出産前後の痔にはご注意!

観想が人にもたらすものとは。

質問者からの補足コメント

  • No.20 お礼の続き
    私は二義的なものではなく一義的なものを求めます。原体験に当たるものが、生けるものとして今現れてあり、言葉としても生じるという事があり得るはずである、と言う強い見当をつけています。

    >このように:
    ★ あなたが〔☆ つまり わたしブラジェローヌは〕仏性を発揮して
    居て、衆生たる話し相手を悟らせてやろうと増上慢を起こ
    ☆ しているということです。

    じゃあやっぱり駄目じゃないですか。こんな事を臆面もなく言うってことは恥知らずのままですよ。対話の基本が出来てないってことでしょう。

    >ズラッシー無しで行きましょう。

    ぶつかってこなければ避けませんよ。

    さらに補足に続く

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/12 14:00
  • No.20 補足の続き

    >★ 一見乱雑に見える中の、筋道
    ☆ をさらに明らかにしてくれるとありがたいです。

    これは人の言葉に沿うということを為せば見当は明らかになるでしょう。自分から何かを言う事よりも、他の人の言葉を聞くことの方が難しい。何故なら、他の人の言葉を聞くにはその語られたことについての素養が必要になるからです。似たような経験、似たような知識、似たような境遇、或いは相手の言葉の背景に思いをやって、推察するという能力が無ければならない。それが難しいので、場合によっては喩え話も生まれる。

      補足日時:2019/02/12 14:02
  • No.21 返答の続き
    >《まことのもの》は 共通に持たれています。勝義の何かです。
    あとは 二義的・二次的な経験現象であり その認識内容です。

    二義的なものは置いておいて、まこととは何かについて考究することはすぐれている。彼は雑多なものを吹いて退けて、真に求めるべきもの、人に備えられているものに気が付いて、正気を取り戻しつつある。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/12 16:40
  • 予感と言うものは良い意味で完全に裏切られることになるからである。その望みは望んだ以上のものをもたらすからです。また、予感というのは人々各々、それぞれが持ちやすい形で備わっているのであって、一切衆生悉有仏性と言えど、鋳型にはめたような同じ形で仏性があるのではないと思われます。衆生には八種あり、その道もそれぞれに対応して八種あるとも言われます。分類して八種ですから、因縁を交えれば実質無限です。それを一般化することは原理的に無理です。
    >これらの神論をすべて一望のもとに捉えることのできる哲学理論も のぞまれるわけです。
    例えば大きい人と小さい人と中くらいの人が居るとします。小さい人は大きな門が重くて開けれない。大きな人は小さな門はくぐれない。中くらいの人にはその中間が望ましい。それぞれに合ったサイズの門を用意するのが良いでしょう。という事は一般化よりも個別化が合理的なのであって、つまりそれは対機

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/13 22:26
  • いつもお世話になってます。ご回答ありがとうございます^_^
    取り急ぎ寝る前にお礼します。
    体得、体現と言うのは確かに今の私のテーマなのではありますが、知りたいのは回答者様方の其々の深い認識なので、思うところを率直に仰っていただけたらと思います。それがむしろ、私にとっての体得、体現に結びつく話になる可能性が高いと思われますし、たとえ結びつかずとも、きっと何か良い結果にはなるでしょう。本回答に対する本お礼は、又後日お礼欄にて致します^_^

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/15 23:58
  • 無所有処や非想非非想処が危険なのは、例えば鳥が、空を自由に舞っている様でいても、実際には風に細心の注意を払わなければならない様なものです。空には障害物が何も無い様に見えるが、その空の障害が無いと言う本質によって危険が生じている。下手に飛べば翼が乱流によってへし折られるでしょう。
    人は空を飛ぶ必要が無く、堅固な道を歩めば良いと言うことです。実際私は瞑想で事故った事があります。それによって自由になれると思い込んでいたが、自らの強引さによって怪我をしました。それは静けさと明るさと安寧ではなく、乱気流に巻き込まれ中で稲妻に打たれた様なものです。

    No.36の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 01:56
  • 死んだ木片でさえも、優れた彫刻家のノミにかかれば、生かし切られる。彼は固いものを柔らかく扱うからです。
    死んだ木片でさえも生かされると言うのに、人が生かされぬと言う道理は無い。ひねくれた心を真っ直ぐ(善軟)にすることによって人は生きて来る。

    一方で、薬でさえ多量に服用すれば害があるだろう。もしそれが毒であるならば、何をか言う事があるだろうか。
    適度を越えたものに徳はない。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 03:16
  • 相手の徳を頼れば無くもないが、その様なものを対機の法と言うのか甚だ疑問である。
    それはただの甘え、怠惰であって、徳にならないどころか悪になるであろう。それが善転することがあるなら、それを聴いた人の徳によるところであって、表現した者の徳ではない。賢者は理法だけで無く、場合によっては愚者の言葉さえも道の歩みの糧にすることがあるからでおる。
    何れにせよ、他人の徳を頼って、度を過ぎて自分のしたい様にするなどと言うことは推奨されない。まして、人をして悟らせてやろうなとど自称する者がする事ではない。

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 11:45
  • 栄養満点の食事でも、食べ過ぎれば肥満になって病気の元を生じてしまう。
    それを、食え、食え、と言って際限なく勧めたり、無理やりに食べさせるのは良い事ではない。それは無条件ではなく無制限なのであり、徳を欠く行いである。

    また、病気でも無い人に対して、これは良く効く薬だからと無条件に押し付けるのも問題がある。薬の適用される条件に該当しない人に薬を押し付けても何の益にもならないどころか、余計な作用を体に及ぼすだけだろう。
    また、もし出来るならば、病気の種類や患者の容態を診て、まるで医者の様に薬を処方できるに越した事はない。病の諸条件を峻別し、病人を差別して受けないと言う事がないように出来る事が理想ではある。

    我は相手に対して無条件だと標榜しつつ、特定の人を拒んでいる者は欺瞞を抱えている。

    私(キサラギ)は、人をして悟らせてやろうなどとは思わない。ここでは只、道の友を求めただけある。

    No.38の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 13:12
  • 思春期の終わり頃、不動明王の修行時代をモチーフにして小編を書いた。原稿データは無くなってしまったが、法師やら弦の張られていない琵琶(虚空蔵菩薩の化身)やらが出て来る少し不思議な話だった。うろ覚えだが、物語の冒頭、山中足跡が次第にけもの道のようになり、それを辿ると次第に路らしくなりやがて、都大路に着いた、と言う滑り出しだったと思う。で、色々あって修行時代のお不動さんは海(大道の喩え)に臨んで解空したそうな、と言う話なんだけど。
    この都には門があって、そこを早瀬のように人々が出入りしていた。その中には葬列らしきものもあった事を、書いた覚えがある。それはさておき。

    最後の一関と言う言い方も禅にはある。

    閉めるのが上手な人は鍵や錠を使わずに閉めるので、誰も開ける事ができない。とも。

    上手くやろうとするのでなく。如何にすればこの扉は開くのか。

    門とは何か、門が無ければ簡単なのだが。。

    No.39の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 16:37

A 回答 (46件中31~40件)

相変わらず深いところからきますね。

お互いに素人で、体系立ってはいないかもしれませんけ
れど、これが哲学的思索の醍醐味ですね。グーです。

智慧と言というものが、無常なものなのか、常なるものなのか?

仏教用語で、「不変真如」「随縁真如」という対の概念があります。智慧というものは、状況
という縁に従って出てくるものですから、「随縁真如」であり、無常なものであると思います。
つまり、個々の人間がその場その場に応じて作り出すものだと思います。

ザックリ言えば、若い人は経験が少ないので認識力は低くても、意欲は強い。一方大人は経験値
が高く認識力は高いのだが、意欲が衰えている(笑)。だから、どちらかと言えば若い人が智慧を
発揮しているようですが、大人だって晩成タイプの人がいますからバカにできないでしょう。

>言葉そのものを涌出せねばならないのでは無いか?

ここで仰っている言葉とは、キサラギ世界観の中の「概念」ということでしょうか?


そうですね、智慧というものは一体何物なのか、ということを一歩深く見ようとすると…

今、私は思い出したように自宅の本棚にあった「夜と霧」を読んでいます。この本は言うまでも
なく、ナチスの強制収容所から生還したある心理学者の体験記です。

ここでは、心理学者の冷徹な眼がとらえた極限状態での人間たちの我が身を守ろうとする心理が
これでもかと書かれてあります。

偏ったものではありますが、身を守るためにほとんど本能的に出てくるものが「智慧」というも
のの典型の一つではないかと思います。

衣食住が足りてくると、また、便利で快適な生活の中にいると、どうしても意欲というものがな
くなってくるのが世の常ですが、それでもたまに物凄い意欲を持った人がいます。
それは、物凄い負けず嫌いの性格の持ち主だったり、コンプレックスの塊だったりするのですが
更にその中に「生命力」極めて強い、というような人がいますが、この「生命力」というものが
とても重要なものだと思っています。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

>智慧というものは、状況という縁に従って出てくるものですから、「随縁真如」であり、無常なものであると思います。個々の人間がその場その場に応じて作り出すものだと思います。

これは、非常に良いことを言っていただいたと思います。縁に従って智慧が現れるというのは、本当の事であろうと思われるのです。但し、その現れた智慧は、しかも作為せざる人を通じて現れたのではないか?
例えば技巧に熟達した画家でも、何時も名作が描けるとは限りません。名作が描けるのは一生に数枚かもしれない。この、名作と佳作の違いが、そこにそれが現れたかどうかの違いであるようなものではないでしょうか。

>>言葉そのものを涌出せねばならないのでは無いか?
>ここで仰っている言葉とは、キサラギ世界観の中の「概念」ということでしょうか?

これは生きた言葉といいますか、概念とは違いまして、うーむ、何と言えばいいのだろう。
例えばミカンは、ある物を示す言葉です。勇気は、ある心を示す言葉です。ここで言う言葉とは、後者に近いです。ただし、勇気ある言葉と言うものが、”勇気”と言う文字の羅列ではなく、ある状況、ある人が放った言葉自体がそれであるように、生きた言葉も、”生きた言葉”という文字の羅列ではなく、ある状況、ある人が放った言葉自体がまさしくそれであった、というような事なのです。


夜と霧、私も読みました。フランクルですよね。

>・・・この「生命力」というものが
とても重要なものだと思っています。

ニャンポコさんのおっしゃる生命という言葉は非常に奥行きを持っていて、全容を把握できてないのですが、、、つまり生存や、生物、と言う言葉とはだいぶ趣が異なっていますよね。しかも生存や生物と言ったことにも深くつながっているようです。この生命と智慧についての観点は私にとっては持っていない観点ですので、とても興味があります。

お礼日時:2019/02/12 14:24

★(№15お礼欄) この場合には、テオーリアに入る動機の一つ


として意欲があると言う事です。
☆ 《テオーリア》は――《テアトル(見る場所=劇場)》ともい
うように――《見ること》ですから その言わば態勢に入る・入ら
ないの動きとは関係ないと思われます。

《見ること》が生じたというとき その前に《意欲》をもっていた
かどうかなどの動機は 関係ないと見られます。



★ テオーリアに入った後に意欲が静的なものとなるかどうかにつ
いて述べたのではありません。
☆ 意欲した・あるいは言わば修行態勢に入るといった人為(さら
には作為)は 《見ること》が出来たかどうかに 関係ないのでは?





☆☆(№15) >テオーリアは、プラクシスやポイエーシスを許
容する虚構でよいと言う--それでも〜と言うのですから。
★ の箇所の意味が分かりかませんでした。

☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 意欲やその実行としての努力からは自由な状態にあることが
テオーリアであると思われます。《ただただ真理を見る》という
ことだと。

なぜならテオーリアは プラクシス(実践)とポイエーシス(創
作)とは 別のコトだと言うのですから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ また テオーリアは 政治・道徳生活や創作活動から離れた
時間(スコーリヤ・余暇)だと言います。

ポイエーシスやプラクシスの活動時間から《離れる》という意志
ははたらかせるでしょうが だからと言って その人間の意志に
よって テオーリアが成り立ちその内容が成就するということで
はないと見られます。

しかも 問題は それらプラクシスやポイエーシスといった活動
とは 別でありつつ 同時にそれらとともに 人間としての全体
の生を構成するということです。




その意味は 次の考えと照応しています。
▲(ヰキぺ:不動の動者――№14に引用――) ~~~~~~~
・・・
我々人間は
それ(テオーリアなる生活時間)に次ぐ第二義的な「人間にとって
の(合成的・複合的な)最高善」と、
それを集団的・社会的に体現する国家(ポリス)の「政治」(ヘー
・ポリティケー)的活動で満足する他ない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




☆ すでに イッポンを取っていますので これ以上論点をずらし
てその判定を延ばすということでしたら 放っておきます。


テオーリアの神話化によるような:
★ 観想生活
☆ といった解釈とその《実践》は 誤謬です。

ただし ヒラメキが得られることはあります。テオーリアの成果は
――生活の全体においてとして―― 現実です。


アリストテレスは 秘境にあこがれイデアの層雲峡にあそぶといっ
た旅には出ません。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

テオーリアは態度でもあると思っています。観想にあって、意欲、真理を求める気持ちが停止することはないでしょう。

>アリストテレスは、秘境に憧れ〜旅には出ません。

誰もそんな事は言っていません。
観想は幻想ではないのです。

ところで、唐突に一本とったとかボヤかれても、別に私は回答者さん達と勝負しているわけではありませんので。あなたが一人妄想の中で何と勝負しているのか知りませんが、私はそれには付き合いません。と言うか、そもそもあなたは私をブロックしておいて、なんでこの質問にやってきたのだろう。他の人の口は塞いでおいて、自分は言いたい事を言うという恥知らずには、公衆の面前で行うストリップもお似合いでしょうが、私にはそれを鑑賞する趣味はありません。やるなら他所でやって下さいね。

お礼日時:2019/02/11 16:59

★(№12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


〇〇したいと言う意欲は、
即ちここでは真理を知りたいという気持ちですが、

それは確かに衝動か、或いは湧いてくる熱なのか、
何れにせよそれが人の中にはあって、
それに従う事によって観想に入る動機の一つは確保されている
とも言えるでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 意欲やその実行としての努力からは自由な状態にあることが
テオーリアであると思われます。《ただただ真理を見る》という
ことだと。

なぜならテオーリアは プラクシス(実践:政治的・道徳的生活)
とポイエーシス〔創作:ミメーシス(模倣)を許容する虚構でよ
いと言う――それでも 心の浄化作用(カタルシス)をもたらす
――〕とは 別のコトだと言うのですから。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

この場合には、テオーリアに入る動機の一つとして意欲があると言う事です。テオーリアに入った後に意欲が静的なものとなるかどうかについて述べたのではありません。

>テオーリアは、プラクシスやポイエーシスを許容する虚構でよいと言う--それでも〜と言うのですから。

の箇所の意味が分かりかませんでした。

お礼日時:2019/02/10 23:55

▲ (ヰキぺ:不動の動者) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95 …

アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』においても、
この〔――《不動の動者》なる――〕「神」概念を引き継ぎつつ、

こうした自足的な観照(テオーリア)の状態こそが、究極の最高善であり、
最高の幸福(エウダイモニア)に他ならないが、

それは人間の水準を超えた「神的な生活」であり、

我々人間は
それに次ぐ第二義的な「人間にとっての(合成的・複合的な)最高善」と、
それを集団的・社会的に体現する国家(ポリス)の「政治」(ヘー・ポリ
ティケー)的活動で満足する他ないと述べる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    • good
    • 5
この回答へのお礼

この、不動の動者という着想はどこから得たのか、ということが肝要かと思います。
アリストテレスにとってはこの不動の動者が神であり、それがテオーリアを為す者であると言う事を彼は如何にして知ったのか。

観想生活
https://kotobank.jp/word/観想-49136

お礼日時:2019/02/10 23:43

どうぞ、枠をお使いください。

    • good
    • 5
この回答へのお礼

ありがとうございます。
少しだけ追加です。

で、その一節の中の精神統一が、テオーリアと言えるだろうか?と思いました。

お礼日時:2019/02/10 23:58

アリストテレスは「テオーリア」という言葉で何を言いたかったのか?



それは「高い哲学を持って生きることが幸せである」そして、その最高のものとは
神の真髄であるー今はそのように理解しています。

一方、キサラギさんは「テオーリアの智慧」と表現しているところから、「何かの
認識力」という風に解釈しているようですが、どうでしょうか?

「高い哲学を持って生きる」ということの前提として、高い哲学を認識する「認識力」
と、より高いものへと進もうという「意欲」というものが必要だと思います。

この二つが合わさったものが「智慧」というものではないか?

>言葉を複雑緻密に絡繰っても、智慧そのものは現出出来ない

果たしてそうでしょうか?
言葉をあれこれ組み合わせる努力をしていても、その人に創造の「意欲」というもの
がなければ、単なる観念の遊戯になり、それ以上の智慧も出てこないでしょう。
しかし、言葉の組み合わせの努力自体に智慧が含まれている場合があると思います。そ
して、その行為をすることによって、新たな智慧が湧いてくる場合を否定できないと思
います。

傍から見た時の判断は極めて難しいと思います。

カントは、認識というものは、アプリオリな認識形式と経験が合わさって、主観が形成
するものだと言っているようです。

人間は経験を積むほどに様々な認識は深まってゆきます。これは、どういうことなのか
と考えたところ、認識形式は不変で経験の変化による変化なのか?あるいは認識形式も
同時に変化するものなのか?

これを考察した果てに、カントなのか、ニコライハルトマンなのか(理解していません)
あるいは九識論なのか、はたまた…

少し気が遠くなる感はありますが、あと三年したら、どこまで分かるだろうかという思
いと意欲はあります。

そう、そして「意欲」というものを考えねばならないでしょう。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

観想生活という言葉もあり、こちらはニャンポコさんの仰る「高い哲学を持って生きる幸せ」というものに近いと思われます。
これに纏わる意欲というものについては、後段で。

言葉を繰り出すことで智慧が湧くか?という事については次のように思う所があります。それは、智慧は作り出せるものか?という事です。もし智慧が作り出せるものであるならば、言葉を繰り出すことで生成できる可能性はあります。しかしもし智慧が、作られざるものであり無為のものであるならば、言葉を繰り出す事によっては智慧は生成できず、言葉そのものを涌出せねばならないのでは無いか?言葉を繰り出すと言う恣意性からは切り離されなければならないのではないか?と思うのです。

もし智慧が有為のもので作られるものであるならば、智慧もまた生滅変化の理からは逃れられないのではないか?という疑問もあります。もし智慧が無為のもので作られざるものであるならば、生滅変化の中にあって正に真なるものとして知られるのではないか?そのようにも思うのです。

言葉を複雑緻密に操作する努力を否定する訳ではありませんが、人為によってのみ智慧が湧くとも言い切れないのです。ではそこに神の意図が含まれるとでも言うのか?それについては否で、別にここで神を想定している訳ではありません。ただ、偶然とも呼べず、必然とも呼べず、しかし何らかの要請があって、智慧が喚起されると言うことはあるかもしれない。

認識形式には、先天的なものと後天的なものがあるのだと思われます。ところが学ぶ中で、世界観や宇宙観、物質観や生命観、人間観などが変遷するに従って、(つまりものを見る目が変わって)生きる世界も変わる。では、変わらない観方はあるだろうか?それが先天的な部分という事になると思われます。カントの言い回しを使えば物自体に近い視野という事になるかと。

で、その様な変遷を進めるものの内に意欲と言うものは数えられると思います。〇〇したいと言う意欲は、即ちここでは真理を知りたいという気持ちですが、それは確かに衝動か、或いは湧いてくる熱なのか、何れにせよそれが人の中にはあって、それに従う事によって観想に入る動機の一つは確保されているとも言えるでしょう。

明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、無明を裂け落とさせるものである。と、古い経の一節にあります。ここで文字数が限界です。

お礼日時:2019/02/10 21:46

ヒラメキのことですから 



ヒラメキで得たイメージもしくは一片の言葉を加工(思考)すれば 

よい場合には 理論が得られます。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

ひらめきをイメージに象り、それを一片の言葉に託して、その言葉をさらに日常におおける説明となる様肉付けする。

どんどんと原が薄まって行く様な気がするのは私だけでしょうか。

ひらめきと言うものをどの様なものとして捉えていらっしゃるのか分かりませんが、原体験ともなるそれは、重ねた知的作業の中で偶さか誘発、発現するひらめきとは異なる様な気もします。

お礼日時:2019/02/10 21:56

アリストテレスは二千年以上前にこのようなことを考えていたのですから、


ダヴィンチに匹敵する才能の持ち主であったと想像します。
こういう想像は楽しいし、実は結構平凡であったなんていうことを発見する
ことも、また楽しからずや、という感じですね。

ナポレオン、ゲーテ、トルストイ、魯迅などが、私が特に興味を持っている
人物ですが、彼らの哲学について話すことも楽しいことでしょう。

>何かについて答えが出ても、その求めている何かと突き合わせると、答え
ではなくなってしまうのです

うん、これは分かりにくいですね。

記憶に残っている私のそうした興味は、両親が信仰していた仏教を知るにつ
れ、何の違和感もなく仏教への興味に流れてゆきました。
勿論、仏教だけでなく様々なものを経由してでしたが。

私が求めているものとは、「神の真髄」ですし「宇宙の摂理」ですし「仏法」
です。
私の主観の中には「あるもの」です。これが、おそらく幼いころに芽生えて
今日まで曲がりなりにも育ってきているもの、と思っています。

これを言葉で表現しようと思えばできるのですが、言葉にすると「まあ、その
通りなんだけれど、十分じゃない」と思うんです。
それで、この「あるもの」から、これまで私が認識してきたあらゆるものを"照射"
しても、全く同じなんです。

例えば「認識」という概念。

「すでに存在している外界を主観がいかに受け入れるか」というものだと思ってい
たのが、「認識の対象である世界は、空間、時間、範疇という感性、悟性の先天的
形式に則って、もともと主観が構成したものである」というカントの認識論を知っ
て「ああそうなのか」と思うと同時に、「それだけでいいのか?」という懐疑が出
てくるんです。

何にしてもそうです。

そのようにして、身の回りのあらゆるものの認識が変化しています。30代の半ばく
らいに一度枯れそうになったのですが(笑)、その後、復活しましたね。

今、カントの認識論を少し勉強しているのですけれど、アプリオリな認識形式のう
ち一部のものは、成長してゆくものなのかとも思っています。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

積み木を複雑緻密に組み上げれば樹になるか?
これと同じように、言葉を複雑緻密に絡繰っても、智慧そのものは現出出来ない。
この様に思うところから、テオーリアの智慧に近づく手段としての合理性の側面のあるのを認めて居る訳であります。

では如何様にして智慧が現出するのか。神体験や悟りによって明らかになるところは人の言葉を超えていて、ただ比喩的に、詩と論理を絡繰って表し得るのみです。ただ直に示された、機縁あって発露したその言葉そのものが智慧である事を識る事が出来たなら、智慧の何たるかを遂に理解し、その意義を諒解して求道を完結することになるのでは無いか、この様に思っています。

それだけでいいのか?と言う問いが得た所に常に重ねられるのは私もそうです。
遂にそれを識る時が来る事を願いつつ、整形された木材を積み上げるのをやめて、生けるものとして、言葉を涌出せしめて智慧の具現を見たいと思う次第です。

お礼日時:2019/02/09 21:33

「テオーリア」という言葉をあれこれ調べてみましたが、似たような記述ばかりで、


その中で一番しっくりきたものを紹介します。

(アリストテレスは)
『快を目的とする享楽的生活、名誉を目指す政治的生活、富を求める営利的生活に対し
真理を眺めることを観想と名付け。この生活を最も幸福な生活と考えた。そして、最高
の観想は神の本性を眺めることであるとした。』

勿論、快も名誉も富も生活の中から排除すると言うことではなく、生活の中での最高の
価値を「真理を眺めること」としたということなのでしょう。

真理とはつまるところ、この世を支配しているであろう「神」「仏」「宇宙の摂理」など
と呼ばれているもののことに違いないでしょう。私はここでは「究極の実在」と呼ぶこと
にします。

問題は「眺めること、見ること」と訳されている、「theōria]ですね。これは英語の「theory]
の語源だそうですから、眺めるという何か傍観的な意味合いでなく、

「そのものの真の姿を捉えようとして、思いをこらすこと」のほうが近い気がしますが、
そうではないという考え方もあるようです。

以前どこかに書きましたが、私は子供のころから、何かをジッと見つめることが好きでした。
それは、石ころであったり、昆虫であったり、雲であったり、星空であったりしたわけですが、
飽きずに何時までも見ていました。
とても落ち着きましたし、何かに包まれているような安心感もあったし、その安心感の中で
時間を忘れて何かを見ようとしていた感じでした。

つまり、哲学的なことに興味があったんだと思います。

高校生くらいになって、音楽を聴くにも、映画を見るにも、文学に親しむにも、ある一瞬の
ものに捕われて、全体の筋が分からないなんてことはよくありました。
うーん、ずっとそうでしたね。
そして、今でも同じなんですね。

何かについて答えが出ても、その求めている何かと突き合わせると、答えではなくなってし
まうのです。
そうして、北斎のように、どんどん自分を完成に近づけてゆくという実感は確かに幸せです。

しかし、アリストテレスは「神の本性を眺める」と言っています。これは、相当な境地に達し
ていたのでしょうね。幸せも大きかったのでしょう。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

幼い頃のニャンポコさんのしていた事は、哲学よりもある意味では純度の高い行為であったのかもしれません。

テオーリアについては、"神の理性に近づく"と言った様な表現もあった様に思います。アリストテレスは何千年も名前の残る様な伝説の人物であり、歴史による検証に晒されてもなおその名が残って来たのは事実ですが、彼の至った境地がどの様なものであったのかは私にははかりかねます。古代世界を席巻したアレクサンダーの教師として、彼とその支配を導いた存在でもあった。アリストテレスの分析、分類は、何やら雑多なもの(根本ではないもの)もあり、かと思えばテオーリアの様な深淵に通じるような思索までを為しているところを鑑みると、異常に思索の幅の広い人物だったのだろうと思います。

ところで、ニャンポコさんの文章の内で一箇所、意味を取り損ねたところがあります。
以下
>何かについて答えが出ても、その求めている何かと突き合わせると、答えではなくなってしまうのです。

この箇所は、"幾らも答えは見つけて来たが、それらは全て、肝心の求めるところとは違ってあった"。と言うような意味でしょうか。

お礼日時:2019/02/08 22:20

弁栄上人の言葉をプレゼントいたします。



念仏
念仏の念てふ文字は、人二心即ち二人相供したる心なり。念は念頭にかかる、何か自分の外に或る物が常に心にかかること。例へば金に執心する人には常に念頭に金と云ふものが執して離れぬ。また一人の子に愛執する人の念頭には常に子を念(おも)ふてをる。然る時は自分の心の中に子と二人を為してをる。人物若しくは財物とか何物か心に懸かる物無き時は念頭になきなり。

念頭に阿弥陀仏が在(まし)まして離れぬ様に為りしは即ち念仏、仏(ほとけ)おもひの心である。従来の明記して忘れざるを念と為すと云うは唯、記憶の心理状態の如くにして感情的、執意的になって居(を)らぬ。故に仏を念(おも)ふ心理としては未だ完(まった)からず。宗教心は唯、仏を記憶に存するにのみならば未だ活きた信仰と云うに足らず。

弥陀の絶対的人格に対して愛慕恋念して感情的に内心に活躍して暖温(あたたか)なる活気に血湧き、有難さに涙こぼれすべてに超えて弥陀を愛楽(あいぎょう)して止まず、悲歎に沈む折柄も弥陀を念ずる時は心の奥底より衝動する有難さに心気(こころ)一転、忿怒に耐えざる場合にも称名によりて念(おも)ひ出づる慈悲の面影に接する時は却って己が至らざるを謝するに至る。

念仏とは常に如来を憶念して離れざるの謂、一度(ひとたび)絶対の人格者に結びて、念ふ心に離たず憶念し愛慕して捨つること能(あた)はざるは念仏なり。二人の結びたる心が即ち念である。能念の心に所念の弥陀と一体心に結合したるの心が念なり。(※能念とは人の心で、所念とは仏の心の事です)

これは光明会発行の人生の帰趣(450ページ)から写し取りました。

ただ、キサラギさんは哲学的に思考していると思うので、光明会発行の無辺光と云うのがお勧めです。
ほんの少し抜き書きしてみます。

會色(物)帰心観
客観の萬物の本質は心なのである。萬象は主観の心に帰す。主観の心と客観の物象とは同一本質である。氷炭相容れざる如きもので無い。“向こふに見ゆる山河大地等の物象は自己の観念が客観化して現じた相である”。實は自己心の観念の相である。若し、自己の心が無ければ外界の相は如何なる象相なるかは認識することが出来ぬ。故にすべて客観の相なるものは必ず主観の心に帰すべきものである。

“ ”(これは私が付けました)の中の一文が私にはなかなか理解できませんでしたが、ある時ふと思ったのです。そうか、こころは鏡のようなものなのだと。眼で云えば網膜、カメラなら印画紙に当たり、その映像を見ているのだと。
そう思ったら、急にこの事が腑に落ちました。
心の働きは構造・仕組み、としてはだれも同じですがその能力は人それぞれ。こんな事にも思いが繋がります。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

詳しく説いてくださりありがとうございます。人生の帰趨からの引用も、無辺光からの引用も共に興味深く読ませていただきました。私がそれらをすぐに理解したとは言えませんが、幾分かはふむふむ、と言った感じで読むことができました。

私の思考が哲学的かどうかはさておき(笑)、私の今目指しているところは、思考や感覚、感情や直観が統率された一つの機能として働く心理です。ですので、人の帰趨からの引用も大変勉強になりました。

ありがとうございます。

お礼日時:2019/02/08 22:00

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

Aベストアンサー

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すと...続きを読む

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Q予め喪われている自明性

正直自分でも何を訊きたいのか明確ではありません。何を言っているのかわからんという人はそのままお通りください。親切な人の気まぐれなお付き合いを希望しての投稿です・・・

精神病理学者木村敏の著作のなかで、彼の「分裂病」(70年代当時)の患者が、主治医である木村氏に言った言葉が強く印象に残っています。
それは
「皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」

ところで、今のわたしの感覚を正確に表現すれば、この患者とは正反対で、

「自分が皆と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」
ということです。

別にわたしは自分が人間ではないと証明されても一向に悲しみませんが、
『人間を人間たらしめている根拠乃至条件』とはいったい何ですか?

「他者への思い遣り」「共感能力」「愛する心」etcといったものでなく、
また生物学的な分類でもなく、「ある者は人間に等しい」ということが言えるとしたらそれは果たしてなにを根拠にしているのでしょう?

グレゴール・ザムザは「ヒト」でしょうか?或いは「甲虫」でしょうか?

例によってお礼が遅れるかもしれませんが、ご容赦ください。

正直自分でも何を訊きたいのか明確ではありません。何を言っているのかわからんという人はそのままお通りください。親切な人の気まぐれなお付き合いを希望しての投稿です・・・

精神病理学者木村敏の著作のなかで、彼の「分裂病」(70年代当時)の患者が、主治医である木村氏に言った言葉が強く印象に残っています。
それは
「皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」

ところで、今のわたしの感覚を正確に表現すれば、この患者とは正反対で、

「自分が皆と同じ人間なんだとい...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは、Blueさん。

以前、【人間】を【ニンゲン】と書いて質問し、猪突さんからお叱りを受けたことがあります。10年近く前のことですが。

___________

いきなり話が逸れますが、
1.わたしはあなたを愛します。なぜならわたしがあなたを求めるからです。
2.わたしはあなたを愛します。なぜならあなたがわたしを求めるからです。

わたしの場合は2.ですが、Blueさんならどちらですか。どちらも、という答えもありです。

___________


あなたが人間であることが自明なのは、

あなたがあなたとは違う、
あなたではない、
他の【人】を求めているからです。
狼ではなく【人】を。

Q足りないのは頭

だから、あなたと私は同じ。
なんか意見ある?

(削除されたので訂正再投稿)

Aベストアンサー

No.4です。

そっか、もし本当に知らなかったのならd_y_nさんは、ここの哲学欄を切っ掛けに好奇心をエンジンにして、いろいろ検索したり勉強すればこれから見違えるように伸びるよ。d_y_nさんはソクラテス並みに優れてるってことです。無知の知で検索してね。だから、あなたは皆さんと同じじゃない。

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q存在理由=レゾンデートルの味

人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

Aベストアンサー

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Q偶然の誕生

私は、たまたま大阪で生まれました。
何故、10万年前に生まれなかったのですか ?
何故、10万年後に生まれなかったのですか ?
何故、虫や猿ではなく人だったのですか ?
何故、日本人としてですか ?
まだまだあります。
宇宙の誕生、地球の誕生、水や空気
そのように考えると、全てが偶然です。
偶然でないものはありますか ?

Aベストアンサー

#4です。

>「神と呼んでも構わないが、それのみが必然。」と言うことで、「なるようになった」と考えていいですか ?

この文に対するわたしの解釈が間違ってなければ、そうです。
少し切り口を変えて表現してみます。
たとえば、『宇宙の誕生』自体は偶然だと私も思う。
しかし、
宇宙はなぜ偶然誕生したのか?
と考えた場合、それは宇宙が偶然誕生するようになっていたから、と言うしかないと思うわけです。
で、「宇宙が偶然誕生するように」させていたものがあるわけで、その存在自体は必然と呼ぶしかないだろう、ということ。
それが何かは、むろん不可知ですが。
仮にわかったとしても、じゃあ、そのわかったものはどのようにして生まれたのか、という無限の問いを続けざるを得なくなるため、それが何かわかるような何かであっては意味がないわけです。それゆえ神という言葉で象徴可能かと申し上げた次第。


このカテゴリの人気Q&Aランキング

おすすめ情報