『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

李氏朝鮮時代の朝鮮半島は貧しく、日本が併合して近代化してやったから朝鮮半島は発展した、という話を聞きますが、確かに併合してから敗戦までは朝鮮半島のGNPは向上してますけど、
1820年代の李氏朝鮮のGNPはかなり高くて豊かですよね。
http://honkawa2.sakura.ne.jp/4545.html
これは何故でしょうか?

「李氏朝鮮」の質問画像

A 回答 (6件)

>これは何故でしょうか?



この資料は各国のGDP(GNPとはちょっと違います)の推移を
直接表したものではありませんから、単純にGDPを語るのは不適当です。



・提示された資料について

おそらくご提示の資料は購買量平価説(PPP)に基づく
米ドル換算の数値です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%BC%E8%B2%B7 …
ビッグマック指数と言われているものと同じようなもの。
マクドナルドのビッグマックの値段が日本で390円とすると、
アメリカで5.58$、円相場が1$=109円の時には日本円で608円。
つまり、ビックマック指数で日本が100だとアメリカは156になります。
このように同じ商品の価値を比較できて成り立つ数値です。
実際に、ビッグマック指数とトールラテ指数(スタバのトールラテ)では
全く違う数値が出てしまいます。
これが指標として成立するのは正常な自由貿易が行われ、
財貨やサービスが同等の割合であった時です。
鎖国が行われたり、金本位制と銀本位制のように制度が違うとき
物の価値に大きな違いがある場合の単純な比較は不適当です。

このPPPの元になった数値はおそらくイギリスの経済学者マディソンのもの。
他にもいくつかの数値がありますが、実質GDPで見ると少し違います。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_regions_by …(PPP)
同じマディソンのGDP推計が載っているので、比較してみます。

西暦1年において、提示された資料だと有名なローマ帝国は
欧州だからなのか他の地域と異なる1を超えて重視されています。
一方で、それより200年前に成立した漢帝国をみると
朝貢していた倭や朝鮮と同じ評価との認識です。
ところが、実質GDPでみると西ヨーロッパを合算しても
中国(漢)の半分程度。しかも、当時のGDPはインドがその上になり、
中・印を合算するだけで世界の半分以上を占めます。
このように、単純にPPPやGDPだけみることで
「戦前の日本はGDPが低いから資源を略奪した」
などと結論を出すのは早計です。

また、イタリアやドイツが統一された時期の考察や
1492年に西欧諸国が知ることになったアメリカ、
ガリア戦争でローマの属州になった英・仏・蘭などが
西暦1年の段階で比較対象として存在するなどおかしな話です。
各国の栄枯盛衰や歴史を無視して1本の線で結ぶのは
製作者の推論が大きすぎます。

ちなみに、西暦1年前後の日本は弥生時代で、
直近で中国の歴史書に登場するのが後漢書東夷伝にある
建武中元二年(57年)に朝貢して金印をもらったころ。
資料が乏しすぎて諸説あるので、経済学者が歴史学者より
当時の事情に詳しいなどあり得ないと思います。

また、このグラフ化されたものの横軸の幅が
1000、500、100、100、120、50、30、13、27,10と不均一で、
資料を視覚するためのグラフ化で最もしてはいけないことです。



・1820年当時の朝鮮について

この時期の朝鮮は事実上の鎖国であり、客観的な資料は多くありません。
内政面で見ると、洪景来の乱(1811年)が起こった時期。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9 …
農業などの各分野ではある程度の経済成長はありましたが、
政治は腐敗して汚職がはびこり、人心は離れ、民乱が続いていました。

この時期の朝鮮を知る資料としては、ダレ神父の朝鮮事情があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3 …
序章で書かれていますが、長期間科学技術に進歩がないとか、
道路を作る技術がないから商業の妨げになっているとか
GDPが高くて豊かとはあまり思えない状況です。
 注 この頃は辛酉迫害(1801年)己亥迫害(1839年)丙寅迫害(1866年~)など
   朝鮮の政策でキリスト教を迫害していました。
   また、ダレ神父自身は朝鮮に入国せず、伝聞情報をまとめたものです。
   なので、資料としてはやや偏っていると思われます。
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日本が朝鮮を支配したから経済が良くなったとは本当でしょうか



1937年度の一人当たりの購買力平価GDPで日本支配下の朝鮮は825㌦
日本本土は3643㌦、4分の1以下です

ところが同年のオランダ領インドネシアは1867㌦もあります

なぜか
日本自体が世界的に見ると貧しい国の部類に入るからです

1937年度の一人当たりの購買力平価GDPを比較すると

アメリカ   10450㌦
イギリス   9718㌦
ドイツ    9464㌦
フランス   7381㌦
アルゼンチン 7246㌦
イタリア   5651㌦
チリ     4953㌦
ベネズエラ  4382㌦
日本     3643㌦
キューバ   2975㌦

このように日本は欧米主要国はおろかアルゼンチンの2分の1、チリやベネズエラより下の水準なのです

本来、海外領土を持てないような貧しい国が無理して海外領土を持つ
明らかに自国の国民の生活水準を落としても支配した他民族の生活水準を高めようなどはしていない
実際、本国の4分の1しかないのですから
朝鮮の経済は朝鮮人でなく日本人が掌握しているだけの話です

日本に支配されず李氏朝鮮が自力で開国、またはロシアに支配されても日本が支配した時と変わらない可能性があります

むしろインドネシアの宗主国オランダが朝鮮を支配した方が朝鮮のGDPが上がった可能性が強い

なぜなら日本は重工業国でなく農業人口46%の農業国、軽工業国で
欧米主要国が難なく生産し植民地に生活必需品、消費財を供給していたことを真似ることはできません

だから太平洋戦争で日本が支配した地域で消費財の物不足でハイパーインフレが起こり
日本が一方的に資源を奪う掠奪経済を強いて現地人の反発を受けたのです
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>1820年代の李氏朝鮮のGNPはかなり高くて豊かですよね。



どこを読み取れば、そう解釈できるのか全く理解できません。
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1820年代の李氏朝鮮のGNPはかなり高くて豊かですよね。


  ↑
豊かかどうかは疑問がありますが。

産業革命に成功したか否かで、
分かれたのです。

英国で始まった産業革命は、ヨーロッパ
全域に広がりました。
これが近代化です。

近代化に成功した西洋がアジア、アフリカを侵略できる
力を持ったのです。

アジアで最初に成功したのが日本です。
その日本が韓国を併合し、日本のレベルに合わせる
ために、港湾道路教育など各種インフラを整え
ました。

近代化に成功する以前のアジアはどこも
似たり寄ったりだったのです。
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いったいどう読んだら「1820年代の李氏朝鮮のGNPはかなり高くて豊か」といえるのかがさっぱりわからん.

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この信用できないグラフは一体なんなのでしょうか?


『対世界倍率』なる意味不明の言葉が出てきます。
いや仮に世界全体を 100% とするならば、倍率なんて絶対に 1 を越えたらダメですよ。

そしてこのグラフおかしなことに、西暦 1 年と、西暦 1,000 年と、西暦 1820 年で、日本の値が、ほとんど横ばいです。
これは一体なんでしょう。
西暦 1 年なんて、日本じゃ弥生時代ですよ。
西暦 1820 年と言えば、江戸は世界トップの巨大都市として繁栄していた時期ですよ。
それが横ばいって、どういう計算したら、こうなるんでしょう?

信用できない意味不明のグラフであって、これを元に議論しても意味ないと思います。
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Q朝鮮はどうして独立を維持できたのでしょうか。

朝鮮半島を見ていて、いつも不思議に思うことがあります。それは、中国はどうして朝鮮半島を取り込もうとしなかったのか。逆に言えば、朝鮮はどうして独立を維持できたのかという事です。中国が帝国主義であることは紛れもなく、広大な国土に加え、今でも「台湾の独立は認めない」、「チベットの自治は認めない」と言っています。普通に考えれば、朝鮮半島は海に突き出ていて立地条件も良く、何としても手に入れたい土地だと思うのです。独立というのは口で言うほど簡単ではなく、国力がなければできません。力関係で言ったら、朝鮮は中国(清)にとても敵わなかったはずです。朝鮮半島は、かつては百済、新羅、高句麗と三つに分裂していました。なおさら取り込まれ易かったはずです。それを思うと不思議でなりません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
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Qなぜ戦後の日本人はGHQを疑わなかったのか?

日本は第二次大戦の敗戦後、価値観が180度変わり、旧軍を悪とみなす風潮になったとされています。マスコミも負けた途端言うことがガラッ変わりました。でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは国民も知っていたはずです。だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は素晴らしい!」みたいなことを言っても、「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」と疑ってかかるのが普通だと思います。なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。

Aベストアンサー

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」
と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
それを受け入れたのが、日本の支配層であり、
指導層だったからです。
多くの国民は、日本は負けたから悪者にされた、なんて
ことは百も承知でした。
そういう意見は総て封殺されたのです。

では、どうして指導層、支配層は受け入れた
のか。

表面だけ従うように見せておき、米国の
影響が無くなったら元に戻そう、と考えて
いたのです。

ところが、GHQが、洗脳工作に、当時盛ん
だった社会主義者を使ったので、彼らが
マスコミなどの要職に就き、
見せかけが本当になってしまいました。


■1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な
「自由主義者」として、野坂参三、鹿地亘らの共産主義者を挙げて活用した。

マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、
野坂らの提唱で設立された日本人民解放連盟の中国での
日本兵捕虜洗脳教育を対日心理戦に利用できると確信し、
WGIPのモデルとなった。

エマーソンは「日本国内の戦争反対分子を励まし、内部崩壊を早める」
よう提言し実行されたが、同証言で「共産主義の目的についての理解がなかった」
と弁明している。

日米合作の太平洋戦争史観とコミンテルン史観との奇妙な癒着が戦後の
「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツ、温床となった。

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で...続きを読む

Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

Q江戸時代にスペインやオランダが、日本に対して低姿勢だったのはなぜですか?

江戸時代前期というとスペインやオランダが強かった頃であり、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを植民地とし、原住民に対して過酷な収奪をやっていました。
しかしながら、日本に対しては一切手を出さず、徳川幕府がキリスト教を迫害しても文句を言わず、オランダに至っては貿易は出島のみ、それもキリスト教を布教しないという条件でようやく認めてもらっている有様です。

このように、江戸時代の世界の覇権国とも言えるスペインとオランダが、なぜか日本に対しては強いことを言えず、低姿勢に徹したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
そもそもですが、一定レベル以上の文化、文明が
既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
時代です。
鉄砲の数も世界一、と言われたほどです。

植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
という判断が働いたのでしょう。

Q戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。 実際

戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。
実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
普通の声のトーンで話さなかったのですかね?

Aベストアンサー

実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
 ↑
そういう人が多かったと思います。
1,軍議は自己アピールの場でもあります。
 声が大きい方が目立つし、意見も通りやすいのは
 今も同じです。
2,戦国時代の武将の声はとてつもなく大きかった
 と言われています。
 広い戦場で自分の名前をCMするのですから
 大きいことが要求されたのです。



当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
徳川家康は、部下の自由なディスカッションに任せ
それろじっと聞いていて、最後は自分で決める、
そういう軍議をしていたという話があります。
声がでかくないと、主君の耳に入りません。

Q1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

Aベストアンサー

東日本大震災から8年、いまだにこの様です。
戦争が終わったのが1945年、日本中が震災に合ったようなものでしょう。「もはや戦後ではない」と言われたのが1956年、10年かかって戦争の後処理がようやく終わった感じだったのではないでしょうか。

Qなぜ徳川家康は江戸に幕府を開いたのですか? 江戸がなぜ候補に上がって決定された?

なぜ徳川家康は江戸に幕府を開いたのですか?

江戸がなぜ候補に上がって決定された?

Aベストアンサー

皆さん書いていらっしゃる通り、秀吉に命じられたようです。
  
正月に「家康江戸を建てる」というドラマがありました。それを見て思ったこと。
当時は一面湿地のような、飲み水にも事欠く土地をあそこまで整備した家康という人物は(ブレーンの助言もあったとは思いますが)単に戦に強い武将だけではない、優れた政治力の持ち主だったと改めて感心しました。
彼だったからこそ、徳川300年の礎を築くことが出来たのだと思いました。

Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

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太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年が最初
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