【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

室町時代というと応仁の乱や南北朝の動乱という負のイメージが強く、良いイメージを持つ人は非常に少ないです。
でも、過去の時代が良かったか悪かったかは後世の印象操作や政治的プロパガンダによるものが多く、現政権を正当化するために前の政権を否定するということは今でもよく行われます。
私は、様々な理由により実態以上に室町時代は悪いイメージを持たれているように思うのですが、いかがでしょうか。また、そうだとするとそれは何故だと考えられるでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 南北朝時代は室町時代の初期に終わっています。
    足利義満が合一したからです。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/01/27 08:12
  • 詳しく書いてもらわないと意味ないです。
    不確かな情報など、雑音と変わらないので。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/01/28 21:16

A 回答 (9件)

南北朝時代は室町時代の初期に終わっています。


それは表面上、闇では今もなお、子孫を称する一族は健在と聞く。まあここでは深く述べず。
この回答への補足あり
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金閣寺、銀閣寺、と建造しましたし、いい面もありました。


一応、徳川幕府と並び、15代続きましたし。
後半が戦国時代と称されるほど乱れたのが、より悪いイメージになった一因。
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そうなのかな?



とにかく前半は南北朝の争いがひどかったし、
中盤以降は戦国時代。
その中休みの時期も政権は安定せず、将軍すら殺される事態が起こった。

室町幕府とは、各大名の力が大きすぎ、そこに朝廷の思惑も絡んで、幕府の統制が効かない時代だった。
そういう秩序の無さが、人によっては暗黒の時代に移るのだと思う。

家康はその教訓を生かした。
譜代には参政権を許したがその領土は狭くして軍事力が持てないようにしたし、
外様には大領は与えても参政権を許さず政治権限を持たせなかった。
その他の手段も取ったが、
とにかく幕府が圧倒的な力を握ることで天下の安定を図ったのである。

状況や歴史的蓄積がなかったとはいえ、足利が失敗したのはこの点である。
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私は、様々な理由により実態以上に室町時代は悪いイメージを


持たれているように思うのですが、いかがでしょうか。
 ↑
ワタシは、よくわからない時代だ、という
イメージはありますが、暗黒云々のイメージは
ありません。



また、そうだとするとそれは何故だと考えられるでしょうか。
  ↑
天皇が絡んでいるからだと思います。
後に朝敵となった足利尊氏が活躍した時代
だからでしょう。
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足利尊氏からしてダークですから。

鎌倉幕府の御家人でありながら、鎌倉幕府を裏切って六波羅探題を攻め、次には後醍醐天皇をも裏切って、北朝から任命されて将軍職に就いた。日本史において二度も裏切ったのは足利尊氏ぐらいしかいない。そうして室町幕府を立てたが観応の擾乱を収拾できずに南朝に降伏するなどぐだぐだ。室町時代は、室町幕府が最初から最後まで名目だけの存在で、実際はほとんどが権力闘争だったり土地紛争だったり。室町時代は何もかもがインチキ臭がしてすっきりわかりやすいことがほとんどない。そういうのが負のイメージを持たれる原因だと思う。例えば将軍であっても簡単に暗殺されてしまう。
それじゃ将軍とはなんだろう。権力者でも実力者でもなんでもなくて飾りか傀儡か。そういうのを私はインチキ臭と表現しているわけ。
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現在につながる伝統文化ができてきたのが室町時代とされています。


別に負のイメージが強いとも思いません。
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朝廷が北と南に別れ、共に正統性を主張、同族で戦争したからです。


明るい話では無いですね。
この回答への補足あり
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戦乱の世の中であったから、という理由が大きいでしょうね。



悩ましい事に、日本人の平均身長が最も低くなるのは、江戸時代です。
つまり江戸時代、平均的に日本人は栄養不足だったという事です。
戦国時代なんかより。
応仁の乱の時代なんかより。

この事実をもって出口治明氏などは、戦国時代の方が、よほど活き活きと生きる事ができた、と言っています。
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少なくともわたくしは悪いイメージも持っていませんし暗黒時代とも思いません。


しかし徳川は大したもんだと思います。
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当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
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普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
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しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
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参考までに巨大古墳を20位までお示しします。
5位までに大阪南部が多いことは事実ですが、同時期に岡山にもあり、20位までで考えれば奈良にけっこう後半に分布しています。
この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。

1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵
4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m
5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m
6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m
7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m
9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m
10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m
14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵
15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m
16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵
17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵
18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m
19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵
20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが...続きを読む

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日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界・・・すなわち我々の今いるこの世界です。日本神話が書物になったのは古事記や日本書紀なので、たとえば古事記は稗田阿礼(ひえだのあれ)が『帝紀』『旧辞』に書かれていたことを覚えていて、それを太安萬侶が編纂して古事記ができたということになっています。
古事記ができたのが712年なので、卑弥呼の時代に日本神話があったものかどうかは不明ですね。おそらくその頃、外国からは「魏志倭人伝」の「倭」と呼ばれていたのではないでしょうか。

「日本書紀」が編纂されたのが古事記より少しあとの720年なので、おそらくこの頃神話での豊葦原中津國ではなく、対外的な呼ばれ方「倭」から「日本」に変わったのだと思います。
もちろん「日本」とは中国から見て太陽が登る方角「日の本(ひのもと)」から来ていると思います。

Q中国って神が発明されたのに竹の書物を使っていたのですか? 竹と紙の歴史が全くわかりません。

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その昔、紙を作るのにはとても手間がかかりました。
樹皮や古い布地から取った糸などから繊維を取りだし、すいて紙の形にしていたそうです。
数が少なく貴重な紙は特別な時に使い、送り状などには木簡・竹簡を併用していたのだとか。
木簡は紙より丈夫なので後に残したい内容のものにも使われていました。
下記のような理由もあったそうで…。

>紙が発明されているのになぜすぐ紙の時代にならなかったのか不思議ですが、美しい美術品のような竹簡に比べて紙はなんとも安っぽく、高尚なものを記すにふさわしくないと考えられていたのです。
http://chugokugo-script.net/rekishi/kami.html

日本では紙と木簡が一緒に伝わったはずですが、それでも両方を使っていた時代がありました。
現代の新商品などにも見られることですが、発明品によって一度にすべてが置き換わるのではなく、使い分けがなされることも多いのでしょう。

>日本に文字が入ってきたとき、中国では既に紙が普及しつつあり、紙と木簡・竹簡が併用されていた。日本もそれを踏襲し、比較的短い文書についてだけ木簡を使った。すべての文書に紙を使わなかったのは、当時まだ紙が高価だったためでもあるが、簡単に壊れない木の耐久性を活用した面もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E7%B0%A1

紙木併用
http://hiroba.nabunken.go.jp/home/tenji02_02.html

その昔、紙を作るのにはとても手間がかかりました。
樹皮や古い布地から取った糸などから繊維を取りだし、すいて紙の形にしていたそうです。
数が少なく貴重な紙は特別な時に使い、送り状などには木簡・竹簡を併用していたのだとか。
木簡は紙より丈夫なので後に残したい内容のものにも使われていました。
下記のような理由もあったそうで…。

>紙が発明されているのになぜすぐ紙の時代にならなかったのか不思議ですが、美しい美術品のような竹簡に比べて紙はなんとも安っぽく、高尚なものを記すにふさわしくない...続きを読む

Q朝鮮はどうして独立を維持できたのでしょうか。

朝鮮半島を見ていて、いつも不思議に思うことがあります。それは、中国はどうして朝鮮半島を取り込もうとしなかったのか。逆に言えば、朝鮮はどうして独立を維持できたのかという事です。中国が帝国主義であることは紛れもなく、広大な国土に加え、今でも「台湾の独立は認めない」、「チベットの自治は認めない」と言っています。普通に考えれば、朝鮮半島は海に突き出ていて立地条件も良く、何としても手に入れたい土地だと思うのです。独立というのは口で言うほど簡単ではなく、国力がなければできません。力関係で言ったら、朝鮮は中国(清)にとても敵わなかったはずです。朝鮮半島は、かつては百済、新羅、高句麗と三つに分裂していました。なおさら取り込まれ易かったはずです。それを思うと不思議でなりません。よろしくお願いします。

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朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉...続きを読む

Q大坂夏の陣で真田・毛利隊が家康を討ち取ったところで、あの戦いは豊臣家の勝利にはならないと思うですけど

大坂夏の陣で真田・毛利隊が家康を討ち取ったところで、あの戦いは豊臣家の勝利にはならないと思うですけど、何故次期将軍秀忠を狙わなかったんですか?

Aベストアンサー

そうかなぁ・・・・

徳川軍が諸大名の信頼を集め求心力を保っていたのは、家康という人物がいたからでは?

たまたま徳川家は、次世代への継承が成功しましたが
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Q創業者は偉大だという誇張が見られるようです。 では逆に創業者のクソみたいな逸話を知ってたら教えてくだ

創業者は偉大だという誇張が見られるようです。

では逆に創業者のクソみたいな逸話を知ってたら教えてください。

例えば、チキンラーメンの生みの親である日清食品の創業者は台湾人で台湾人が考えた特許を買い取って日本に来て成功して奥さんを台湾に残したままにした。

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Aベストアンサー

ビル・ゲイツはクソw
私の時代はそうだったなぁ。

ヤマト運輸は分かりやすいクソが多いと思いますw


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