『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

先日おそらく日本最大のブログランキングで、「哲学」カテゴリーで不断の1位を維持しているブログを読んでいて考えたことです。

様々な作家や評論家が、現代を憂いていることに対して、彼とその取り巻きは、

「昔はよかったという手垢のついたテンプレ」

「赤とんぼが飛んでいた原っぱと高層ビルの乱立を比べて世を嘆くという鉄板のテンプレ」

「スマホで遊ぶ子供よりも虫を追いかけていた子供がより自然だったという繰り言」

「彼らはみな年寄りだ。そして現状を批判し過去を懐かしむことがまるで高尚なことのように考えている。何故彼ら年寄りは『現状を肯定する哲学』というものをいつまでも持てないでいるのだろう?彼らの子供のころは川で遊んだり虫を追いかけていたかもしれない。しかし、スマホで遊ぶ子供たちを憂い顔で眺める傲慢さ。今の子供たちにとっては、高層ビル群とスマホこそが生れた時からそこにある「自然」なのだ。」

と年寄りの批評家、作家たちを一刀両断にしていましたが、

「過去を美化することほど簡単なことはない。それはありふれたテンプレであり、考えることをしない者の言葉だ。「現在を肯定」しなければならない。今の子供たちのために」

「今を否定し過去を美化することは単に子供たちのみならず、今この時を生きるすべての人間への侮辱である」

と書いていました。

みなさんはどう考えますか?

質問者からの補足コメント

  • 訂正

    「「哲学」カテゴリーで不断の1位」×
    「「哲学」カテゴリーで不動の1位」○

    そのブログを読んで、「彼」が言いたいのは、
    「今の子供たちを可哀想だなどと言うな。昔の子供たちの方が貧しくともこころが豊かだったなどというありきたりなテンプレを使うな。スマホやオンラインゲームが今の子供たちの赤とんぼでありカブトムシなのだから」ということかなと感じました。そもそも比較できないものを比較する愚かな老人たち、と。


    ところで「テンプレ」って何でしょうか?この言葉を使って批判するのはずいぶん楽そうだなぁと感じました。

      補足日時:2019/01/31 04:20
  • すみません。質問の仕方を変えます。

    以下の質問にお答えください。

    1、彼の主張に賛成する

    2、まあ大体賛成する

    3、そうは思わない

    それぞれ理由を添えてお答えください。

      補足日時:2019/01/31 05:29
  • 取り急ぎ。

    1、お礼返信が遅れて申し訳ありません。PCの頻繁なフリーズにより、満足な書き込みができません。遅れても必ずお礼お返事をするつもりですので、ご容赦ください。

    2、この質問で参照したブログの筆者はこの投稿を見ています。その質は問わず、彼は巨大ブログランキングサイトで、圧倒的なPVを誇っています。つまり私の回答は、場合によっては彼のブログ上で、数百数千の目に晒されることが考えられます。
    しかしそれ以上に、そもそも「彼ら」(彼と取り巻き)と私の世界観は対極にあります。私は彼らにとっては道理の通じない「泣く子」であり彼らは私にとっては泣く子も黙る哲学ブログの横綱です。

    この質問の意図は、反対者と対立することではなく、やはり彼の主張は1位の名に恥じず、多くの人に支持されるものなのか、逆に私の主張=反進歩・反成長は、古びた異端に過ぎないのかという確認のためでもあるのです。

      補足日時:2019/02/02 06:19
  • やっと一部の方にお礼ができました。ゆっくり行きます。

    私はここで、件のブログの「間違い」乃至「過ち」を糾弾しようなどという気持ちは持ち合わせていません。へんな言い方ですが、「彼の主張の正しさ」は最初からわかっています。私は異端邪説を好みます。彼が哲学ブログの横綱であるのは、それだけ多くの支持者がいるからです。しかし異端邪説を志向するものは、むしろ多数派の支持を、そして自らが多数派であることを嫌います。

    私は正しくなくていいのです。というよりも、正しいことを言う必要も感じていないのです。
    私は「正しくあること」はできません。私は私であることしかできないし、それ以外を望みません。

    すでに軍配は彼に上がっています。それは彼にも承知しておいてもらいたい。そしてそのことを踏まえたうえで、私は繰言をいい、皆さんの考えを聞かせてもらっています。

      補足日時:2019/02/03 06:18
  • お礼より続きます。

    >歴史を引継ぎ今後も生きる人がそれをするのは、自分や自分の先祖や自分の子孫に対して「責任放棄」をして「逃げた人(勝手に自死した人)」という印象を持ちます。

    歴史を引き継ぐ?ふむ。ではその引き継ぐべき「歴史」って、わかりやすくいうとどういうことですか?
    多くの「くたばりぞこない」たちが嘆いているのは、後世に伝えるべき歴史も、文化も、また景観も、更に目で見ることのできない情緒情感、美意識が、また端的な歴史的な事実が、ものすごい勢いで埋め立てられ更地にされてしまっていることではないのかと私は思うのです。
    「くたばりぞこない」の私たちが正味にくたばったとき、歴史ってじゃあどこに残されていると思いますか?


    追伸

    PCの具合が悪く、15分の作業を1時間かけてやっています。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/04 04:16
  • 捕捉1

    今回の質問で、得るところは大きかったと思っています。失ったものは、わたしと、回答者の時間だけ。

    第一に、ブログランキング「哲学」カテゴリー不動のNo.1は「伊達ではなかった」ということ。即ち支持されるに足る資質を備えているということが判明したこと。
    同時に、「長く精神科医やってるけど、あなたのような患者は診たことがない」と言った現在(おそらく24人目)の主治医が、「あなた(=Takeo)と話が合うのは千人に一人」と断言し、私は、「甘いな」と感じたことが、実証されたこと。


    第二に、過去十二年間、ネット上ではあったが、「友だち」であった人との縁がスッパリと切れたこと。つまり「お互いの本性」が判ったという点。


    第三に、日ごろの主張のように、神でさえ、わたしを愛することはできないということ。仮に神がヨセフ・メンゲレに対し「赦し」を与え得たとしても。

      補足日時:2019/02/12 04:10
  • 捕捉2

    第四、青梗菜なるものが「引きこもり」を「罪人」と呼び、

    外に出ることができないことを、何らかの「罰」であると明言したこと。

    喧嘩で負けそうになったとき、あるいは支持者に囲まれて、「自分はどこへ行っても愛される」と何やらうっとりと自己陶酔して居る時、人は迂闊にも最後の言葉を口にする。

    「へ。とっとと逃げろ。お前は障害者だ。引きこもりだ!それは罪であり天罰だ!」と。

    無論天下無敵の彼を咎める者はおろか眉を顰める者もいないことは端からわかっている。

    ただ、「私に対して」この言葉を引き出せたことは大きな収穫であったと思っている。

      補足日時:2019/02/12 04:23
  • まあどこまでも思いあがった自己陶酔男にこれ以上何を言っても無駄だろう。

    いずれにしても、ほぼ(?)全員が青梗菜支持・・・とはいわぬまでも、批判者はただの一人も現れなかったということ。つまりここは最早私の居場所ではないということ。

    切るべき人間は切ったし。

    そして一番の収穫は。

    『青梗菜は、10年たっても、同じ感想を言うと思うよ。

    40年も引きこもっている、というのは、
    人生に対する罪であり、
    同時に、終身刑という罰だね。』

    という差別発言を青梗菜なるナルシストから引き出せたことだ。

    これだけで十分。

    さようなら。

      補足日時:2019/02/13 02:33

A 回答 (100件中1~10件)

neutralingさんへ



呼びかけに応答します。

以前にどこかでお話した記憶がありますが、私は障害を持った女性との結婚生活の経験があります。
彼女の病名は、境界性パーソナリティー障害です。
但し、症状が多岐にわたっていて極めて重症であるということを担当の臨床心理士から言われました。

精神科医も付いていたのですが、彼は閉鎖病棟に閉じ込めることしか考えていなかったので、私は臨
床心理士の方を信頼していて、彼女の「良化することは考えにくいが、あなたとの生活を通してなら
その可能性はある」との言葉から、無謀な責任感に立ち、生活を続け、そして破綻しました。

彼女は去ってゆきました。当時は悲しみの底にいましたが、今となっては「助かった」と思います。
その時にすでに私は、感情だけでなく精神のコントロールもできない状況になっていたからです。

その経験から、あなたは極めて軽度に思えます。

ですから、あなたが周囲に対し「弱みをさらけ出す」ということは、あなたらしく賢く自分を説明し
ているのであろうと思いますよ。

私が言いたかったのは、今のGrass_Rootsさんのこと。あの頃の彼の知性・感性は光っていましたね。
正直、苦手なタイプではありましたけど、嫌いというわけではなかったです。

あなたのピュアな友情をもう一度受け取って、立ち直ることを願っています。

まあ、きついことも言いましたけど…
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Blueさん?





> 例えばneutralingさんは、引きこもりを「罪」であり「罰」であると主張する青梗菜の味方であることが分かった
:今回わたしがあなたに対して回答したのは、8番と74番と82番だけです。
85番でねこりんさんに話しかけてゐますが、勝手に場所をお借りして申し訳ありません。

> 例えばneutralingさんは、引きこもりを「罪」であり「罰」であると主張する青梗菜の味方であることが分かった
:繰り返しますが、今回わたしがあなたに対して回答したのは、8番と74番と82番だけです。わたしの回答は常に馬鹿正直です。しかし何故わたし上記のの回答から、わたしが引きこもりを「罪」であり「罰」であると主張していると決めつけられ、青梗菜の味方であると決めつけられるのですか。

わたしだつて精神障害者1級だし、精神科の閉鎖病棟に入院したり退院したりしていますから、引きこもりが「罪」だとは云はないし、それに対して「罰」を与えて然りなとどは決して言いません。弱いものが守られ援助される体制が整った時代になりました。こんなわたしにも、当たり前の人権が与えられていることに常々感謝して毎日を生きてゐます。


残念乍ら、現在のあなたのご返信は、妄想と曲解が多すぎるように思ひます。残念です。
なぜわざわざ【ワルモノ】を作り上げるのですか。そんなに体力や気力が有り余っているのですか。【善モノ】を探し上げたほうが、よほどあなたがラクになるはづなのに。
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ヒロのNicoさん日記、のURLをもう一度ここに記してみます。



https://blog.ameba.jp/usc/guide.do
https://www.ameba.jp/home

上のはプロフィールで、下のはホームページです。

Nicoさんも、そうでない方もみて下さいね。

喧嘩両成敗で締めくくって欲しいです。
どっちもどっち、と云う事で。
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補足をいただいたようなので、礼儀として、失礼な回答をします。



私は、青梗菜という人には、ぜーんぜん興味を持てないですよ。上滑り。俯瞰が必要。成長を期待します。

そして質問者さんが、過去にどんなハンドルネームを持っていらっしゃったか、覚えていませんが、かすかな記憶から、擬音に関する質問をなさっていた方ではないかと推測しました。そして、私の言葉が、全く質問者さんに届いていないのも、感じていました。

ご質問が一年前だったか、二年前だったか忘れましたが。お気持ちを傷つけるのを恐れずに言えば、あの質問から、私が、芋虫のような速度にしても、前に向いて歩いてきたのに、質問者さんは、ずっと、立ち止まっておられたように感じました。本当に、心を鬼にして言いますが、泥沼にはまってしまった感があります。

そんなに自分のことばかりに煩わされないで、トランプ大統領のニュースでも読んで、あきれたり、嘆いたりなさっていいんじゃないかと思います。外界のことを、逐一、自分の鏡に映さなければ、もっと、楽になります。

と、人に言えるほど、私も達観した人間ではありませんが、ただ、一言、はなむけにしたかっただけです。

ごきげんよう!
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表現の自由のもんだい。

そしてその基礎に成る主体性のもんだい。

結果として得られるものはなく 不毛の議論だったとしても そ
こで守ろうとするものは 重要なことでありつづけている。――
と思います。



自由と主体性をとうとぶならば ひとこと出どころに触れるでしょ
うね。

主体性と自由にもとづく表現をあつかうとき そのままを間違いな
く引用するか もしくは 《~~という趣旨に勝手ながら解釈して
みたことを書いていました》というかたちで引用するでしょう。






★★ 「昔はよかった」は、所詮年寄りの繰り言か?
☆ については みなさんの見解が収れんするところは 部分観と
して扱えばよい。――といったふうに捉えて 大きな問題はないで
あろうと思われます。




あとは №95が誰なんだろう?・・・と気になりますが。
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>これ以上の不毛な言い争いは無駄と判断し、捕捉にあのように書いて終わろうと思いました。

ところが、頭がぼんやりして、肝心の「締め切り」をする前に、「退会」してしまいました。

つまり、青梗菜さんへの謝罪はないんですね。

no.90でブログのURLを公表されたようですし、今後はここじゃなく、ご自身のブログのコメント欄で展開されたらよいのではないでしょうか。

コメント欄は現在閉じられてるようですし、時々一気に削除されてるようにお見受けします。批判はマッタク受け付けない、という態度でありながら
「議論の好まれない国」を憂える記事も書かれてますね。あなたのされてるのは議論じゃないと思いますが。

青梗菜さんのブログを孫引きして書いてたこともありますよね。
他人が載せた画像を無断借用してたこともありますよね。
自分は良くて他人は許せないのですか?

精神科医の先生に「普通はここまでしない」って言われてもいますよね。

no.65でにゃんぽこりん2さんが「関わらないほうがいい人」と早くに見抜かれている通りと思います。

no.88で「公の場で大声を出して詰り合う」とchototuさんがおっしゃってるけど、
狂犬に噛みつかれたら誰でも大声を出すと思うんです。

質問者さんはご自身を「老人」とおっしゃってますし、「年寄りの繰り言」という
”年寄り”に自分は該当すると思ってらっしゃるのかもしれませんが、
「ただ年を重ねただけの赤ん坊」に見えます。

こんな風な卑怯な公開処刑何回繰り返すのかなぁ、ってずっと拝見したいと思います。
ただのやっかみ、嫉妬にしか思えません。
自分では「甘噛み」なのかもしれませんが、牙むき出しで危険極まりない。
見込まれた方が気の毒です。辺見庸先生だってね。
今まで交流のあった作家の先生だってね。
精神科医の先生方だってね。

今回標的になった青梗菜さんはご立派でした。
質問者さんのブログURLを出しませんでした。
十分紳士だと思います。
無礼で卑怯な相手には毅然とした態度も必要です。
「詰り合い」には当たらないと思います。

許されざる者、愛さざれる者、鞭打たれる者。
それは質問者さんが敢えて選んでると結論づけたいと思います。
関わってくれる人が現れるたびにもめてる。
その繰り返し。
そうでないとご自身都合が悪いですもんね。
(yy8/汽笛さん、瀬里香/neutralingさんはその中でも
数少ないお友達だと思います。
大事にしないとバチが当たると思います)

精神障害、人格障害、発達障害色々疑われては精神科の門をくぐられてるようですが、
記憶障害とか、思考障害とかそういう症状は素人目にもたくさん見て取れる。
突発的衝動的なこともされる。(今回のID削除で慌てておられるのもその一端)

こういうの・・ネットでは「嵐」って嫌われるんです。
わざとだとしたら、さすがだな、って思います。
世の中に背を向け、失うものがない人だからできるのかもしれません。
他の精神障害、人格障害、発達障害の方で日々努力している方が迷惑です。

スマホ毛嫌いする反面、ネットでしか人間と関われない。
でもそのネットでも人間関係を構築できない。
ネットにもルールはあります。固定のものでなく、変動していきますが。
検索はしたくない、「テンプレ」さえ知らない。
そんな態度で基本的な常識もなく、
多分今後もネットでの交流はうまくはいかないと思いますが・・・。
でもそれを選んでるのは他ならぬ質問者さんですし。

---------------
昔はよかったは、精一杯生きてきた、自分以外のものを愛し守り抜いてきた、
自分の「時代」を築いた人に言う権利があると思います。
その資格がある人がおっしゃる場合においては、尊重しますし、耳を傾けます。
「所詮」とか「繰り言」のような失礼なことは思いません。
またそういう「自嘲的」「自虐的」な言葉選びをする人とは付き合いたくありません。

「昔は良かった」は場合による、人による。
ですから、こういう質問文はただの煽りだと思うし、参加本当はしたくありません。
背景を知らずに回答寄せた方々が気の毒です。

こんなことのために、わざわざIDとってしまい、ちょっと後悔してます。
先にお伝えしますが、何を私に反論されても、回答しない予定です。
お礼欄まで使って、もっと詳しくとか、質問仕返されても、付き合うつもりはありません。

(青梗菜さん、すみませんでした。)


おまけ:「捕捉」って「補足」じゃないんですか?
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私もNicoさんの怒りが分かります。


ブログはその人にとっての「製品」と云えるようなもの。
そう、思います。

ただ、罵り合いはもうやめて欲しい。

今日、私のブログ(アメーバーブログ)の「ヒロのまやちゃん日記」のタイトルを「ヒロのNicoさん日記」と変えて、記事を書きました。これはNicoさんのブログを見ての感想などを書き込むブログです。うまく続けられるか分かりませんが、頑張ってみます。

ブログのURLは http://ameblo.jp.hiromi88です。(貼り付けできなくて・・・)
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oki304さん。



これ以上の不毛な言い争いは無駄と判断し、捕捉にあのように書いて終わろうと思いました。ところが、頭がぼんやりして、肝心の「締め切り」をする前に、「退会」してしまいました。
現在、この質問を自分で締め切らせる間だけ、「水車」に復帰させてほしいと依頼していますが無理でしょうね。おそらく、強制的に締め切りでしょう。むろんこの「水車2」は飽くまで臨時のアカウントですから、「教えてGoo」とはこれっきりです。

さて、みな青梗菜の眩さに目がくらんで、肝心の先にブラジュローヌさんがやっと持ち出してきた、無断引用問題は誰も一言も触れず。まるで青梗菜には当然そのくらいの権限があるかのように。

「風刺」例えば独裁者や権力者を風刺する場合、誰もが「ああ、あれだな」とわかっていても、本人の名前や発言は微妙に変えてある。意図的に。

他のひとの回答にも書きましたが、私は「青梗菜」とも、ブログのアドレスも明かしていません。
そして大意を変えずに文章をいじりました。

okiさん。この質問文は、原文と比べて、大幅に彼の主張・主旨が異なっていますか?また悪意に満ちた改竄ですか?
元が白かったのが、黒、とまではいわずとも、そんなに変色していますか?

繰り返します、わたし「水車」=Takeoの意図は、権威への風刺と、上記ご指摘の点です。

故に、一字一句同じである必要を認めません。
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水車@Takeoさん。


それは僕も感じていました。
青梗菜さんが、「上記の文章は、Takeoさんブログより拝借した」くらいあっても良かった。
けど、ここでの貴方の質問とそれは無関係ですよね。
誰だって、「 」付きで引用されたら、その通り言った〜ここでは青梗菜さんが〜と思ってしまいますよ。
ところが、「 」内はかなり恣意的な解釈がされていて、それで青梗菜さんも怒っているわけだ。
かかる恣意的な解釈をしたのも、勝手に本からの引用をされたことへの怒りから?
けど、そうした事も、質問の背景や動機にあるかもしれないけど、いきなり質問を読んだ方には分かりませんよね〜。その齟齬が〜。
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回答No.86へ。



水車です。

>世の中は蛆虫だらけで外に出られない、って水車の認知があるとして、それは、
例えば、引きこもりの人、なんて括りで一般化できるような認知ではないぞ。

>水車がどう思うのも自由なんだけど、一般化するのはやめてくれ。

青梗菜さんよ。

あんたが、ハーレムでも、どこでも、「このニガー!」と言った時点で、ニガーと呼ばれることを嫌うアフロ・アメリカン全てを敵に回すことになるんだよ。「目の前のこの男に言った!」は通用しないんだよ。
あんたは「黒人」という属性を蔑んだ。「彼」は確かに黒人だが、しかし同時にそれは「その個人だけ」のものではない。
わたしに向かって、「この精神障害者が!」と言った時に、それが本当に、私個人にのみ向けられていると思っているとしたらお目出度い。
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Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

Aベストアンサー

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すと...続きを読む

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Qもし、日本にキリスト教がもっと普及していたら?

アメリカでは、人口の70%がキリスト教徒だそうです。
日本では、キリスト教徒は人口の1%です。その割には、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンなどキリスト教の行事が盛んですが。
それはさておき、
もし、日本に、キリスト教が、もっと普及していたら、日本は変わっていたと思いますか?日本の社会や国民性は変わっていたと思いますか?もしそうなら、どのように変わっていたと思いますか?

Aベストアンサー

日本は「宣教師の墓場」といわれていたくらいで、西洋では知識階層の宣教師の論法が日本の農民に論破されるくらいですから、普及することはあり得ないと思いますよ。ザビエルが日本を撤退するとき、「ほとほと疲れた」と書いています。

インドが200年イギリスに支配されてもキリスト教が布教できなかったり、中国にも景教以外のキリスト教はほとんど入っていません。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)に対抗できる精神的風土を持つ国にはキリスト教は進入できませんでした。持っていなかった韓国のキリスト教はカトリックやプロテスタントではなく、カルト教会が大部分で、代表が統一神霊協会です。

Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Qアラシ投稿の阿呆さについて ご意見をどうそ。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合もある。

3. これらの例は ふつうに自然に起こる人間どうしのヨコの関係です。そして
ここで問題としたいのは このヨコのではなく もしその互いの間に上か下かとい
うタテの関係が生じたなら どうするか? です。



4. 抽象的に規定しますと 《互いのマナザシがどちらか一方が他方よりも上か
ら差して来る》といった上下の関係です。(まだほっかほかの質問として マウン
ティングの問題が出ていましたね)。


5. まづ このタテの関係については ふたつの種類があると思います。
( a ) ふたり――といった単位体を例に採りますが――のあいだにそれこそ自生
的に生じたもの。気楽なマジハリ。
( b ) そして あとは 人為的に作為的につくられたタテ関係。

6. 大昔には 身分の世襲制によって 人びとそれぞれのマナザシは どのよう
にそそぐか(注がれるか)は 決まっていたとも言えます。

7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
下関係を打ち破っているか? マナザシは 完全に自由になったか?

8. 家族の中での――遠慮の要らない――マナザシの錯綜関係もあるでしょうし
けっきょく果ては 国と国との関係における〔こちらは〕深謀遠慮なるアマアガリ
戦術としてのマナザシ照射も 起きるのかも知れません。

9. ここで問うのは こうです。アラシ回答は アマアガリ・シンドロームに落
ち入った阿呆なるマナザシ合戦である――という命題をめぐって 思うところを述
べてくださいと。

10. また広く人間のマナザシ関係について 見解を述べてくださっても結構で
す。制約はありません。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合...続きを読む

Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。

Q知識をひけらかす、は、分かりますが、 持ち前の知恵や洞察力を働かせて人を助けても、 それは、「知恵を

知識をひけらかす、は、分かりますが、
持ち前の知恵や洞察力を働かせて人を助けても、
それは、「知恵をひけらかした」、「洞察力をひけらかした」と言うのでしょうか?

知識の他に、知恵があっても、それでうまく利用されないようにする為の知恵、思慮深さを身に付ける事も大事になりますよね?

Aベストアンサー

こんにちは。

知識を他人に伝達する行為は、相手の要求に沿っている場合のみ受け入れられます。
私もこの場で多くの回答をつけさせていただいておりますが、
それが事実であっても、質問者の望む形での事実でないと受け入れられないというのが現実です。

それはもう、知恵で補うと言うよりは経験を積んで身に付けるというものだと思われますよ。
ある程度『おだて』の要素をスパイス代わりに折り込みませんと、知識や知恵も只の嫌味に聞こえるようですね。

おっしゃる通り、思慮深さを身に付けることが何より『自己防衛』に繋がります^^;

ではでは。

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む


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