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警察のような役割を持っていたり、政府のような機能も持っていた場所のようですね
良くゲームなどではお城の中に忍者が忍び込み、悪い悪人を退治したりするというのが良くありますが、お城の中で忍者が悪人を殺すことなど本当にあったのでしょうか?
お城の中では悪いおやじが女の人に向かって、ほーれほーれ、とか言いながらふざけているような場面が見られますがあんなことは本当にしていたのですか?
何故そう思うかという、お城は社会的に大事な役割をもった仕事を行うところですよね
そんなとこでほーれほーれとか、お酒を飲みながら雑談とかしているのは疑問です。

A 回答 (4件)

城というと一般的には天守閣を想像すると思いますが、城の天守は軍事施設で籠城したり攻城戦に対応するためのものです。


江戸時代以降、普段は殿様とその家族は天守の周辺の敷地に作られた御殿で生活していました。それ以前でも信長は岐阜城(稲葉山城)の時は生活は山麓の居館でした。

役所も天守ではなく、城の敷地に設けられた建物で行っていました。
イメージとしては、役所や殿様の住居は、二条城のようなものです。

あと、忍者はスパイとして情報収集や、流言などによって人心を撹乱するような潜入工作をするのが主な仕事でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

お礼日時:2019/02/03 10:58

警察のような役割を持っていたり、


政府のような機能も持っていた場所のようですね
 ↑
警察も政府の機構なんですが。
それはともかく。
お城は、今の官公庁にプラス、警察、
軍隊、を兼ねた公務所ですね。
領内の法をつくり、それを実行し、時には
裁定します。
総合的な公的機関です。
同時に、領主の私的な住まいでもありました。



良くゲームなどではお城の中に忍者が忍び込み、
悪い悪人を退治したりするというのが良くありますが、
 ↑
揚げ足を取りますね。
悪い悪人ですか。
馬から落ちて落馬する。



お城の中で忍者が悪人を殺すことなど本当にあったのでしょうか?
  ↑
実際にあったかは疑問です。
無理だと思います。
そもそも忍者なんて存在は否定する学者も
多いです。
少なくとも、あのような超人的技量を持った忍者など
はいなかったと思われます。



お城の中では悪いおやじが女の人に向かって、ほーれほーれ、
とか言いながらふざけているような場面が見られますが
あんなことは本当にしていたのですか?
 ↑
お城は、領主の館でもあります。
悪い領主の中にはそんなのもいたかもしれません。



何故そう思うかという、お城は社会的に大事な役割を
もった仕事を行うところですよね
そんなとこでほーれほーれとか、
お酒を飲みながら雑談とかしているのは疑問です。
 ↑
総合的役所、というほかに、領主の私的な
場でもありました。
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>良くゲームなどではお城の中に忍者が忍び込み、悪い悪人を退治したりするというのが良くありますが、お城の中で忍者が悪人を殺すことなど本当にあったのでしょうか?



まずないですね。ただ戦国時代は大きな城で無ければ暗殺者やスパイが入り込んだことはあったでしょう。

>お城の中では悪いおやじが女の人に向かって、ほーれほーれ、とか言いながらふざけているような場面が見られますがあんなことは本当にしていたのですか?

これも「お城の中」ではできないですね。なぜなら城に入るには門番から途中の警備まで何度も確認されて通ったはずだからで、遊ぶために女を連れ込むなんてできなかったはずです。
 時代劇でも帯をシュルシュルとほどくのは茶屋(泊まりこんで宴会などができる場所)であることがほとんどだったはずです。そういう場所じゃないと悪徳老中と悪徳商家が会って話をすることもできなかったからです。

日本のお城が安定的に「政治の中心」になったのは江戸時代以降です。戦国時代までは政庁としての役割を担った城はあるものの、それ以上に「戦争ための基地」という考えが強かったからです。

鎌倉幕府は鶴岡八幡宮を立ててそこを「鎌倉の中心」としたものの、政庁舎は何度か変えていて、最初は「大倉幕府政庁」と呼ばれる源頼朝の家で、場所は今の清泉小学校(八幡宮の300mぐらい東)だったようです。
その後2度政庁舎が変わり、「宇都宮辻子(うつのみやずし)幕府」、「若宮大路幕府」とそれぞれ呼ばれていますが、すべて将軍の私邸を政庁舎として利用したものです。

次の室町幕府も足利将軍の家が京都の室町に有ったから付けられた名で、これも政庁舎と将軍の私邸が一つでした。ただ鎌倉幕府と室町幕府の政庁舎の仕事は主に立法府と行政府で裁判などは軍事&警察組織を別に作ってそこで裁判まで行っていたのです。

城とその周辺でほとんどすべてを行うようになったのは、幕藩体制が整った江戸時代以降です。
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お城は殿様の住みかです。

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この回答へのお礼

実際にそういうことが行われていたということですか??

お礼日時:2019/02/02 10:56

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ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
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朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
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ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
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朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
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選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉...続きを読む

Qなぜ戦後の日本人はGHQを疑わなかったのか?

日本は第二次大戦の敗戦後、価値観が180度変わり、旧軍を悪とみなす風潮になったとされています。マスコミも負けた途端言うことがガラッ変わりました。でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは国民も知っていたはずです。だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は素晴らしい!」みたいなことを言っても、「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」と疑ってかかるのが普通だと思います。なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。

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でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」
と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
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ことは百も承知でした。
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では、どうして指導層、支配層は受け入れた
のか。

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よう提言し実行されたが、同証言で「共産主義の目的についての理解がなかった」
と弁明している。

日米合作の太平洋戦争史観とコミンテルン史観との奇妙な癒着が戦後の
「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツ、温床となった。

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
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「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
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1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

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戦争が終わったのが1945年、日本中が震災に合ったようなものでしょう。「もはや戦後ではない」と言われたのが1956年、10年かかって戦争の後処理がようやく終わった感じだったのではないでしょうか。


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