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1. 日本語文におけるハ格とガ格について その成り立ちを問い求める中に 表題を
考えます。ご見解をどうぞ。

2. つまりたとえば:

( a ) 太郎ハ 花子ガ 好きだ。

3.これは まづは・あらかじめながら:

(α)  《Aハ Bガ Cナリ。 / Cスル。》の構文

と捉えます。

4. このハ格とガ格の用法は 一筋縄では解けないようです。次のようにまったく
違ったふたつの解釈が 文脈を別とすれば ふつうに・そして互いに自由に対等に 
できるようです。

( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例: 
 ・ 太郎が好きな相手は 花子だ。( Taroh likes Hanako. )

( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例:
 ・ 太郎を好きなのは 花子だ。( Hanako likes Taroh. )


5. 言いかえると ハ格もガ格もそれぞれ同じように 主格(主語格)としてのガ格
かまたは対格(目的語格)としてのヲ格かをそのままで意味しうるからです。

6. つまり (a)文のハ格は 主格――Aガという主語をしめす(a-1)――となっ
たり 対格――Aヲというように主語の動作の対象となっている(a-2)――を代用した
りする。

7. 言いかえると 文の中の語句どうしの意味連絡を確かめる前の段階では ハ格も
ガ格(ガ格一般)も ともにその意味は確定しない。こういうことになります。

・・・

質問者からの補足コメント

  • №7つづき

    ★ (自・他動詞や「してもらう」「してくれる」などの形を区別せずに動詞の作用
    の向かう方向の判断は意味や文脈に委ねられています)。
    ☆ さだまった文型にそのような意味合いを表わすかたちがないのだと見られます。


    ★ 時制
    ☆ 言いかえると 用言(動詞)の時点にこだわった活用形については 英語のほう
    に一日の長があるようです。

    ★ 日本語 には確かに〔☆ ヘンなかたちとしても〕《表現の自由》があります。


    ★ CGEL
    ☆ は使い勝手がいまひとつだそうですね。


    ★ 目的語も補語のうちでどちらも動詞が要求する要素
    ☆ 間接目的語は 補語とも言えますね。

    ★ 目的語も補語も動詞の要求に応える要素という点で同じ連用修飾語ということ
    ☆ 意見を異にします。連用修飾語(副詞)は文の成分として 基本(必須)では
    ないです。目的語(対格)は 他動詞にとって必要です。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/01/27 09:24

A 回答 (9件)

日本語というか、日本人は相手を思いやる気持ちが強いですからね。

文脈上省けることはできるだけ省くことが美徳と考えられています。そのため、言葉も文脈依存性が強いのでしょう。だから、文だけでは意味が確定しないんですよ。その最たる例が「私はうなぎだ」ですね。

なぜ日本人において相手を思いやる(空気を読む)気持ちが強いかというと、おそらく日本が島国だからですね。長年、異文化人が入り込む機会が極めて少ないので、同じような風貌・思考の人が多かった。だから同じ言動をしないと、とても浮いてしまう。そんな社会で生きていくための処世術として、空気を読むようになった。そして、それに伴って言葉も省略されていくようになったのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 日本語というか、日本人は相手を思いやる気持ちが強いですからね。
☆ 言い回しの問題ですが わたしなら:

 日本人は互いに生活のあり方が分かり合っていて そのぶん いちい
 ち言葉にして表わさなくても 話し合いは成り立つ。

とでも言います。つまり:
★ 文脈上省けることはできるだけ省くことが美徳と考えられています。
☆ についても 《美徳》とたたえ合う前に 意志疎通に必要な部分だ
けを述べる。――のではないかと。

★ そのため、言葉も文脈依存性が強いのでしょう。
☆ となりますね。

★ だから、文だけでは意味が確定しないんですよ。
☆ はい。

★ その最たる例が「私はうなぎだ」ですね。
☆☆(№8お礼欄) 
( c ) 私ハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。⇒ 私ノ注文ハうなぎだ。

☆ というふうに取り上げました。


★ なぜ日本人において相手を思いやる(空気を読む)気持ちが強いか
というと、おそらく日本が島国だからですね。
☆ ですね。

★ 長年、異文化人が入り込む機会が極めて少ないので、同じような風
貌・思考の人が多かった。
☆ 一定地域――たいていは村々の一定の集まり――の外へ出たり外か
ら入って来たりすることは 少なかったらしいです。島国のその内部に
おいても。


★ だから同じ言動をしないと、とても浮いてしまう。
☆ たぶん 《浮いてしまう》人間は ムラそれぞれに一人くらいはい
て その人間を包容しつつ 同質性を保っていた――のでしょうね。


★ そんな社会で生きていくための処世術として、空気を読むようにな
った。そして、それに伴って言葉も省略されていくようになったのでし
ょう。
☆ 必要以上に言葉を出して伝えなくてもよかった。

そして クウキについては これは 社会が言わば二階建て構造を採る
ようになったときに 現われたのではないか? 

お二階さんたちは 偉いということに成っていた。じっさい威張ってい
たんでしょう。人びとは 生活や生命の危険にまでおよぶおそれがある
とき お上にさからうことを控えます。さらには 《忖度》するように
さえ成り その心の中の思いがクウキとして漂うように成ったのでしょ
う。

クウキに対しては 《水を差せばよい》らしいです。

お礼日時:2019/01/30 22:05

>★ 「太郎ハ {花子ガ 好き}(だ)。

」★ この文の「花子が好き」は《従位節》です。
>☆ あたらしい説ですね。

新しくも何ともありません。前から言ってることです。

あとは、どうぞ、永遠の迷路遊びをお楽しみください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★★ 「太郎ハ {花子ガ 好き}(だ)。」
★★ この文の「花子が好き」は《従位節》です。

☆ 複文と見ての分析ですね。すなわち:

★★(№7) ~~~~

Speaking of Taro, Hanako is the one he likes (a-1)
        [あるいは、the one who likes him (a-2)].

~~~~~

☆ ただしですね。単文として出来上がったと認識できるのではないか?

単文のままでじゅうぶん捉えることができるという事態があり そのこと
は 表現のあり方から言って 自然でふつうの――あるいは初源の――形
式だという見方が成り立つはずです。

 ( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》
 ( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》

☆ という解釈が――述部が 好き‐だ と 好く の違いがあるから――
だめだとしても 《好き》を体言(名詞)として・しかもその対象をも示
す語と採ればいいのでは?

 ( a-1-1 ) 太郎トイエバ 花子ガ 好き〔の相手;あこがれ〕だ。
 ( a-2-1 ) 太郎ガ 花子ノ 好き〔の相手;意中の人〕だ。

☆ 主題を提示するハ格やガ格は あたかもそのウラにおいても 別の格
(文の意味連絡のための)を そのままで表わすことができる。――この
《事件》は 注目してよいのではないでしょうか?




☆☆(№5お礼欄) ~~~~

   A(中心主題)-B(関係主題)-C(論述)
______________________________
( b ) 象ハ   鼻ガ   長い。⇒ 象ノ鼻ハ長い。

( c ) 私ハ  〔注文ガ〕 うなぎだ。⇒ 私ノ注文ハうなぎだ。

( d ) 時ハ  〔それ=時ガ〕 金なり。

( d-Fr. ) Le temps. c'est de l'argent.

(逐語訳) The time, it-is (some of the) money.

( d-E. ) Time is money.

(分析)  Time, it-is money. ( is は it-is だと決まっている)。

~~~~~~~~~~

☆ 文例( b )も( c )も ( a )と同じく 複文として解釈する
ことが出来ます。

お礼日時:2019/01/28 04:41

「太郎ハ {花子ガ 好き}(だ)。



この文の「花子が好き」は《従位節》です。(従属節とか従節とかとも呼ばれますが)
《従位節》のない単文の例は、たとえば、「太郎は{生徒}(だ)。」
このいずれも文末の「だ」は文体による選択肢でなくても文は成り立ちます。なぜかというと、この場合の主節(太郎は~だ)は動作を言っているわけではないので動詞は要らないからです。――日本語で主部と述部を連結する役目をするのは助詞であって動詞ではありません。(英語では動詞が主語と述部を連結する役目をするので、動作を言うわけではない場合も、連結語として be動詞を必要とします。)

この文の実際に意味するところは文脈によって知ることになります。誤解を招きそうなら言葉を付け足したり、言い方を変えます。言葉とはそういうものです。(文脈もなしに一文だけですべてが分かることを理想にするのは非現実的です。もしかすると、それが古代ローマ時代辺りの言語学に携わった人たちの過ちで、西欧語には単複の区別を常時表示するルールがあるのかもしれないとか勘ぐりたくもなります。)つまり、箇所が違うだけで、英語のあいまいさは実は日本語以上だったりします(あとは”使用者の問題”だったりします)。

「太郎は 花子を 好く。」
この場合は、動作動詞「好く」は、この動作の作用を受ける対象(「花子を」)を要求する他動詞で、これは単文です。(ちなみに、従位節のある文は複文と呼ばれます。)

「太郎ハ {花子ガ 好き}(だ)。」これを敢えて構造をそのままに英訳すると、
Taro is (that) Hanako is the one he likes [あるいは、the one who likes him].
という複文が考えられます。しかし、英語ではこういう表現はしませんから、

意味と日英語の主語の概念の違いを考慮して、あり得る英文にすると、
Speaking of Taro, Hanako is the one he likes (a-1) [あるいは、the one who likes him (a-2)].
となります。

日本語の原文と同程度に普通の平易な表現はというと
Taro likes Hanako. [あるいは Hanako likes Taro].
です。しかし、これは逐語訳的には「太郎は 花子を 好く。」です。

今回の例では、日本語は同じ文字数で、Speaking of Taro, Hanako is the one he likes と言うだけのニュアンスを表現するわけですね。「は」だけで speaking of (=about) が表せたり、「が」だけで (is) the one を意味できるのが便利なようです。単文より複文のほうが叙述的なので、それで日本語では「太郎は花子が好き(だ)」と言うほうを好むのでしょう。

日本語の文法は私がこれまでに見てこれた限りでは、とかく有標で単純ですが、英語の単語数は日本語より多そうなのに基本的な単語ほど非常に多義で、単語だけでなく構造も多義なものが多く、そのうえ無標で符号的に複雑で、意味が分からないと分からないという矛盾に満ちています(自・他動詞や「してもらう」「してくれる」などの形を区別せずに動詞の作用の向かう方向の判断は意味や文脈に委ねられています)。つまり、このように文脈で分かるから、何でも同じ形、同じ単語で済ませて簡素にするのが英語です。しかし、それでも口語で普通に話す際は(=平易でぶっきらぼうでない言い方としては)、叙述的な that節のほうが、準動詞(分詞と不定詞)による簡潔な"句"より好まれます。

(因みに日本語には修飾語に時制の有無による句と節という大小の違いはなく、英語の句と節のあいのこと言えるような、手短かでかつ叙述的な表現が、単純な時制構造と助詞のおかげで可能で、これしかないわけです。この辺りは単純に収まっていますが、話者の態度や感情表現をまるで文法が要求しているかのように、文末にほぼ常時必要とするのが日本語です(日本語で複雑な箇所は言いたいことに関することということになります)。聞き知る限りでは、感情表現についてはスペイン語もそうらしいです。スペイン語はカラフル、日本語はポエティックだと形容するアメリカ人もいました。日本語がポエティックというのは言語構造というより社会的なもので、…まあ、言語構造からの影響で、数式的な英語はなにかと人が思い込みで安易にルールを作りがちなため疲弊している部分が(かなり)あって[イギリス人が書いた世界に人気の文法書がこの文法書は一部の人が良いと思う”ルール”についてではないと断り書きをしていたりします]、それに比べて、日本語という言語には確かに《表現の自由》があります【日本語のような言語を知らない英語のような言語の世界の住人であればそれが”当たり前”なわけで”そういうもの”でしかないわけですが】。[巨大な文法書、CGEL の著者の一人がカリフォルニア大学(UCSC)のホームページでインタビューに答えて、これまで人々はありもしない文法におびえてきた、19世紀の神話("myth")を掃わないままの20世紀の文法書を引っ提げて21世紀に臨もうとしていると言っています。CGEL の言う新しい捉え方が何でも正しいとも思ってませんが。日本語の言語構造を研究することが諸言語の研究をさらに進捗させることと思っています。実際、聞くところによると学説によっては最近は、目的語も補語のうちでどちらも動詞が要求する要素という点で同じと捉えます。主語も動詞が要求するひとつの要素とする考え方もありますが、これは英語とそれに似た言語ならではですね[こういう言語は、要するに、動作主であるところの主語と動詞の組み合わせを明示することでようやく、日本語で動詞だけ(叙述的に複雑で非常に表現豊かではありますが)でやってること(の一部)を表現している、というわけです]。日本語はこの辺の文法が単純で分かりやすいからですが、昔からそう捉えてきました。つまり、大きく分けて連体修飾語と連用修飾語がありますが、目的語も補語も動詞の要求に応える要素という点で同じ連用修飾語ということになります。])
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「太郎ハ {花子ガ 好き}(だ)。」
★ この文の「花子が好き」は《従位節》です。
☆ あたらしい説ですね。これまでに分かっていることは 主格補語ですね。太郎
(主格語)について 何らかの説明をくわえる補語( complement )または 属詞
( attribute )とも。

その定説(だと思いますが)によれば 次も同じです。
★ 《従位節》のない単文の例は、たとえば、「太郎は{生徒}(だ)。」


ちょっと混乱があるとわたしには見えます。
★ 連結語として be動詞
☆ これは 一般に繋辞( copula )と呼ばれる文の要素で これは省略され得ます。
(ロシア語など)。

これはいいとして 次には混乱があるはずです。 
★ 日本語で主部と述部を連結する役目をするのは助詞であって動詞ではありません。
☆ 述部(論述部・述語)には ふつう動詞(動態用言)が来るのです。先ほどの繋
辞もこれにふくめます。

助詞は それが承ける体言(名詞)などの主題語が ほかの主題語とどういう意味関
係にあるかを示します。AカラBへ と言えば 起点と着点の関係をしめします。



★ この文の実際に意味するところは文脈によって知ることになります。
☆ つまりすでに話題になっているわけです。太郎と花子の関係をめぐってどちらの
気持ちを話し合っているかが分かっている。

この場合について:
★ 英語のあいまいさ
☆ はないです。

★ Speaking of Taro, Hanako is the one he likes (a-1)
  [あるいは、the one who likes him (a-2)].
☆ というように いづれか一つの文にしなくてはなりませんし そういう形で明確
です。


★ 日本語の文法は・・・とかく有標で単純
☆ ハ格などの主題格(という有標)が 主題語どうしの意味連絡を明確に示します。

★ 英語 は 無標で符号的に複雑で、意味が分からないと分からないという矛盾に
満ちています。
☆ これは 語順などにもとづく文型がすでに決まっているということを意味すると
思われます。


つづく

お礼日時:2019/01/27 09:21

去年の無人島の番組で


海の神様に祈っていたり
ヘレンさんの足宇野裏全然hれれんと科
詳細がはっきりしませんが、

気になりましたね。
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> 人によって ハ格とガ格の用法を用いるかどうかが違ってくるという問題ではないのですから。



いいえ人によって違います。
誤解を生まないような、カッチリした文章を書こうと思うと、助詞も含めて、適切な単語を選択して組み合わせる必要があります。
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この回答へのお礼

ええっとですね。ご回答をありがとうございます。


☆☆ 3. (α)  《Aハ Bガ Cナリ。 / Cスル。》の構文

☆ これは じつは 日本文だけではなく あらゆる言語にとって
基本の構文だという見方をもしています。


    A(中心主題)-B(関係主題)-C(論述)
______________________________
( b ) 象ハ  鼻ガ   長い。

( c ) 私ハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。

( d ) 時ハ 〔それ=時ガ〕 金なり。

( d-Fr. ) Le temps. c'est de l'argent.

(逐語訳) The time, it-is (some of the) money.

( d-E. ) Time is money.

(分析)  Time, it-is money. ( is は it-is だと決まっている)。



☆ この構文は 言語にとって初源の形式だと仮説され それはいま
別としても 基本的な成り立ちを示す表現形式なんです。

つまり 人によって使うか使わないかが違って来る問題ではないので
す。

お礼日時:2019/01/26 12:51

あなたが論じたいのは修辞学だと思うのですよ。



論理の世界では、単語の定義、文章の解釈を一意に定めないと、議論が成立しません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あなたが論じたいのは修辞学だと思うのですよ。
☆ いえ それは カテゴリとして違います。

修辞学というのは すでに一定の文法によって成る共通の同じ言語を
用いているとき そのあと人によってその自己表現を 言葉の用法の
ゆるすかぎりで(あるいは ゆるさないと見られるときにも) さま
ざまに工夫し推し出すというときの作法です。

ハ格とガ格の用法――文法――は ひとつの言語が これこれこうい
う特徴を持った言語だと共通の認識が得られるその過程での仕組みで
あり その発見です。

人によって ハ格とガ格の用法を用いるかどうかが違ってくるという
問題ではないのですから。




★ 論理の世界では、単語の定義、文章の解釈を一意に定めないと、
議論が成立しません。
☆ 語の定義は 広い意味での辞書〔作成〕の問題です。

文章とは 文という・自己の思想表現として最小の単位体の集まりで
す。

文についての定義は すでに述べました。

《論理》ということで言えば いまここでは 文というひとつの判断
(つまり 命題)をどのように筋道立てて推し進め ひとまとまりの
文章とするか。というそこにおける推論の問題としては まだ扱って
いません。

お礼日時:2019/01/26 11:56

狭義の論理では、命題と命題の間にある関係性を論じます。



命題を、複数の解釈が可能な曖昧な表現をするのか、1意にしか解釈できない簡潔明瞭な表現をするのか。
それは表現方法の問題です。

日本語だろうが英語だろうが、非論理的な表現、フィーリングに基づく表現、抽象的な表現というのは、あるのです。
言語の問題じゃないのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 狭義の論理では、命題と命題の間にある関係性を論じます。
☆ ひとつの命題(判断――つまり文も(文が)それです)の内部でも
考えの筋道が 成り立っていると思います。

問い(としての主題提示)とそれに対する答え(としての論述提示)で
す。

☆☆ (α) 《Aハ     Bガ Cナリ。 / Cスル。》の構文
☆      問い(主題)⇒ 答え(論述)




★ 命題を、複数の解釈が可能な曖昧な表現をするのか、1意にしか
解釈できない簡潔明瞭な表現をするのか。
それは表現方法の問題です。
☆ その表現の方法が 文の成り立ちとしての規則(つまり 文法)
――その各言語ごとのあり方――によって違ったかたちを採ってい
ます。

それは 《論理の表わし方》のことではないのですか?




★ 日本語だろうが英語だろうが、非論理的な表現、フィーリング
に基づく表現、抽象的な表現というのは、あるのです。
言語の問題じゃないのです。
☆ 両義性(アンビギュィティ)という言葉は たしかに《あいま
いさ》という意味をも持ちますが その原義にもとづくなら 論理
(意味)がふたつの別の内容を持つということです。

しかも その二つのどちらも 決して《あいまい》ではなく 《フ
ィーリングがどうであろうと》 それぞれの意味(論理)は 一義
的に決まる文法の言語があるのです。

太郎が(または花子が) じつは《フィーリングでは》いやいやな
がらなのであっても・あるいは文字通りであっても 文の表示する
意味――ただし 日本語ではふたつあります――は まったく問題
のない論理的な内容です。



文意が・つまり話者の真意がどうであるかが 必ずしも文表現だけ
では定まらないのは おっしゃるとおり どの言語でも 同じこと
です。

お礼日時:2019/01/26 10:50

英語でも日本語でも、数学や自然科学で共通の思考方法を使います。


ある数学や自然科学のテーマを、英語で考えるのと日本語で考えるのとで、別の結論になるような事は、ありません。
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この回答へのお礼

そうですね。帰着するところは 同じでしょう。
――ご回答をありがとうございます。

つまり こうです。:

☆☆ 2. ( a ) 太郎ハ 花子ガ 好きだ。

☆ という日本文は その文法のあり方によって 表現内容として
次のふたつの意味――それとして論理――を 同じひとつの文のま
まで 持つことがふつうに出来ています。

☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~
4. ( a-1 ) Taroh likes Hanako.

   ( a-2 ) Hanako likes Taroh.
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 言いかえると ハ格やガ格がそれぞれ そのままでふたつの意
味を持ちます。

( a-1 ) ハ格⇒ガ格(主格)
      ガ格⇒ヲ格(対格):

         太郎ガ( S )花子ヲ( O )好く( V )。

( a-2 ) ハ格⇒ヲ格(対格)
      ガ格⇒ガ格(主格):

         太郎ヲ( O )花子ガ( S )好く( V )。


☆ これら二つの《論理》に帰着しますから 結局としては:
★ 英語で考えるのと日本語で考えるのとで、別の結論になるよ
うな事は、ありません。

☆ もっともそのためには 文脈のチカラを借りたりしなければ
ならないのですが。

お礼日時:2019/01/26 09:30

貴方が書きたいのは『文法』であって『論理』とは異なります。

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この回答へのお礼

ま 長い論考を端折っているのですが 文法のあり方によって
論理の表わし方が――朝鮮語を除いてほかの言語とは――違っ
ているという趣旨です。

ご回答をありがとうございます。


つまり 主格( S )‐対格( O )‐述格( V )という意味連絡
は 論理を表わします。《何々ガ 何々ヲ 何々する。》。

けれども この S-O-V (または  S-V-O 文型)の論理が 文
にそのままのかたちには 示されていない。

そういう日本語のひとつの特徴を取り上げて 考えてみようと
いう趣旨です。どうですか?

お礼日時:2019/01/26 09:06

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Aベストアンサー

そうなんですよ!

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7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
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Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Q知識をひけらかす、は、分かりますが、 持ち前の知恵や洞察力を働かせて人を助けても、 それは、「知恵を

知識をひけらかす、は、分かりますが、
持ち前の知恵や洞察力を働かせて人を助けても、
それは、「知恵をひけらかした」、「洞察力をひけらかした」と言うのでしょうか?

知識の他に、知恵があっても、それでうまく利用されないようにする為の知恵、思慮深さを身に付ける事も大事になりますよね?

Aベストアンサー

こんにちは。

知識を他人に伝達する行為は、相手の要求に沿っている場合のみ受け入れられます。
私もこの場で多くの回答をつけさせていただいておりますが、
それが事実であっても、質問者の望む形での事実でないと受け入れられないというのが現実です。

それはもう、知恵で補うと言うよりは経験を積んで身に付けるというものだと思われますよ。
ある程度『おだて』の要素をスパイス代わりに折り込みませんと、知識や知恵も只の嫌味に聞こえるようですね。

おっしゃる通り、思慮深さを身に付けることが何より『自己防衛』に繋がります^^;

ではでは。

Q偶然の誕生

私は、たまたま大阪で生まれました。
何故、10万年前に生まれなかったのですか ?
何故、10万年後に生まれなかったのですか ?
何故、虫や猿ではなく人だったのですか ?
何故、日本人としてですか ?
まだまだあります。
宇宙の誕生、地球の誕生、水や空気
そのように考えると、全てが偶然です。
偶然でないものはありますか ?

Aベストアンサー

#4です。

>「神と呼んでも構わないが、それのみが必然。」と言うことで、「なるようになった」と考えていいですか ?

この文に対するわたしの解釈が間違ってなければ、そうです。
少し切り口を変えて表現してみます。
たとえば、『宇宙の誕生』自体は偶然だと私も思う。
しかし、
宇宙はなぜ偶然誕生したのか?
と考えた場合、それは宇宙が偶然誕生するようになっていたから、と言うしかないと思うわけです。
で、「宇宙が偶然誕生するように」させていたものがあるわけで、その存在自体は必然と呼ぶしかないだろう、ということ。
それが何かは、むろん不可知ですが。
仮にわかったとしても、じゃあ、そのわかったものはどのようにして生まれたのか、という無限の問いを続けざるを得なくなるため、それが何かわかるような何かであっては意味がないわけです。それゆえ神という言葉で象徴可能かと申し上げた次第。

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む


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