人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>



私はこれは体罰でなく、暴力であると思います。怒りに任せた行為であると
思うからです。
教師という立場ならば、いかなる理由があっても、するべきでないことです
が、私がこの教師の立場に立っていたら、我慢できたかどうか自信はありま
せん。

この事件については、ほとんどの人が教師が生徒に嵌められたのだろうと考
えると思います。
これまでも、同様の話は何度も聞いていますし、世間の若者と大人の関係を
見ても、起こるべくして起こった事件であると思わざるを得ないからです。

問題は、この倫理の崩れ方です。

1.あなたは現代社会の倫理的な部分をどのように見ておられますか?

2.倫理が崩れているとお考えの方、その真因にアプローチしてみてください。

3.倫理・道徳など必要がないとお考えの方、ごきげんよう。

質問者からの補足コメント

A 回答 (9件)

二つ目の動画見ました。

この子たちの実名と顔写真はネット上に拡散しており、事の経緯も皆知ってるし、このようにTVで大々的に報道されれば、学校がいくらかばっても、この子たちの先は暗いと思います。学校も教育委員会も、今回の件が沈静化するまでただ待つだけで、何もしないでしょう。この子たちが卒業し、その後苦労してもそんなものは知らん、自分たちの責任さえ追及されなければ良いという考えなのかもしれません。
この子たちは自分達で墓穴を掘る形になりましたが、このような子どもの狡さ、未熟さに対応できるだけの力がもう学校や教育委員会には無いのだと思いました。この殴られた子供は将来獣医師になりたかったそうですが、彼のツイッターには、「お前には(優しさがないから)無理」とか、「お前が動物だろ(笑)」などのコメントが同級生たちから寄せられていました。
ひねくれた心が真っすぐになるとか、子供が大人に成長するとか言うことには機縁と本人の目覚めが必要なのであって、彼らを厳しく罰すれば取り合えず抑え込むことは出来るでしょうが根本解決にはならないと思います。この教諭も、親御さんたちから信頼されていたという事で今回の策謀の対象になったのでしょうが、自分を守ってくれてる存在を足蹴にするのは、子ども特有の行動です。むしろ殴られて良かったのかもしれません。只一点、曲がりなりにも、教師離れ、親離れができるからです。彼らは、今後社会の厳しい視線にさらされることになりますが、それも自身で選んだ道という事です。何か色々と情けない話ですね。教育関係機関にはガッカリすることが多いです。立派な人も少しは居るのでしょうけれど、もう本分は果たせていないのは、いじめ自殺の隠蔽等を見ても明らかです。子供を守るという事の意味をはき違えているんでしょうね。自分の立場を守ってるだけでしょ。この件はやはり大人の責任であり、ケジメをつけるべきなのも大人の方でしょう。
この子たちはこのままだときっと、保身のために平気で嘘をつく人間に育ちます。まっとうな大人になってもらうには、「誰に口きいてんだこの野郎!」と殴られるのではなく、「しっかりしなさい!」とか、「目を覚ましなさい!」と言われて、バチンとはたかれる方が効いたんじゃないですか。現状の別れ方だと、大人など信用するに足りない、という帰結を彼らは得てしまう。そんな人間不信を抱えたままではしあわせにはなれない。
私も教師にはいい思い出が無いので教育関係のあれこれには批判的ですが、どうやら日本全国規模で、教育の崩壊は進んでいるようですね。もっと風通しの良い、爽やかな教育を子供たちには受けさせてあげたいです。そして、のびのび育って欲しいです。

社会や組織に依存的な大人が多く、自己保身的な傾向が非常に強いのが問題だと思います。どうしてこうなったのか。先の戦争で、父や父になるはずだった多くの若者を死なせてしまったせいで、日本人格の三分の一ほどを欠損してしまったのかもしれませんね。その代わりにアメリカからもらったのが味気ない脱脂粉乳とうわべの民主主義とバカになる薬じゃあ、あまりに釣り合わない。日本人は父親探しの旅に出なければならないのかもしれません。
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この回答へのお礼

現在の日本の子供たち、若者たちがこのように変化した原因は明らかだと思っています。

即ち、家庭内のしつけ・教育の問題。

子供に対しては体罰はご法度で、何をしても諄々と説いて聞かせ、最後はハグしてあげる、
どこかの専門家が言い出したのでしょうが、このような考え方が女性の間では圧倒的に支
持されているようです。
一方男性は、私もそうですが、体罰はあってもいいし、時に厳しい態度は必要である、と
考える人がほとんどであると思います。
尤も私は体罰はなくでもしつけはできると思っています。

そして、日本の家庭のほとんどが母親が主導権を持っていて、父親の意見、両親の意見、祖
父母の意見は「古くて粗悪なモノ」として退けられていると考えています。

つまり、日本の伝統的考え方と、父性というものが否定されている状態といえましょう。
その結果、子供、若者の異常なワガママが生じてしまっている、と。

公共の場での子供たちのダダのこね方は、異常に見えます。まず思うことは、母親は大変だろ
うということです。成人した若者の印象も全く同じです。

私が子供のころ怖かったのは、母親のビンタやおしりツネツネや父親のゲンコツではなく、母
親の毅然とした態度と、怒った時の父親の顔でした。
それでしつけはできると思います。今の若い親たちはわざわざ子育てを大変なものにしている
ということになります。

教育の問題で一番の悪は、食いつきのいい教育論で金儲けしている、レベルの低い専門家だと
思います。また、それに根拠を与えているレベルの低い知識人ですね。更には、保身のため見
て見ぬふりをする立場の高い人間たちです。

所詮悪いのは力を持った大人ですね。これは不変です。
若者は大人の犠牲になるという方程式は、今だ変わらずなんでしょう。

今回、叩かれた彼らはむしろ幸運だったと思います。反省して変わる可能性があると思うから
です。
しかし、抜け目のない連中は、自分の身を守り、人生を進めてゆき、そういう人に限って出世
し、若者を犠牲にする大人になってゆくという、亡国へのスパイラルは続くわけです。

ああ、忘れていました。私がいまいちわからないのは、若者たちの非倫理性、汚さ、ハッキリ
言って「下衆さ」は、ワガママだけではどうも納得できないものがあるということを申し上げ
たかった。

お礼日時:2019/01/27 12:43

米国在住です。



米国では、教師に対して、反抗的な口をきいた時点で、校長室送りです。それで、反抗の度合いがひどいと判断されたときには、公立学区に設立された、”更生施設の学校”に、適宜送られます。一週間から、三か月。勉強もしますが、そんなに力を入れてもらえないので、そこに送られた時点で、大学への進学が厳しくなります。

この子も、更生施設の存在があれば、先生にこんな、口汚くののしることはできなかったでしょう。

親によっては、その時点で私立に切り替えることもありますが、私立高校の授業料は、大変値がはりますし、先生対生徒の比率が低いので、きわめて厳重に見張られている感じです。また、キリスト教関係であることが多いので、”聖書学習”の時間があり、相当ギュウギュウやられます。

ご存じのとおり、米国では、高校・大学で、銃による大量殺人が多発しているので、生徒は、”守られる対象”です。ピストルが見えるように、腰に装備した、見るからに恐ろしい警官が常駐しています。

また、高校卒業までが義務教育で、高校を卒業できないと、ドロップ・アウトのレッテルがはられます。先生と悶着を起こすのは、非常に不利になります。(私はこの点では、勉強の嫌いな子は、中卒で就職できる日本のシステムのほうが良いのではないか、と考えます。)

繰り返しますが、アメリカの高校生は、高校卒業までは、大人に保護された存在であるのを、よく、自覚しています。半人前の自覚です。ギャングの一味でない限り、私のようなおばちゃんにさえ、丁寧な口を利くように訓練されています。これは、小学校の時から、訓練を積んでゆかないと、高校生になって、突然、大人には、丁寧な口をききましょう、と言っても、できるわけがないです。小学校高学年から、中学一・二年までが、ポイントだと思います。その時期に、甘い顔をして、つけあがらせると、抑えが効きません

最期に、アメリカでは、比較的、キリスト教や地域ぐるみの、”ホーム・スクーリング"が盛んです。一般の公立校にどうしてもなじめない子供たちの受け皿として、家で親が勉強を教えます。日本にも、似たようなシステムが、もうできているかもしれませんが、学校でいじめられて、自殺をするぐらい悩んでいるなら、専業主婦の多い日本ですから、ホーム・スクールが受け皿になったら、どうかなぁ、と、考えたことがあります。

アイビー・リーグの哲学の授業も良いですが、本当に困っている子供たちに、教えてあげたいシステムです。

以上、思い付きで、回答になっていなければ、申し訳ありません。
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この回答へのお礼

いつもながら興味深いご回答ありがとうございます。

教育の面でもやはり日本という国は遅れていることを痛感させられます。

一世代前の我々の時代の「不良」というものの特徴は、社会に迷惑をかけるのですが、
自分をも傷つけ、自分をも損をするというのが大きな特徴であったと思います。

暴走族は週末になるとものすごい台数で大暴れしていました。クラスメートでも死んだ
人間がいました。アンパンやって歯が溶けちゃったイケメン男子もいました。
また、不良でなくても、自分を傷つけ、自分が損をするような青春の爆発、というものが
あったような気がします。

ある意味、正直さ、潔さを感じます。

ところが今は、決して自分が損をするようなことをせずに、つまり、合法の範囲内あるいは
保護される範囲内で「青春の怒り」を晴らすために、人を苦しめ、貶めます。

仰るように、あの生徒は自分は責任を問われることがない、自分は損をすることがない、と
踏んでの行動であったと思います。

陰湿ですよね。

今回の事件も、数人の実行犯だけの問題でなく、それを支持する層、それを見てケラケラ笑う
層というものがあって、裾野は広いと言えるでしょう。

ワタミの創業者は日本の教育の現状を憂いて、学校を買い取り経営するという事業を展開しよ
うとしました。私は大変に意欲的な行動であると思いましたが、撤退してしまいました。
それどころか、ブラック企業の総本山的なレッテルを張られ、企業そのものが衰退してしまう
事になってしまいました(多少挽回したようですが)。日本という国は本当に変わらない国なん
ですね。

とは言っても、教育の改革は必須事項であると考えています。
そのためには「世論の形成」ということを、まずやらねばならないという順序があると思います。

お礼日時:2019/01/25 12:20

見た感じ、この教諭は、処分覚悟で殴ってますね。

処分の重さと、我慢するストレスを天秤にかけて、処分される方を取ったのではないかと思います。処分されればこの反抗期の少年を指導することは出来なくなりますが、それでも全然構わないと思ったのでしょうか。その程度の責任感しかなかった普通の教師だったのだと思います。私にとっては批判する対象にはなりません。この反抗期の少年も、悪口が全然様になってないし、パンチももろに食らっちゃって、たぶん不良ではないです。ピアスをしていたそうですが、パッとしない子供だったんじゃないですか。共謀した撮影者二人のうち一人は、この殴られた少年を肴にして事態を楽しんでる風ですね。

なんというか、それだけの風景です。共謀者同士の間に友情もなく、事件にわざとらしく群がる他生徒の雰囲気、非常に虚しい空気の中でこの子どもたちは生きてるんだろうなという印象を受けた映像でした。

1.教育においても、倫理・道徳の役分は減ってしまったと思う。戦前教育を受けたあるおじいさんの話では、当時は体罰は効果が無いとされていたのは常識だったそうです。それが変わってしまったのは戦中、戦後教育になってから。人を育てようという気を持った教師が少なくなってしまったんじゃないかな。成果主義に流されてるんだと思いますよ、文科省の幹部とかも。

2.人々がやや動物的になって来た風は感じる。と言っても昔を知ってるわけではないのですが。損得勘定や快不快が行動原則になっていて、ありえべき人の姿を自由闊達に求める求道の人はほとんど見ない。つまらないね。人々の行動や反応がどれもパターン化してしまっていて、支配者にとっては好都合なんだろうけど。生存に纏わる欲求や、生存できなくなる恐怖によって、人に人たる生を歩ませない、悪の仕業が世に影響しているのを感じます。例えば仕事観にしても、生きるためには仕事しなきゃならない、みたいな奴隷感覚が現代の大衆に浸透してる。これは良くない。昔の日本人は逆で、仕事することが生きる事だったんじゃなかろうか。やっぱり、仕事も人生も楽しい方が良いでそ。やりがいとか生きがいとかが要るんですよ、人間には。そういうのを否定しちゃうから、”なんで生きてるの?”なんて質問が出てくる。俺はこれをやるために生きてきたんだー!!ってのが明確に分かることが、まるで不可能であるかのような暗示、魔法にかかってる。生きる意味や喜びってのは実にあって、それを遠慮なく享受する事、敢えて言うが、そういう”初歩的な事”から始めないと、お釈迦様の説いた人の生きる姿なんてのは遥か遠い彼方です。

3.あいさつは、人間なったら、一年生。確か法華経にもあります。人と会ったり、すれ違う時に、挨拶し、又は会釈をし、或いは片手を挙げるだけでも、そのような人々は次第に仏を見て、ことごとく仏道を完成させるであろう。

このピアスあけてた子も、誰かに挨拶くらいは出来てたはずなんだよね。教師に出来なくても。それをぶん殴っちゃって。大人げないとはこのことですよ。
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この回答へのお礼

世代が近い分だけ、真実に迫っている感じがしました。

私は現代の日本の教師ほど苛酷な職業はそうないと思っています。
このような事件は毎日あるわけでもないにしても、こういうクウキの中で
働かざるを得ないという現実があり、常に生徒からPTAから、また、上層部
からの圧迫を受けているのでしょう。

そのために、周囲から目をつけられないように、なるべく目立たないような
言動を心がけているのが、一般的だろうと思います。

知り合いの教師に久しぶりで会ってみると、何か怯えたような、何か言い訳
がましいような表情をしているんですね。それは、このような職場環境がそう
させるのではないかと思いました。

生徒を殴ったこの教師は、仰るように「こんな仕事もうやめよう」と決意した
うえでの行動だろうと思いました。
おそらく、体育会系・熱血系の先生だったのだろうと思います。だから、目を
つけられたのだし、むしろ、責任感はあったほうなのかなと、弁護してあげた
い気持ちがあります。

実行犯の生徒は、確かに馬鹿っぽいですね。これが、昔の不良みたいに眼光鋭
く、ドスがきいていたなら教師はあれほど腹を立てなかったのかもしれません。

そして、仰るようなこの「風景」ですね。

友情などは感じられず、ただこの教師を貶めてやろうということのみで繋がっ
ている感じ。
わざとらしく駆けつける数人の生徒たちの姿のほうが、私の心を寂しくさせま
した。

この「感じ」って、実は近所にある高校に通う生徒たちから受ける印象なんです。
一見普通の高校生たちなのですが、少し感性を集中させて見ようとしてみると、
仲の良さは感じられないですね。カップルですら、何か冷ややかです。
そして、常に周囲の目を気にしているし、何かを探しているようですし、そうSNS
で流す「ネタ」を。

まあ、思い込みもあるでしょうが、間違いなく感じるものはあります。

でも、これは高校生に限らず、今の社会全体から受ける印象ではあります。
そして、こういうようなことは大人たちは、感じないか、語らないか二つに一つで
あると思います。

あらゆる変化が、今までと同じく、何事もなく過ぎ去ってゆくという脳天気な楽観性。
アホだと思いますね。

三年半前に、ここに投稿を始めたのは、今日本はどうなっているの?ということをハッ
キリ知りたいと思ったからなんです。

お礼日時:2019/01/25 08:20

あたしゃ木造さんに賛成だね。



お釈迦様や孔子様やソクラテスやイエス様が「人間はどうあらねばならぬ」なんて言って来たにも拘らず、結局戦争もいじめも病気もなくならないっていう長くて痛い経験を人類はしてきた。その経験から学んで、ガリレオやマキャベリになって、ようやく「自然はどうあらねばならぬ」とか「人間はどうあらねばならぬ」なんて言ってても無駄なんで、「自然はどうあるのか」とか「人間はどうあるのか」という事実の分析をしようじゃないかっていう自然科学が生まれ、社会科学が生まれたんだよ。

あんた相変わらず、この人類の科学的な思考の進歩に追いつけず、「人間はどうあるべきか」って言っていれば世の中良くなると思ってんだね。法に頼るという意味がわかっていないようだ。

あんたの理想は、優れた人間による人治主義なんだね。そんなんじゃ、またヒトラーやスターリンや毛沢東の人間大虐殺の悲劇がやって来るよ。
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この回答へのお礼

>あんた相変わらず、この人類の科学的な思考の進歩に追いつけず、
「人間はどうあるべきか」って言っていれば世の中良くなると思ってんだね

全く思っていませんね。

>あんたの理想は、優れた人間による人治主義なんだね

そんなことは一度も言っていませんね。

あんたがにも困ったものだと思っているんですよ。
上から目線の、決めつけ。

ハルさんについてもそう思ったね。
どうせ時間かけてやり取りするなら、もう少し聞いてあげればよかったのにと
思ったよ。
あんたがガーガー言うから、彼は言いたいこと言えなかった感じ。
まあ、彼は自分の事を表現するのが苦手だけれど…

「人間はどうあらねばならぬのか」なんていうことを考えているんじゃないんですよ、
理想主義者というのは(私の知っている限りでは)。
「人間とは何か」を考えているんですよ。

尤も私は学者でも何でもない一般庶民です。しかし、一般庶民がモノを深く考えると
いうことは民主主義の成熟上大事なことだと考えています。
私らは地べたで生きている人間です。象牙の塔から見ればバカに見えるんでしょうが、
余計な圧迫はしないでもらいたい。うるさいだけだから。

お礼日時:2019/01/23 23:43

>だから、倫理などという面倒なモノは捨てた、ということでしょうか?



いいえ。
倫理観の高い人間が、倫理のかけらもない人間と共存してゆかなければならないと言う事。
だから法治国家にせにゃあかんのよ。
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この回答へのお礼

法治国家はいいのですけれど、

法に頼らざるを得なくなるほどに、砂漠のような社会になり、
倫理観が社会の中で高まるほどに、自律性、主体性が高まり、潤いが出てきます。

金やモノがあったって、カラカラじゃあ嫌ですよね。
尤も、日本は経済ももうアカンですけどね。

お礼日時:2019/01/23 11:36

それで何なの?ってな話ですね。



勝海舟の親父の勝小吉が『夢酔独語』って言う自伝を書いている。此奴の不良っぷりは天晴れな域に達していた。旗本だった彼は勉強が大嫌い。でも剣道が面白くて、江戸中の道場にイチャモンつけて道場破りをするのが趣味だった。知り合いの町人で喧嘩が強い奴を尊敬していて、喧嘩道の師匠だって言ってる。その師匠からある時声が掛かって、今度の祭りに喧嘩しに行こうと言うんだ。んで、三、四人で連れ立って祭りに行くと前から四、五人の鳶が肩怒らせてこっちにやってきた。んで、スレ違いざまに、その鳶の一人の顔にいきなり唾を引っ掛けてやったんだそうだ。もちろん大げんかが始まった。んで、小吉側が相手を散々打ちのめした。

そこで、小吉たちがまた意気揚々と肩怒らせてしばらく歩いて行くと、さっき打ちのめした鳶が仲間を二十人ばかり連れて、襲いかかてきた。今度は多勢に無勢だ、命からがら這々の体で逃げてきたと書いてあった。

その親父にして、この子ありだ。海舟も変な奴だった。勝は麟太郎と呼ばれていた。親父と違って勉強ができたんで、海舟は幕府に取りたれられるようになった。んで、ある日風邪を引いて三日ほど寝込んでいたんだが、フラフラしながら、勝の女房の民子にその理由を何も告げずに「一寸、出かけてくらあ」って出て行った。そして、その後1年帰ってこなかった。その時咸臨丸でアメリカに行ってたんだね。女房の民子は何が起こったか心配で心配で夜も開けなかったそうだ。民子は、自分が死んでも決して麟太郎と同じ墓には入れてくれるなと遺言を残したそうだ。

な、いつの時代でもどんなん民族にも、羽目を外した奴がいるんもんだ。んで、それで国が滅んだわけじゃない。小吉だって、思春期時代にお伊勢参りに託けて家を飛び出し、その途中で非人の乞食達に弟子入りをして、「乞食は三日やるとやめられない」って本当だと言った経験をしながら、それでも成人して、まともな人間になった。そして、勝海舟を教育して、日本を欧米の列強の餌食にならないようにした恩人の一人になった。

今の風潮の悪いところは、スケールの小さい輩どもがマスコミを使って、ギャーギャー大騒ぎすぎるところにある。若いもんが羽目をはずすのは昔から、お天道様が東から出て西に沈むのと同じぐらい、あったり前田のクラッカーだ。

若いもんが手に負えなくても、そして、そいつを先生が打っ叩いても、大騒ぎするもんじゃない。でも、大方の人間は、そんな羽目外した連中が周りにいると不安になるのもわかんないこっちゃないが、そんなことで目くじら立てている方が、世の中危ないんじゃないんかな。
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この回答へのお礼

予想どうりのご回答で、なんて言ったら失礼かもしれませんが、先生が日本に
住んでいたのは何時ごろまでなんですか?

昔、暴走族が暴れまわったり、アンパンやって喧嘩して何人も死んで、なんて
いう「羽目を外す」なんていうレベルではないですよ。

先生がいくら頭がいいからって、住んでみなきゃわからんということになりま
すね。今の日本のことお分かりではないようです。

若者だけじゃないです。皆おかしいです。異常です。

お礼日時:2019/01/23 03:13

1.あなたは現代社会の倫理的な部分をどのように見ておられますか?


 ↑
全体的に見て、崩れつつあるように思います。



2.倫理が崩れているとお考えの方、その真因にアプローチしてみてください。
  ↑
欧米の価値観などを無批判に導入したのが
その理由だと思います。
欧米には、キリスト教という倫理の軸があります。
しかし、そんなモノのない日本で、欧米流の
権利中心の個人主義を導入した結果、
我欲の為に権利を濫用するようになったのだ、
と考えています。



3.倫理・道徳など必要がないとお考えの方、ごきげんよう。
  ↑
コンニチワ。
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この回答へのお礼

仰ることは、戦後生まれの、団塊の世代から40代くらいまでの世代の
倫理観の変化について言えると思います。

そのあとの世代の倫理観の崩壊度は凄まじく、これについては他の原因
があるとしか思えないのです。

お礼日時:2019/01/23 00:13

国民全員が倫理的になることはユートピアの話で、現実には起こりえない。

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この回答へのお礼

だから、倫理などという面倒なモノは捨てた、ということ
でしょうか?

お礼日時:2019/01/22 15:30

①言っちゃなんですが、昔からありましたよ。

ただ、全ての生徒がってわけではないし、先生に対してってわけでもないし。(主に嫌いな相手に対して)

②まず一朝一夕の出来事ではないと言うこと。全ては昔から継続していた「教育の甘さ」それを悪用されただけ。

人は全てが善人なわけではない、全てに対して善なる行動をしているわけではない。全ては「本心」が問題……他者を貶める「悪意」これが全ての発端です。そしてそれを戒める理性。全てが無い人間が多い感じがします。表面、みせかけだけで中身が伴わないという……

ちなみにそれは先生だけでなく、生徒も同類だと言うことです。まあ、「今の日本のトップの政治家が全く同じことをしている」わけですから、どうしようもないですよね……
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この回答へのお礼

1.私も随分昔からこういう話を聞いています。
当然、一部の人が、狙いを定めてやることなのでしょう。

2.>他者を貶める「悪意」これが全ての発端です

なるほど。そして、理性が豊かであるような顔をしているが、実は空っぽであることが
問題である、と。

教育の甘さというご指摘、また、国会議員の先生方からして同じであるというご指摘、
共感します。

お礼日時:2019/01/22 13:50

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Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

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逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

Aベストアンサー

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すと...続きを読む

Q何故私は「反・知性主義」なのか?

こんばんは。

例によって、「ヘン」な質問ですので、お暇で、何か感想を持たれた方の書き込みを希望します。

むかしから、「読書家」と言われる人、更には「利口者」「賢い人」「博識」「才気煥発」といった人たちに、ほとんど「憎悪」と言っていいほどの生理的嫌悪感を抱いています。

それが単に「持たざる者」の「持てる者」への羨望、嫉妬、やっかみに過ぎないというのならそれはそれで構わないのです。

わたしは精神障害者ですが、知的障害者でもある可能性も高いと感じています。

さて、わたしがこのような「反知性主義者」である理由は何に起因すると考えられますか?

上に述べたように、出来ない者が出来る者へ感じる至極単純な劣等感、情けない妬み・嫉みであるというお答えでももちろん結構です。
ただ、そのようにお答えになられた場合、何故あなたはそのような結論を出されたのか?
その理由を教えてください。

このような質問をするくらいですので、精神状態はあまりよくありません。お礼が遅れることもあると思いますがご理解ください。

Aベストアンサー

質問者さん自身が、「お礼」で「『自信ありげな態度』というのはどうしても好きになれません」などと書かれてますので。
それがそのまま「理由」じゃないですかね?

すなわち、知性が嫌いなのではなくて、「知性をひけらかす」などの行為や態度が、嫌いなのでは?
もしそうなら、質問者さんに限らず、そんなのが好きな人は、少数派ですよ。(^^;)

私も、哲学やその精神や本質(知を愛す)は好きなのですが・・。
言葉遊びとか、知(智)を弄ぶ様な、一部の「哲学ゴッコ」などには反吐が出ます。
他人を論破して喜んでいる様な哲学者気取りは、哲学を語る資格さえ無いと思います。

逆に哲学の原点は、「無知の知」であって。
「知」に対しては、常に謙虚であるべきですから、謙虚さのない知性に嫌悪する質問者さんは、真に哲学的なんでしょう。

Q偶然の誕生

私は、たまたま大阪で生まれました。
何故、10万年前に生まれなかったのですか ?
何故、10万年後に生まれなかったのですか ?
何故、虫や猿ではなく人だったのですか ?
何故、日本人としてですか ?
まだまだあります。
宇宙の誕生、地球の誕生、水や空気
そのように考えると、全てが偶然です。
偶然でないものはありますか ?

Aベストアンサー

#4です。

>「神と呼んでも構わないが、それのみが必然。」と言うことで、「なるようになった」と考えていいですか ?

この文に対するわたしの解釈が間違ってなければ、そうです。
少し切り口を変えて表現してみます。
たとえば、『宇宙の誕生』自体は偶然だと私も思う。
しかし、
宇宙はなぜ偶然誕生したのか?
と考えた場合、それは宇宙が偶然誕生するようになっていたから、と言うしかないと思うわけです。
で、「宇宙が偶然誕生するように」させていたものがあるわけで、その存在自体は必然と呼ぶしかないだろう、ということ。
それが何かは、むろん不可知ですが。
仮にわかったとしても、じゃあ、そのわかったものはどのようにして生まれたのか、という無限の問いを続けざるを得なくなるため、それが何かわかるような何かであっては意味がないわけです。それゆえ神という言葉で象徴可能かと申し上げた次第。

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Qアラシ投稿の阿呆さについて ご意見をどうそ。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合もある。

3. これらの例は ふつうに自然に起こる人間どうしのヨコの関係です。そして
ここで問題としたいのは このヨコのではなく もしその互いの間に上か下かとい
うタテの関係が生じたなら どうするか? です。



4. 抽象的に規定しますと 《互いのマナザシがどちらか一方が他方よりも上か
ら差して来る》といった上下の関係です。(まだほっかほかの質問として マウン
ティングの問題が出ていましたね)。


5. まづ このタテの関係については ふたつの種類があると思います。
( a ) ふたり――といった単位体を例に採りますが――のあいだにそれこそ自生
的に生じたもの。気楽なマジハリ。
( b ) そして あとは 人為的に作為的につくられたタテ関係。

6. 大昔には 身分の世襲制によって 人びとそれぞれのマナザシは どのよう
にそそぐか(注がれるか)は 決まっていたとも言えます。

7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
下関係を打ち破っているか? マナザシは 完全に自由になったか?

8. 家族の中での――遠慮の要らない――マナザシの錯綜関係もあるでしょうし
けっきょく果ては 国と国との関係における〔こちらは〕深謀遠慮なるアマアガリ
戦術としてのマナザシ照射も 起きるのかも知れません。

9. ここで問うのは こうです。アラシ回答は アマアガリ・シンドロームに落
ち入った阿呆なるマナザシ合戦である――という命題をめぐって 思うところを述
べてくださいと。

10. また広く人間のマナザシ関係について 見解を述べてくださっても結構で
す。制約はありません。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合...続きを読む

Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。

Q<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされた常連さんは、今後、この愚かな大衆を相手にして投稿をされ

先日、このカテである常連さんが<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされていらしゃいました。そのことについては、私にはわかりません。
ところで、この常連さんは、今後、このような愚かな大衆を相手にして投稿をされることはない、と思われますか?

Aベストアンサー

ありますよ。
釣り堀りの住人が一生懸命撒き餌していると思えば良いです。

<大衆は 絶対的に愚かか?>
こういう質問の仕方が撒き餌効果アリと考えている。
で、エサを撒いている限り自分のほうが魚より賢いのは確かだと悦に入っているわけです。
他人を貶めることでしか自分の価値を確認できない憐れな輩です。
ま、逆切れして実社会に迷惑かけても困りますし、暇な人が相手してやれば良いかと。
無駄・無意味・不毛につき、賢人は寄り付きません。


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