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中世の日本に男色(衆道、稚児など)というものがありますが、あれは虐待や強姦とは違うのでしょうか?
今の価値観では虐待や強姦にはなりますが、当時は当たり前のことで、皆普通にしていたのでしょうか?

A 回答 (6件)

少なくとも衆道は葉隠にも記述がありますが「武士同士のたしなみ」のひとつ。

たしなみといったってみんながみんなじゃないんでしょうが、「陰間」なんて表現もありますんので江戸後期にはそんなにおおっぴらなものじゃなかったんじゃないでしょうか。
 また虐待とか強姦なんてのは相手の意志に反してのことですから、無理やり犯さない限りそんな話にはなりません。
 稚児趣味のほうは虐待や強姦にあたる可能性はありますが、少なくとも当時は人権とか子どもの権利なんてのはない時代でしたので。
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今と昔では価値観が全く違うから、単純比較はムリがあります。


我々の行為だって後世から見れば野蛮と映るかもしれません。
「非人道的である」と断罪されたくないでしょ。

人権などなかった時代、権力者とつながりを持てるということは、
この上ない魅力であったろうし、安心も得られただろう。

あと、男だろうと女だろうと、囲った以上は養わなければならない。
水呑百姓やヒラの足軽にそのような余裕があっただろうか?
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この回答へのお礼

なるほど
歴史に疎く、中途半端に手に入れた男色知識に疑問をもって質問させていただきました
衆道などをすることによって権力者と繋がれたりしたんですね
ありがとうございました

お礼日時:2019/01/23 02:22

男色というと、虐待や強姦というより、LGBTに近い行為だと思うのですが。


双方が合意のもとに行っていた可能性が高く、当時は犯罪でないのはもちろん、現代社会でも違法ではありません(小児愛除く)。

ちなみに、日本では昔から男色が認められていましたが、中世の欧州では同性愛は重罪であったので、当時からLGBTに寛容だった日本の方が西洋より進んでいたことになります。
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この回答へのお礼

なるほど
男色の受けは人間扱いされていたのか?と疑問に思い、質問させていただきました
愛し合っていたのならなにも問題ありませんね
ありがとうございました

お礼日時:2019/01/23 02:33

>今の価値観では虐待や強姦にはなりますが


今の価値観ではなくあなたの価値観でしょう。

あなたの価値観なら性愛は全て虐待、強姦になりますね。
(強姦の法的定義は性器への性器の挿入だから強姦たり得ないとも言えますが)

男色も同じ事、合意が無ければ虐待、強姦になるし合意の元ならならない。
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現代の価値観でいえば、一部は虐待、強制性行為、


強制猥褻になるでしょう。

源義経などは稚児だった、という説が
あります。

訳の分からない年頃に、稚児にされたのですから
現在だったら、犯罪ですね。



今の価値観では虐待や強姦にはなりますが、当時は当たり前のことで、
皆普通にしていたのでしょうか?
  ↑
法令はともかく、道徳上は好ましくない、と
されていたのではないですか。
日陰者あつかいされていたようですから。
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そんなものは存在しない。

全部、歴史学者の妄想・捏造に過ぎません。譫妄から生まれた質問には答えようもありません。
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Aベストアンサー

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
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冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
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近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
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皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
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一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
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現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

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1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
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現代において価値があるから。
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国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
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実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
 ↑
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 声が大きい方が目立つし、意見も通りやすいのは
 今も同じです。
2,戦国時代の武将の声はとてつもなく大きかった
 と言われています。
 広い戦場で自分の名前をCMするのですから
 大きいことが要求されたのです。



当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
徳川家康は、部下の自由なディスカッションに任せ
それろじっと聞いていて、最後は自分で決める、
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そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
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日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

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このように、江戸時代の世界の覇権国とも言えるスペインとオランダが、なぜか日本に対しては強いことを言えず、低姿勢に徹したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
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既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
時代です。
鉄砲の数も世界一、と言われたほどです。

植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
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Q西郷隆盛は天才だったのでは?

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の人間だったにも関わらず、弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、日本の進むべき方向性を理解し、今やるべきことをわかっていた人のように感じます。

 そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。

以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?

Aベストアンサー

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
  ↑
ここがポイントです。
西鄕さんが解りにくいのは、私欲に乏しい
からだと思います。
私欲に乏しいから、どういう人間像なのか
把握しにくいのです。
彼ほど解りにくい人物はおりません。



以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能
を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?
 ↑
特別な才能を持っていたのではなく、私欲に乏しかった
ということだと思います。

彼は一度死んでいますね。
あれで私欲を無くしたのでしょう。
私欲が無くなれば、適格な判断が出来るように
なるのです。

西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
日本の歴史を見ると、西郷隆盛は、写真嫌いという古い時代の
人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
ハイ、ワタシもそう感じました。




そのうえで、驚くほど権力欲がなく、人の能力を見極め適材適所で
人を活用する能力に著しく秀でていたように思います。
  ↑
ここがポイントです。
西鄕...続きを読む

Qなぜ戦後の日本人はGHQを疑わなかったのか?

日本は第二次大戦の敗戦後、価値観が180度変わり、旧軍を悪とみなす風潮になったとされています。マスコミも負けた途端言うことがガラッ変わりました。でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは国民も知っていたはずです。だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は素晴らしい!」みたいなことを言っても、「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」と疑ってかかるのが普通だと思います。なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。

Aベストアンサー

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」
と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
それを受け入れたのが、日本の支配層であり、
指導層だったからです。
多くの国民は、日本は負けたから悪者にされた、なんて
ことは百も承知でした。
そういう意見は総て封殺されたのです。

では、どうして指導層、支配層は受け入れた
のか。

表面だけ従うように見せておき、米国の
影響が無くなったら元に戻そう、と考えて
いたのです。

ところが、GHQが、洗脳工作に、当時盛ん
だった社会主義者を使ったので、彼らが
マスコミなどの要職に就き、
見せかけが本当になってしまいました。


■1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な
「自由主義者」として、野坂参三、鹿地亘らの共産主義者を挙げて活用した。

マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、
野坂らの提唱で設立された日本人民解放連盟の中国での
日本兵捕虜洗脳教育を対日心理戦に利用できると確信し、
WGIPのモデルとなった。

エマーソンは「日本国内の戦争反対分子を励まし、内部崩壊を早める」
よう提言し実行されたが、同証言で「共産主義の目的についての理解がなかった」
と弁明している。

日米合作の太平洋戦争史観とコミンテルン史観との奇妙な癒着が戦後の
「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツ、温床となった。

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で...続きを読む

Q明治時代と一世一元の制について

明治時代は厳密には一世一元の制には入らないのですか。
理由も含めて答えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

慶応の時に即位してますが、改元はその時でなく、少しずれて、新政府の発足をきっかけにしてますから。

Q1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

Aベストアンサー

東日本大震災から8年、いまだにこの様です。
戦争が終わったのが1945年、日本中が震災に合ったようなものでしょう。「もはや戦後ではない」と言われたのが1956年、10年かかって戦争の後処理がようやく終わった感じだったのではないでしょうか。

Q豊臣秀吉はフィリピンを征服できる力はありましたか?

豊臣秀吉は日本を統一した後の全盛期に朝鮮半島に出兵し、衰退前の明・李氏朝鮮連合軍と戦って最終的に敗退しますが、中国も朝鮮もそれなりの武力を保有した統一国家だったので当然だと思います。

それでは、秀吉が南方に目を向け、例えばスペインの植民地であったフィリピンに出兵したとしたら、征服できるくらいの武力はあったのでしょうか?

60年後には、清に破れて敗退中の鄭成功がオランダに勝って台湾を征服していますが、秀吉は鄭成功より遥かに強大な武力を保有していました。

Aベストアンサー

日本から見て間にある琉球や台湾などに一切手を出さず、いきなりフィリピンに侵攻するのは非常に難しい。
(途中で襲われて人、物、情報の移動が困難になることが予想されるので、普通はそんな遠隔地へ侵攻はしない)
それなのに秀吉がいきなりフィリピンに侵攻すると言い出したら、側近がまず琉球や台湾などを占領してフィリピン侵攻の拠点にすることを進言するだろう。
(それでも秀吉が最初にフィリピンを攻めると言い出したら正気を失ったものとして軟禁される可能性が高い)
で、琉球や台湾などへ侵攻したりしている間に秀吉の寿命が来る。
ゆえに『秀吉は』フィリピンを征服できないと考えられる。

朝鮮や明は日本と比較的共通の文化圏の文明国だから、占領することで豊かになれるという希望が見いだせて諸大名に命令をきく動機づけが可能だっただろう。
しかしフィリピンみたいなよく判らん土地へ侵攻して征服する動機づけが諸大名に対して可能なのか、そこからして疑問。


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