出産前後の痔にはご注意!

観想が人にもたらすものとは。

質問者からの補足コメント

  • No.20 お礼の続き
    私は二義的なものではなく一義的なものを求めます。原体験に当たるものが、生けるものとして今現れてあり、言葉としても生じるという事があり得るはずである、と言う強い見当をつけています。

    >このように:
    ★ あなたが〔☆ つまり わたしブラジェローヌは〕仏性を発揮して
    居て、衆生たる話し相手を悟らせてやろうと増上慢を起こ
    ☆ しているということです。

    じゃあやっぱり駄目じゃないですか。こんな事を臆面もなく言うってことは恥知らずのままですよ。対話の基本が出来てないってことでしょう。

    >ズラッシー無しで行きましょう。

    ぶつかってこなければ避けませんよ。

    さらに補足に続く

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/12 14:00
  • No.20 補足の続き

    >★ 一見乱雑に見える中の、筋道
    ☆ をさらに明らかにしてくれるとありがたいです。

    これは人の言葉に沿うということを為せば見当は明らかになるでしょう。自分から何かを言う事よりも、他の人の言葉を聞くことの方が難しい。何故なら、他の人の言葉を聞くにはその語られたことについての素養が必要になるからです。似たような経験、似たような知識、似たような境遇、或いは相手の言葉の背景に思いをやって、推察するという能力が無ければならない。それが難しいので、場合によっては喩え話も生まれる。

      補足日時:2019/02/12 14:02
  • No.21 返答の続き
    >《まことのもの》は 共通に持たれています。勝義の何かです。
    あとは 二義的・二次的な経験現象であり その認識内容です。

    二義的なものは置いておいて、まこととは何かについて考究することはすぐれている。彼は雑多なものを吹いて退けて、真に求めるべきもの、人に備えられているものに気が付いて、正気を取り戻しつつある。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/12 16:40
  • 予感と言うものは良い意味で完全に裏切られることになるからである。その望みは望んだ以上のものをもたらすからです。また、予感というのは人々各々、それぞれが持ちやすい形で備わっているのであって、一切衆生悉有仏性と言えど、鋳型にはめたような同じ形で仏性があるのではないと思われます。衆生には八種あり、その道もそれぞれに対応して八種あるとも言われます。分類して八種ですから、因縁を交えれば実質無限です。それを一般化することは原理的に無理です。
    >これらの神論をすべて一望のもとに捉えることのできる哲学理論も のぞまれるわけです。
    例えば大きい人と小さい人と中くらいの人が居るとします。小さい人は大きな門が重くて開けれない。大きな人は小さな門はくぐれない。中くらいの人にはその中間が望ましい。それぞれに合ったサイズの門を用意するのが良いでしょう。という事は一般化よりも個別化が合理的なのであって、つまりそれは対機

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/13 22:26
  • いつもお世話になってます。ご回答ありがとうございます^_^
    取り急ぎ寝る前にお礼します。
    体得、体現と言うのは確かに今の私のテーマなのではありますが、知りたいのは回答者様方の其々の深い認識なので、思うところを率直に仰っていただけたらと思います。それがむしろ、私にとっての体得、体現に結びつく話になる可能性が高いと思われますし、たとえ結びつかずとも、きっと何か良い結果にはなるでしょう。本回答に対する本お礼は、又後日お礼欄にて致します^_^

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/15 23:58
  • 無所有処や非想非非想処が危険なのは、例えば鳥が、空を自由に舞っている様でいても、実際には風に細心の注意を払わなければならない様なものです。空には障害物が何も無い様に見えるが、その空の障害が無いと言う本質によって危険が生じている。下手に飛べば翼が乱流によってへし折られるでしょう。
    人は空を飛ぶ必要が無く、堅固な道を歩めば良いと言うことです。実際私は瞑想で事故った事があります。それによって自由になれると思い込んでいたが、自らの強引さによって怪我をしました。それは静けさと明るさと安寧ではなく、乱気流に巻き込まれ中で稲妻に打たれた様なものです。

    No.36の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 01:56
  • 死んだ木片でさえも、優れた彫刻家のノミにかかれば、生かし切られる。彼は固いものを柔らかく扱うからです。
    死んだ木片でさえも生かされると言うのに、人が生かされぬと言う道理は無い。ひねくれた心を真っ直ぐ(善軟)にすることによって人は生きて来る。

    一方で、薬でさえ多量に服用すれば害があるだろう。もしそれが毒であるならば、何をか言う事があるだろうか。
    適度を越えたものに徳はない。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 03:16
  • 相手の徳を頼れば無くもないが、その様なものを対機の法と言うのか甚だ疑問である。
    それはただの甘え、怠惰であって、徳にならないどころか悪になるであろう。それが善転することがあるなら、それを聴いた人の徳によるところであって、表現した者の徳ではない。賢者は理法だけで無く、場合によっては愚者の言葉さえも道の歩みの糧にすることがあるからでおる。
    何れにせよ、他人の徳を頼って、度を過ぎて自分のしたい様にするなどと言うことは推奨されない。まして、人をして悟らせてやろうなとど自称する者がする事ではない。

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 11:45
  • 栄養満点の食事でも、食べ過ぎれば肥満になって病気の元を生じてしまう。
    それを、食え、食え、と言って際限なく勧めたり、無理やりに食べさせるのは良い事ではない。それは無条件ではなく無制限なのであり、徳を欠く行いである。

    また、病気でも無い人に対して、これは良く効く薬だからと無条件に押し付けるのも問題がある。薬の適用される条件に該当しない人に薬を押し付けても何の益にもならないどころか、余計な作用を体に及ぼすだけだろう。
    また、もし出来るならば、病気の種類や患者の容態を診て、まるで医者の様に薬を処方できるに越した事はない。病の諸条件を峻別し、病人を差別して受けないと言う事がないように出来る事が理想ではある。

    我は相手に対して無条件だと標榜しつつ、特定の人を拒んでいる者は欺瞞を抱えている。

    私(キサラギ)は、人をして悟らせてやろうなどとは思わない。ここでは只、道の友を求めただけある。

    No.38の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 13:12
  • 思春期の終わり頃、不動明王の修行時代をモチーフにして小編を書いた。原稿データは無くなってしまったが、法師やら弦の張られていない琵琶(虚空蔵菩薩の化身)やらが出て来る少し不思議な話だった。うろ覚えだが、物語の冒頭、山中足跡が次第にけもの道のようになり、それを辿ると次第に路らしくなりやがて、都大路に着いた、と言う滑り出しだったと思う。で、色々あって修行時代のお不動さんは海(大道の喩え)に臨んで解空したそうな、と言う話なんだけど。
    この都には門があって、そこを早瀬のように人々が出入りしていた。その中には葬列らしきものもあった事を、書いた覚えがある。それはさておき。

    最後の一関と言う言い方も禅にはある。

    閉めるのが上手な人は鍵や錠を使わずに閉めるので、誰も開ける事ができない。とも。

    上手くやろうとするのでなく。如何にすればこの扉は開くのか。

    門とは何か、門が無ければ簡単なのだが。。

    No.39の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 16:37

A 回答 (46件中1~10件)

>観想は、想いの起こる未然のところと言いますか、、、観る働きと言うのは、想いや言葉を司る機能のより深いところより世界を照射し、識知していると言う事なのかなと。



なるほど、もしそれが観想というなら、これって自然科学でも社会科学でも、科学の営みで日常行なっている行為そのもののことですね。科学者は、漫然と外部から「照射されて」いる情報を眺めて、その中に有意義な秩序のあり方を探り出そうとしているのではありません。一見乱雑に存在する森羅万象の中に、今までのその人の経験に基づいて、物事の生起に主観的な軽重をつけ、その軽重の仮説に基づいて世界を整理しようとする。要するに、主観に基づいた自分の世界観を観測している事象に「照射して」、それに基づいて世界を再構築しようとします。

もちろん、その主観は今までのその人の個人的な経験を外挿したものですので、そが正しいという保証はありません。要するに、まだ答えが解っていないのに、世界はそうできているのだと決めつけてみるのです。それを皆さん、「直感」とか「神憑り」と呼んでいます。そして、その神憑りで得られた仮説を現実と付き合わせてその仮説の整合性を探ってみる。そうすると、必ずぞの仮説と現実の間に齟齬ができていることを発見する。そこでその齟齬の大きさを具体的に認識できるようになったら、その認識に基づいて、今までの仮説をまた直感、すなわち神憑りに基づいて修正した新たな仮説を立てる。

この新たな仮説にもまた現実との齟齬がありますが、願わくはその齟齬の大きさは、前の仮説よりも小さくなっていることを望む。これをぐるぐる繰り返して行くうちに、自分の進化させた仮説が最終的に正しいんだという確信を持てるときが、私の経験では、突然にやってきます。そんな時、私は

「そう、そうなんだよ」

という感覚が爆発現象のようにやってきて、私自身、宣伝に見る「使用前と使用後」ぐらい変わっている自分を見つけます。

このように、科学による発見の営みは決して外部から「照射されて」いるものを漫然と眺めているのではなく、こちらから自分の主観に基づいた世界観を対象物に「照射して」世界を認識する行為なのです。そしてこのぐるぐる回る行為は、数学でいう典型的な非線形現象と呼ばれているものです。それに対して、相手から照射されたものからそれで認識できてしまう単純な場合は、数学では線形現象と呼ばれています。科学の発見に至る行為は典型的な非線形現象なのです。ですから、

>照射することによって世界を認識すると言うのは、現代の常識とは真逆になりますので、?が浮かぶかもしれません。現代では、光を目で受けて、つまり照射されることで世界を認識していると考えられています。

というようには少なくとも科学の世界では、そうはなっていません。

要するに、科学の営みの真髄はキサラギXさんの言う「観想」そのものの営みです。
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この回答へのお礼

ビフォアアフターですか^^驚きの白さ!みたいな(笑)

>「そう、そうなんだよ」という感覚が爆発現象のようにやってきて、・・・

解明の瞬間と言う感じですね。

汽笛さんとお話ししていた時、観想のなんたるかについて、自分ではなかなかうまく言えるかどうか分からなかったのですが、この回答を読んで、そういう事だったのかもしれないと思う節がありました。

この”齟齬”を埋めるのに古今の観想を為す人々たちは苦労したのかもしれないなと思いました。
私が解釈し損ねている大乗仏教の話に、次のようなものがあります。
維摩詰という智慧ある長者が病床に伏したので、僧団を代表して文殊菩薩が見舞いに行きました。その時、維摩詰と文殊の間で問答が為されるのですが、維摩詰が”空”について説いたときに、文殊は、「いやいや、実際、痛いじゃん。この痛みの現実はどうするの?」(私訳)
と言うのですね。そこで維摩は菩薩道を説いて見せるのですが、この菩薩道が荘厳で見事であったために、この話は大団円で終わるのです。
この話の作者は、空という観想によるところと、実際の苦しみとの間にある溝を菩薩道によって埋めて、超えたわけです。
この道筋を、非線形、つまり飛躍のある道程というのなら、猪突さんのおっしゃる科学者の行っている所もまた、観想と実際との矛盾を解く所に、その醍醐味というか、正味があるのかなと思いました。

お礼日時:2019/02/05 22:58

前回で終わろうと思ったのですがw



「怒り」ということについてもう少し申し上げれば…

例えば、ローザ・パークスさんが白人専用のバスの座席に座っていて、
運転手から「立て」と言われ、「NO!」と言った時の怒りは、不条理が
自分を否定しているとの「確信」に立った怒りであったと思うのです。

だから、誇りに満ちていて、自分を高め、力が出てきて、快感であると
思います。
これは、私の同様の経験から言えます。

この時、仮に、彼女がそうした信念からではなく、自分の評価のためで
あったり、運転手の顔が嫌いだったからとかの理由でそうしたのならば、
あまりいい気持ちにはなれなかったと思います。

しかし、人間の心は通常目に見えないので、口で正義を言っていても、
肚の中ではドス黒かったりするわけで、でもそれは、よーく観ていれば
見えてきますよね。その場合は逆にどんどんパワーと「誇り」が消えて
ゆくと思います。嘘が嘘を呼んで、複雑になるからです。

正義って後天的に習うもの、といわれていますが私もそう思います。
要は親の考え方、人間性に大きく影響されるものでしょう。

当然私も、変な怒り方はします。恨んだり、嫉妬もあります。でも、後味
がとても悪いということを何度も経験していますので、それは極力しない
ように気を付けています。
そのためには、ありきたりの言い方ですが「自分に正直でありたい」とい
うことが大事だと思います。

それから、仰るような「義憤・公憤」ですね。

織田信長は、当時の僧侶のあまりの堕落に憤り(まあ、義憤ですね)比叡山を
焼き討ちしたという説が言われていますが、やり方がまずいですね。(当時
は正当であっても)

ただ、憤っても、何に対して怒るか?それを追求し抜くことが知性の修行で
あり、よき学問は学ぶべきだと思います。学問は必要です、要点だけでも。
また、仏道修行ということにも通じてゆくでしょう。

それから、諸天善神は、日蓮仏法では生命の働きの一部で、つまり我々の中に
あるということになります。
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この回答へのお礼

あぁ、、なるほど。私が行き届いてなかったですね^_^ とてもいいお話を聞けました。誇りに満ちて、自分を高め、力が出てきて、快感である、とはそう言う意味だったのですね。確かに頷けます。ニャンポコさんは、この様な私が通じていない面にも通じておられて、話していて新鮮さや新たな諒解を得ることが出来ます。
"自分に正直でありたい"まさにその通りですね。真っ直ぐであると言うことのイメージが私の中でより具体的になりました。

何に対して怒るか、、うーむ、確かに一筋縄では答えは出ないですが、筋を通す事の大切さ、有益さがそこにはあるのですね。

諸天善神の働きは生命の働きの一部で、我々の中にあるですか。
私はよく夢を見るたちで、一晩で4個5個の夢を見ることもままあります。最近、夢の解釈を試みており、昨日などはその成果が顕著に現れました。夢が無意識の表現であって、様々な現実に対する補償作用でもあるのが実感として得られました。知らない間に硬くなっていた心の部分が解きほごされたのは、夢を正しく受け止める事ができたからかなと思います。
心の中には実に色々な者が住んでおり、諸天善神もその内なのかなと、思いました。

まだまだ話していたいですが、あまり長く引き止めても良くありませんので、ここらで一息とさせていただきます^_^

誠にありがとうございました。
ベストアンサーに迷いますね^^;

お礼日時:2019/02/21 23:07

弟子に取っても いいですよ。

お二人まとめて。


▲ 親鸞は ひとりも弟子を持たず候ふ。
☆ が 基本ですけれど。

そういう道もありかなと。
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この回答へのお礼

一応言うといたるけど、、、そのボケおもんないで?
でもあれや、地球温暖化問題には貢献すると思う。頑張りや。

お礼日時:2019/02/22 17:21

「怒り」ということについて、思うことを言いたいと思います。



怒りを我慢すると恨みに変わる、と言った人がいましたが、周囲を見ていると
その通りだと思います。
古い友人で、気が弱くて怒れない人がいましたが、彼の複雑な心中を垣間見た
時にゾッとした思い出があります。

恨み、怨みつまり「うらめしや~」の心って苦しいですよね?でも、怒るって
快感だと思います。
怒ればパワーが出て、自分を高めることができると思います。

ただ、何に対して怒るのかということが大事で、自分より優秀な人を怒るとか、
単に気に入らないから怒るとかは、怨みであり、侮辱されたとか、不条理なこ
とを言われたとか、社会悪などに対しては、大いに怒るべきだと思います。

仏の怒りは、庶民を不幸にするモノに対して、そのモノを見極めたうえで怒る
のだろうと思います。

近頃の社会を見ていると、怒りが多いと思います。不正やら失言やらなんやか
んや。

これは、怒ることによって、自分を高め、一時的にパワーを得たいと無意識に
思っての行動ではないかと思っています。
悪に対し怒っているはずなのに、すぐ忘れちゃうのは、見極めていない証拠だ
と思いますし、そもそも悪に怒っているのではないのだろうと思います。

さて、潜在意識ということについて、ある著名な学者が言ったことを紹介します。

『潜在意識は、あのギリシャ神話の海神プロテウスに似ています。それは常に支
配から逃れようとしており、いったん支配下におかれるとそのことを怒ります。
しかも巧妙な手段をもっており、意識が支配しようとするとそれに対し仕返しを
し、いったん支配力が及んでもするりと逃れてしまいます。』
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この回答へのお礼

怒る事によってパワーを得る、ですか。
怒りの爆発力、怒声、怪力、などを人が得たいと無意識で思っている、と。
洞察力を感じる見方ですね。人の方が怒りに支配されたと見るのは良くあるのですが、怒りのスイッチを押す快感?期待?のようなものについての発言を聞くのは初めてですね。仏伝に、聖者を迫害して殺した粗野な村人を、ある僧侶が怪力を行使してひねり殺したと言う話があった様に記憶しています。この僧侶は勿論破門を覚悟で怪力を行使したのですが、復讐を果たした事で幾分かは報われたのでしょうか。

またプロメテウスに喩えた無意識に関する話からは、無意識の高度な機構のあるのを示しているようで興味深いです。

ニャンポコさんの仰る仏の怒り、これは不動明王などに形象されているもの事かなと思いました。義憤と言うものですが、これはある種の裁きに近いものかなと思います。

私のイメージでは、悪と戦うのは善であり、それは諸天善神の担うところかなと思っていましたが、確かに不動明王などは怒りの表情で描かれたり彫られたりしていますね。これは現実には、義王の様な姿で現れるのか、或いは自然災害の様な形で現れるのか、もしくは内心の葛藤の裁定者として現れるのか、など考えました。

仏にとって衆生はどの様な存在なのか。子供の様であるならば、その怒りの対象は衆生(人々)では無く悪魔、と言うことになると思うのですが、悪魔は人々の心に巣食っているものだと考えると、それを止滅するパワーは人を通じて現れなければならないと思います。ダルマ(法)がどの様な形で現れるのか、その威力、善知識、その様なことについても考えるきっかけになりました。因みに悪魔は八つあり、八正道がそれぞれに対応しているとも聞いた事があります。
ありがとうございます。

お礼日時:2019/02/20 21:27

>事故ったなら、命を三つくらいは持ってかれます。

場合によっては廃人になります

ふうむ、危険ですね。

>六祖慧能の時代にも、この悟り的なもの(真の覚りではない)や空観に魅せられて
廃人になる者が何百人と出たと六祖壇経にあります

知りませんでした。
要するに、悟りとは違う、危険なところへ行ってしまったということですね?

禅宗では「不立文字」「見性成仏」などが掲げられているようですが、曹洞宗と臨済宗
の論争が続いているということを聞いています。ということは双方の論理があるという
ことになるのですが、どんなものなのかご存知ですか?

キサラギさんとしては、禅宗の教えを信仰しているということではなく、「仏性」とい
われているものなどを体得したいということなのですね?
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この回答へのお礼

曹洞宗と臨済宗の論争については知りません。ただ、お釈迦さんも、僧団の中に論争が起こった時に以下のように言ったそうです。

「盗賊の間にさえ協和があんねんで?なんでお前ら(修行僧らの間、僧団)にないねん。」
 
また、
「真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。」(スッタニパータ)

ともあります。これは私に言えることですが、例えば私は怒る時があります。普通、人は時に怒るものですが、怒りがあること自体が、争いを超克していない事の証なのではないかと思うのです。なので、私はまだ覚ってないのだと考えざるを得ないのです。怒りを我慢するのはNG ですが、怒りがもう起こらないというのが覚りの境地に至った人(仏)の一つの実相だと思っています。

>キサラギさんとしては、禅宗の教えを信仰しているということではなく、「仏性」とい
われているものなどを体得したいということなのですね?

禅宗に”教え”が存在するのかは微妙なところだと思いますが、私は何かの宗派に属しているわけではありません。仏教全般にしても、私の知らない事をブッダが遥かに知っている、要するに力量の差を感じずにはおれないので見過ごすことがとてもできないという不届きな心理故のところもないとは言えません。ただ、真人間になりたいという思いには偽らざるところがあると、自分で信じています。だから、禅宗が、、仏教が、、というよりもこの”真人間になりたい”という思いに応えるために私は歩いていると言ってよいでしょう。この”なる”ということが、体得するという意味です。

正直申しまして、仏性とは何か?と問われて、私は正解を言う自信がありません。ですが、この仏性と言う言葉に託された意味を配慮するなら、有体に言えば”そうです”という事になります。

六祖慧能和尚の歌

心の土地が情種を包み
教えの雨が降って即ち花開く
花の情種を悟って 菩提は菓自ら成る

お礼日時:2019/02/19 21:25

観想によって得られる境地は 次のように――仮りに――表わされる


内容になりましょう。

《先度他 ‐ 自未得度》の連関
《涅槃 ‐ 無住処》連関
《涅槃 ‐ 生死》連関――生死即涅槃では必ずしもなく――
《菩提 ‐ 煩悩》連関――煩悩即菩提ではなく――

《無限 ‐ 有限》連関
《神の国 ‐ 地上の国》連関



ありがとうございました。
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この回答へのお礼

>ありがとうございました。

あいよー。^^

お礼日時:2019/02/17 21:38

世間で一般的に言われている「瞑想」はリラクゼーション的な範囲であろうと思います。



私も、その後少し実践しましたが、即効的な効果があり、心が静まり、集中力が増しました。
その幸福感は、子供のころ虫や石ころをジッと眺めていた時のものと全く同じでした。
このレベルであれば、危険はないのでしょう。

キサラギさんとか、あの方においては、かなり熟練したレベルなのでしょう。
経験者が危険であると言っているわけですから、そうなのでしょうね。興味本位で、少しやって
やろうという気持ちはあるのですが、今のところ迷っています。

本当にタマになんですが、夢の中で現実と全く同じ感覚でいる状態の時があります。突然出てき
ます。でも、夢だって分かっているんです。すごく楽しい感じですね。そんな感じなのかなと思
います。

このレベルになると、おそらく催眠術にかかった人と同じで、潜在意識に落ちた状態なのではな
いかと思います。いずれにしても、危険性は感じます。

無所有処・非想非非想処、仏教用語としては、十界の内の六道の住む処の内、無色界(精神の世界)
の中の、上から二番目と一番上、という風に理解しています。

質問文の中で、三木清の著作の中の文を引用していますが、こうも言っています。

『思索は下から上ってゆくものであるとすれば、瞑想は上から降りてくるものである』

哲学者の論文ですから、こういう表現が限界なのかもしれませんが、潜在意識から稲妻のように伝
わってくる直観的なもの(良くも悪くも)が、瞑想がもたらしたものということだと思います。
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この回答へのお礼

さすが鋭いですね。ニャンポコさんとはじっくり時間をかけてお話ししたいところです。

もし瞑想をメディテーションとするならば、それはあまりニャンポコさんの目指すところ(人格の完成など)とは関係が無いように思います。しかしこれをテオーリアや観とするならば、関係してくると思うのです。メディテーションは精神集中を呼びますが、観は精神統一をもたらすものです。だから、もし精神統一や静けさをもたらすものであるならば、OK,大丈夫だと判断してよいと思います。

>すごく楽しい感じですね。

そうだと思います。

>『思索は下から上ってゆくものであるとすれば、瞑想は上から降りてくるものである』

これは言い得てるのでは。というのも私の場合は、後代の禅で言うところの悟りがあって、後に瞑想をする事になったからです。それ以前は瞑想をしたことはありませんでした。

>潜在意識から稲妻のように伝わってくる直観的なもの(良くも悪くも)が、瞑想がもたらしたものということだと思います。

その事故の事については、いまだに私も自身で解明できておりません。しかし、それが破壊的でしかも決して小さくないダメージを久しく遺すことから、他の人にはその様な危険のある場所に行く事を勧めることは出来ません。事故ったなら、命を三つくらいは持ってかれます。場合によっては廃人になります。

>このレベルになると、おそらく催眠術にかかった人と同じで、潜在意識に落ちた状態なのではな
いかと思います。いずれにしても、危険性は感じます。

そうだと思います。
なので、人格を統治することが題となってくるのではないかと思います。
例えば自らの治める国土において、危険動物の出る森や、海域、或いは嵐のある空域を把握しておくことが大事であるように、また豊かな収穫のある田畑や人々の住む城郭や都市を守れるように配慮すべきであるようなものでは無いでしょうか。

それに、仏道はもとより危険のない道です。危険があるのは外道だという事なのでしょう。

六祖慧能の時代にも、この悟り的なもの(真の覚りではない)や空観に魅せられて廃人になる者が何百人と出たと六祖壇経にあります。六祖はそれについて、人を座らせて心の空なるを観ぜよと教える者が居るがこれは誤りであると述べています。心を空蝉の世界に追いやってはならぬ、覚りを求める心を停止させてはならぬと。

お礼日時:2019/02/17 22:17

★(№39補足欄) 最後の一関


☆ を通った者にとって その境地は:

○ 大道は無門なり

☆ となるのでは?



自未得度 先度他 や 無住処涅槃だからといって 大道を知らない
わけではない。



どうしても 修行時代に腰を据えていたいということなのかなぁ。
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この回答へのお礼

解脱知見と言うのが存在するらしく、解脱すればしたと分かるそうです。これは他の誰に証してもらう必要もなく、自分で決定的に分かるそうなのですが、私にはこの知見がまだない。解ったと思ったが、そしてそれは他のどのような体験とも似たものではなかったが、脱してはいない気がする。別に修業時代に腰を据えたいと言う訳ではないんだけど、覚ってないんだから覚ってないと言ってるだけなんですよね。私は後代の禅で言う悟り体験と、不退転の覚りの境地とを区別しているので。

>★(№39補足欄) 最後の一関
☆ を通った者にとって その境地は:
○ 大道は無門なり
☆ となるのでは?

なんで俺に訊くのよwブラジェさんが言ったんじゃない。俺には分からんよ。最後の一関をまだ通過してないもので。道の終わりにあるのかな?門は。でも、門が全然無いならみんな既に大道に到達してたり、道を完成してたりしてるはずですよね。そんな中で道を説く馬鹿が居るでしょうか?やはり古今に道が説かれるという事実は、道を求めた人、求める人がいること、また、到達した人が居ることを示しているのでは。そう考えるのが妥当だと思います。既にみんな覚っているんだとしたら、この世に誰一人として解脱知見を持たない人は居ない事になるが、現実はほぼ全員が、解脱知見を有していない事実を鑑みると、既にみんな覚っているという話は、(ヾノ・∀・`)ナイナイ って感じですね。
門が道から人を阻害しているという事は在り得ない事でしょうけど、この関を通過しないと覚れないってのはあるのかなーと思いますね。

>自未得度 先度他 や 無住処涅槃だからといって 大道を知らない
わけではない。

まぁ、菩薩は大道に到達していると思いますよ。彼(彼女)らは道の人でもあるんだから。
「仏のさとりを得て、教えを説き、入滅した(=心が解脱した)けれども、さとりを求める人の道(=修行僧のすがた)を捨てないのが、菩薩の行である。」
とも経典(維摩経)にありますしね。(ここで”さとり”とひらがなで書いてあるのは参照した文章がそうなっていたのでそうしています。)

ま、こんなとこですかねー。まだ話します?もう疲れてきてるし、明日からは時間はそうそう取れないですけど。なんかブラジェさんのための質問コーナーみたいになっちゃったなー。/(^o^)\ナンテコッタイ あー。

お礼日時:2019/02/17 20:51

★(№38補足欄) 道の友を求めただけ


☆ 互いに自由に賛否両論において批評し批判しあうのが
哲学では 《友》でありましょう。


大道は 無門なり。
この回答への補足あり
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№37の補足欄を読んでの観想――感想ではなく観想――ですが。



相手の徳にのぞみを託するのは その相手が人間の発言について
ここまでが適度であると思うところを推し測り あとは 適度を
超えないようにやはり相手の心と徳とを忖度しておこなえ とい
う制約条件が付き物なのだ。・・・と固くかたく考えていらっし
ゃるのですね。

つまり 対話のときには 相手をまづ先に 話の内容にかかわら
ず 仕分け区別して事に処するのであると。

つまり 勇気のもんだいではなく 相手を見抜く神通力の問題な
のだと。それでないと 静けさはのぞめないと。

つまり かかわりあいにならないようにする場合があるのだと。
ですね。


つまり このテオーリアによって:
★ 人をして悟らせてやろう
☆ とわたしは しています。




わたしの対機の仕方は 相手について無条件です。

あなたの場合には 徳をめぐってその現われが適度だという条件
を課しているわけですね。
この回答への補足あり
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Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

Aベストアンサー

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すと...続きを読む

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Q予め喪われている自明性

正直自分でも何を訊きたいのか明確ではありません。何を言っているのかわからんという人はそのままお通りください。親切な人の気まぐれなお付き合いを希望しての投稿です・・・

精神病理学者木村敏の著作のなかで、彼の「分裂病」(70年代当時)の患者が、主治医である木村氏に言った言葉が強く印象に残っています。
それは
「皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」

ところで、今のわたしの感覚を正確に表現すれば、この患者とは正反対で、

「自分が皆と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」
ということです。

別にわたしは自分が人間ではないと証明されても一向に悲しみませんが、
『人間を人間たらしめている根拠乃至条件』とはいったい何ですか?

「他者への思い遣り」「共感能力」「愛する心」etcといったものでなく、
また生物学的な分類でもなく、「ある者は人間に等しい」ということが言えるとしたらそれは果たしてなにを根拠にしているのでしょう?

グレゴール・ザムザは「ヒト」でしょうか?或いは「甲虫」でしょうか?

例によってお礼が遅れるかもしれませんが、ご容赦ください。

正直自分でも何を訊きたいのか明確ではありません。何を言っているのかわからんという人はそのままお通りください。親切な人の気まぐれなお付き合いを希望しての投稿です・・・

精神病理学者木村敏の著作のなかで、彼の「分裂病」(70年代当時)の患者が、主治医である木村氏に言った言葉が強く印象に残っています。
それは
「皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」

ところで、今のわたしの感覚を正確に表現すれば、この患者とは正反対で、

「自分が皆と同じ人間なんだとい...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは、Blueさん。

以前、【人間】を【ニンゲン】と書いて質問し、猪突さんからお叱りを受けたことがあります。10年近く前のことですが。

___________

いきなり話が逸れますが、
1.わたしはあなたを愛します。なぜならわたしがあなたを求めるからです。
2.わたしはあなたを愛します。なぜならあなたがわたしを求めるからです。

わたしの場合は2.ですが、Blueさんならどちらですか。どちらも、という答えもありです。

___________


あなたが人間であることが自明なのは、

あなたがあなたとは違う、
あなたではない、
他の【人】を求めているからです。
狼ではなく【人】を。

Q足りないのは頭

だから、あなたと私は同じ。
なんか意見ある?

(削除されたので訂正再投稿)

Aベストアンサー

No.4です。

そっか、もし本当に知らなかったのならd_y_nさんは、ここの哲学欄を切っ掛けに好奇心をエンジンにして、いろいろ検索したり勉強すればこれから見違えるように伸びるよ。d_y_nさんはソクラテス並みに優れてるってことです。無知の知で検索してね。だから、あなたは皆さんと同じじゃない。

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q存在理由=レゾンデートルの味

人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

Aベストアンサー

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Q偶然の誕生

私は、たまたま大阪で生まれました。
何故、10万年前に生まれなかったのですか ?
何故、10万年後に生まれなかったのですか ?
何故、虫や猿ではなく人だったのですか ?
何故、日本人としてですか ?
まだまだあります。
宇宙の誕生、地球の誕生、水や空気
そのように考えると、全てが偶然です。
偶然でないものはありますか ?

Aベストアンサー

#4です。

>「神と呼んでも構わないが、それのみが必然。」と言うことで、「なるようになった」と考えていいですか ?

この文に対するわたしの解釈が間違ってなければ、そうです。
少し切り口を変えて表現してみます。
たとえば、『宇宙の誕生』自体は偶然だと私も思う。
しかし、
宇宙はなぜ偶然誕生したのか?
と考えた場合、それは宇宙が偶然誕生するようになっていたから、と言うしかないと思うわけです。
で、「宇宙が偶然誕生するように」させていたものがあるわけで、その存在自体は必然と呼ぶしかないだろう、ということ。
それが何かは、むろん不可知ですが。
仮にわかったとしても、じゃあ、そのわかったものはどのようにして生まれたのか、という無限の問いを続けざるを得なくなるため、それが何かわかるような何かであっては意味がないわけです。それゆえ神という言葉で象徴可能かと申し上げた次第。


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