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哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

A 回答 (15件中1~10件)

いやー、でーく。

あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。
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この回答へのお礼

Cyototuさん、回答ありがとう。

イヤー、相変わらず猪突猛進というか、相手がピストル持ってると、こっちは機関銃を持って行って、相手の心臓に30発ぐらい撃ち込むような人間でないと生きて行けないアメリカで生き抜いてきた猪突さんらしく、たくさんの単語を打ち込んでくれて感謝感激雨霰。

静けさや、岩にしみ入る蝉の声

17文字の短い句に関してでも、すぐさま3万語ぐらいの論文を作って提出しないと生きて行けないアメリカのアカデミックな世界で生きてきたんだから大したもんだよね。
鉋で削るより電動ピーラーの方が良いと信じて疑わないアメリカのoverwhelming material strategyに完敗、乾杯!

愚拙は取り敢えず、前書きの次の段落で「存在」に限っての結論を言ってくれたので、これで満足、腹一杯だ。
最近、少食になって、先付けの次の刺身辺りででもう充分満足して、後は眠たくなっちゃうんだよね。

でもね、猪突さんの機関銃は、只々たくさんの弾を撃ち込めばばええだろっ、ってんじゃなくて、機関銃から放たれる弾の1つ1つにもちゃんと狙いが定まってるからすごいよね。心臓に30発撃ち込んだ後、念の為に肝臓にも20発、腎臓にも15発程撃ち込んどこうか、みたいな照準が定まってる。

いえね、愚拙も西洋哲学ってのは、どうもアブラハムの宗教ってやつの影響下で育まれてきた影響があって、ユダヤ教以前のヘレニズムとか、キリシタン禁制の元で文化を爛熟させてきた日本人とは違った考えを持ってるように感じていたんだ。パルメニデスね。万物流転と言ったギリシャ人は諸行無常と言ったインド人と共通項が有るかもね。

しかし量子論が確率過程ではなくて決定論の方程式で記述できるとはニュースだ。
不確定性原理の方はなんとなく相補性のことを言ってんじゃないかと思っていたから決定論だと言われても「へぇ、そうですかい」って感じなんだが、「状態の収縮」も決定論だと言われると、なんだか煙に巻かれてるような気もする。

ストカスチック方程式とリウビル方程式ね。
メモしておいて、なんかの時に調べてみます。

何時も何時も機関銃、忝い!

お礼日時:2019/01/18 11:11

言語とは何かって話かなと思うんですが、例えば他の動物は、人間とは違う認識作用を持って居て、人間とは異なる世界を持ち、異なる世界に住んでいる。

人間だって、古今で異なる。観測機器の発達と獲得して来た言語によって、現代人は古代人や原始人とは違う世界を見て、違う世界に生きている。
それに伴って、人間の住む世界も、実在の世界から、可能性の世界へと遷移して来た。
で、僕の認識だと、カオスの世界って言うのは、無限の可能性から選ばれた一つが現出するのではなく、想定され得ないものが無秩序に、しかも形を持って"生じる"世界だと思ってます。その具体的かつ固有の形は如何にして生まれるのか、ここに認識作用や言語作用というものが関わってくると思ってます。つまり、何故それはそれに見えるのかと言うことです。例えば、何故赤色は赤色に見えるのか、と言うことなのです。結論から言えば、この認識作用、言語作用が、それにそれとしての形を与えていると考えられるのです。で、このアプリオリに持っているとされる認識作用、言語作用の由来はどこまで遡ることが出来るのか。常識から考えれば、人間が生まれた時と言うことになり、人間が生まれる前には"この"宇宙は無かったと言うことになる。だが、この認識作用、言語作用を汎に考えるとして、人間の外に援用したなら、宇宙の生成の頃にも確かにこの作用、形成力、言語的作用があったとするならそれは何か。
それの源泉は、存在ではなく無にあるのだと私は考えて居ます。無、故に混沌が湧出し、混沌の背後に無がある故に(一なる)存在が照らし出される。時間の起こる前の世界観ですが、まぁ、形而上学という事です。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2019/01/27 22:45

存在が先にあると思います。



存在の内のたった一つの砂粒、が“我々”だからです。

その“砂粒”の認識力なんて、たかが知れています。
完璧とは程遠い、と云ってよいでしょう。

観察者が観察することに依って対象の在り方が決定する、と云うのはその人だけのものでしょう。
その人が消えてしまえば、その人にとっての“存在”は同時に無くなります。
でも、他の人にとっては“存在”はあり続けるのですから。
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この回答へのお礼

なるほど。

カントよりも、ライプニッツの方がお好きですか。

ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/23 22:23

あなたの疑問に対する答えは多分「No」で、量子論も相対論も「観測者問題」でそれ以上先へ進めなくなった、この先は多分人類には永遠に理解できないというのがお答えらしい。

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この回答へのお礼

なるほど。

物理学は、観測者問題を予言したカントの主張をファイナルアンサーとするわけですね。

有難うございました。

お礼日時:2019/01/23 22:23

回答№5を見ました。



時間の向きの対称性の破れ。

人間は自分の体温と外気の温度が同じなら、温度と云うものを感じません。
差があって、それを感じます。

また、物質と云うものは“障碍”しあうもの、と云ったような記述のあるのを山崎弁栄(べんねい)と云う人の本にあったような気がします。反発力、と云うものでしょうか。

そんなことから、時間の流れも反対の流れがあるから、感じるのかな?なんて思ったりしました。
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この回答へのお礼

なるほど。

愚拙には、ものの変化は感じられるけれども、厳密に言って時間の変化を感じることができないので、色々と参考になります。

ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/23 14:04

あっと、言い忘れてた。

年男だよ。時間には矢があるようだ。
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この回答へのお礼

それはそれは、おめでとう御座います。

先輩は愚拙よりも先輩なのであるからして、御歳は数えで60じゃなくて、、、。
そうか、マンシンガントークならぬ、マシンガンライティングのエネルギーを見るにつけ、まだ還暦の爺さんと言っても見破れないだろうに、その歳で益々ご健勝の様子、嬉しい限りです。愚拙は、その年齢までにはまだ数年あるので、猪突先輩の元気さ加減を知ると、愚拙にもまだ一仕事できる様な気がしてくる。

今後も、色々と若輩に刺激を与え続けておくなさいまし。

お礼日時:2019/01/23 14:02

>マルコフ過程?



この話って深いんで、薀蓄を傾けてやろう。

量子力学じゃ、同じ種類に属する二つの粒子、例えば電子同士が打つかって離れた時に、どっちの粒子だか分かんないって言う、古典力学ではありえない原理があるんだ。例えば、その二つが左右から飛んできて打つかってから左右に飛び離れた状況を考えよう。その時、仮に右から飛んできたのをAと名付け、左から飛んできたのをBと名付けたとしよう。衝突後、右に飛んできたのはAかBか原理的に分からないっていう原理だ。これを同種粒子の非区別性と呼んでいる。

すぐ後で説明するが、実は、この原理があるから、この宇宙が一点に潰れてしまわないで、我々のような空間的な形を持った存在が可能になっている根拠になっている超重要な原理なんだ。

量子力学では波動関数と呼ばれる状態関数の絶対値の2乗が、その事象が起こる確率を表しているので、上の衝突では、右にAが出てくる確率もBが出てくる確率も同じだってことになる。確率が同じとは今述べたように状態関数の2乗が同じだと言うことだ。だからその平方根の状態関数自身にはプラス・マイナスの違いがあっても良いことになる。実際、粒子には二種類あって、プラスの粒子をボソン(ボーズ粒子)、マイナスの粒子をフェルミオン(フェルミ粒子)って呼んで区別している。ボソンの代表例が光子(光の粒)、フェルミオンの代表例が電子だ。

そして、このマイナスの符号から、フェルミオンは同じ粒子は同時に同じ状態に居ることができないと言うことが証明できる。これをパウリの禁制率と呼んでいる。だから、色々なエネルギーを持ったフェルミオンは同時に同じエネルギー状態にいられないんで、エネルギーの低い状態から順番に状態が埋められて、だんだんとエネルギーが高い状態に埋められた状態で存在しなくちゃならん。だから、フェルミオンで構成されている物質は、最低状態の一点に潰れてしまうことができないんだ。だから、私たちもこの大きさを持った存在でいられるんだ。

ところで、これとマルコフ過程の関係だ。もしこの世界が時間の向きに対して対称にできていた場合には、指数関数的に減衰していってしまう現象は原理的に起こり得ないことになってしまう。なぜなら、減衰に対して、その時間の向きを反転させると増大になってしまい、時間の向きの対称性が破れてしまうからだ。

実は、ここでの「指数関数的に」と言うのが味噌なんで、この現象が厳密にマルコフ過程になっている。マルコフ過程とは、次に何が起こるかが、その過去がどう在ったかに一切関係なく、その時点の瞬間だけの情報で決められる過程のことだ。その前の過去の記憶がその後の在り方に影響を与えてしまう現象は非マルコフ過程という。非マルコフ過程では、厳密な指数関数的な減衰はできず、必ずベキ減衰などの異質な減衰が混じってしまうことが証明できる。

だから、もし原子内のエネルギー的に励起された電子が光を放出してより低いエネルギーに遷移しながら減衰し行く過程がどんなに僅かでも指数関数からずれていたら、電子の振る舞いは非マルコフ過程となり、電子は過去の記憶を持っていることになろ。だから、色も匂いも味も全て同じ電子を二つ用意しても、その電子がこの宇宙のどの時点で生まれ出てきたのかの記憶、すなわち、若い電子なのか、年寄りの電子なのかで区別がつきことになってしまう。だから電子はフェルミオンではなくなってしまう。

だから、例えばその差があまりに小さくて観測が不可能だったとしても、もし電子が非マルコフ過程にしたがっていたら、パウリの禁制率が成り立たず、したがって、この宇宙はエネルギー的に一点に収縮して崩壊してしまうことになる。でも、そうはなっていないね。

じゃあ、電子が光を放出して減衰する過程はマルコフ過程なのか。ところが、シュレーディンガー方程式を厳密に解くと、その方程式に従っている限り、必ず非マルコフ過程に従っていることが証明できるんだ。No.2のところで紹介したスーダーシャンの量子ゼノン効果は、この非マルコフ過程の存在を逆手に取って説明される現象なんだ。

ほとんどの物理屋はこの矛盾を気にしていないが、No.2で紹介したスーダーシャン教授とプリゴジン教授とあたしゃ、いつもこの問題を何とかせにゃならんと議論していた。

この問題の本質は、電子が不可逆性に従って時間の対称性を破る振る舞いをしているのに、物理学の基本方程式のすべてが決定論的にできていて、不可逆性を一見否定しているようにできているのところにあるんだ。なっ、「存在」なんかより、諸行無常の「変化」で遊んだ方がよっぽど面白いと思ってんだが、でーくはどう思う?
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この回答へのお礼

愚拙の考えですかい?

時間が、何等分にしても、長い時間だった時と同じ振舞いをすると言う仮定を疑って見ても良いのではござらんかな。

羊羹だって、何等分にもして小さくなったら、お茶受けとしての性質を失うわけだから、時間も何等分にもして行くとプランク時間になる手前で不可逆性を失う、とか。

それより、愚拙には、冒頭の電子同士の識別不能性が興味を引きますね。
ライプニッツだかが言った、不可識別者同一の原理ってのがあって、全ての属性が同じものが2つあったらそれは同一、すなわちそれ自身だ、という原理。
まあ、先生の事例では、2つの電子は位置情報が異なるから同一ではないということになるが、数ある属性情報の中で、位置情報だけしか異ならない二者というのも珍しいものね。

位置情報だけしか相違しない二者に関して、個性という概念は成立するのか?
カント爺さんも同一性に関してなんか難しいことを言ってた様な気がするけど、物理学と哲学が渾然一体となる世界の話でござるね。興味津々。

お礼日時:2019/01/23 13:54

ついでに言っておく。



数学って、英語でmathematicsって言うんだ。その語源はギリシャ語で「学ぶべきもの」って言う意味だ。でーくはそれでmathematicsが何をやる学問だか解るか。

あたしが「学ぶべきもの」なんで言われたら、女が今何考えてんのか、うちの女房はどうなんだってなことでも学ぶ学問だと思っちゃうね。

一方、集合論でも群論でもトポロジーでも、どんな抽象的な記号や論理を使っていても、数学は最終的にどんな主張でも「数」と言う量でその是非を問う学問なんだ。だから「数学」なんだ。江戸から明治にかけて日本の先生方がmathematicsと言う言葉を聞いて、それを直訳せずに数学と訳したのは凄いことなんだよ。ここに学者の能力ってえのがあるんだ。毛唐と違って、日本人は頭が良いんだね。

確かに、今まで見たことのない世界を提示して見せた奴は凄い。でも、その新しい概念に適切な命名をできない奴はそれまでなんだね。解ったらもっと透明な命名に変えるのはが筋ってえもんだ。それなのに、先生がそう呼んでいたから俺もそう呼ぶんだ、なんて程度の低い輩が先生に気に入られて生き残っちゃうようじゃ、その連中はそのうち相手に世間様にされなくなっちゃうんだろうね。

ところで、邪馬台国はどうなったんだ。若い頃は東大が九州説で京大が大和説だった。これっておかしいだろう。どちらの大学に居ようが、色々調べて見て自分の説を出せば良い。なんだ東大説だ京大説だって。そんな連中は、俺んとこの先生がそう言っていたってえのを鸚鵡返しに言っているだけじゃん。こんなのが学問であるもんか。「先生、それは違う」って言って発展するのが学問だろが。俺より前の先生がそんな命名をしたから、後でそれがおかしいて判ってそれを使っているんだってえ輩は学者しゃないよ。
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この回答へのお礼

ま、学者であることと自己中であることは独立変数だよね。マルコフ過程?

μαθηματικά { noun neuter, n-p }
abstract study of numbers, quantity, structure, relationships, etc.; mathematics can be seen as the search for regularities, and the output of any function is a mathematical pattern.

これ読むと、愚拙が重要と思ってるブール代数と集合論はetcの中に一緒くたにぶっ込まれてんだな。

お礼日時:2019/01/21 13:04

大事なところを抜かしてた。



あたしは別にお気に召さなかったわけじゃないよ。
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この回答へのお礼

合点。

お礼日時:2019/01/21 13:01

あたしがケチをつけたのは、そんな面白い概念を見つけたのに、その概念に対して何でそんなに不透明な命名をしたのかってところだ。



あたしがテキサス大学でカオスの研究があるってことを知ったときに、いろんな大学から招待されてカオスについて話している先生方が、やたらに、アノソフの axiom Aって言ってたんだ。その頃の流行りのテーマだった。で、axiom Aって意味が判らない。その言葉でなんのイメージも浮かんでこないんだね。んで、だんだんと調べて行ったら、アノソフの論文に、axiom A、axiom B、axiom Cってえのがあって、そのAだったんだ。腹が立ったね。そんなに大切な概念を導入したのに、ABCのAだとは、何事だ。他の連中だって、せめてaxiom Anosov ってな名前で呼んでくれたら、その内容のイメージがつかなくても、そのaxiomは Anosov さん絡んだ問題だぐらいの情報は伝わってくる。ところが、なんだ。Aじゃなんの情報も伝わってこない。私だったら、一晩じっと考えて、単なる人の名前でも満足できずに、なんとなくでもその内容が伝わってくるような名前をつける努力をするよ。

学者にはそんな手抜きの命名法が多くて、逆に中が不透明で見えないんだけど、俺はその意味が解っているんだ、なんてなことで、俺って出来るだろうって、自慢している連中が多すぎる。「刺激の貧困」と言う名付け方もそのレベルだね。こんな名付け方じゃ、それで言いたいことが直接伝わってこない。

余談だが、トウキョウトガリネズミってどこに住んでいるか知ってるか。東京には住んでいないんだぜ。北海道だけにいるんだ。んで、なんでこんな名前がついているのか。北海道は昔、蝦夷と言った。エゾのトガリネズミと言ってた。それを江戸と聞き違えた奴がいた。そこでエドのトガリネズミだ。その後、明治になって正式な和名をつけることになったんで、江戸から東京になっちまったんだ。落語みたいな話だろう。

だが、もっと馬鹿げてるのは、学者どもがこの間違いを知った後になっても、この名前を修正しないところだ。あいつら、トウキョウトガリネズミが東京には住んでおらず、北海道にだけ住んでいるって言えるようになることが、学者になったことだと思ってるらしい。こんなんじゃ学者が世間様に馬鹿にされるちゅうことを全く理解していないんだね。そんなんこんなで、二流の学者は透明な命名法が嫌いで、わざわざ不透明な命名法をして悦に入っている連中なんだね。

ところで、不等号を嫌い、input=outputと言い出すのが、決定論を信奉している物理学者だ。十全な神様に不等号はありえない。そんなもの不純だと思い込んでいる。でも、非決定論的な諸行無常の本質は不等号にある。不等号なら、その事象の前後でその値に差ができる。この差が、例えば失われたものであり、あるいは以前なかった新しく創造されたものなんだ。だから、不等号の世界にのみ無時間的な「存在」では捉えられない「変化」があり、創造的な営みがある。そして、その変化の大きさで時間の流れが認識されると言い出したのが、複雑系の物理なんだ。これはエントロピー増大の法則の流れを汲んだ物理学の一つの自然な発展だ。

プリゴジン教授が散逸構造の理論で、その概念を定式化する以前にも、例えば、ノーバート・ウィーナーによる「サイバネティクス」の概念の導入で、正のフィードバックという認識で不等号が語られていた。サイバネティクスも散逸構造の理論も、その裏にある数学的土台は非線形数学にあるんだ。ところが、非線形数学は現在でもほとんど何もわかっていない数学的領域なんだ。これからの若もんが活躍する分野なんだ。
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この回答へのお礼

ギリシャ哲学だか、中世哲学だかに、唯名論(Nominalism)論争ってのが有ったような記憶がある。

この世に黄紫という色はないのだが、黄紫という名前をつけた時から、その黄紫って色が実在するってんだね。

ギリシャ時代の存在論(ontology)がその支持を失って、18世紀後半にカントのコペルニクス的転回で認識論(epistemology)全盛の時代が到来するが、唯名論ってのはその先駆けだったのかもしれねえなぁ。

Cyototuと言うのはラベルに過ぎないが、猪突猛進のイノシシを連想させるしね。

先生、ひょっとして、年男ですかい?

お礼日時:2019/01/21 13:15

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