親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

1. まづ 《ただしい》解釈は何か? 文化庁の解説がありました。

▲ (文化部国語課:「情けは人のためならず」の意味) ~~~~~~~~~
http://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_gepp …

「人のためならず」の「ならず」は,〔断定の「なり」〕+〔打ち消しの「ず」〕
ですから,「である+ない=~でない」という意味になり,「人のためでない
(=自分のためである)」と読み取る必要があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり 《「情けは人のため ≫に≪ ならず」ではない》のだと。


2. ただしアンケート(H.22)では ふたつの――まったく正反対の――解
釈が同じ割り合いを占めたそうです。

▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(ア)
人に情けを掛けておくと,巡り巡って結局は自分のためになる・・・・・・・・・・・45.8%
(イ)
人に情けを掛けて助けてやることは,結局はその人のためにならない・・・・・45.7%
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. あらためて 文化庁の《答え》は 次のごとくです。

▲ 答: 「情けは人のためならず」とは,人に対して情けを掛けておけば,巡
り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味の言葉です。

4. ほんまかいな? と思いました。おそらく表現では そのとおりの意味な
のでしょう。


5. けれども あまりにも打算的ではないですかね? 日本人は――たしかに
因果応報説には靡くようですが その――善因善果(楽果)にしても まさかそ
ろばんをはじいているというわけではないでしょう。

6. しっくりしません。


7. たとえば:
○ (ウ) 情けは人のためならず おのれのためならず。

☆ というのなら まだすくわれます。《もしあとでよい報いを享けるようなこ
とがあるなら それは やほよろづの神々からのめぐみである》というのならま
だわかります。

8. どうでしょう? 何かもっとしゃれた解釈あるいは哲学にふさわしい料理
の仕方がありませんか?



9. 質問者としてはいまほかにも同じ趣きの質問をかかげていて 《情け》は
《同情というナサケ》ぢゃだめなんだという考えを問うています。

10. つまりそれによれば (2)の(イ)については: 
○ (イ)  人に《同情という情けを掛けて助けてやること》は,結局はその人
のためにならない

☆ という解釈が出て来ます。そのようにしてなら この(イ)も 成り立つの
ではないかと。



11. 焦点が発散したかも知れません。ですが 考えるところをいろいろおし
えてください。

A 回答 (7件)

この諺は江戸時代からあって、江戸落語の”佃祭り”でその諺をざいざいにしています。

佃祭りを読んでみて下さい、文化庁の解釈が正しいのですよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 文化庁の解釈が正しいのですよ。
☆ ええ。文の表現から行けば 正解はひとつのようです。


★ この諺は江戸時代からあって、江戸落語の”佃祭り”でその諺を
ざいざいにしています。佃祭りを読んでみて下さい、
☆ 《在在》とは 村々・到るところ ですか。そういえば実家の
ことを 《在所》と言っていました。

▲ ヰキぺ:佃祭り
☆ を読みました。落語であり もとは中国の話だそうですね。

そして 因果応報説のようですが その因果のつながりが 思いが
けないところにあり なかなか実感があります。

ううーん。ただしわたしの場合は (7)のように受け留めると分
かりやすいようには感じます。そこは 人それぞれなのでしょうか。


あらためて ありがとう。

お礼日時:2019/02/08 17:52

ご回答ありがとうございました。



1.自論ありき。
2.他者の意見を解釈。
3.相違点を自論で覆う。

そういう、遊びなんですよね。
まぁ、お互いに。貴殿にとっては私なんか足元にも、カモしれませんが、
どちらでもいいことですね。うん。

ありがとうございました。
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この回答へのお礼

質疑応答ということは 問う側にしても答える側にしても 特に哲学
の場合には 互いに互いよりも上の見方考え方を問い求めるように 
対話をおこなっていくものと思います。

そして いづれの側にいるにしても 先の者があとになり 後の者が
先に成るといったことが起こるのではないかとも思います。


それに この質問では 江戸落語の《佃祭り》が――中国の故事から
引いて来て――このことわざを作り上げたことをおそわったり(№3)
あるいは 必ずしも《打算的》であるのではなく 《お互い様》とい
うふうに捉えるとよい(№1)とも知ることができました。


哲学のQ&Aは いろんな意味で お互い様だと思います。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/02/12 21:25

哲学は、モノを探求するという作業は、


「それをしなければいけない、という、体験」から始めなければ、概ね無駄です。
知識は所詮知識に終わり、知的好奇心は満足を得ません。
.
優れているのでも、劣っているのでもなく、
「それをしなければ、いられない程の、経験から来る感情」
.
そのような感情なくして、苦行をしたとしても、
おそらく「それ」に親しいところへ入り至ったとしても、気付くことなく過ぎるでしょう。
アンテナが立っていないのですから。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学は、モノを探求するという作業は、
「それをしなければいけない、という、体験」から始めなければ、概ね無駄です。
知識は所詮知識に終わり、知的好奇心は満足を得ません。
☆ それは 共生のための――社会生活としての秩序や安全のための――みんな
の心がけの問題です。

まづ 相手とシンライカンケイを築かなければなりません。その上で 互いに人
間性の発露として自由に同感したり なかんづく批判をしたりします。その批判
をとおして 哲学の普及をすすめます。そのことも 哲学です。




★ .
優れているのでも、劣っているのでもなく、
「それをしなければ、いられない程の、経験から来る感情」
☆ それは よき人の自己表現をとおして人びとがまなぶようになりましょう。

生活上の振る舞いや あるいは文章にして表現したものをとおしてです。




★ .
そのような感情なくして、苦行をしたとしても、
おそらく「それ」に親しいところへ入り至ったとしても、気付くことなく過ぎる
でしょう。
アンテナが立っていないのですから。
☆ 初心者に対しては アンテナの立つように――間接的にですが――みちびく
ことが のぞまれます。前項の問題です。

お礼日時:2019/02/12 04:53

単純に、道徳を説いているのでしょう。


情けを掛けることを推奨するために。
打算的、と思われるそうですが、本当の情けを掛けられる、習慣化できる以前の、自然発生的なこの類の反応は仏性です。
思考以前の反応のそれは、仏性です。慈愛という言葉が好きです。
徳を積むという事が、修行でもあるのでしょう。

で、
私見での哲学としては、
これらを思考してしまう人間というものを探求するのだと思います。
善悪や、美醜を除いて、思考以前の自然発生的な感情。
これが起こるの、どして?

ちなみに、
情けでも、同情でも、共感でも、
自と他の区分けの作業は無意味です。
対象ありての反応は、対象の中に自分が在って、自分の中に対象が在る。
自他の区別の無いところに。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 単純に、道徳を説いているのでしょう。
☆ 道徳だから よいことだという判断は 哲学はしないと思います。


★ 情けを掛けることを推奨するために。
☆ ナサケの中身を問うています。つまり その《つとめて気遣いを表現する》
という特徴についてです。


★ 打算的、と思われるそうですが、本当の情けを掛けられる、習慣化できる
以前の、自然発生的なこの類の反応は仏性です。
☆ 大野晋によると 《なさ←なす:つとめておこなう》+《け:ゲともいう
様子・かたちのこと》と分析できて 《そのうわべの思いやり あるいは そ
の素振り》が原義だと言います。

その上に 《相手のためだけではなく 自分のためだということを〈説いてい
る〉》わけです。うわべのつくろった善意で自分の得になることを求めること
になります。

つまり:
★ 自然発生的
☆ ではなく ましてや:
★ 仏性
☆ だとは――原義において――考えられません。

★ 本当の情け
☆ つまり 《本当の》という言葉は 哲学の定義にふさわしくありません。
(じゅうぶんではない)。



★ 思考以前の反応のそれは、仏性です。慈愛という言葉が好きです。
徳を積むという事が、修行でもあるのでしょう。
☆ そのことが ナサケという振る舞いには 当てはまらない場合が多いと
いう問題です。





★ 善悪や、美醜を除いて、思考以前の自然発生的な感情。
これが起こるの、どして?
☆ この定義では なお満足しません。なぜなら 《共感》という表出もお
よそそういう感情であるからです。


★ 情けでも、同情でも、共感でも、
自と他の区分けの作業は無意味です。
☆ 視点が別です。共感は 自然の感情としての発露です。

同情としてのナサケは よかれと思ったり得になると考えたりするのが 相
手のであったり自分のであったりすると説いているからには 自他の区別を
はっきりとしています。




★ 対象ありての反応は、対象の中に自分が在って、自分の中に対象が在る。
自他の区別の無いところに。
☆ その説明では 人によって異なるでしょうし たとえそういう考えを持
っていると言っても うわべの振る舞いである場合が容易に出て来ます。

お礼日時:2019/02/12 04:43

再考もクソもない。


元ネタはコレっぽい。
5000円札の新渡戸稲造さん。
https://matome.naver.jp/odai/2150415201439941401
「ほどこせし 情けは人の為ならず 己がこころの 慰めと知れ」
「我ひとに かけし恵みは忘れども ひとの恩をば ながく忘るな」

言い出しっぺと違う意図での解釈は、当然ながら反則です。部分だけ切り出すのがアリなら、本来の意図とは違った解釈を付与するのは簡単だから、そういうこと、しないでね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 再考もクソもない。
☆ えっ?

★ 元ネタはコレっぽい。新渡戸稲造さん。
「ほどこせし 情けは人の為ならず 己がこころの 慰めと知れ」
「我ひとに かけし恵みは忘れども ひとの恩をば ながく忘るな」
☆ 違うよ。№3でおそわった。江戸落語の《佃祭り》。

しかもそれは 中国の物語(伝承)にあるということ。

新渡戸さんのうたは きれいにまとめられていますがね。
▲ 己がこころの 慰めと知れ
☆ これだと まだ打算的だと批難をあびるほどではないようです。

報いを何ら享けなくても なぐさめとするがよいと。


★ 言い出しっぺと違う意図での解釈は、当然ながら反則です。部
分だけ切り出すのがアリなら、本来の意図とは違った解釈を付与す
るのは簡単だから、そういうこと、しないでね。
☆ は 元ネタが何かという点では 見当違いのようですよ。

ヰキぺ:佃祭り をどうぞ。中国起源であることが分かります。

お礼日時:2019/02/09 12:24

昔から言い伝えられている慣用句なので議論しても仕方ない事ではないかとは思うけど


でも、おもしろいですね

情けは人のためならず
「人のためならず」の対義として「自分のためになる」ですかね

同じように反対の意味に解釈されているのが多いのが
「流れに棹さす」ですかね
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 同じように反対の意味に解釈されているのが多いのが
「流れに棹さす」ですかね
☆ あぁ これは ありますね。その流れに入る・乗ってゆくという
意味が 棹差してこばむ・離れるといった意味に採られることがある
とか。


★ 昔から言い伝えられている慣用句なので議論しても仕方ない事で
はないかとは思うけど
でも、おもしろいですね
☆ と思いました。なにしろ 正反対の意味による解釈が 半々だと
いうところですね。

そのサイトによると 若い世代は (イ)のほうの――あやまった―
―解釈が多いそうです。



★ 情けは人のためならず
「人のためならず」の対義として「自分のためになる」ですかね
☆ なんだか 現金な考えですよね。・・・

お礼日時:2019/02/08 17:21

このことわざで言う、情けは同情とは違う、という前提での回答です。


情けと同情はどう違うかという点は、話が複雑になるので脇に置きます。

このことわざについて、現在90代の方から聞いたことがあります。
40年位前です。

「最近の人は、相手の人の為にならないから、情けをかけない方がいいと解釈するらしい」と呆れていました。
その人の解釈では、「人には情けをかけなさい。人生には自分も人の情けが必要な時がある。だから恩着せがましい気持ちではなく、謙虚に、お互い様という気持ちですることです」ということでした。

大正生まれくらいの人ですから、戦前の教育を受けた人です。
テレビやインターネットが普及するまでは、言葉の意味の変化は今ほど早くはないです。
だから、おそらく、それが昔からの解釈ではないかと思います。

「人の為ではない、回り回って自分の為になる」というのは、打算的ということではなく、「世間はお互い様」という精神だと思います。
日本的な、田植え社会であればこその感覚かもしれません。

田植え、稲刈りは村総出の共同作業です。
人の田植えを手伝えば、自分の田植えも手伝ってもらえる。
そうやって1年が巡っていくのが、稲作文化の日本社会です。

道端で困っている人がいて、それがたとえ見知らぬ人であっても、もしかしたら、隣の人の親戚の息子の嫁さんの叔父さんかもしれない。
日本のことわざはそんな社会で生まれています。

だから、困っている人を知らんぷりして通り過ぎるな、と諺で教えたのだと思います。
単純な「打算」という発想とはちょっと違うと思うのです。

砂漠の遊牧民は、見知らぬ旅人にとても親切だそうです。
乾燥した砂漠で砂嵐に襲われたり、水を無くしたりすると命に係わる。
だから、見知らぬ旅人が困っていたら懸命に助けるという習慣があるそうです。

自分や自分の親兄弟もいつそんな困難に遭遇するかもしれない、という厳しい環境だから生まれた人助けの文化です。
これは、「情けは人の為ならず」と同じだと思います。

温帯農耕社会の日本とは正反対の乾燥気候遊牧民に、同じような精神文化があるのは興味深いです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ このことわざで言う、情けは同情とは違う、という前提での回答です。
☆ はい。つまり 《情けをかけて助ける》ことは 《同情からそうする》
場合があるかとうたがいますが まづは おおせのとおりに承ります。


★ 現在90代の方から聞いたことがあります。
☆ 本来の(ア)説ですね。

★ 「人には情けをかけなさい。人生には自分も人の情けが必要な時があ
る。だから恩着せがましい気持ちではなく、謙虚に、お互い様という気持
ちですることです」
☆ なるほど。《お互い様》というところが 《打算》とは微妙に違いま
すね。

★  「世間はお互い様」という精神・・・日本的な、田植え社会であれ
ばこその感覚かもしれません。

★ 田植え、稲刈りは村総出の共同作業です。
☆ ちょっと水を差すようですが この村での助け合いというのは おも
に水利の問題だと聞きます。

つまりあるいは ひとつの村の中での助け合いだけではなく ひとつの川
の上・中・下流それぞれの村のあいだでの協調が 問題であったと。つま
り 日照りがつづいて水不足になったときには じっさいにチカラ任せに
水を奪い合った事例もあるのだとか。

それゆえにも お互い様――ユヅリアヒ――は大事だったと。
ちょっと別な話をしましたが。

★ 困っている人を知らんぷりして通り過ぎるな、と諺で教えたのだと思
います。
単純な「打算」という発想とはちょっと違うと思うのです。
☆ あっ。これは 別の視点ですね。たしかにこの事例は よき隣人とし
てのサマリア人の話もありますし 助け合いの精神を言っているかと。重
要ですね。

あっ。ちょうど次にその聖書の話に似た話がありました。
★ 砂漠の遊牧民は、見知らぬ旅人にとても親切だそうです。
乾燥した砂漠で砂嵐に襲われたり、水を無くしたりすると命に係わる。
だから、見知らぬ旅人が困っていたら懸命に助けるという習慣があるそう
です。

★ 自分や自分の親兄弟もいつそんな困難に遭遇するかもしれない、とい
う厳しい環境だから生まれた人助けの文化です。

★ 温帯農耕社会の日本とは正反対の乾燥気候遊牧民に、同じような精神
文化があるのは興味深いです。

☆☆ 7.(ウ) 情けは人のためならず おのれのためのみならず。
☆ ですかね。

お礼日時:2019/02/08 17:16

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アメリカでは、人口の70%がキリスト教徒だそうです。
日本では、キリスト教徒は人口の1%です。その割には、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンなどキリスト教の行事が盛んですが。
それはさておき、
もし、日本に、キリスト教が、もっと普及していたら、日本は変わっていたと思いますか?日本の社会や国民性は変わっていたと思いますか?もしそうなら、どのように変わっていたと思いますか?

Aベストアンサー

日本は「宣教師の墓場」といわれていたくらいで、西洋では知識階層の宣教師の論法が日本の農民に論破されるくらいですから、普及することはあり得ないと思いますよ。ザビエルが日本を撤退するとき、「ほとほと疲れた」と書いています。

インドが200年イギリスに支配されてもキリスト教が布教できなかったり、中国にも景教以外のキリスト教はほとんど入っていません。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)に対抗できる精神的風土を持つ国にはキリスト教は進入できませんでした。持っていなかった韓国のキリスト教はカトリックやプロテスタントではなく、カルト教会が大部分で、代表が統一神霊協会です。

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Qなぜ、<大学の学部の哲学科は、6割以上が女子です(東大を除く)>なのでしょうか?

mokuzo100nen様が、このカテに、次のことを書いておられます。
<大学の学部の哲学科は、6割以上が女子です(東大を除く)>。
私は、理屈をこね回す哲学のようなものは、男子が多い、と思っていました。
哲学とは、むくつけき男が浸るもの(失礼)で、うら若い女性がふけっているものではない、と思っていました。
また、このカテの参加者は男性が多い、と感じています。
なぜ、<大学の学部の哲学科は、6割以上が女子です(東大を除く)>なのでしょうか?

Aベストアンサー

そこまでエビデンスのあるものではないようです。

そもそも哲学科のある文学部が、女性の割合が6〜7割あるのが通例なので、
そこから同じ比率で考えると6割以上という表現になるのかもしれません。

しかし哲学科の場合、男女比が半々程度だ(文学部の中では男性比率が高い)というケースが多いように感じました。

この意味では、むくつけき男が浸るもの、という想像は間違っていないのかもしれません。

文学部に女性が多いのはなぜか、という疑問も湧くかもしれませんが、
これは就職に弱いという理由が大きいのではないかと思います。

Qアラシ投稿の阿呆さについて ご意見をどうそ。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合もある。

3. これらの例は ふつうに自然に起こる人間どうしのヨコの関係です。そして
ここで問題としたいのは このヨコのではなく もしその互いの間に上か下かとい
うタテの関係が生じたなら どうするか? です。



4. 抽象的に規定しますと 《互いのマナザシがどちらか一方が他方よりも上か
ら差して来る》といった上下の関係です。(まだほっかほかの質問として マウン
ティングの問題が出ていましたね)。


5. まづ このタテの関係については ふたつの種類があると思います。
( a ) ふたり――といった単位体を例に採りますが――のあいだにそれこそ自生
的に生じたもの。気楽なマジハリ。
( b ) そして あとは 人為的に作為的につくられたタテ関係。

6. 大昔には 身分の世襲制によって 人びとそれぞれのマナザシは どのよう
にそそぐか(注がれるか)は 決まっていたとも言えます。

7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
下関係を打ち破っているか? マナザシは 完全に自由になったか?

8. 家族の中での――遠慮の要らない――マナザシの錯綜関係もあるでしょうし
けっきょく果ては 国と国との関係における〔こちらは〕深謀遠慮なるアマアガリ
戦術としてのマナザシ照射も 起きるのかも知れません。

9. ここで問うのは こうです。アラシ回答は アマアガリ・シンドロームに落
ち入った阿呆なるマナザシ合戦である――という命題をめぐって 思うところを述
べてくださいと。

10. また広く人間のマナザシ関係について 見解を述べてくださっても結構で
す。制約はありません。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合...続きを読む

Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Q人間が死んだら、意識は何処へ行くと思いますか?? 小学校の頃からの疑問です(笑)

人間が死んだら、意識は何処へ行くと思いますか??
小学校の頃からの疑問です(笑)

Aベストアンサー

お婆さんのおとぎ話です。

ひたすら長いので、無理に読まなくて構いませんからね(^^)

最初にお断りして置きますが私は無宗教者です。
ただ、神様の存在や、スピリチュアルな事。この世の不思議に興味津々で、生まれ変わり説(生まれ直し?)は心のどこかで信じてはいます(^^)

ここからは、様々な分野でご活躍の(していた)人々のお話を聞いたり、聖書や仏教などの本や精神論など、ザッと乱読してきた中で、それ等を基に私が空想してみた世界観の話です。(^^;;
あくまでも、変なお婆さんの戯言だと思って気楽に読んでみてください。


私は、この世とは汚れ切った魂を磨きに来るための、教習所なのだと思うようになりました。

空の国には100通くらいの(もっとかも)ピンからキリまでの人生シナリオ(筋書き)のサンプルがあり、人々は自由にその中から一つのサンプルを選んでは、地上に降り立ち、誰かのお腹の中に宿ります。

今の人生が苦痛の多い、苦労だらけな人生か、全てに恵まれた幸せだけの人生かは、この世に降り立つ前にちゃんと自分自身で選んで来るのですが、私達は、『誕生の神様』の魔法により、全ての記憶を消されてから、誰かのお腹に宿るので、どんな人生になるのかを本人は全く覚えていません。

実は親や兄弟や、人生で巡り会う重要人物たちも、自分にとって良い人も嫌な人も、全てちゃんと決まっています。
その学習内容に似合った人達と出会うようになっています。

激しい戦火の中に産まれるひと。
生まれて間もなくひどい病気になったり、親に虐待死させられたり、誘拐されたりしてしまうひと。

身体は健康だけれど、極度な貧困や苦しみが多く苦労する〜などなど……最も残酷に見えるような不幸な人生にはじまり、男女を問わず美しく生まれ、才能にも恵まれ、親や周囲の人々に愛され、大切にされ、何不自由なく育てられ、やがて自分自身も何かで成功し、楽しく幸せなまま人生を閉じるような、順風満帆だけの人生で終わる〜に至るまで、様々な人生モデルがあり、自分自身で自由に選択します。

ただし、どうしても変えられぬルールが一つだけあります。
それは一度選んだサンプルは二度と選べないシステムになっているのです。
なので誰もが一回ずつ、一通りの人生モデルを全部体験しなければなりません。

人生シナリオを一つ終えるごとに、いったん空の国にもどり、神様に教習終了のハンコを貰い、しばらく自由に休憩したり反省会をしたりしながら楽しく空の国で過ごし、再び次の人生モデルを選んでは、又、地上に降り立ちます。

こうして一通りの教習を全て終えたら、一番偉い神様の大ボスから卒業検定のような試験があり、合格すればその人は人間としての教習が全て終わります。晴れて人間卒業です。✌︎('ω')✌︎

その頃には魂は何の曇りもなく、ほとんどの人が透明ピカピカになっています。(^^)
そして卒業後は、人間としてではなく、今度は神様の一員として、教習に来た人間たちのお手伝い役に回ります。
それが八百万(やおよろず)の神様達のことだと思うのです。

今の人生に辛いことばかりが多いなら、もうその人の教習も終わりに差し掛かっているのではないでしょうかね。
なぜならば、やはり教習体験の浅い人間ほど、楽で楽しい、なるべく不幸のない人生から先に選んでいくと思うので、徐々に苦痛の多い人生モデルばかりが残ってしまいます。

でも、艱難辛苦(かんなんしんく)をたくさん経験、体験してこそ、人の痛みが理解でき、真の優しさや思いやりや洞察力がそなわり、人間としての魅力や深みも増し、魂磨きになるのだと思います。(^^)

人生は長い長いリアルなRPGだと思います。
ゲームもスポーツも、敵もいなければ、邪魔もなく、なんのミッションやクエストも起きず、ただただスイスイ進めちゃうほどつまらないものはないですものね。

人生も同じだと思います。( ◠‿◠ )
難しくて苦労すればするほど、後にその意味や、その有り難み、やり甲斐が身にしみて分かるのだと思いますし、そのような多くの苦難を乗り越えた人こそ、見かけ倒しではない、真の成功者や偉人として崇められるのだと思います。

ちなみに、あまりに辛い人生モデルが残されると、途中でリタイア(自殺)したくなってしまう人がいますが、自殺をしてしまったりすると、大きなカルマ(ペナルティのようなもの)を背負うことになります。
そうすると次の人生は更に上乗せされた辛い人生となり、又それを一から生き直さなきゃなりません。
そこで又苦しいので自殺をすると、延々エンドレスに再生地獄が……。

なのでどんなに辛かろうが酷かろうが、ちゃんと最期まで生き切り、全クリしてそのカルマを消さないとなりません。

こう考えると、何か、不公平であまりにも格差が多い人間社会の仕組みや、人間の質や出来不出来のからくり等が、フムフムと納得できるような気が私はするのですよ。

後は、幼い子供や小学生でも、神童と呼ばれるような才能がある子や、幼くても他者に優しく、素直で礼儀正しく、心の温かい素晴らしい子供も居るじゃないですかね。

かと思えば、いい大人でも、お年寄りでも、他者に冷たく、おおへいで、トゲトゲしく、偉ぶったり、人を貶したり、中にはとんでもない悪意に満ちた極悪非道な人も居るじゃないですかね。

それは、人間年齢は幼い子供だとしても、もう何度も何度もこの世に教習に来ていて、そんな大人たちよりもその子たちの方が、教習性としては大先輩にあたるのかもしれませんね。

なので私は出来た子供を見たりすると、ああ、この子は私よりずっと大先輩なんだなぁ…と感心したりします。( ◠‿◠ )

長くなりましたが、最後まで読んでくれたとしたなら、とても嬉しいです。(๑˃̵ᴗ˂̵)
あくまでもコレは様々な人々から聴いたお話などの良い処取りをし、私なりにアレンジしてまとめた私の空想話です(^^)

あまりに不公平な世の中に納得付けするには、こんなお話が面白いのではないですかね。

お婆さんのおとぎ話です。

ひたすら長いので、無理に読まなくて構いませんからね(^^)

最初にお断りして置きますが私は無宗教者です。
ただ、神様の存在や、スピリチュアルな事。この世の不思議に興味津々で、生まれ変わり説(生まれ直し?)は心のどこかで信じてはいます(^^)

ここからは、様々な分野でご活躍の(していた)人々のお話を聞いたり、聖書や仏教などの本や精神論など、ザッと乱読してきた中で、それ等を基に私が空想してみた世界観の話です。(^^;;
あくまでも、変なお婆さんの戯言だと思っ...続きを読む

Q足りないのは頭

だから、あなたと私は同じ。
なんか意見ある?

(削除されたので訂正再投稿)

Aベストアンサー

No.4です。

そっか、もし本当に知らなかったのならd_y_nさんは、ここの哲学欄を切っ掛けに好奇心をエンジンにして、いろいろ検索したり勉強すればこれから見違えるように伸びるよ。d_y_nさんはソクラテス並みに優れてるってことです。無知の知で検索してね。だから、あなたは皆さんと同じじゃない。

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む


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