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日本の皇室は苗字をつける必要がないので苗字がないそうですが

 http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

皇室以外の日本人はいつから(何のどのようなタイミングで)苗字をつけるようになりましたか。

質問者からの補足コメント

  • 早々のレスポンスありがとうございました。

    明治時代まで日本人の9割が歴史に残らない農民だったそうですが、歴史に残らない日本人の9割の人びとが苗字をつける前から日本に戸籍制度がありましたか。

      補足日時:2019/01/20 21:04

A 回答 (7件)

古代には律令制の戸籍がありました。


農民などを載せてましたが、氏も書かせるようになりました。
そういうこともあって奈良時代に氏のない人にも新たに氏を名乗らせました。
古代の戸籍は平安時代にはすたれます。

中世には名字(苗字)が広まりましたが、江戸時代は農民は苗字の公称が制限されました。
ただ、名乗るのに制限があっただけで、苗字自体がなかったわけではありません。(人によっては長く使っていなくてわからなくなった人もいたようです。)
宗旨人別帳という戸籍のようなものがありましたが、苗字の公称に制限があったのでほとんど書かれてないでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/24 05:16

古事記・日本書紀によれば、允恭天皇4年の9月、天皇が氏姓の乱れを正すため飛鳥甘樫丘で盟神探湯(くがだち)を行って氏姓を定め、以後、氏姓を偽る者はいなくなった、とあります。

この記事を氏姓成立の何らかの史実を反映したものとする説も一部にあります。
実際に氏姓の使用が確認できる最古の史料は、503年(443年説あり)の年号がある隅田八幡神社人物画像鏡の銘文で「開中費直(かわちのあたい)」とあります。
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この回答へのお礼

ありがとうごさいました。

お礼日時:2019/01/21 17:59

苗字は平安時代からありました。




コピペ


氏、姓、苗字(名字)はそれぞれ違うもので、由来も違います。

まず、氏(うじ)。
これは祖神や先祖を同じくする同族集団のことです。
例えば藤原氏はアメノコヤネノミコトを氏神として持ち、同一の祭祀を行います。
氏の代表者として氏長者を持ち、家などの血縁集団とは別の集団として機能していました。
氏を呼ぶときは通常、間に「の」を入れます。
藤原道長ならば、[ふじわら「の」みちなが]と呼びます。


姓(かばね)はもともと氏の地位を示すためのもので、臣(おみ)や連(むらじ)などがありました。
天武天皇の時代に八色の姓(やくさのかばね)が制定され、整理されます。
八色の姓制度で姓は等級が上の順で「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣、連、稲置(いなぎ)」の八つに分けられました。
これは朝廷が氏族を等級に分けて管理するためのもので、真人は天武天皇自身が称し、臣下は朝臣を最上級として分類されました。
しかし、平安時代になるとほとんどの氏族の姓が朝臣に昇格してしまい、八色の姓制度は有名無実化します。
結局、後の時代には姓と氏が混同・同化されていくことになります。


苗字(名字)は家でつながれた集団のことで、平安末期から鎌倉時代にかけて登場してきます。
氏は血縁や地縁での集団という意味が薄く、また同一氏族の増加が家系を区別することを困難にしました。
例えば平安末期になると朝廷は藤原氏だらけになって家系の区別ができなくなり、また朝廷の高位を占める藤原氏と地方で没落して細々と暮らす藤原氏は同一氏族とはいえ同一家系とは呼べないほど血縁も薄いのです。
そのため、家を区別するための字(あざな)として苗字が生まれました。
苗字は多くの場合、住んでいる館の地名、領地の地名、官職の名前を由来としました。
例えば藤原氏でも平安京の近衛に屋敷を持つ家系は苗字を近衛とし、九条に屋敷を持つ家系は苗字を九条として区別したのです。
藤原基実と呼ぶとどこの家系の藤原氏かわかりにくいので苗字を使った近衛基実という風に名乗り、藤原兼実は九条兼実と名乗ったわけですね。
苗字を呼ぶときは氏と違い、間に「の」を入れません。
よって氏で呼ぶ藤原基実は[ふじわら「の」もとざね]ですが、苗字で呼ぶ近衛基実では「このえもとざね」と呼びます。
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江戸時代には人別帳があったし


貴族の財産たる荘園の農民にも当然管理台帳はあるし
現在の戸籍制度と違っていても、何らかの管理制度はあります。

庶民については知りようがありませんが、
「家の名」としての苗字で伴氏、秦氏、物部氏なども含んでよいのなら、資料以前の古代からあると言えます。
この辺は苗字とか名字とか姓とかをどう解釈するかにもよります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/01/20 21:23

氏は古墳時代ごろから、庶民は奈良時代には全員つけることとなりました。



名字(苗字)は平安時代から鎌倉時代に広がりました。
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検索 古代豪族

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https://ka-ju.co.jp/column/myoji
こちらによれば、平安時代から名字をつけるようになったようです。
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でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
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と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
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 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
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http://www.garbagenews.com/img17/gn-20170613-01.gif
「"食うため、生きるために!"を、自分自身の指針として頑張る」のは《のんびりとも言える》と考えるのであれば別ですが、《温泉に浸かってのんびりと》《一日景色を楽しみ海岸でのんびりと》《ビールを飲みながらテレビでものんびりと》のようなのんびりの時間帯を人生の多くの時間で過ごせるのは、多分、現代が一番でしょう。
https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26honpen/img/z1_4_13.gif
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No.5 回答者: Mocojima_Z さんが、回答日時:2019/03/05 16:42 に
「むしろ、一番のんびりしてるのは今では?」と回答しています。
私もそう思います。
理由は、❶ のんびり = 身心がゆったりと落ち着き、内外の制約を気にせずに自分の満足するように行動しているさま ❷ 社会保障厚生施策が厚くなり、収入や職の有無を強く気にせずに済む社会になっている、性差、個体差、人種差、能力差、年齢差、長幼上下先輩後輩血族同族勤務先などの人間関係のしがらみや制約を気にしない発言行動スタイルがとがめられない、...続きを読む

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