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アジアを、モンゴル帝国が制しました。
ヨーロッパをローマ帝国が。
しかし、アフリカを支配する帝国は現れていません。
なぜ、アフリカを統治する巨大な帝国が登場しなかったのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

・アジアやヨーローッパは東西に大陸が伸びていたが、アフリカ大陸は南北方向に伸びているので大陸内でも気候帯が変わり、人が移住し難く伝播もし難い。


・労働量に比してカロリーの高い作物を得られなかった。
・熱帯地方特有の病気。
・乾燥地帯或いは熱帯ジャングルが占める割合が多く、また南北の交通も分断されていた。
上記の理由による巨大な帝国に必要な人口の不足と人口の集中が不足したからです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<巨大な帝国に必要な人口の不足と人口の集中が不足した>のですね。
1.人が移住し難く伝播もし難い 4.南北の交通も分断
2.カロリーの高い作物を得られなかった 3.熱帯地方特有の病気
アフリカ大陸という地理面での不利(不幸?)な点ですね。

お礼日時:2019/01/17 08:03

モンゴルは、平原があるし、ローマは、全ての道はローマに通じるというぐらい交通網が発達していました。


アフリカは、密林と野生生物に阻まれたため、少数の村落どまりでそれ以上大きくならなかったのでしょう。
 
エジプトはけっこう大きな国ですが、今は砂漠のイメージが大きい。都市化しても、荒廃していくパターンが多かったようです。
中国、秦は巨大帝国でしたが、戸籍や法律などがかなり整ってたといいます。農業に対する比重が大きいこととセットで、国の体制がしっかりしてました。
国の政策がいやなら、すぐ遠くに集団で引っ越せるようなところでは、小さな国ですら、なかなか出来ません。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
<アフリカは、密林と野生生物に阻まれたため、少数の村落どまり>なのですね。多数の
<村落>を統合して、帝国という大規模な組織を作り上げることが、難しいのですね。

お礼日時:2019/01/30 16:52

そんな事知るか!

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この回答へのお礼

ご尤も

お礼日時:2019/01/28 14:21

帝国[皇帝][国王]がいて領土を拡大ならエジプトとスーダン。

エチオピアは?ですね。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
<エジプトとスーダン。エチオピア>など、規模はともかく該当しそうな国はあるのですね。

お礼日時:2019/01/26 14:55

巨大な帝国があったことは立証されています。

ですが情報は非常に乏しいのが現状です。その帝国が滅びた理由も、現在情報が少なすぎる理由も、最終氷河期が終わり、大森林だったサハラ地区が砂漠化しサブサハラへ熱帯雨林が移ってしまったためです。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございます。
1.<巨大な帝国があった>のですね。ただし<情報は非常に乏しい>のですね。
2.現在大砂漠の<サハラ地区>は、<熱帯雨林>が茂っていたそうですね。
気候変動の影響をもろにかぶったようですね。

お礼日時:2019/01/24 07:27

ローマ帝国がアフリカの一部を支配していたとブラタモリでやってました。

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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
長期間にわたり、ローマ帝国は、地中海を支配していたようですね。したがって、北アフリカの一部を(そのためか、その結果か)統治していたようですね。

お礼日時:2019/01/21 19:07

エジプトは除くんですね。



アフリカは、あくせく働かなくても
生活していけます。
獲物はあちこちにおりますし、木の実も
たわわになっています。

だから、人間が考えることをあまりしないで
済みます。

そういう所では、文明は育ちません。
文明が育たなければ、巨大な国など
現れません。

反対からいえば、巨大な集団、社会を造らなくても
十分にやっていける地域だったのです。
巨大な人間集団が存在しなかった、
だから文明も育たなかったのです。

アフリカは、今でこそ飢餓大陸、なんて
言われていますが、
あれは西洋の植民地主義の後遺症です。

西洋はアフリカに乗り込み、土地を取り上げ
現地人を奴隷にし、海外に売却しました。

働き手をと土地を失ったアフリカは飢餓に
苛まれます。

立ち直ろうとしても、人種、宗教を無視して西洋が勝手に引いた
国境のため、内部紛争が絶えず、
立ち直れません。

西洋が干渉しなければ、今でも少数部族が
点在する地域であったでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<アフリカは、あくせく働かなくても生活していけます。>
<そういう所では、文明は育ちません。>のですね。
人間(おそらく他の動物植物も)の成長発展には、ある程度の厳しさが必要なのですね。
ただし、気になったことは、2番目の回答者akamegane3様のご意見と、反対のような内容、と感じられましたが。

お礼日時:2019/01/17 19:22

>アジアを、モンゴル帝国が制しました。

ヨーロッパをローマ帝国が。
それは余りにも誇大宣伝というもの。モンゴル帝国などと大げさに表現しているが、元々存在した国々から税金を徴収しただけの話です。ローマ帝国に至っては地中海沿岸を支配しただけで”ヨーロッパを”なんていう実態はまるでない。当時のヨーロッパで文明があったのはギリシア・ローマだけなので歴史学者があたかもローマ帝国をヨーロッパ代表のように宣伝しているだけの話です。そんなのが有りならアフリカにだって巨大な帝国はありましたよ。誰も宣伝してないから知られていないだけ。私達が歴史を思っているものは、歴史学者が捏造したフィクションに過ぎません。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
モンゴル帝国もローマ帝国も、<誇大宣伝>なのですか。
勉強のし直しが必要ですね。

お礼日時:2019/01/17 10:33

あまり知られていませんが、マリ帝国などは、かなりすごかったようです。


なんで史料が少ないんでしょうね・・
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
初めて<マリ帝国)を知りました。
<14世紀には西は大西洋岸まで、東はトンブクトゥ・ガオまで、南はブレ(フランス語版)・バンブク(フランス語版)にある金鉱に達し最大の繁栄を極めた>だそうですね。
私もそうなんでが、アフリカ史は軽視されていますね。

お礼日時:2019/01/17 10:27

大部分をジャングルや砂漠、岩山があり、人が栄えたり、農業、工業が発展するような文化や知識が少なかったから。

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
地理面では(農耕に適した)平野が少なく、文化面では文化の程度が低かったのですね。

お礼日時:2019/01/16 19:49

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ですから、こういう供養の為の塚も存在します
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%A1%9A


名のある武将(兜首)の場合は、首を切り落として運びました
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効率的と考えられていました。
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Q明治維新の時に国是として不拡大政策を掲げていれば日本は戦争の泥沼を回避できた?

結果を知っている後世の人間が歴史でIFを語るのはご法度かもしれませんが・・・
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(朝鮮や台湾への進出もあきらめ、ほぼ現在の日本領にとどまり、拡大を目指さない)

欧米列強のアジア植民地が固定化され、ロシアの南下が止まらない等、不拡大政策自体が無理だったのでしょうか。

Aベストアンサー

どうだでしょう。確かに不拡大政策であれば大陸でのゴタゴタに巻き込まれる(引き起こしたとも)ことはなかったのだろうけれど、それで国がもったのでしょうか。
 そもそも江戸期の日本の人口は3000万人前後で、明治期にこれが一気にほぼ倍増するという近代国家には他に例を見ない人口爆発が起こっているんですね。悲しいかな当時の技術では農産物の増産なんて人口の増加スピードには追いつけない。したがって明治の中ごろからは主食である米の輸入が始まっています。つまり、自給自足できた江戸時代と違って明治の途中からは食料を輸入しないと喰っていけない国になった。
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Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

Q戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。 実際

戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。
実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
普通の声のトーンで話さなかったのですかね?

Aベストアンサー

実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
 ↑
そういう人が多かったと思います。
1,軍議は自己アピールの場でもあります。
 声が大きい方が目立つし、意見も通りやすいのは
 今も同じです。
2,戦国時代の武将の声はとてつもなく大きかった
 と言われています。
 広い戦場で自分の名前をCMするのですから
 大きいことが要求されたのです。



当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
徳川家康は、部下の自由なディスカッションに任せ
それろじっと聞いていて、最後は自分で決める、
そういう軍議をしていたという話があります。
声がでかくないと、主君の耳に入りません。

Q明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

今上天皇は軍装(軍服をまとう)をしませんでしたが、先代の明治・大正・昭和天皇は軍装をしましたね。
天皇家の草創期では、天皇は武人であるから、軍装したのはずですね。
ところで、明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

Aベストアンサー

太平記によると、南北朝時代の後村上天皇は鎧を着てました。
北朝の軍から逃れるときに鎧姿で馬に乗っていたそうです。

Q豊臣秀吉の死から関ヶ原の戦いの間で、徳川家康に勝てる大名なんていませんよね?

豊臣秀吉の死から関ヶ原の戦いの間で、徳川家康に勝てる大名なんていませんよね?

Aベストアンサー

黒田如水が有名ですね。

Q露国ロシア政府がアイヌ民族はロシア人だと発表しました。 では、今まで日本人がアイヌ民族を虐めてたのは

露国ロシア政府がアイヌ民族はロシア人だと発表しました。

では、今まで日本人がアイヌ民族を虐めてたのはロシア人だったからだったのでしょうか?

アイヌ民族は日本人ではない。と日本人も言ってたので何となく今回の発表で納得しました。

アイヌ民族は日本人じゃなかったんだ。ロシア人だったので部落と言って北海道民が軽蔑していた。なるほどと思いました。

Aベストアンサー

日本人とは、日本に戸籍がある人。先祖代々よりの北海道先住住民のアイヌも、ちゃんと日本に戸籍があります。(最近の自称アイヌは、日本国籍なしの朝鮮人ですけど)。

Q大坂夏の陣で真田・毛利隊が家康を討ち取ったところで、あの戦いは豊臣家の勝利にはならないと思うですけど

大坂夏の陣で真田・毛利隊が家康を討ち取ったところで、あの戦いは豊臣家の勝利にはならないと思うですけど、何故次期将軍秀忠を狙わなかったんですか?

Aベストアンサー

そうかなぁ・・・・

徳川軍が諸大名の信頼を集め求心力を保っていたのは、家康という人物がいたからでは?

たまたま徳川家は、次世代への継承が成功しましたが
織田家の場合も、豊臣家の場合も、カリスマ創業者の打ち立てた業績を次代に継承する過程で失敗しています

伊達政宗であれ、旧豊臣武断派大名であれ、家康には恩顧を感じ臣従を誓っていても
その子秀忠に関してはその能力も未知数で、必ずしも無条件に従うとは限らない

秀頼と家康との比較なら、家康の方に靡くだろうけど
秀頼と秀忠だったら、悩む武将も少なくないのでは?

まぁ夏の陣自体が、戦いの趨勢は開戦前から見えていたので
意地の見せ所、一矢報いるという心情もあって、一点突破を狙ったのでしょうけど

Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む


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