グッドデザイン賞を受賞したウォーターサーバー >>

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • >「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
    この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

    インターネット上で記事を発信する場合。根拠の妥当性などは二次的なもので、とにかく「これこれはこうなんだ」と断定することを求められるのでしょうか?
    基本的にわたしの「反知性」には、この「断定性」への抵抗感があります。
    「マウンティングとは、ひょっとしたら、自分に自信の持てない人が、自分より「下位」の人間をでっちあげることで、自己の存在の希薄さ脆弱さを補填しようとする代償行為であるのかもしれない」
    わたしならこう書くでしょう。

    本来知性や洞察力というものは、それが蓄積されればされるほど、自己の価値観を、世界を、事物を、対象を「相対化」して見てしまうという副作用を持つものだと思うのです。

    「確たるものは何もない。」それが知の到達点ではないでしょうか?

      補足日時:2019/01/18 03:19

A 回答 (13件中1~10件)

そうなんですよ!



私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ
    • good
    • 1
この回答へのお礼

再びこんばんは、

まぁ実際は良心的な精神科医は少数派ですけどね。

「自信のなさ」ってひとつの美質だと思うのです。「謙虚」とはちょっと違うかな。

わたしの好きな言葉に、辺見庸の「健常であることの避けようのない暴力性」というのがあります。

これはマウンティングというような次元の話ではなく、健康であること自体が、ある種の圧力を持つということですね。

弱い人って美しくありませんか?「気の弱い人」でも?

だから、自信を持つまいと思っています(笑)

お礼日時:2019/01/19 03:34

コメントをありがとうございます。



ちょっと屁理屈になりますが・・・。:

★(№8お礼欄) けれども、あくまでわたしは、真理とは蜃気楼の
如しだと(勝手に)思っています。
☆ 断り書きのふくみを持った表現だと受け取ればよいだけなのでし
ょうが ううーん やっぱり《確固とした到達点》あるいは終着駅で
あるとして語っているようにも感じられるのではないですか?

《蜃気楼のごとし》であっても 言わば《不可知》であると――つま
りは 《真理が 知り得ないと証明されたというかたちで 分かった
のだと》と――言っているように聞こえるのではありませんか?




(じつは 《特殊絶対性》としておのおの主観の内部では そういっ
た《相対性を自由に超えた》確信はあり得ると捉えています。

ですが それは 主観内部のみという範囲が限定されているはずです。

主観と主観とのあいだでは――つまりは おのれの主観の外に出かけ
てしまっては―― 相対性〔どうしの世界〕に対するマウンティング
になってしまうとまづいはずです。

そして 繰り返しですが 相対性を絶対視するのもまづいと思います)。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

>《蜃気楼のごとし》であっても 言わば《不可知》であると――つま
りは 《真理が 知り得ないと証明されたというかたちで 分かった
のだと》と――言っているように聞こえるのではありませんか?

まあ屁理屈っぽいですね。でもまあそう受け取ってもらって構いませんよ。

>相対性〔どうしの世界〕に対するマウンティングになってしまうとまづいはずです。

それはそうですね。「わたしの絶対」と「あなたの絶対」が角突き合わせていたのではしょうがない。
スタンスとしてはあくまでも、相対性=「わたしの絶対」と「あなたの絶対」とは違うけれど、互いに認め合う余地があればいいですね。

再度のご意見をありがとうございます。

お礼日時:2019/01/19 03:42

No.9です。



回答を読み直したところ、三つ目の段落に間違いを発見。

そのストレスを、スポーツやカウンセリングなど、ポジティブな方向で軽減できた人たちは、状況が悪化し、ストレスレベルが頂点に達してしまったとき、非常にネガティブなエネルギーが蓄積され、溶岩がだらだらと流れ落ちるように、自分自身にとっても、決してプラスにはならない行動。。。いじめ・アルコール依存・あるいは、暴力に走ってしまい、そして、それがやめられなくなってしまう。

”ポジティブな方向で軽減できた人たち”ではなく、ポジティブな方法で、”軽減できなかった人たち”ですね。そうでないと、意味が通りませんね。

混とんとした文章で、申し訳ありませんでした。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

>ポジティブな方向で軽減できた人たちは、状況が悪化し・・・

へんだと思っていたんです。

いえいえ、要は適切なケアが必要ということですね。

現象だけを取り出すのではなく、その原因を探り、社会構造を根底から変えることは無理でも、
人が少しでも人間らしく生身の生き物らしく暮らせるような研究にもっとお金をかけるべきですね。

わざわざどうもありがとうございました。

お礼日時:2019/01/19 03:26

その人から「マウンティング」という武器あるいは玩具を取り上げてしまうと、途端に2本足で立ってゐられなくなり、一瞬で頽れてしまう人がいます。

きっと自身の「自尊心の欠如」に向き合うことなく、適当な対象を使うことにより誤魔化してばかりだったのだと思います。「マウンティング」という武器あるいは玩具には、消費期限があり、それは案外短いのではないかと思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは、瀬里香さん。

仰るとおりですね。つまり既に木村敏が70年代に指摘しているように、日本人は「個」というものが極めて希薄で、「人と人との間」によって、つまり関係性の網の目の中に生きている、と。

下がいるといことは、「その人自身」が優れていることの証明にはなりません。あくまでも相対的な関係性の中での位置に過ぎない。
トップであっても、無数の下位に依存している。

この妙な構造から抜け出して、仮に跛であっても自分の脚で立てばいい。
そもそも他よりも優れているということがどれほどのことでしょうか?

大事なのは優れていること以前に、わたしがわたしであること、だと思います。

リンクと回答をありがとうございました。

お礼日時:2019/01/19 03:20

英語ではいじめは、bullying、いじめっ子はbullyと呼ばれます。

角を持った牡牛です。お猿の例を使う日本とは、少し違っています。

BBCの記事では、Ditch & Labelの8,800人を対象にした調査によると、いじめをしたことのある人はほぼ、五人に一人で、66%は男性だったそうです。

そして、いじめを始める五年以内に、家庭内の不和や両親の離婚、または、家族の死など、決定的なストレスの原因になる出来事が起こっている。そのストレスを、スポーツやカウンセリングなど、ポジティブな方向で軽減できた人たちは、状況が悪化し、ストレスレベルが頂点に達してしまったとき、非常にネガティブなエネルギーが蓄積され、溶岩がだらだらと流れ落ちるように、自分自身にとっても、決してプラスにはならない行動。。。いじめ・アルコール依存・あるいは、暴力に走ってしまい、そして、それがやめられなくなってしまう。

いじめをしなければ、ストレスに負けてしうため、やむに已まれぬ状況であったと分析しています。

いじめの加害者は、66%が男性というのも、社会は男性に強さを期待し、女性のような女々しさで、愚痴や弱音を吐くことを許さない、社会的な圧力にも耐えなくてはならないからだろうと、結論付けています。

いじめの加害者が自信家であるかどうか、というご質問ですが、そもそも、自信家の定義とは何でしょう。自尊感情の高いことは、決して悪いことではありません。自己顕示欲に囚われた人が、本来的な意味で、自分に自信のある人かどうか、私は、非常に懐疑的です。

本当に自分に自信のある人でも、非常に謙虚にしておられる方もいらっしゃいます。ですから、自信のあるなしと、いじめの加害者を結びつけるのは、ちょっと違うんじゃないかなぁ、と考えます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは。

チャオポルポさん、ちょっと誤解があるようです。
紹介してもらったリンクの記事によると、自信のないものほど、自慢をしたがる、そしてそのこと(学歴やあれこれの実績)によって優位な立場を得ようとすると書かれています。
これに対してわたしは、自慢をしたがる人は、自己顕示欲が強く、むしろ自信家なのではないか?という疑義を呈しました。
ここでは、自慢すること、優位に立とうとすること、またその欲求がいじめを生むとは述べていません。

逆に

>いじめをしなければ、ストレスに負けてしうため、やむに已まれぬ状況であったと分析しています。

というひとつの調査があっても、いじめを正当化できるわけではありません。

>いじめの加害者は、66%が男性というのも、社会は男性に強さを期待し、女性のような女々しさで、愚痴や弱音を吐くことを許さない、社会的な圧力にも耐えなくてはならないからだろうと、結論付けています。

社会の構造はそのまま社会の構成員である生身の人間の精神に圧倒的な影響を及ぼします。
資本が利益追及を止めない限り、世界規模での資本をめぐる競争が止まらない限り、人間の生体は悲鳴を上げながら生き続けることになるのでしょう。

ご意見をありがとうございます。

お礼日時:2019/01/19 03:12

二点 ピンポイントのコメントです。



あたらしい理論や学説を発表すると それはマウンティングだと批難の意を込め
て言う場合があります。

ニュートンからアインシュタインへそして量子論といった流れは 中立の意味で
のマウンティングだと言えるはずだという余地を確保しなければならないかも知
れません。

つい先ごろ 日本人の系統について 韓国人との親縁性がかなり強いという《核
DNA分析》の研究成果を知りました。これも マウンティングです。

▲ (ヰキぺ:日本人) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC …

§ 4 系統
4.1 分子人類学による説明
4.1.7 核DNAに対するゲノムワイドな解析
4.1.7.1 核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史

・・・
・ 第三段階前期(農耕民)(約3000年前-1700年前)
朝鮮半島を通じて稲作を主とする渡来民が流入し、水田稲作を導入した。

・ 第三段階後期(約1700年前-現在)
政治の中心が畿内に移り、朝鮮半島に加え、現在の上海周辺からも若干の渡来民
が流入するようになった。

仮に東アジアの六集団(本土日本人、アイヌ人、沖縄人、韓国人、北方中国人、
南方中国人)がすべて三つの集団の混血からなると仮定してゲノムを分析すると、
・・・
第三段階の集団の遺伝子は南方中国人のほぼ100%を占め、北方中国人の90%
前後、韓国人の70%前後もこの系統である。

(☆ 要するに第三段階において 大陸や半島からの人が多くの割り合いにおい
てやって来ている――という意味でしょうか)。

ただし、これらの推計は限りなく単純化されたもの・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


     *


もう一点は 苦言です。

★(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
本来知性や洞察力というものは、それが蓄積されればされるほど、自己の価値観
を、世界を、事物を、対象を「相対化」して見てしまうという副作用を持つもの
だと思うのです。

「確たるものは何もない。」それが知の到達点ではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 《到達点》をも相対化して捉える必要があるのでは? (これも
マウンティングのかたちになっているようです)。

《諸行無常》あるいは《無知の知》もしくは《不可知》は 相対視すべきはずで
す。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

こんばんは。

>あたらしい理論や学説を発表すると それはマウンティングだと批難の意を込めて言う場合があります。

しかしそれではなんでもかんでも「ハラスメント」と呼ぶように、革新的運動が全て「マウンティング」と総称されるのも軽薄な感じですね。

ウィキペディアの不正確さについては、わたしの知る限りですが、作家辺見庸、仏文学者鹿島茂から「苦言」と「困惑」が述べられています。
また朝鮮民族と日本人とが血縁である。たとえ話し半分でもいいはなしじゃありませんか?

>☆ つまり 《到達点》をも相対化して捉える必要があるのでは? (これもマウンティングのかたちになっているようです)。
>《諸行無常》あるいは《無知の知》もしくは《不可知》は 相対視すべきはずです。

上記の諸概念ももちろん検証を経るべきです。けれども、あくまでわたしは、真理とは蜃気楼の如しだと(勝手に)思っています。

ご意見をありがとうございます。

お礼日時:2019/01/19 02:52

生物として普通のことであって、それを疑問にする人ほどマウンティングに拘っていると考えます。

    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは。

「自慢すること」「自己を誇示することが」自明の事ですか?

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2019/01/19 02:41

>決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。

ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

こういうのは、謙遜の場合もありますが、マウンティングの裏返しの場合もあります。
誰に対してもマウンティングする人もいれば一部の人達に対してマウンティングする人もいます。誰に対しても正々堂々と接しているなら、デキル人で自信家と言えるかもしれません、反対に一部の人達に対してマウンティングをする人は他の場面では謙遜したふりをしてたりします、こういうマウンティングをとるひとが、自信のない人と言えると思います。自信のない人でマウンティングをとりたがる人は謙遜のふりをすることがおおく、たいていは虚言癖があります。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは。

マウンティングとは、「相手が何者であろうとなされるもの」ではありませんね。
自分より、「弱い存在」とみなした相手に対して行われるものです。

自分より立場が上のものに向かっても堂々と物をいうことは、この場合「マウンティング」とは呼ばないようです。
マウンティングは、自己が個として確立されていないが故に起こる現象で、誰にでも自己を主張できる者は、
いい意味で「こわいもの知らず」であり、またいい意味での自信家でしょう。
つまり個が相対的関係性の中に埋没していない存在といえるでしょう。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/01/19 02:40

>「確たるものは何もない。

」それが知の到達点ではないでしょうか?
まさに「無知の知」ですね。

マウンティングについて
>「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

>「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?
も、ある条件を与えれば矛盾しません。というより、そのある条件がないと「マウンティング」は起きないのです。

その条件とは「集団であること、その集団に社会性が必要こと」です。

マウンティングは猿などの集団生活を営む動物の行動から生まれた言葉です。これを近年人間社会にも当てはめるようになってきているので、割と有名になりました。

そもそもマウンティングと言う行為は「集団」じゃなければ起こらないし、集団の秩序を維持し「不必要な争い」をさけるために必要なものなのです。
 ですから「マウンティングを常に仕掛ける個体」は「序列の中の自分の立ち位置に不安か不満がある」と考えていいわけで、不安のほうなら「自分に自信がなく、他の個体(たぶん自分が勝てる相手)に挑戦することによって(そしてたぶん大体の場合勝つから)不安が解消される」ことになります。
 逆に「野心家で自分の地位に不満がある」ならどんどん強い個体に挑戦し、勝てば地位を高められるわけです。

その個体における動機はまたったく逆ですが、現れる行動は同じ、ということになり、どちらもありえるわけです。

で、人間の場合、マウンティングはおもに「女性同士の序列争い」に使われます。理由は「男性同士は実力が見えやすいので、マウンティング(まあはっきり言えば喧嘩)をしないでも序列ができ、またマウンティングのリスクのほうが大きい(学内なら停学や退学・社会なら逮捕・相手をケガさせれば保障問題)ので目に見えるマウンティング行為はしないのに対して、女性同士のマウンティングは非常に陰湿で物理的な暴力を殆ど伴わないからです。

結果として「自身がある個人」が「あいつ生意気」としてマウンティングをすることで「なるべく優位に立ちたい」とおもうわけで、学校などでは「自分の地位を盤石にする」といってもそもそもそんなヒエラルキーはないのですから、スクールカーストと呼ばれる幻想におびえてマウンティング行為に及ぶ、と解することもできるわけです。

>「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。

動物の個体では、こういう個体は起こり得ません。なぜならそれは「死」を意味するからです。冬が来れば確実に食料が少なくなり、生き残る努力ができない個体は生存できないのです。

人間社会においては、少なくとも現代は「自己の無価値を嘆く」状態でも、生きて行くことはできますし、経済的な工面ができるなら、ほぼ誰とも没交渉で生きることも不可能ではありません。
また「自身のない人」は自信がないゆえに「他の人と競争するのを避ける」傾向が強いので、孤立を選ぶことが多くなるといえます。

したがって現代社会には「マウントしたがる社会的個人」と「マウントを避けたい孤立的個人」が両立しうる「社会」が存在するといえ、ご質問の内容自体が矛盾したいといえるでしょう。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

こんばんは。

>そもそもマウンティングと言う行為は「集団」じゃなければ起こらないし、集団の秩序を維持し「不必要な争い」をさけるために必要なものなのです。

しかしその「マウンティング」自体が不必要な諍いではありませんか?
わたしは「マウンティング」という概念については無智ですが、企業、組織内に頻発(?)するパワハラなども、形を変えた「マウンティング」=示威行為ではありませんか?つまり弱い者を叩くことで自己の力を誇示するという点で、パワハラもマウンティングと同一視できるようです。

また、男性の場合は「喧嘩」と仰るが、身体的・物理的な暴力以上に、言葉による、また行為による精神的厭がらせの蔓延は、かならずしも、男性にマウンティングは少ないという結論には結びつかないように思えます。

いずれにせよ、組織・企業・集団の中で、マウンティング(仮に示威行為)が発生するのは、自己の絶対的な価値を認められず、上下という関係性の中でしか、自己の位置を見出し得ないという不安定さに由来するのでしょう。

要は「個」「個人」というものが確立されていないということ。また社会が、人間集団が、「主張する個」にたいして極めて不寛容であるということ。

みなさんの意見を読んでいると、「マウンティング」って疲れるだろうし、空虚だろうし、常に下位に落ち込むことに恐怖を感じていなければならないだろうし、大変だなぁと思います。

そもそも「上に立ちたい」という心理自体がわからないもので。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2019/01/19 02:31

それって自己愛性人格障害って事じゃないの?


思考の問題ではなく性格の問題であるって事

自分を認めて欲しいって欲求は誰にでも有ります
それが内に向かうか外に向かうかの違いちゃうの?

どうも哲学界隈には知性=哲学って考えてる人が多いのですよね
哲学なんて所詮学問の一部門なんちゃうの?
何でもかんでも哲学的思考で物事を考えるのは
視野狭窄なんとちゃうの?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんばんは。

>それって自己愛性人格障害って事じゃないの?
思考の問題ではなく性格の問題であるって事

でもそれも根拠はありません。わたしも嘗て、人格障害の権威といわれた精神科医に、「自己愛性人格障害である」太鼓判を押されましたよ。

それ以降かかった精神科医にそのように言われたことは一度もありません。
つまり、それほど精神障害の特定は困難だということです。

>哲学なんて所詮学問の一部門なんちゃうの?
何でもかんでも哲学的思考で物事を考えるのは
視野狭窄なんとちゃうの?

政治には政治哲学があり、法や秩序には法哲学があり、医療関係者には高い倫理観が求められます。
わたしの母校の創立者は「諸学の基礎は哲学にあり」と言いました。

わたしは人間が生活してゆくうえで、哲学は欠かせないと思います。
だからナポレオンは、小学校からの哲学教育を必須としたのだと思います。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2019/01/19 02:00

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q何故私は「反・知性主義」なのか?

こんばんは。

例によって、「ヘン」な質問ですので、お暇で、何か感想を持たれた方の書き込みを希望します。

むかしから、「読書家」と言われる人、更には「利口者」「賢い人」「博識」「才気煥発」といった人たちに、ほとんど「憎悪」と言っていいほどの生理的嫌悪感を抱いています。

それが単に「持たざる者」の「持てる者」への羨望、嫉妬、やっかみに過ぎないというのならそれはそれで構わないのです。

わたしは精神障害者ですが、知的障害者でもある可能性も高いと感じています。

さて、わたしがこのような「反知性主義者」である理由は何に起因すると考えられますか?

上に述べたように、出来ない者が出来る者へ感じる至極単純な劣等感、情けない妬み・嫉みであるというお答えでももちろん結構です。
ただ、そのようにお答えになられた場合、何故あなたはそのような結論を出されたのか?
その理由を教えてください。

このような質問をするくらいですので、精神状態はあまりよくありません。お礼が遅れることもあると思いますがご理解ください。

Aベストアンサー

質問者さん自身が、「お礼」で「『自信ありげな態度』というのはどうしても好きになれません」などと書かれてますので。
それがそのまま「理由」じゃないですかね?

すなわち、知性が嫌いなのではなくて、「知性をひけらかす」などの行為や態度が、嫌いなのでは?
もしそうなら、質問者さんに限らず、そんなのが好きな人は、少数派ですよ。(^^;)

私も、哲学やその精神や本質(知を愛す)は好きなのですが・・。
言葉遊びとか、知(智)を弄ぶ様な、一部の「哲学ゴッコ」などには反吐が出ます。
他人を論破して喜んでいる様な哲学者気取りは、哲学を語る資格さえ無いと思います。

逆に哲学の原点は、「無知の知」であって。
「知」に対しては、常に謙虚であるべきですから、謙虚さのない知性に嫌悪する質問者さんは、真に哲学的なんでしょう。

Qアラシ投稿の阿呆さについて ご意見をどうそ。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合もある。

3. これらの例は ふつうに自然に起こる人間どうしのヨコの関係です。そして
ここで問題としたいのは このヨコのではなく もしその互いの間に上か下かとい
うタテの関係が生じたなら どうするか? です。



4. 抽象的に規定しますと 《互いのマナザシがどちらか一方が他方よりも上か
ら差して来る》といった上下の関係です。(まだほっかほかの質問として マウン
ティングの問題が出ていましたね)。


5. まづ このタテの関係については ふたつの種類があると思います。
( a ) ふたり――といった単位体を例に採りますが――のあいだにそれこそ自生
的に生じたもの。気楽なマジハリ。
( b ) そして あとは 人為的に作為的につくられたタテ関係。

6. 大昔には 身分の世襲制によって 人びとそれぞれのマナザシは どのよう
にそそぐか(注がれるか)は 決まっていたとも言えます。

7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
下関係を打ち破っているか? マナザシは 完全に自由になったか?

8. 家族の中での――遠慮の要らない――マナザシの錯綜関係もあるでしょうし
けっきょく果ては 国と国との関係における〔こちらは〕深謀遠慮なるアマアガリ
戦術としてのマナザシ照射も 起きるのかも知れません。

9. ここで問うのは こうです。アラシ回答は アマアガリ・シンドロームに落
ち入った阿呆なるマナザシ合戦である――という命題をめぐって 思うところを述
べてくださいと。

10. また広く人間のマナザシ関係について 見解を述べてくださっても結構で
す。制約はありません。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合...続きを読む

Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。

Q知識をひけらかす、は、分かりますが、 持ち前の知恵や洞察力を働かせて人を助けても、 それは、「知恵を

知識をひけらかす、は、分かりますが、
持ち前の知恵や洞察力を働かせて人を助けても、
それは、「知恵をひけらかした」、「洞察力をひけらかした」と言うのでしょうか?

知識の他に、知恵があっても、それでうまく利用されないようにする為の知恵、思慮深さを身に付ける事も大事になりますよね?

Aベストアンサー

こんにちは。

知識を他人に伝達する行為は、相手の要求に沿っている場合のみ受け入れられます。
私もこの場で多くの回答をつけさせていただいておりますが、
それが事実であっても、質問者の望む形での事実でないと受け入れられないというのが現実です。

それはもう、知恵で補うと言うよりは経験を積んで身に付けるというものだと思われますよ。
ある程度『おだて』の要素をスパイス代わりに折り込みませんと、知識や知恵も只の嫌味に聞こえるようですね。

おっしゃる通り、思慮深さを身に付けることが何より『自己防衛』に繋がります^^;

ではでは。

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

Aベストアンサー

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すと...続きを読む

Q素朴な質問シリーズなんですが お知恵を貸して貰えると助かります 続、善悪の定義 (  ̄▽ ̄)ニャリ

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが


集団の教えから離れ
個人的な善悪の判断を迫られた時に
どうやって定義付するのでしょうか?

( ̄~ ̄;)個人的には、どうあっても
善であると、思い込んで生きているが
その、大前提に疑問を抱いた時に

もしも、この世の中に善悪なんて存在しないかも?
でも、自分自身は善であるはずなんだが・・・

そんな状況はまずおこらないでしょうが
おきたとしたら

他人と比較して、他人を悪にしてしまう
悪を造り上げてしまうのかな?
あれは、間違えてるから、悪であって
自分自身は間違えてないから、善である
と、なるのかな?

今ここに居るわたしは、善か悪か解らないが、それで良いじゃないか
と、定義付を辞めるのかな?


誰しも、自分自身が善でありたいとは思われますが

はたして・・・

ほんまに突拍子もない
素朴な疑問なんですが、お時間のあるかた
貴重な回答をお待ちしてますm(._.)m

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが

...続きを読む

Aベストアンサー

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 " も
同じに なるであろう

行動で 云えば 宮﨑駿 の
『もののけ姫』が 語っている
他方から みれば 善 であり
また 他方からは 悪 に なる
それは
一方からは " 生きる為に必要な もの" であり
もう 一方では " 生きる為に取り除きたい もの " なのである
利便 快適 を 相対するもの からみれば 搾取であり
また 同時に 糧である(対する位置に 居るものに取れば)

パンドラの匣に 残った
総ての悪 災 禍 が 去った後に残った 希望
そのひとつは
忘れ去る能力なのだ と思う

ただ 総ての 欲を 葬り去れば
無 に しかならない
待つのは 死 (無)である


と こんな事 考えてみました

浅かったら ごめんね

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 ...続きを読む

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む

Q存在理由=レゾンデートルの味

人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

Aベストアンサー

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。

Q偶然の誕生

私は、たまたま大阪で生まれました。
何故、10万年前に生まれなかったのですか ?
何故、10万年後に生まれなかったのですか ?
何故、虫や猿ではなく人だったのですか ?
何故、日本人としてですか ?
まだまだあります。
宇宙の誕生、地球の誕生、水や空気
そのように考えると、全てが偶然です。
偶然でないものはありますか ?

Aベストアンサー

#4です。

>「神と呼んでも構わないが、それのみが必然。」と言うことで、「なるようになった」と考えていいですか ?

この文に対するわたしの解釈が間違ってなければ、そうです。
少し切り口を変えて表現してみます。
たとえば、『宇宙の誕生』自体は偶然だと私も思う。
しかし、
宇宙はなぜ偶然誕生したのか?
と考えた場合、それは宇宙が偶然誕生するようになっていたから、と言うしかないと思うわけです。
で、「宇宙が偶然誕生するように」させていたものがあるわけで、その存在自体は必然と呼ぶしかないだろう、ということ。
それが何かは、むろん不可知ですが。
仮にわかったとしても、じゃあ、そのわかったものはどのようにして生まれたのか、という無限の問いを続けざるを得なくなるため、それが何かわかるような何かであっては意味がないわけです。それゆえ神という言葉で象徴可能かと申し上げた次第。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング