というのはどうしても好きになれません」などと書かれてますので。
それがそのまま「理由」じゃないですかね?

すなわち、知性が嫌いなのではなくて、「知性をひけらかす」などの行為や態度が、嫌いなのでは?
もしそうなら、質問者さんに限らず、そんなのが好きな人は、少数派ですよ。(^^;)

私も、哲学やその精神や本質(知を愛す)は好きなのですが・・。
言葉遊びとか、知(智)を弄ぶ様な、一部の「哲学ゴッコ」などには反吐が出ます。
他人を論破して喜んでいる様な哲学者気取りは、哲学を語る資格さえ無いと思います。

逆に哲学の原点は、「無知の知」であって。
「知」に対しては、常に謙虚であるべきですから、謙虚さのない知性に嫌悪する質問者さんは、真に哲学的なんでしょう。

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q"女の幸せ"とは言うことがあるにもかかわらず、”男の幸せ”はあまり聞いたことがありません。男は幸せを

レスリングの吉田沙保里が引退を発表しました。
長い間の活躍、お疲れさまでした。
彼女は、引退の理由について「全てをやり尽くした」とは別に「女の幸せを求める」ということ漏らしていました。
ところで、"女の幸せ"とは言うことがあるにもかかわらず、”男の幸せ”はあまり聞いたことがありません。
男は幸せを求めないものでしょうか?
(幸せを家庭の幸せのみに限定することではなく)

Aベストアンサー

いや
そうではなくて

男はプライベートの幸せもパブリックの幸せも
分けて考えない
なぜならば普通に両立可能だから

女はどちらかを選ばざるを得ない
両立させるのは難しい
それでプライベートのほうを「女の幸せ」と分けて表現してるのでは?

ってことです

Qアラシ投稿の阿呆さについて ご意見をどうそ。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合もある。

3. これらの例は ふつうに自然に起こる人間どうしのヨコの関係です。そして
ここで問題としたいのは このヨコのではなく もしその互いの間に上か下かとい
うタテの関係が生じたなら どうするか? です。



4. 抽象的に規定しますと 《互いのマナザシがどちらか一方が他方よりも上か
ら差して来る》といった上下の関係です。(まだほっかほかの質問として マウン
ティングの問題が出ていましたね)。


5. まづ このタテの関係については ふたつの種類があると思います。
( a ) ふたり――といった単位体を例に採りますが――のあいだにそれこそ自生
的に生じたもの。気楽なマジハリ。
( b ) そして あとは 人為的に作為的につくられたタテ関係。

6. 大昔には 身分の世襲制によって 人びとそれぞれのマナザシは どのよう
にそそぐか(注がれるか)は 決まっていたとも言えます。

7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
下関係を打ち破っているか? マナザシは 完全に自由になったか?

8. 家族の中での――遠慮の要らない――マナザシの錯綜関係もあるでしょうし
けっきょく果ては 国と国との関係における〔こちらは〕深謀遠慮なるアマアガリ
戦術としてのマナザシ照射も 起きるのかも知れません。

9. ここで問うのは こうです。アラシ回答は アマアガリ・シンドロームに落
ち入った阿呆なるマナザシ合戦である――という命題をめぐって 思うところを述
べてくださいと。

10. また広く人間のマナザシ関係について 見解を述べてくださっても結構で
す。制約はありません。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合...続きを読む

Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。

Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

Aベストアンサー

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すと...続きを読む

Q芸術の絶対性

https://www.youtube.com/watch?v=dhA5D7qkHwA&list=RDdhA5D7qkHwA&start_radio=1

音楽好きの私のとって彼は日本では宇多田ヒカル以来の才能だと思いました。
k-popに刺激されたのでしょうか?
世界でどう評価されるかという問題はあるにせよ、何十年に一人の才能に思えます。

音楽もダンスもいいですね。○ soul brothersとは悪いけどケタが違うと思います。

音楽にせよ何にせよ、芸術というものには「好み」という相対的なものと、多くの人が
「いいね」と感じる絶対的なものがあると思います。この点どう思われますか?

また、絶対的なものがあるとお考えの方、それは何だと思われますか?

Aベストアンサー

No.16 関連で。

>アーツの流れがエンタメに流れ込んでいる

に関して、最近、ある日本画の画伯から聞いた感動的な話を紹介しましょう。その方は60代後半の方で、著名な寺社の襖絵や天井絵をお描きになるなど、芸術家として大成なされた方です。今までの生き様をお聞きしました。

彼は中学時代から話をされましたが、芸大の日本画科の大学院を出て、最初の8年間自分の書いた絵が一枚も売れない。すでに結婚しておられたのですが、極貧の生活だった。その苦しみたるや、絵を描いている最中に筆が指から落ちてしまい、絵を描けないようなことが2度ほどあったそうです。そんなある日、テレビ局から番組の背景の絵を描いてくれないかとの依頼が入り込んできた。それを請け負ったら凄いお金が入ってきた。その直後、宣伝会社の博報堂の方が、画伯に博報堂の専属の社員として働かないかと言うのです。そしてその給料が目の飛び出すほどだったのです。早速画伯の奥様に話した時の、その奥様の反応がすごかった。

「もしあなたが、それを受けてしまったら、最早芸術としての絵を描ける人にはならないでしょう、それでも良いんですか。」

と言われたそうです。娯楽に走ってしまったら、芸術は諦めることになるが、それでも良いのか。その画伯は、結局博報堂の提供を断ったそうです。その後、絵の買い手が少しづつ付くようになって生活も安定し、今ではこのように大学の芸術科の教授を依頼されたり、自分の工房で何人もの弟子を取って後輩を指導できる身になったとのことです。

その話を私の家内に言ったところ、一言「その奥様は、天晴!」と言いました。芸術の流れが娯楽に流れ込む、その画伯はその危険性を本能的に感じて、一歩踏みとどまったんだと思います。

常々思っていることなんですが、チャイコフスキーの劇的な音楽は娯楽志向の境目にいるのですが、ギリギリ芸術の領域にとどまった。ところが、なるほどこの手があると娯楽映画の映画音楽作家たちが、チャイコフスキーの音楽を真似しだした。でも、それは結局退化であって、芸術と娯楽の境目で、皆娯楽側に落ち込んでしまった。確かにバーバーの『アダージョ』など、映画の背景として用いられ、素晴らしい効果を出した曲もありますが、バーバーはそれを映画音楽として作曲したわけではありません。娯楽が芸術の成果を使わせてもらっているだけでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=s9xrUotL7wc

No.16 関連で。

>アーツの流れがエンタメに流れ込んでいる

に関して、最近、ある日本画の画伯から聞いた感動的な話を紹介しましょう。その方は60代後半の方で、著名な寺社の襖絵や天井絵をお描きになるなど、芸術家として大成なされた方です。今までの生き様をお聞きしました。

彼は中学時代から話をされましたが、芸大の日本画科の大学院を出て、最初の8年間自分の書いた絵が一枚も売れない。すでに結婚しておられたのですが、極貧の生活だった。その苦しみたるや、絵を描いている最中に筆が指から落ちて...続きを読む

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む


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