出産前後の痔にはご注意!

何者かが作ったってこと?

A 回答 (18件中1~10件)

No.17に誤植あり。



2行目:簡潔を旨として上長を嫌う。→ 簡潔を旨として冗長を嫌う。

と読んでください。
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了解しました。

お礼日時:2019/02/24 17:47

>表記空間が広いのに音素空間は小さい。

一見不利に見える音素の少なさが逆に有利に働いている。

書き言葉と話し言葉の面白い関係ですね。我々はつい書き言葉と話し言葉に大きな違いが在るのこと見過ごしてしまいがちです。事実、一方は一度書いたものが消えないことから読み直しができるために、簡潔を旨として上長を嫌う。もう一方では、言っている側から言ったことが消えていってしまうので、その不安を解消するために簡潔さを嫌い、冗長を旨とする。このように、全く正反対な嗜好があります。そんなに正反対であるにもかかわらず、書き言葉が話し言葉に強く影響してしまうことがある。その例の一つが、日本語の音素空間は小さ差だと思います。

縄文時代弥生時代のまだ文字が知られていなかった時には、もっと多くの音素が日本語にあったのではないか。そしてもし、近隣から表音文字のアルファベットが移入されていたのなら、日本人はもっと多くの音素を残していたのではないか。ところが日本にはたまたま表意文字の漢字が移入されてしまった。そこへ持って来て、日本人持ち前の工夫オタクが重なって、音を表すのに不便な漢字から万葉仮名を工夫してしまった。それも字画が多すぎるので、もっと工夫して平仮名片仮名を案出してしまった。これが母音子音に別れているアルファベットでなく一音一字になっていたために、本来もっとたくさんあったはずの音素に対して、文字の方が発音を一つに収斂させてしまい、音素の数が減ってしまった。

最近の例でも、「ゐ」の字を廃止してしまったために、「ゐのしし」を「いのしし」と書くようになり、それが発音を制限した結果、本来「ウィノシシ」と発音していた動物を「イノシシ」と発音されるようになってしまった。その結果、この動物が豚のように「ウィ、ウィ」と鳴く動物であることが忘れられ、何でこの動物をイノシシと呼ぶのか一般の人には忘れられてしまった。このように、一音一文字の表音文字を採用したために、時が経つとともに日本人の音素が減っていってしまったのだと思います。

ところで、平仮名片仮名の普及は発音を耳で聞いて覚えるのではなくて、目で見て覚えられるようにしてくれて、日本中の発音が(あるゆらぎの範囲内で)統一されたという利点があります。これは中国と決定的に違っていた部分です。中国には日本人のように工夫オタクが居らず、その結果表音文字がなかった。だから、漢字の発音は耳で聞いて覚える以外にはなかった。だから、先生の発音が訛っていたら、その訛りで覚える以外にその発音を覚える方法がなかった。従っって、中国では地方地方で漢字の発音に統一性がなかった。しかしその一方で、音素は地方地方でバラバラで、従って、中国語にの音素は日本語よりもはるかに多い。

現代になって、その不自由さに気付き、今では中国でも表意文字を使って発音を表すことになっています。その表意文字ってなんだか知っていますか。驚くなかれアルファベットです。中国人は漢字が古いと威張っていますが、その発音の統一には西洋人の助けがいるんですよ。日本人がなんでも自前でやってしまうのとは大違いですね。

そういえば今の中国語の大半(80%ほど)は、経済、幹部、資本主義、共産党、人民、共和国などの和製漢語です。自分の国の名前の中華人民共和国のうちで中国語は中華だけで後は和製漢語です。和製漢語なしでは自分の国の名前すら表現できなくなってしまっています。

また、朝鮮では識字率が日本と比べて圧倒的に低かったので、彼らも言葉の発音は耳で覚え、文字で覚えるのではなかった。だから、日本語の音素と比べて朝鮮韓国語の音素が日本語よりもはるかに多くなっている。

日本語の音素が世界的に見て極端に少ないのは、日本人が最初に覚えた文字が表意文字だったこと、日本人が工夫オタクだったこと、日本人の識字率が世界的に頭抜けて高かったことの結果だったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

いつもためになるお話ありがとうございます。
自然にこういう文章が書けるって素敵で素晴らしいです。
私には何が出来るのか考えさせられてしまいます。
お礼遅くなってすみませんでした。
ありがとうございます。

お礼日時:2019/02/24 17:46

私の先生が



「宇宙論はまだほとんど何も解っていない状態だ。そのような状況では、数学的に無矛盾で、なるべく奇をてらったことを言ったもん勝ちだ。それが受けるんだよ」

って言ってました。

その先生は、今からうん十年前の若い頃にある国際会議で、会議参加者が自分で思うことを皆が黒板に書くことになったとき、

「時間は宇宙の始まる前から存在している」(英語)

と書いたそうです。

そして、私と先生が二人でビールを飲んでいるときに、先生はビールの下の方から立ち上ってくる幾筋もの小さな泡を指しながら、次のように言いました:

 この気泡の生成消滅がこの一つ一つが宇宙の誕生と成長と同じ仕組みだと考えることもできる。一見何もないビールの液体から突然小さな気泡が生まれてくる。しかし、そこには何もなかったのではなくて、ビールが密閉されていた時に気体が過飽和の状態で液体分子の間に閉じ込められている。その気体分子同士がその中で液体分子と熱運動で衝突して、偶然に目に見えない気泡の大きさに集まったり、バラバラに分離したりを繰り返している。そして偶然にある大きさの閾値を超えて集まってしまう時がある。その時その気体の集まりの系は不安定になって、そのままの大きさに留まれなくなってしまい、突然指数関数的に大きくなって目に見える気泡にになってこのように上に揚がってくる。しかしそのような現象が起こるためには、小さすぎて我々には見えていないとは言え、その小さな気泡が出来ては消え出来ては消えを繰り返すために、その裏に時間が流れていなくてはならない。宇宙の生成消滅も同じで、現在でも我々には見えないくらい小さな宇宙がこの宇宙のそこら中で、出来ては消え出来ては消えを繰り返している可能性がある。そして、ある一つのミクロな宇宙が閾値を越えるとその宇宙は不安定化して突然巨大に成長を始める可能性がある。だからどの宇宙の生成消滅にも、このビールの泡の生成消滅と同じように、その宇宙に先立って時間が流れているという仕組みも考えられる。だから私は、「時間は宇宙の始まる前から存在している」と黒板に書いたんだ。
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この回答へのお礼

なるほどおもしろそうです。
話は変わりますが、
以前の日本語の優位性の話についてです。

表記空間が広いのに音素空間は小さい。
一見不利に見える音素の少なさが逆に有利に働いている。

ということではないかと今気が付きました。

お礼日時:2019/02/13 19:24

家内の友人がものみの塔というキリスト教系の宗教団体に勧誘されて、「大工さんがいなかったら家は建たないでしょう」って言われて、彼女はそれもそうだと思ったそうです。

彼女はそれで改宗した訳ではありませんでしたけれども。で、大工さんがいなくても家は建つんですよ。偶然を契機として成り行きに任せながら収まるところに収まるようにして自発的に複雑な構造が出来上がってくる。その構造のことを「散逸構造」と言います。生物の進化や社会構造の進化はその典型的な例です。複雑系の物理学の研究対象です。
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この回答へのお礼

「偶然を契機として成り行きに任せながら収まるところに収まるようにして自発的に複雑な構造が出来上がってくる。」
、という仕組み。宇宙の始まり。

それを描いたナニモノかがいる。
それを「超越性」と呼ぶ。
、みたいな。

お礼日時:2019/02/13 18:20

自然は何者かが作ったってこと、ですね。



神が作ったので神工と云えます。

人のウンチは人工。芋虫の糞は芋工。
人が作り出すものは全て自然との合作、と云えるのではないでしょうか。

神とは、宇宙の本体。
その本体は霊体であると山崎弁栄(べんねい)上人は云っているので、自然は霊工とも云えます。

決して自然は人工、などとは云えません。
云えるとすれば、ほんの一部分だけです。
ウンチとか。
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この回答へのお礼

私は言葉は不適格だったようです。
なるほどありがとうございます!

お礼日時:2019/02/13 18:43

人間が作ったのが人工。

何者か、じゃダメ。
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この回答へのお礼

無意識に「者」という言葉を選択していたので、
「ソレ」について自分たちとなにか共通する「モノ」を想定していたのだと思います。

お礼順不同御免

お礼日時:2019/02/13 09:46

ヨーロッパ辺りでは、荒廃した国土を植林によって蘇らせた例が、たくさんありますよ、今では自然林より自然です。


結局、神羅万象全て自然でしょう、全てですよ。
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この回答へのお礼

多数派の方がもつ「自然」という言葉としての意味ももちろんですが、
今回の質問では、
「時間、空間、宇宙が自然発生し構造が生まれるという仕組みそのもの」
を「自然」として表記しました。

お礼日時:2019/02/13 09:53

”もの”について思ったことを少し。


ものがたりの”もの”は、物って書きますね。他にも、物の怪なんてのもある。多分日本人は、人の姿をしているからと言って人と認識してきたわけではないのかなと、思いました。

この国では、神々も妖怪たちも、人の顔をして暮らしている。その歴の浅からぬ故、元の己を忘れてしまうものもいるようで。

これらのものはどこから生まれたのか。
自然はどこから来たのか。
かなり深い謎ですが、生成という観点でみると、ある条件が揃えば自発的に、特殊な分岐点を経て、複雑で秩序だった構造が生じるという場合があるそうです。誰かが外から粘土をこねるように作り出すのではなく、自ら生まれて来るわけです。このような来歴のものたちに、あーたの親玉はどの玉?なんて聞いても即座に答えられるはずがない。追跡不能だからです。うーんと頭をひねって目を凝らし、やっと進化論やらDNA等の存在が明らかになったも、まだ我々はこの問いに答えられない。それともいや、ワイにはちゃんと親父とオカンがおりまんねん、それでそれで、ずーっとそれを遡ったら、、、ワイらの親玉はこの御神体(岩)に宿ってまんねん、とでも言うだろうか。それはそれで慧眼かもしれないが。
しかしそれでも、このもの達は皆、前代未聞の存在であろう。自ら生まれて来たその事の由来は何に求める?けものたちの世界に、ぽっと人が出てきたのであろうか。それともここには人など出でず、ただ、けのないけものがいるだけなのだろうか。
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この回答へのお礼

なかなか面白そうです。
でも私の勉強貯金と履歴ではうまい返しがなかなか思いつきません。
そうはく
こうはく
ありがとうございました。

お礼日時:2019/02/13 11:56

「者」じゃないでしょうけど、自然と呼ばれる状態が認識対象として存在している以上、存在の初因は、やはりあると考えざるを得ないかと。

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この回答へのお礼

そうですね!
因はある!

お礼日時:2019/02/13 11:57

米国在住です。



私は、テキサス州に住んでいるんですが、森を山火事から守るには、きちんとした森林管理が必要である、ということを、子供でも知っています。しかしながら、同じ国だというのに、カリフォルニア州では、庭木一本きるのにも、自治体の許可が必要になる場所が多い。

確かに、カリフォルニアの自然は美しいので、人間の手を入れた、人工的な森林管理をしたくないのでしょうが、その結果、毎夏、大規模な山火事が起こります。ほぼ、砂漠気候なので、手の付けようがないのは、日本でもニュースになっているとおりです。

自然を、雷や失火から守るには、人工的に手を加えなくてはいけないことを、理解して、実行する時期なのです。

ご質問から、こんなことを考えました。
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この回答へのお礼

人間が関わっていない部分を全てまとめて「自然」と、今回の質問では表現しました。

お礼日時:2019/02/13 19:37

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私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

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「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

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Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

宗教が統一できれば世界的に平和にも近づくのではないでしょうか

どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

キリスト教に拘らず 全ての人に 無宗教の人にも納得の行く教えを練り出せないものか?

まずはそれらの宗教の代表が会議してる様なので もっと危機感を持って

自分から変わる意識を持って 緊張感を持って月に一度でも2週に一度でも会議を2,3日

かけても何とかして宗教が協力して進化する様な宗教哲学を活性化出来ないものでしょうか?

Aベストアンサー

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調...続きを読む

Q人間が人間を超えるものをつくること

たとえば、情報工学の先端でAIの研究に携わっているとしましょう。
すべてにおいて人間を超える可能性を秘めているものを対象として目の前におくとき、主観は常に対象を客観視できるでしょうか。
人間が人間を超えるものをつくる、ということは、あえて極論を言いますと、人間が人間を滅ぼすというポテンシャルを含み持つことです。
IT化による効率性、利便性は今や否定できません。
ITシステムが修正を繰り返し生き延びる様は人間のようであり、自ら学習を重ねて賢くなる人工知能AIはいつか人間を超える存在になると言われます。
そのようになると想定される場合に、果たして人間は冷静に客観である対象に向き合えるものでしょうか。それとも、専門家のあいだでは人間を超えることはないという根拠があるから、冷静に研究開発を続けられるのでしょうか。
もしそうならば、それを開示して世の中の不安も同時に払拭していく責任も同時にあると思うのですが、皆様はどのように思われますか?

Aベストアンサー

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人間性が残っている今のうちに記録を残そう」と小泉八雲として様々な小説を著作しました。

「メトロポリス」なんていうデストピアを描いた映画もありましたね。

どれも19世紀末から20世紀初頭の作品で、この辺りが機械を発明した第一世代から、機械と共存する第二世代に変わった時期なのでしょう。それから先はコンピューターでもAIでも機械化の延長にすぎないわけです。

人間のほとんどは「科学文明と共に生きること」を選んだのです。そのほうが「犠牲はあるかもしれないが、少なくとも自然の中で恐れて生きているよりは幸せである」と考えたからです。

実際、20世紀の科学進歩はすさまじく、それ以前の不治の病とされた天然痘は撲滅、ペストなどは激減、結核は治るようになり、飛行機を使えば1日で世界一周できるようになりました。機械を使うことによる犠牲者はあるものの、全体で見れば「機械のおかげで人は死ななくなった」のです。

ですから、今後もAI化などは「ほとんどの人が疑問を持たずに」進んでいくのだと思います。でも結局人間はそれで幸せなんだと思いますよ。

私には子供が居ますが、20世紀初頭の乳幼児の死亡率は50%以上だったわけです。つまり10人産んでも5人しか残らない社会で、ほとんどの人が「長生きできなかった兄弟」を背負って生きていたわけです。父母の、特に母親が自分でお腹を痛めた子を失う辛さと残酷さは悲劇以上のものだったでしょうが、たった100年前はそれが普通だったわけです。

今は乳幼児の死亡率は先進国なら数パーセントしかありません。

私は「人類が科学技術を捨てて『人間性を取り戻す』ことを望むのか?」と聞かれればNOだと思います。その代り人間は「機械とうまく付き合っていく」しか道はないのだと思います。

>人間はAIの奴隷。モルモット。

人間は自分で機械・技術の檻の中を選んだのです。アマゾンや砂漠地帯など一部の人間たちは拒否しています。ああ、インドに「文明を受け付けない島」があるようですが、そういう人たちはまだ「人間」なのでしょう。

でもほとんどの人間は自分たちで望んで、機械・技術に守られることを選んだのです。

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人...続きを読む

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q人間100年生きたとしてもたったの36500日、万単位の日数しか生きられない小ささをどう思いますか?

人間100年生きたとしてもたったの36500日、万単位の日数しか生きられない小ささをどう思いますか?

Aベストアンサー

限られていて無駄に過ごせない時間、と思っています。現在7万人くらいしか該当しない日数ですし。健康寿命だともっと短いかもしれません。

だからこそ、大切にすべき時間だと思っています。自分の時間も、他人の時間も。


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