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ローズヴェルト大統領が行ったニューディール政策に関する記述として、正しいものは3番ですが、3以外はどこが間違いでしょうか?

1.ニューディール政策は、世界恐慌後にとられた自由放任政策をさらに推進するための国策であった。

2.ニューディール政策では、まず農・工業調整法、銀行法などによって財界の保護を重点的に行い、高い評価を受けた。

3.ニューディール政策では、経済の救済、大衆の購買力の向上、雇用創出などについて積極的な景気回復策がとられた。

4.ニューディール政策は政府支出による積極的な景気回復策であり、中でも国内の総合開発策は、景気浮上に大きく貢献した。

5.ニューディール政策では、主に労働者の社会保障に重点を置いたので、個人所得が大幅に増えた。

A 回答 (3件)

1.ニューディール政策は、世界恐慌後にとられた自由放任政策を


さらに推進するための国策であった。
 ↑
自由放任を制約する政策です。
自由放任だから、景気の上下が激しくなり
恐慌に陥った、とされています。



2.ニューディール政策では、まず農・工業調整法、銀行法などによって
財界の保護を重点的に行い、高い評価を受けた。
 ↑
財産権を侵害する、として最高裁で違憲判決が出たり
して批判が大きかった政策です。



4.ニューディール政策は政府支出による積極的な景気回復策であり、
中でも国内の総合開発策は、景気浮上に大きく貢献した。
 ↑
景気浮上に貢献する前に戦争に入り、
戦争によって景気が浮上したので、
貢献したか否かは不明です。



5.ニューディール政策では、主に労働者の社会保障に重点を置いたので、
 個人所得が大幅に増えた。
  ↑
増えていません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/01 01:03

5.失業者対策で日雇いに近い労働条件。

とりあえず工事が完成するまで生活できるだけで、個人所得の増加にはそんなに貢献していない。
4.大規模な土木工事は、応急措置レベルのもので、その間に、自然に景気が回復するのを期待してただけ。対費用効果としては、イマイチ。
1.自由放任ではなく、政府が積極的に対策を立てる発想。
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1.自由放任政策、金融に対する査察や労働環境の整備、公共事業の促進し、政府が市場に積極的に介入しています


2.財界の保護、財界へのてこ入れと同時に労働環境の整備、時短、権利拡大もしています
4.国内の総合開発策、TVAはテネシー川流域の開発で国内の総合開発とは言い難い
5.労働者の社会保障政策NIRAは失敗しています
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明治時代は厳密には一世一元の制には入らないのですか。
理由も含めて答えていただけると幸いです。

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Qなぜ戦後の日本人はGHQを疑わなかったのか?

日本は第二次大戦の敗戦後、価値観が180度変わり、旧軍を悪とみなす風潮になったとされています。マスコミも負けた途端言うことがガラッ変わりました。でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは国民も知っていたはずです。だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は素晴らしい!」みたいなことを言っても、「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」と疑ってかかるのが普通だと思います。なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。

Aベストアンサー

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」
と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
それを受け入れたのが、日本の支配層であり、
指導層だったからです。
多くの国民は、日本は負けたから悪者にされた、なんて
ことは百も承知でした。
そういう意見は総て封殺されたのです。

では、どうして指導層、支配層は受け入れた
のか。

表面だけ従うように見せておき、米国の
影響が無くなったら元に戻そう、と考えて
いたのです。

ところが、GHQが、洗脳工作に、当時盛ん
だった社会主義者を使ったので、彼らが
マスコミなどの要職に就き、
見せかけが本当になってしまいました。


■1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な
「自由主義者」として、野坂参三、鹿地亘らの共産主義者を挙げて活用した。

マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、
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日本兵捕虜洗脳教育を対日心理戦に利用できると確信し、
WGIPのモデルとなった。

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と弁明している。

日米合作の太平洋戦争史観とコミンテルン史観との奇妙な癒着が戦後の
「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツ、温床となった。

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
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「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
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Q史上初のカトリックの大統領 ケネディと教科書に載ってたんですけど、宗派で差別される事ってあったんです

史上初のカトリックの大統領 ケネディと教科書に載ってたんですけど、宗派で差別される事ってあったんですか?たまたま歴代がプロテスタントの大統領なだけだったんでしょうか

Aベストアンサー

アメリカはもともとがプロテスタント系なので。
それは有権者の数にも反映され、差別とかがなくてもマイノリティは不利になります。
特にアメリカ大統領選のような選挙人制度の下では。

有色人種と女性の場合は明らかに差別が潜んでいますが、
オバマやクリントンを見れば分かるとおり、
法的であったというより社会の合意の問題であったと見るべきものです。

Qキリスト教がヨーロッパにもたらした功罪について

ヨーロッパにおいて、キリスト教が歴史上果たした役割について、その功罪を教えてください。

Aベストアンサー

マイルドな回答に努めました。

この問題で、アジア・アフリカなどの非ヨーロッパ圏の出来事や、ユダヤ関係の出来事を罪の例として話してしまうと、罪しか残らない勢いになりますので、功罪のバランスを5:5にするためそれらの問題は除外して回答します。





キリスト教の罪は、ヨーロッパ文明を衰退させた事です。

時代で言うと、ローマ帝国末期~30年戦争当時もキリスト教の事です。その当時のキリスト教は「異教徒は殺さなければならない」という常識でした。

「心の自由」も禁止していました。「汝姦淫すべからず」とは、心の中でも淫らな事を考えてはいけないという事です。司祭に「お前、今心の中で淫らな事を考えたな」と言われたら、潔白を証明する事はできません。司祭の思い一つで民衆を処刑できる時代でした。これを悪魔の証明ともいいます。

また、「全ての知識は聖書にある」と言う事で、それ以外の学問を禁止しました。その結果、ローマ帝国の時代では世界最高クラスの水道技術も、「聖書にはない」と言う理由で禁止され、数学も悪魔の学問として禁止されます。

それと、「汝 隣人を愛せよ」を誤解している人がいますが、これは同じ宗教の信者に限定した話です。異教徒は人間ですらありません。因みに、カトリックとプロテスタントも当時では別の宗教です。異教徒ですので「殺さなければならない」とする対象でした。(現在は、異教徒も含めて誰でも分け隔てなくと言う意味です。当時とは違います。)



このような思想がヨーロッパ中に拡散しましたので、ローマ帝国末期~30年戦争当時までのヨーロッパ文明は急速に退化していきます。




キリスト教の功は、人権思想の発見や近代思想です。

「異教徒は殺さなければならない」と言う常識でしたが、その様な野蛮な宗教価値観から抜け出そうとする勢力も誕生しました。その総決算が30年戦争です。結果的に、野蛮な宗教価値観から抜け出そうとする勢力が勝利したので、宗教の近代化の道が開かれました。それが人権思想に繋がっていきます。

また、信仰の自由、思想の自由や人文主義や政教分離という概念も夥しい殺し合いを経て定着していきます。「全ての知識は聖書にある」という野蛮な考えも放棄します。それが合理主義へと繋がります。






要するに、キリスト教の罪は、そもそものキリスト教が、異教徒は殺さないといけないという、野蛮な宗教でした。それを世界に拡散させてしまった事が、キリスト教の最大の罪と言えます。功は、野蛮な宗教を、まともな宗教に改革できた事です。

キリスト教的に言えば、「イエスは正しかったが、それを伝える者が過ちを犯した。正しくイエスの教えを伝えなかった事が最大の罪。それを改善し、イエスの正しい教えにキリスト教を改革できた事が最大の功。」と言う事でしょうか。

ここで考えるポイントは、現在のキリスト教とローマ帝国時代の末期~30年戦争までの「宗教の近代化をする前のキリスト教」は別物と言う事を理解する事です。「昔からキリスト教は、基本的には変わらず、今のような穏健な宗教だった。」と言う価値観では、この問題は見えてきません。




はじめに言いましたが、アジア・アフリカなどの非ヨーロッパ圏や、ユダヤ関係についてキリスト教が行った事については、除外した回答になります。

マイルドな回答に努めました。

この問題で、アジア・アフリカなどの非ヨーロッパ圏の出来事や、ユダヤ関係の出来事を罪の例として話してしまうと、罪しか残らない勢いになりますので、功罪のバランスを5:5にするためそれらの問題は除外して回答します。





キリスト教の罪は、ヨーロッパ文明を衰退させた事です。

時代で言うと、ローマ帝国末期~30年戦争当時もキリスト教の事です。その当時のキリスト教は「異教徒は殺さなければならない」という常識でした。

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Q世界史で質問です。以下の写真は世界史の窓というサイトからスクショしたものです。 以下の写真の文より「

世界史で質問です。以下の写真は世界史の窓というサイトからスクショしたものです。
以下の写真の文より「南ネーデルラント継承戦争でオランダがイギリス、スウェーデンと三国同盟を結んだ」とありますが、南ネーデルラント継承戦争は1667年に起きており、1652年から1672年の間には第1,2,3次英蘭戦争が起きています。そんな中でどうしてイギリスとオランダは同盟を結んだのですか??

Aベストアンサー

元々、イギリスとオランダ(ネーデルラント)は、カトリックへの対抗勢力として協力関係にあったのですが、アジア貿易絡みで関係が悪化し、戦争に至りました。これが英蘭戦争です。
第2次英蘭戦争の終盤、イギリスが敗北か…という時期に、南ネーデルラント継承戦争が起こり、フランスが南ネーデルラントを奪うべく侵攻してきました。
これに脅威を感じたオランダは、イギリスとの戦争を終わらせて、フランスの侵攻に対抗するためにイギリスとの協力関係を結ぶことに方針転換します。
オランダの立場で言えば、「カトリック国の大国フランスがすぐそこまで攻め込んできている、ヤバい! イギリスと戦争している場合じゃない、反カトリック国同士という利害も一致するんだからさっさと講和条約を結んで、一緒にフランスに対抗しよう!」というわけです。「敵(=カトリックのフランス)の敵(=反カトリックのイギリス)は味方」という発想ですね。
優勢だったオランダのほうから早期の終戦を望んだため、劣勢だったイギリスにとってはマシな条件で講和条約を結ぶことが出来、イギリスにとっても渡りに船だったと言えます。
また、フランスが南ネーデルランドまで勢力を拡大した場合、それはオランダにとってだけでなく、すぐ対岸のイギリスにとっても脅威になるわけですし。イギリスにとっても、「敵(=フランス)の敵(=オランダ)は味方」ということになります。

戦争とか同盟というのは、国にとっての利害関係で発生するものです。
南ネーデルラントに侵攻してきたフランスの勢力拡大を防ぐことは、オランダにとってもイギリスにとっても、戦争をやめて協力するだけの利害が一致することだった、ということです。

元々、イギリスとオランダ(ネーデルラント)は、カトリックへの対抗勢力として協力関係にあったのですが、アジア貿易絡みで関係が悪化し、戦争に至りました。これが英蘭戦争です。
第2次英蘭戦争の終盤、イギリスが敗北か…という時期に、南ネーデルラント継承戦争が起こり、フランスが南ネーデルラントを奪うべく侵攻してきました。
これに脅威を感じたオランダは、イギリスとの戦争を終わらせて、フランスの侵攻に対抗するためにイギリスとの協力関係を結ぶことに方針転換します。
オランダの立場で言えば、「カ...続きを読む

Q世界史Bの西ヨーロッパ世界のゲルマン人の大移動と西ヨーロッパ中世世界の十字軍について簡単に説明してい

世界史Bの西ヨーロッパ世界のゲルマン人の大移動と西ヨーロッパ中世世界の十字軍について簡単に説明していただけるとありがたいです!

Aベストアンサー

十字軍

11世紀末~13世紀末までのキリスト教世界の膨張運動の一つ。
1095年のクレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世によって提唱され、
96年の第1回から、一般に1270年の第7回までとされる。

一時はイェルサレム王国を建てるなど聖地回復に成功したが、
結局はイスラーム側の反撃によって失敗した。東方貿易の活発化、
イスラーム文化の流入など、中世ヨーロッパ社会を大きく変動させる一因となった。
https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-008.html



ゲルマン大移動

4~6世紀のゲルマン人がヨーロッパ全域に拡大した動き。
西ローマ帝国を滅亡させ、中世社会を成立させた。
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-009.html

Q豊臣秀吉が人身売買を許せないとしたことについて

織田信長はキリスト教の布教を認め日本各地にキリスト教が広まりました。その後を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教布教に対し見せしめのためにバテレンを始め幼いキリスト教信者まで死罪にするなど強い弾圧を行いました。その理由のひとつに、秀吉は婦女の人身売買に宣教師が関わっていたことを知りキリスト教に怒りを持ったという説を何かで知りました。
この説は真実なのでしょうか。

Aベストアンサー

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教がちがうなら人間ではない」のが普通だったからです。

日本も大和朝廷が成立する以前の「生口」などは同じ考えでした。豪族ごとに「自分のたちのコミュニティ」があり、それ以外の人は「同じ人間ではない」状態だったからです。これを変えたのが大和朝廷の成立でこれにより「朝廷に参加する豪族とその身内はすべて同じ人間」になったのです。

そのため奈良から平安期にかけて、人間を家畜として扱う奴隷制度は消えて行きました。鎌倉時代や室町時代など大きな騒乱があると奴隷制が復活するのですが、幕府は何度もそれを違法として取り締まっていきます。残ったのは「年季奉公」という概念だけ、つまり「人生の20年ぐらいを買い、その分の働きをしたら解放される」というものだけだったのです。(実際には女郎屋などは、化粧代や部屋代などを取って、なかなか年季が明けないようにしていました)

ですから、当時の日本人としては「家畜のように人が売買されて、一生奴隷として暮らす」と言うこと自体に拒否感があり、非常に野蛮なことだと考えられていたのです。当然、秀吉にもそういう感覚はあったでしょう。

宣教師は日本に来て非常に喜んだのは「日本では他の国の相場の1/3で奴隷が買える」ということです。当たり前でしょう。日本は20年(人生の1/3ぐらい)分の報酬で人身売買されていて、奴隷は一生なのですから値段が同じなわけないのです。

そのため宣教師は多数の日本人を口入屋から買い入れて外国に連れて行っていました。ところが何年経っても年季が明けず「お前は一生奴隷として買い入れた」と知った日本人が「騙された」と思って逃げてきたのを秀吉が知ったので激怒したのです。
 
 ちょうどその頃秀吉は関白職になり、関白は「天皇に変わって日本の運営に責任を持つ」役割だったため「大和民族が融和して奴隷制を廃止したのになんて野蛮なことをするのか!」と怒ったわけです。

結局それが原因になって、宣教師と軍事力の関係性などがだんだん明るみになり、南蛮の侵略方法が明らかになったので、のちの鎖国につながっていく、ということになるわけです。

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教...続きを読む

Q歴史についての質問なのですが、三国協商の加盟国を答える問題でロシア帝国と答えたらバツにされました。そ

歴史についての質問なのですが、三国協商の加盟国を答える問題でロシア帝国と答えたらバツにされました。それで、何故かと質問したらロシア帝国は存在しないみたいな事を言われました。どういう意味ですか?

Aベストアンサー

おかしいですね。

三国協商とはドイツ帝国の勃興に対抗して。イギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された、
露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉とされていますよ。

ロシアは第一次世界大戦中にロシア革命がおこりますが、それまでは帝国です。

三国協商(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%95%86

Q世界史!

こんにちは。 私は世界史が好きな高校生なのですが、中世や古代のヨーロッパ、アジア アフリカ地図を無料で閲覧できるサイトを探しています。『~世紀のヨーロッパ地図』等と言う風に検索してみると、さまざまなサイトが出てくると思うのですが、どれもこれもそこまで詳しくありません。例えば(神聖ローマ帝国)は厳密には一つの国家ではなく、~公国とか~司教領、~王国など、多くの領邦からなる国なのに上記のように*神聖ローマ帝国*と一くくりに表されているものがほとんどです。うまく伝わるかわかりませんが、とにかく"詳しく"かかれた世界地図(特に古代末期:西ローマ帝国滅亡前後と十字軍の時代)が閲覧できるサイトをおしえてください。

Aベストアンサー

1年単位で表示できます。
 http://geacron.com/home-en/?sid=GeaCron921126


ご存知かもしれませんが、
紙媒体なら
「世界史地図」吉川弘文館
568年のヨーロッパ
ランゴバルド族の移動
アヴァール人の移動
などを矢印で表示したりしてます。
十字軍あたりなら1097年があります。
フランドル公ロベールなどの
進軍経路を記している。
アルモラヴィド帝国とかは載ってます。
 
 https://www.amazon.co.jp/標準世界史地図-亀井-高孝/dp/4642095438/ref=mp_s_a_1_1?keywords=世界史地図&qid=1553555134&s=books&sr=1-1

Q長篠の戦いで、武田軍は、どのような面で勝算を見込んで、2倍以上の兵力の織田・徳川軍に対して戦いを挑ん

長篠の戦いは、<3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。>そうですね。
ところで、武田軍は、どのような面で勝算を見込んで、2倍以上の兵力の織田・徳川軍に対して戦いを挑んだのでしょうか?

Aベストアンサー

長篠の戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではなく、行き当たりばったりで始まったものです。 長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。 家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。 この大賀は、もともとは中間ちゅうげん(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。 そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。 当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、この方面の人材は不足気味でした。 そのために家康は大賀を抜擢したのですが、大賀は取り立てを受けるとやがて増長し、三河の中心地である岡崎城を奪い、自分がその主になりたいという、だいそれた野心を抱くようになります。 しかし大賀自身には兵力がありませんので、勝頼に連絡し、「三河で一揆を扇動して徳川軍を攪乱し、その隙に城門を開いて迎えるので、岡崎城を家康から奪って欲しい」と要請しました。 そして成功の暁には、自分を岡崎城の城主にしてほしい、と願い出ます。 勝頼としては、岡崎城を手に入れれば、織田・徳川連合を三河で分断することができますので、喜んでこの申し出を受け入れます。 そして1575年5月の初めに、甲斐かい(山梨県)を出発して三河へと向かいました。 武田軍の総兵力は3万3千でしたが、この時は裏切りに応じて城を接収するのが目的でしたので、勝頼が動員したのは1万5千、全体の半分以下でしかありませんでした。 つまり勝頼は、出陣の際には織田・徳川連合と決戦を行うつもりはなかったのです。 このことが、長篠の戦いの結果に大きな影響を与えます。 長篠城に転進する大賀の企てた陰謀はやがて露見し、大賀とその仲間たちは捕縛されました。 これは大賀の仲間になっていた者が、果たして主君を裏切っていいものかと思い直し、家康の重臣に大賀の企みを密告したためでした。
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長篠の戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではなく、行き当たりばったりで始まったものです。 長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。 家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。 この大賀は、もともとは中間ちゅうげん(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。 そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。 当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、...続きを読む


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